今週の礼拝メッセージ
2002.6.30(SUN)
弱いときにこそ強い者とされる
〜神の常識〜
新城教会 岡本信弘牧師

第二コリント12章9節〜10節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 ハレルヤ! 主に心から感謝します。
 皆さんにお祈りいただいて、私自身も健康が守られていますが、母のためにもいつもお祈りくださり、ありがとうございます。お祈りに支えられて、徐々に良くなっていることも心から感謝します。
 今日は第二コリント十二章の御言葉から、『弱いときにこそ強い者とされる』というテーマで学びたいと思います。今回のテーマには「神の時の常識」という副題をつけました。
 「常識」という言葉を辞書で調べると、「一般の人が共通して持っているもの。また、持っていなければならない知識、理解力、判断力」と書かれていました。国、家庭、個人に常識があると思います。私たちが朝起きて顔を洗い、歯を磨く、また、人に会ったら挨拶をすることは誰もがやっていること、常識と言われることだと思います。しかし皆さんの家庭には、家庭ごとの常識があるのではないでしょうか。
 先日、私は休暇をとって一週間ほどカナダに行きました。トロントには長谷川兄の娘さんの三根さんがおられ、そこへ泊めていただき、篤くもてなしていただきました。また、娘がビクトリアに行っており、ホームステイをさせていただいているのですが、私たちもそこに泊めていただき、娘が、全くカナダの生活にとけ込んでいる姿を見て、とても安心しました。また、楽しくお交わりをさせていただきました。
 私は海外に行くとき、食事が合わないので、いつもインスタントラーメンを持っていきます。しかし、そのホストファミリーは日本食が好きで、週に何度かご飯を食べているということで、純日本米を購入しておられたので、とてもおいしいご飯でした。食卓について、みなで手をつないでお祈りしました。そうしたら、ホストマザーが、ご飯にしょうゆをかけて食べ始めました。私は“こういう食べ方もあるんだ”と見ていました。すると私たちを見て、「あなたたちはなぜ、ご飯にしょうゆをかけないのか」と聞くのです。皆さんの中には、ご飯にしょうゆをかけて食べる方もいらっしゃるかも知れませんが、「私は、ご飯にしょうゆだけをかけて食べたことはありません」と答えると、驚いていました。彼女の常識では、〈日本人はみな、ご飯にしょうゆをかけて食べる〉だったのです。
 私たちもパンを食べるときにバターやジャムを塗って食べますが、海外の人もそうですね。ですから、同じ穀物であるパンは何かつけて食べるのに、ご飯に何もつけずに食べるのはおかしい、と思ったのでしょうか。「そういう人もいると思うけど、日本人がみなそのように食べているわけではない」と、そんなことを笑って話しましたが、国によっても、人によっても、それぞれ常識が違います。しかし、この世の中では「強い者が常に勝つ」というのが常識です。
 ワールドカップサッカーを夢中でご覧になっている方も多いことと思います。日本と韓国の共催で行われ、経済効果が何千億と言われていましたので、私は日本が予選で敗退したらどうなるんだろうと心配していました。開催国が今まで予選で落ちたことは一度もないのです。結局、私の心配をよそに、日本は予選を無敗で決勝トーナメントに進みましたが、そこまででした。韓国は昨日、三位決定戦を行い、とても盛り上がっていました。準々決勝では、韓国の七人に一人、六百五十万人の人が街頭に出て韓国の選手を応援したと言われています。団結力のすごさを覚えます。それを見ながら、韓国のリバイバルも、この団結力に支えられてきたのだなぁと思いました。結局四位に終わりましたが。
 今日はドイツとブラジルが決勝戦を行います。今まで三回も四回も優勝したチーム同士です。最終的には、やはり強いチームが残りました。時として番狂わせのことがありますが、「強い者が勝つ」、そしてビジネスでは「強い会社が勝つ」というのが当たり前のこととされています。しかし、今日、皆さんと共に学びたいことは、「弱いときにこそ強い」ということです。聖書には時々、私たちの日常、世の中の価値観とは全く異なることが書かれていることがあります。
 第二コリント十二章は、パウロがコリントの人々に宛てた手紙の一部です。十二章のはじめには、パウロが、第三の天に上げられて、すごい体験をしたことが書かれています。その体験は、素晴らしいことでしたが、パウロは『しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません』と言い、また『私が高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげが与えられました。それは私が高ぶることがないように、私を打つためのサタンの使いです』と言っています。そしてパウロは、「これを去らせてくださるようにと、三度も主に願った」のです。このとげは、一説によると目の病気ではなかったかと言われていますが、真剣に何度も癒されるように願ったのです。
 このパウロという人物は、新約聖書時代を、パウロなしには語れないと言われるほど素晴らしい伝道者であり、数々の奇蹟をなした人で、何人もの人を癒したことでしょう。しかし、パウロの人生は、波乱に満ちたものでした。『私の労苦は・・・牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります』(十一章二十三〜二十四節)と、何度も死に直面したことが書かれています。このほかにも、数え切れないさまざまな難にみまわれているのです。
 そんなパウロに対して神様は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。そしてパウロは『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう』と答えています。
 私には弱いところがたくさんあります。海外に行きたくないのは食事が合わないことと、全く英語ができないことです。右に行くか左に行くか、また電話一本もかけられません。日本にいれば携帯電話があり、口だけで仕事が進んでいきます。日本では人一倍しゃべっているのですが、海外に行くと話す相手もないので無口になる、そんな生活を強いられます。また、私は何でも早いという良いところもありますが、逆に気も短いです。そのような弱さを持っている私が勝つことができるのは、食べるのが早いことくらいかと思います。皆さんも、自分の弱さを覚えるところがあると思います。しかし、その自分の弱さを何とか隠そうと強がって見せたり、何とか繕おうとしたりしてはいませんか。
 しかし、パウロは、『むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう』と語っています。とげが与えられ、病気があるからこそ、弱さがあるからこそ、その弱さを私は喜んで大いに誇りましょうと。そして十節には、『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです』と、この世の「強いものが勝つ」という常識とは、全く相反するようなことを語っています。
 大人と子どもを比べると、当然のこととして、子どもよりも大人の方が優っており、強いとされます。大人の方が体力や経験があり、ほとんどの場合、子どもが勝つことはありません。しかし、聖書の中に、子どもが用いられ、賞賛されているところがあります。
 『さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」』(ルカの福音書 九章四十六〜四十八節)
 この世の常識では、子どもはある意味、付録のように考えられているように思われます。しかし、聖書は、「一番小さい者が一番偉いのです」と言っています。これはどういうことでしょうか。
 この一週間、夜十時から毎晩祈祷会が行われていています。十年前に霊的戦いが起こったことを記念し、その時の神のわざを覚えるとともに、この十年間を戦い続け、なおも戦い続けるための新たな力を得るためにということで、この祈祷会を持っているのです。大変恵まれた祈りの時を持っています。あと一週間ありますので、ぜひ、皆さんも祈祷会にお越しください。
 私は過去のことをあまりよく覚えていないのですが、十年前この霊的戦いが始まったときのことはよく覚えています。朝早く「教会にすぐ来るように」という電話がありました。私は疲れていましたし、明け方でしたので、「こんな朝早く祈らなくてもよいではないか、昼間に祈れば」と思いながら教会にきましたが、「やっぱり祈らなければいけない」と、すぐに気持ちを切り替えて真剣に祈り出しました。スタッフは、それから毎日のように出かけていって祈る日々が続きました。今はほとんど印刷をしませんが、当時は四六時中印刷をしていましたので、昼間、スタッフが会堂や外で祈っている間も、私は印刷をしていました。しかし時々「先生、祈りに行きますから一緒に行きましょう」と言われ、「見てみろ。二十四時間あっても足らないほど忙しいというのに、行っていられるか」と答えましたが、「今、イエス様が先生が必要だと言われている」と言われ、本当かなあと思いながら、本当にイエス様が呼ばれていたら行くしかないと思い、印刷をさておき、祈りに行ったことを覚えています。そんな日々が続く中で、がむしゃらに祈っていくことが今の私たちにとても必要ではないかと、改めて教えられました。
 夏休みに入って、子どもたちに霊的な目が開かれるという示しが与えられました。そして、子どもたちと一緒に京都に祈りに行くことになりました。私は現実的な人間なので、うるさい子どもたちを連れて行くのは嫌だなぁ、ホントに祈れるのか?と思いました。子どもたちが用いられるようにとは祈れず、嫌がっている子どもたちに、帰りにはおいしいものを食べさせてあげるから、と言って、何とかこの子たちを騙して連れていき、祈らせて帰って来ようという思いで出かけていきました。
 京都に着き、早速祈り始めました。しかし私は気が短いので、子どもたちがざわざわしているのが気になってきました。「大人は真剣に祈っているのに、お前たちは何をしているのか。いい加減にしろ」と何回も言いました。するとある子どもが急に、「先生。あそこにサタンが見える」というのです。私はそれを聞いて素晴らしいとは思いませんでした。それどころか「お前たちくだらないことを言っているんじゃあない」と言ったと思います。しかし、ほかの子どもたちもみな、一点を指さして、「あそこにサタンが立っている」と言うのです。大人は誰も見えませんでした。私は全部作り話だと思いましたから、「そんなこと言ってないで、真剣に祈ってこい」と言いました。
 その時、私の息子も一緒に行っていましたが、最年少でした。息子は、みんなが「見える」と言っているのを聞いて首をかしげていたのです。それを見て、私は、やはりこいつには見えていない、と確信していました。そこで私は息子を呼び、「お前は見えてないなら、見えてないって言ってもいいぞ」と言うと、「お父さん見えないの。僕は見えるよ」と言うのです。「でも。お前は首をかしげているじゃないか」と聞くと、「だって、みんなは立っていると言うけど、あの悪魔は座っているんだもん」と言いました。それで私は、やっぱりみんな、いい加減だと思いました。そして、ほかの子どもたちに、「お前たち、いい加減なことを言ってちゃだめじゃないか。本当に立ってるのが見えてるのか?」と言うと、「だって、立っているもんなあ」と言い合っているのです。すると、「あっ! ちょっと待ってよ、座っている」と言うのです。「お前たち、さっきは立っていると言ったじゃないか」と言うと、「あまり大きかったので上の方だけ見て立っていると思ったけど、下までよく見たら、座ってる」と言うのです。それを聞いて、私は、“ひょっとしてこの子たちは、本当に悪魔の姿が見えているのかなあ”と思いました。しかしまだ半信半疑でした。
 しばらくして、二人一組になって祈りに行くことになり、私は自分の息子を連れて行きました。自分の息子が、本当に悪魔が見えたのかなぁと思いながら、一緒に歩いて行く途中で、「お父さんはあそこで祈ってくるから、ここで待っていて」と言って彼をそこに残し、何十メートルか離れたところで「ここに働くすべてのサタンの働きが打ち砕かれて神様がここに下りてきて、すべてのサタンの働きが打ち砕かれ、御言葉の剣によってすべての手や足が断ち切られるように・・・」と祈りました。当然のように周りに人がいるので大きな声では祈りませんでした。そして私は息子がいるところに帰ってきて、「何か見えたか」と聞くと、興奮して「すごいのが見えたよ。お父さん」と言いました。「何?」と聞くと、私が祈った通りのことを言うのです。「お父さんが祈りだしたら、天からロープが下りてきて、気持ちの悪いサタンがいたけど、それをぐるぐる巻にして、剣が出てきて手足が切られて、そこから赤い血がドバ〜ッと出た」と、彼が見たことをリアルに説明してくれました。私はそれを聞いて、“これは本当だ。確かに、子どもたちには見えているんだ”と思いました。彼はまだ幼く、それだけのことを創作するような知恵があるとは思えませんでしたから、本当に彼の霊的な目が開かれていることがよくわかりました。子どもたちは、祈ってもいないし、聖書もよく知らない。だから霊的な目が開かれるとは思っていませんでしたが、子どもたちが用いられ、子どもたちに霊的な目が開かれたことを知り、一つの新しい扉を、新しい一ページを開いてくださったと、確信しました。
 なぜ子どもたちが用いられたのでしょうか。それは何よりも子どもたちが純粋であり、素直であり、何よりも弱く、小さいものだったからです。だからこそ神様が彼らを用いて、素晴らしいわざを現してくださったといえます。
 聖書の中には素晴らしい主のわざが現わされていることが書かれていますが、人間が、自分の頭で、自分の知識をもって理解しようとしても、理解できないことがたくさんあると思います。病気をしたとき、病院に行き、かんたんな病気なら薬を処方してもらい、飲んだらすぐ治ります。しかし、聖書の中には、神様に祈ったら癒されることが書かれています。もちろん医者に行くことが悪いことではありません。しかし、聖書に書かれているとおりに、祈りによって癒されるということを私たちは知っています。
 人には多くの問題や悩みがあります。そんなときにも私たちは、神様に祈ります。そして今まで多くの問題が解決されてきました。皆さんの中で、今なお、苦しみがあり、問題がある人、ある意味では八方ふさがりのような状況で、何もできないと悩んでいる人もいるかも知れません。そのように八方ふさがりになったとしても神様を見上げてください。神様があなたを見ておられ、天の窓を開いてあなたに恵みを与え、祝福を与え、あなたに力を与えようとされています。そのような素晴らしい恵みの中にあることを覚えてください。
 また、神様が私たちを『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです』と言ってくださいます。みなたちは主によって選ばれたのです。厳選してたくさんの中から、選びだされたのです。ということは、何らかの理由があって皆さんは選ばれたのです。
 会社が人を採用するときに、当然のように、会社にメリットがあるかないかによって採用が決まります。この人が会社の益となるだろうか、英語ができるか、営業にたけているか、何か特技があるか等々。しかし、考えてみると、何の取り柄もない私を、なぜ神様は選んでくださったのかと思います。神様は非常識ではないか、と思いますが、こんな私にも選ばれた理由があります。それは弱いからです。小さい者だからです。皆さんも同じです。だから神様が私たちを選んでくださったのです。ぜひ、このことを覚えてください。
 皆さんが、「教会で働くスタッフたちは素晴らしい」と言ってくださいます。私たち一人一人、牧師もスタッフもみな弱い者です。弱いからこそ、神様が選んで、使おうとしてくださっているのです。
 霊的戦いが始まって以来今日まで、日本のキリスト教界を見ると、いまだに霊的戦いを異端扱いしている所もあります。確かに、「戦い」という言葉はあまり好まれません。私も戦いという言葉は好きではありませんが・・・。どの教会でも、「ぜひ教会に来てください。教会は、愛があり、祝福があり、喜びがあります」と言います。ですから、教会では戦いということを、言いたがらないのです。もちろん、友好関係にあるのに、戦いをする必要はありませんし、やたらに戦おうというわけではありません。それではなぜ、戦いが必要なのでしょうか。
 皆さんは夜寝るとき、誰かが忍び込んでこないように戸や窓に鍵をかけます。私の小さい頃、家では鍵をかけたことがなかったので、私は「鍵っ子」と意味がわかりませんでした。今も時々、鍵をかけ忘れることがあります。なぜ鍵をかけるのですか? 最近は、物騒な事件が相次いで起こっているのを耳にします。家に押し入られ、財産を取られたり、命さえ危ういことが起こらないように、そういう悲惨なめに遭わないようにと、鍵をかけます。それは当然のことです。侵入者はインターホーンを鳴らして、入ってくるわけではありません。わからないところから侵入してきます。サタンも同じように、もし鍵もかけず無防備であるなら、簡単に私たちの中に入り込んできます。ですから、私たちはまずバリアを張り、入り込めないようにする必要があります。
 教会は愛に満ち溢れた祝福された所です。そして神様の聖霊の満ち溢れたところです。しかし一方で、サタンは、その祝福、喜びを何とかして奪い去ろうとつけ狙っていると聖書は教えています。何とか隙をついて入り込み、祝福や恵みを奪おうとします。
 もし、危害を加えようとするものが入ってきたら、皆さんはどうしますか。どんなことをしてもそれを阻止しようとするでしょう。そのためには、守っているだけでは勝つことができません。サッカーもそうです。いくら自分のゴールを阻止し守り抜いても、最後にゴールを決めなくては、点を入れなければ勝てません。私たちは守るだけではなく、戦いを挑み、侵入してくる悪しきわざを退けなければなりません。そのためにこの戦いがあることを覚えてください。
 今皆さんは、自分は弱い、自分は足らない、何もできないと思っておられるかも知れません。しかし、自分が弱いと思っている人こそ、最強の勇士になれる要素を持っています。しかし、私たちが自分の力でサタンに勝つのは不可能です。どうやったら戦いに勝利することができるのでしょうか。まず弱さを認めることです。私たちが自分でできるという心でいっぱいになっているところには、イエス様が入ることはできません。しかし私たちの弱さを神様に「私は弱いです、足りないです、助けてください」と明け渡すときに、神様が私たちの中に入り、共に戦ってくださいます。
 しかし、多くの人が自分の弱さのゆえに、「私は弱いから駄目だ」と思っています。そして、神様が入ろうとする扉を全部閉めてしまっています。ですから弱いままなのです。私も弱い者です。しかし、そんな私の弱いところを、足らないところを、神様は補いたいと願っておられます。空白があり、隙があるところを神様は聖霊によってうめることを願っておられます。ですから、私たちがその弱さを認め、そこに神様に入っていただけるように扉を開けるときに、神様を迎えることができ、そして主の勇士となることができます。
 子どもたちは、ただ弱いからというだけで強められたのではなく、彼らは素直に神様の祝福を受け取ったからこそ、勇士になることができました。神様が私たちに素晴らしい恵みを与えようとされていることを、知ってください。「弱いときにこそ、私は強い」という、神様の常識を受け入れるとき、神様が私たちに力を与えてくださいます。
 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう』(エレミヤ書三十三章三節)と書かれています。
 私たちが神様を呼ぶとき、神様を求めるとき、神様は私の思いではなく、私の考えではない、私たちの理解を越えた力、人間の考えをはるかに越えたところに働く神様の力、聖霊の力を私たちに与えてくださいます。それを受け取るなら、主の勇士となることができます。
 一人一人は小さく、弱い者です。しかし、主によって選ばれた私たちが主の勇士となり、侵入者であるサタンと戦って、主が現そうとされているリバイバルを勝ち取らせていただきたいと願います。主のみ業を現わすために、この地に圧倒的なリバイバルのわざを現わすために、主はあなたが必要だと語っておられます。弱さを認め、主を受け入れ、主に力をいただいて、さらに主に仕える者になりたいと願います。
お祈りします。

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