今週の礼拝メッセージ
2002.6.23(SUN)
イエスは目をとめた
新城教会 滝元明牧師

新約聖書 ヨハネの福音書1章35節〜51節
その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

 ハレルヤ!いつもお祈りいただき、今日まで守られていることを感謝します。今年の夏の日程は、七月二十四日から九月一日まで、関西で四十日の集会があります。私はこれから忙しくなります。来週の日曜日は、大阪のインタナショナル教会で集会をし、夜は高砂で集会をします。次回、皆さんにお会い出来るのは、八月二十三日から大阪城野外ホールに来てくださったら、お会い出来ると思います。忙しい時間が続くので、私のためにも覚えて祈ってください。
 私個人として感謝なことは、先週、私と家内の結婚記念日で、結婚五十二周年でした。五十二年間、多くの方の祈りもありましたが、まずイエス様の恵みによって、夫婦が健康で今日まで来られて感謝です。また、浮気もなく、愛し合った家庭を持つことができたことは感謝です。
 これから聖書の御言葉を学びます。「イエスは目をとめた」というタイトルで学びます。中心的なテキストはヨハネの一章の御言葉です。四十二節に、

『彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」』

と書かれています。これはイエス様が公生涯を始められたときのことです。

『その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。』

と書かれています。これはバプテスマのヨハネが、イエス様のことを「神の小羊」と紹介したときのことです。神の小羊とは、「やがて人類のために、犠牲となってくださる方がこの方です」と語っているのです。そして、二人がヨヘネがそう言うのを聞いて、ついて行ったと書かれています。二人とはヨハネの弟子です。すると、イエス様が振り向いて彼らに、「あなたがたは何を求めているのですか」と質問しました。彼らが言ったことは、「今どこにお泊まりですか。」と拍子抜けした質問をしました。すると、イエス様は、「来なさい。そうすればわかります。」と言われました。そこでイエス様についていきました。弟子の一人は、シモンペテロの兄弟アンデレでした。彼は、「この方は神の子、私たちが待ち望んでいた救い主に違いない。」と兄弟シモン・ペテロに紹介しました。「私たちはメシヤ、キリストに出会った」と言いました。すると彼は、シモンをイエスの元に連れてきた、と書かれています。
 私たちがイエス様にお会いすると、どうしてもイエス様を紹介しなければならない、という思いになります。そこでまず、自分の兄弟シモンを連れてきたときに、

『イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」』

 「イエス様が目をとめられた」とは、ここにおられるすべての人に、イエス様は目をとめられています。このシモンに向かって、イエス様は「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパと呼ぶことにします」と言われました。ケパ、ペテロと呼ぶと言われました。シモンという意味は、ヘブル語で「芦」という意味です。シモン、お前は風に揺らぐ芦だが、「ケパ」と呼ぶ。「ケパ」とはヘブル語で「岩」です。お前は芦だけど、岩のようにしてあげるというのです。
 シモンは名前のように揺らぐところがありました。しかし、今日からお前はケパ、岩のようにしてあげると言われました。私たちは個人的に考えると、芦のように揺らいでしまうかも知れません。しかしイエス様のところに来ると、岩のようにすると語ってくださるのです。望みがあります。今はこのようだけど、これからは、このようにしてあげようと言われます。ですから、これから期待しましょう。
 イエス様が十二人の弟子を選びました。そして彼らを、三年六ヶ月の間訓練しました。色々な人を見て、最後に十二人を選びました。今、ワールドカップが行われていますが、大きな関心事は、誰が選手になるかということでした。監督は試合をしながら、長い間、どの人を使おうかと長い目で見ていたと思います。ただ技術的に良いだけではなく、人間同士うまく和をとることができるか、また強いかなどを見て、二十三人を選びました。しかしイエス様の選びは、ワールドカップとは違います。イエス様が十二弟子を選ぶ時は、神がこの人ならば使うことができる、と選んだと思います。ペテロに関する記事は、イエス様に出会う前のことが色々書かれています。
 ペテロの出身地はカペナウムです。聖書には彼の家にイエス様が入られた時に、ペテロの姑が熱で病んでいました。するとイエス様が熱を叱りつけた、と書かれています。すると癒されて、すぐにもてなしたと書かれています。時々、孫たちが熱を出していると、私もよく、「熱よ、出て行け」と怒鳴りつけます。悪霊も出て行けと言うと出ていきます。イエス様は熱に命じました。私に与えられている信仰の賜物かも知れませんが、私が命じると従うものがあります。それは台風です。沖縄で集会中に台風が来たり、東京にも来たことがありました。「台風よ。こっちに来るな!」と祈ると、台風が逃げていきました。やはり、イエス様の名前には力があります。聖書を読んでやってみると良いです。イエス様の力が現されます。このような奇蹟をイエス様は行われました。
 ルカの福音書五章に、イエス様がペテロの舟を借りて漕ぎだし、あまりにも群衆が来たので、舟の中からイエス様は説教しました。そして終わってから、少し漕ぎ出すように言い、右に網を投げなさいと言われました。そこでたくさんの魚が捕れました。あまり魚が取れすぎて、もう一艘の舟を呼び、二艘とも沈みそうになったと書かれています。その時ペテロは、あまりにも魚が捕れたので、彼はそこにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間です。」と言いました。彼は魚が捕れたのを見て、イエス様はすごい方と言うことだけではすみませんでした。彼は、その奇蹟を見たときに、自分が何と罪深い人間だろうかとわかり、ひれ伏して、「イエス様。私は罪深い人間です。どうぞ、私から離れてください。」とお願いしました。
 神は、へりくだり自分で「罪人です」と言う人を用いられます。時々、教会に来ても、「私が正しいけど、隣の人が悪いから。私は良いけど、内の嫁は悪い」と言います。しかしそのようには言うべきではありません。神の前に出たときには、誰が悪いというのではなく、「私は罪深い人間です」と罪深さを知るのです。ペテロが罪を認めたとき、「心配しないで良い。あなたがたを将来人間を取る漁師にしてあげる」と言われました。その時、イエス様は、ペテロの過去がどのようであったかはわかりませんが、「この男は将来、使いものになる」という目で見たと思います。神は、自分を義とする人ではなく、「私ほど罪深い人間はありません」と自分の罪を率直に認めてひれ伏す人、この人を用いられます。イザヤ書六章一節から八節に、

『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』

と書かれています。これは、イザヤが神にお会いした時のことです。イザヤは自分が何と罪深いのだろう、とわかりました。その時に、炭火を持ってきて、口に付けたと書かれています。神が用いられる人は、自分の罪を率直に認める人です。
 かつて田口で牧会されていた、原田千穂子先生が、こんな証をされていました。始めて教会に来たときに、子どもを日曜学校に連れて来て、ミセス穐近から個人伝道を受けました。「あなたは罪人だとわかりますか。イエス様があなたのために十字架にかかって死なれました。」と言われたときに、「えっ。私は罪人ではないですよ。他の人だったらともかく、私は罪人ではないですよ。」と答えました。彼女は、正しい生活をしていました。だから、そんなことは必要ないと言いました。「私には罪がない、私のためにイエスが十字架にかかって死なれたなんてことはない」と言うと、ミセス穐近は、「そういう人は教会に来ないでください。」と言いました。
 「丈夫な人には医者がいりません。いるのは病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来ました。」とイエス様は言われましたが、「そんなことを言うのだったら教会に来ないでください」と言われ、原田さんは非常に傷つきました。
 彼女は学校の先生をしていました。あるとき、一人の有力者の子どもを叱ったら「有力者の子どもだから怒ってはいけない」と校長先生に怒られたそうです。しかし、「何を言っている、あんな家の子・・。」と考えました。しかし、「あなたは罪人だ」と言われたことが心に引っかかり、聖書には、人をののしっただけでさばかれると書かれているけど、そんなことは人間にはできるわけがない!!とイエス様に訴えました。その時イエス様が「人間にはできない。だからあなたにも救いが必要だ。」と語られたそうです。
 原田千穂子先生は、人を見るとすぐにさばいていました。「程度が低い、あいつは馬鹿だ。あんなやつ・・・」といつでも馬鹿にする気持ちがありました。しかし、その気持ちを取ることができない。だから十字架が必要だ、とわかり救われたと証していました。
 幸せに生きる方法、神様に用いられる方法は、自分が正しいと思っている内は駄目です。よく人の悪口を言う人は、見込みがありません。私が・・・と言っていてはいけません。私は罪人ですと出ることが大切です。どうしてあの人の悪口を言わなくてはならないのか。どうして、私がさばかなくてはならないのか・・・。「こんなに私は罪深い人間です」ということがわかりました。パウロもそのように書いています。
 「キリスト・イエスは罪人を救うために、この世に来てくださったという言葉は確実で、そのまま受け入れるに値することです。キリストの前に私は罪人のかしらです。」と語っています。「罪人のかしら」というのは、使徒パウロが法律的に悪いことをしたのではなく、ある時、ダマスコの途中で主とお会いしました。光に照らされ、「サウロ。サウロ。どうしてあなたはわたしを迫害するのか。」と声を聞きました。「主よ。あなたはどなたですか。」「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスだ。」と言われました。
 イエス様にお会いしました。ということは、聖なる神にお会いしたときに、「神よ。私は罪人です。」とわかりました。
 まもなく相撲が始まります。昔、私は相撲をよく子どもたちとしました。子どもたちが小学一年生くらいの時に、「どうだ。お父ちゃんは強いだろう。」と言ったことがあります。弱い人とやったら、自分は強い感じがしますが、本当の相撲取りにぶつかったら、「自分は何て弱いのだろう」とわかります。「罪人」という事は、あの人も、この人も同じことをしていると思いますが、絶対的な神に出会ったとき、「私は汚れている、私は罪人だ・・。」ペテロも船の中で、「私は罪人です。離れてください」と自分の罪がわかりました。主に触れらると、神様に用いられる人は自分の罪がわかった人です。
 「わたしは誰を遣わそうか」という時に、イザヤは「主よ。ここにいます。私を使ってください。」と神の前に出ました。自分の罪を素直に認める人を神は用いてくださいます。
 先日四国に行ったときに、大川修平先生にお会いしました。彼は七カ国語を話すことができます。彼が私に本をくれました。それは「日本文化とリバイバル」という本でした。
 先生が学生時代は安保闘争の時で、学生運動があったそうです。「政府が悪い、誰が悪い」と言って戦いました。終わった時にはむなしくなったそうです。しかしある時に、東大総長の柳原忠男というクリスチャンの本を読んだときに、「神の前に自分は罪人であり、神のあわれみによって生かされている」と書かれていたそうです。東大総長がそう語っていたそうです。これを読んだときに、今まで自分が正しいとしていましたが、間違っていたことがわかり、イエス様を信じる決心をしました。そして今、大川先生は神に用いられています。私たちも、自分自身の罪を認めて、神のために用いられるようになりましょう。
 最後に、ナタナエルに出会ったことが書かれています。ヨハネの福音書一章四十二節から四十七節に、

『彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」』

と書かれています。イエス様が、シモンを見たときには、「あなたはシモンだ。これからケパと呼ぶ。」と言われました。しかし、ナタナエルを見た時には、イエス様の目は違いました。「これこそ、本当のイスラエル人。彼には偽りがない。」と言われました。聖書には色々なことが書かれています。はっきりと、彼は悪賢い男だったとか、狡猾だったなどと書かれています。しかし、イエス様がナタナエルを見たときに、「これこそ、本当のイスラエル人。彼の内には偽りがない。」と言っています。ナタナエルは質問しました。

『ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

と言いました。これだけでナタナエルは、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と叫びました。神様に用いられる人の中には、自分の罪を認める人と、真実を求める人です。偽りのない人です。ねじ曲がって、偽り続けるのではなく、素直になることが必要です。聖書の中で、イエス様が言われました。「だれでも幼子のようにならなくては、神の国は見ることができない」
 神の前に出るには偽りはいけない、嘘はいけない、ありのままで良いのです。隠さなくても良いのです。罪深かったら罪深いです。弱かったら弱い人間です、で良いのです。ありのままの姿で、神の前に出ることが大切です。真実な生き方が大切です。ヨハネの福音書三章二十節から二十一節に、

『悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。』

と書かれています。教会に来られる人は失敗した人が多いです。しかし失敗しても、真実に生きたいという人が教会に多く来ます。世の中には、そういう人が多いのです。私たちの人生が神様に用いられるために、ナタナエルのような人間にならなくてはなりません。偽りのない生活は素晴らしいです。神様は絶対に偽りのない方です。ですから、私たちは偽りのない生活をしたいと思います。真実に生きなくてはなりません。
 私は十五〜十六年の間、スウェーデン宣教師と共に働きました。私がスウェーデンの宣教師たちに出会って学んだことは、彼らが真実で、嘘を言わなかったことです。ですから嘘を言ったら信用を失います。私がこの人たちと付き合うためには嘘ではなく、真実に生きなくてはならないと思いました。
 私の、「われ土方なれど」は、オーケ・レナンデル先生が推薦文を書いてくださいました。その推薦文の中に、私のことを、ヨハネ一章四十七節のような人だと書いて下さいました。私はそんな人間ではないけれど、ナタナエルのように生きたいと思います。夫婦生活にも、偽りを入れてはいけません。また、友人関係の中にも、偽りを入れてはいけません。神様に祝福される道は真実に歩むことです。神の前に、真実に生きることは、神に祝福される道です。
 今週、神に用いられるために、まず、へりくだっていきましょう。県民の森で、聖霊が降ったとき、彼らがわかったことは、罪深い人間であり、神の前に「赦してください」と叫び求めました。彼らは自分の罪がわかったので、用いてくださっています。自分の罪がわからずに、「私ほどすごい者はない」と思っていてはいけません。私たちがいつでも、自分の罪を認め、へりくだって十字架によって赦しを受けて、真実な道を歩いたら、これから幸せになることができます。皆さんの毎日の生活が、真実な道になりますように。そうしたら神様が必ず祝福してくださいます。お祈りします。

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