今週の礼拝メッセージ
2002.7.7(SUN)
天がひらく
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 マタイ福音書3章16節〜17節
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 ハレルヤ!久しぶりに御言葉を取り次ぐことができ感謝します。いつも私のために祈ってくださり、支えてくださっていることを感謝します。この夏は色々なプログラムがあり、それは私達にとって、神に近づく良い機会です。毎夜十時から十時半まで祈祷会が続けられていますが、大変祝福されており、更に祈り続けようという思いが与えられ、七月十九日まで祈り続けることになりました。ぜひ、祈りに参加してください。
 七月二十日と二十一日は天野先生が来て下さいます。現在、若手で非常に活躍されている先生で、ユーモアのある力強いメッセージャーです。伝道集会ですので是非、期待して新しい方をお誘いください。
 また私の新しい本が出ました。『人生街道五十三次』という本です。今日販売されますので、お買い求めください。新城教会ニュースの巻頭言に寄稿したものの中からから選んだら、ちょうど五十三ありましたので、このようなタイトルにしました。伝道用の本ですのでぜひ、お読みください。また今月中にもう一冊、『クリスチャンって最高だ!』という本が出ますので、こちらもぜひ、お買い求めください。
今日と来週の日曜日の午後からは、霊的戦いセミナーを行います。今回のセミナーは特に、「日本人の宗教観と霊的戦い」というテーマで行います。日常の生活の中にも、多くの霊的戦いの要素があることを話したいと思います。
 また明日は急遽、二十四時間連鎖祈祷と、二十四時間のとりなし祈祷が行われます。ぜひ共に祈っていただきたいと思います。

 今日は「天が開く」という主題でお話しします。しかしあえて「開」という漢字を使いませんでした。私は「開」という漢字が好きではありません。なぜならば、門構えの真ん中に鳥居が入っているからです。私の弟に滝元開というのがおりますが、「その鳥居を十字架にかえよ。」といつも言っています。漢字の中にも束縛を感じます。日本のすべての領域に、偶像礼拝がはびこっています。クリスチャン生活の中には神の特定の時があります。それは「神の時」であり、天がひらかれる瞬間です。私たちの信仰生活のただ中に天がひらかれる瞬間があるのです。
 聖書を読むと、そのような箇所を多く見つけることができます。ノアという人物がいますが、箱船物語は有名です。彼は九五〇年間生きたと記されています。それ程生きられたら良いと思いますが、これは今から何千年も前のことです。もしかしたら昔の一日は、今の時代の一秒か二秒だったのかも知れません・・。彼の人生の六百年目に起きたことが書かれています。創世記七章十一節に、

『ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。』

 これは洪水が起こった瞬間について記していますが、私達の人生にも特定の日に天の巨大な水門がひらかれることを教えていると思います。そのような日を、期待しませんか。また、エゼキエル書一章一節に

『第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。』

と書かれています。「第三十年」とは、おそらく彼が三十才の時だと考えられています。「第四の月の五日」と日にちまで記録されています。ある特定の日に、神が私たちに天をひらいて下さるのです。
 私にとっても天がひらかれた日がありました。それは一九九二年二月十三日、愛知県民の森で祈っていた時のことでした。その時、一週間の予定で徹夜祈祷会を行っていました。初めは三十人ほどが集まっていましたが、最後の日は皆、疲れてしまって八人しかいませんでした。しかしそこで天がひらかれました。聖霊が激しく降って、私は変えられました。私をよく知っているお年寄り達が、「新城教会に色々な奇跡が起こったけど、一番大きな奇蹟は、順牧師が変わったことだ。」と言われます。嬉しいような、悲しいような複雑な心境になりますが、変わらないより変わった方が良いので、変えてくださった主に感謝しています。
 またもう一つ、一九九二年七月九日に突如として天がひらかれました。それから、地域に対するとりなしの祈りが始まりました。その時も二週間ほどの予定で、連続祈祷会をしていました。その祈祷会も止まらなくなり、天がひらかれ神の栄光が現されました。詳しいことは私が書いた『主が立ち上がられた日』という本に記載されています。それを読むと、この教会の歴史についても知ることができます。ぜひ、お読み下さい。
 何しろ、天がひらかれる瞬間があるのです。イエス・キリストの中にあることは、何と幸いなことでしょうか。皆さんの中にも、今まで天がひらかれた経験があると思います。そんなことをお互いに分かち合ったら、恵まれると思います。更に神が天をひらいて下さると確信します。
 先日「床の上賛美集会」がありました。寝ころんで賛美をする集会ではありません。朝起きた時に、床の上で神が与えてくださった賛美を集計して、ベスト二十曲を賛美しました。一番多く歌われた曲が「天がひらけて」という賛美でした。それは預言的な賛美であり、神の時の現れだと思いました。私もその賛美を歌っていた日がありました。神が新城教会に、「この賛美を歌いなさい」と語られたと思います。もう間もなく、神が新しい天をひらいて下さるという、預言的な現れであると思います。天がひらかれる瞬間を、毎日待ち望んで暮らすことができるのは、クリスチャンの特権です。私は毎日、ワクワク、ドキドキしています。
 「天がひらかれるという」というキーワードで聖書を見ていくと、そこから新たなるキーワードを見い出すことができます。聖書一冊を調べるのには時間がかかりますが、最近ではコンピューターで調べることができます。そうしたら、アッという間にわかります。ヨハネの福音書一章五十一節に

『そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』
 使徒の働き七章五十六節に、
『こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」』
 使徒の働き十章十一節に、
『見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。』
 黙示録四章一節に、
『その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」』
 黙示録十九章十一節に、
『また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。』

 このように、天がひらかれた箇所を見つけることが出来ます。そこに全て、「見る」、「見た」という新たなるキーワードがあることが分かります。天が開けると「見えるようになる」のです。それも、今まで見えなかったものが「見えるようになる」のです。
 さて、何が見えるのでしょうか。使徒の働き七章五十六節に、

『こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」』

 これは、ステパノという弟子が石打にされて殺される瞬間に天がひらかれた記録です。彼は、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言いました。しかし他の人には見ることができませんでした。彼にだけ、はっきりと見えました。それは神の右に立っているイエス様が見えたのです。
 天がひらかれるときに、「神が見える」ようになるのです。神が実際に目に見えるという領域もあるかも知れませんが、それ以上に、「イエス様が救い主、神のみ子であり、神ご自身である」ことがはっきりとわかるのです。
 私は牧師をしていますが、人々が救われる瞬間はよく見ます。それは天がひらかれる瞬間です。神のことがわからないと言っている人の天がひらかれ、はっきりと神がわかる瞬間があります。皆さんも、そのような経験をされたはずです。それは天がひらかれた証拠です。神の右に、イエス様が立ってくださっているということは、右は権威の象徴です。イエス様=神様であるとわかった瞬間は、天がひらかれた時なのです。まだイエス様が神であることがあやふやな方は、はっきりとわかりますように。
 続いてヨハネの福音書一章五十一節に、

『そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』

と書かれています。これはイエス様が弟子たちに語られた言葉です。私たちの世界には、見えない活動家が存在します。今の時代は目に見えない活動家、テロリストがいて苦労していますが、それ以上に見えない活動家がいます。それは悪魔や悪霊です。人々を苦しめる悪魔・悪霊がいるのです。ある意味で、霊的な世界が見えないことは良いことかも知れません。なぜなら、霊的世界まで見える目があったら、周りに敵がいっぱい見えて、平穏な生活はできないと思います。しかし現在は、テレビや新聞で悪魔・悪霊が働いていることがよくわかります。最近、日本において一つのブームがあります。それは悪霊ブームです。悪霊を追い出すような陰陽師などに関して、関心が高まっています(あれは偽物ですが)。本屋に行くと、多くの悪霊についての本が出ています。ある意味では、これは良いことかも知れません。なぜなら、悪霊の存在が分かったら、本当の解放は教会にしかありませんから、行き詰まって教会に来ることでしょう。
 しかし私たちが、悪霊だけに目がひらかれていても仕方ありません。もう一つの見えない活動家があります。それは聖書の中に頻繁に登場しながら、認識のない存在です。それが「御使い」という存在です。彼らは神の領域に属する軍隊であり、霊的な存在です。ヘブル人への手紙一章十四節に、

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』

と書かれています。今日、イエス・キリストを信じている方は安心してください。天使たちがあなたに仕えるために、支えるために、遣わされているからです。しかしその現実感を持っておられますか?案外持っていないかも知れません。悪魔・悪霊より天使たちの方が多いのです。天の軍勢が、救いの相続者たちに遣わされているのです。しかし、このことに関しては、天がひらかれないとわかりません。イエス様がこの地上におられた時には、天の大軍勢が働いていました。そのことは人々にはわかりませんでしたが、「しかし、やがてあなたがたに見えるようになる、それは天がひらかれるからだ」とイエス様は語られました。天がひらかれると、主の使いが自分の周りを固め、助け、支えているのを見ることができます。
 一九九二年二月十三日に聖霊が注がれたとき、初めは八人に注がれ、その後教会に聖霊の働きが広がっていきました。その中で子どもたちに聖霊が注がれました。この教会にはクリスチャン三世までがいます。やがてクリスチャン四世が生まれると思います。私はクリスチャン三世を見ながら失望していました。クリスチャン二世までは変えられたけど、クリスチャン三世が変えられるのは難しいと思いました。礼拝に来ても彼らは教会は嫌だ、という顔をしていますし、礼拝中も額に電光掲示板がついて、「早く終われ!」というサインが出ているような感じでした。賛美も祈りもしていないような感じでした。しかしそんな子どもたちが、聖霊の注ぎを受けました。天がひらかれました。それは私たちが聖霊を受けた小屋に、毎週土曜日に続けて七回連れて行き、祈っていたときのことでした。最後の日でした。毎回、子どもたちを祈らせても、一分と祈りが続かなかったのが、その日は天がひらかれて、子どもたちが泣き伏して一時間近く祈り通したというのです。その時から、彼らの霊の目がひらかれました。天使たちが見えるようになり、天使と悪霊が戦っている光景を見たり、神の声を聞くようになったり、御使が周りに配備されているということをはっきりと認識しました。
 詩篇九十一篇六節から、

『また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』

と書かれています。神が「御使いたちに命じて、すべての道であなたを守る」と約束されています。それは天の軍勢によって守られるのです。なぜならば、「あなたが主を避け所とした」からだと書かれいます。今週、すべての道に主が天の軍勢を遣わしてくださり、守られるようにお祈りしましょう。
 「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。」と書かれています。
 私たちは色々な守りのアイテムを持っています。車一台にしても、日本ではシートベルトは義務づけられています。また、エアバックやブレーキ、道路標識やガードレールも守りのアイテムです。そして私たちは交通法規を守って走りますが、どうにもならないような時もあります。そのような場面での出番は、天の軍勢です。しかし人間の世界に備えられている、守りのアイテムにも信頼し、そのガイドラインにも従うべきです。天の軍勢がついているので、四十キロ制限を百二十キロで走っても大丈夫ということはありません。それを守った上で、どうにもならない所を天の軍勢によって守られるのです。
 黙示録四章一節に、

『その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」』

と書かれています。
 天がひらかれる時、預言的に生きるようになるのです。聖書は預言書です。未来について明らかにしている本です。私たちに天がひらかれる時に、人生が預言的になるのです。預言の賜物も実際にあります。しかしそれだけにすがりついてしまうと、御言葉から外れてしまいます。賜物はあくまでも補助です。将来が読めない時代ですが、天がひらかれている人には、将来を先取りすることができるのです。特にビジネスマンにとっては必要です。「明後日のことはわからない」とあるビジネスマンが言われていましたが、天がひらかれると、将来が読めるようになります。
 一九九二年、それは霊的な戦いが始まり、大変な時期でした。その時に、アメリカで用いられているシンディ・ジェイコブスという先生が新城教会に来られ、主からの預言を語ってくださいました。その時は考えもつかないような預言が語られました。しかし、今、実現していることがいくつかあります。「この教会に印刷所ができる」と言われたことと、「聖書学校ができる」と言われましたが、「リバイバル聖書神学校」ができました。
 また霊的戦いが始まったとき、私たちの中にも天がひらかれ、預言的な賜物がひらかれました。霊的戦いが始まったときには、預言的な油注ぎが常にありました。「地域に出て行って祈りなさい」と主が色々な人々に語ってくださいました。私たちは、半信半疑で祈っていました。私は本宮山の方に祈りに行くように語られて、祈りに行きました。そこで山に置かれている、すべての呪いが取り去られるようにと祈りました。そして、教会でとりなし、祈ってくださっている方々に無線で、「祈りが終わりました。帰ります。」と言うと、教会から答えが返ってきました。「順先生。今立っているところから、山道を少し登ってください。左側に偶像があるので、そこに行って祈ってください」と言われました。「なぜ、あなたたちにわかるのですか」と聞くと、「今祈っていると、幻を見せられ、参道を上がっていくと左側に偶像が見えるので、行ってください」と言うのです。「まさか?」と思いましたが、山道を見てみました。草が伸びていて、急な斜面が続いていました。私は急なところは登りたくなかったので、「登れるような所ではありません」と答えました。すると、向こうから、「いや、そんなに遠い所ではない、五十メートルくらい上がるとすぐ左に見える」と言うのです。「そんな所にあるかなあ」と思いましたが、しぶしぶ上がって行って驚きました。草むらの中に狐塚がありました。占い師が特別な祈祷をした、小さいほこらと狐が並んでいました。それは、何者かが秘密に拝んでいる偶像でした。主が天をひらき、賜物を皆に分け与えて、私たちを励ましてくださいました。預言的賜物は、私たちがまだ見たことのない事柄を、先取りする賜物です。何気なく右の方を選んだら、それが道であったとか、何かわからないけど、歩む道そのものが御心であったと言うように、預言的に生きることができる、それは、天がひらかれる時に起こることです。
 黙示録十九章十一節に、

『また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。』

と書かれています。天がひらかれてヨハネは見ました。そこには戦いをされる主がおられました。天がひらかれる時に、霊的戦いが始まります。霊的戦いは、天がひらかれた証拠です。私たちの中に、霊的な敵と戦わなくてはならないという情熱があり、思いが与えられているならば、それは、天がひらかれている証拠です。案外、クリスチャンでも霊的戦いについて、全く関心がない人もいます。「霊的戦いとは何ですか。それは初耳です。」聖書には、「私たちの戦いは血肉に対するものではない。霊的な戦いだ」と語っています。しかし、「書いてあるけど、あまり実感がない」と言われます。天がひらかれないと、霊的戦いはなかなか実感が伴いません。「霊的戦い」は、天がひらかれた結果です。私たちの中に更に戦いの天をひらいていただきたいと願います。
 特に、明日の朝六時から、翌日の朝六時まで、二十四時間の祈りをします。なぜならば、この日は、設楽原の戦いが行なわれた日だからです。なぜ、そんなの日と合わせるのでしようか。
 設楽原の戦いは、七月九日の朝六時から始まりました。戦いは歴史的な事実です。織田信長と徳川家康の連合軍と、武田勝頼が戦いました。そして武田が負けました。その後、徳川の天下となりました。そして、日本がどのような過程を経たかというと、日本は鎖国するようになりました。その目的は、「キリシタン撲滅」でした。当時の人口はおよそ二千万人位ではなかったかと言われます。そのときすでに、約七十万人程がキリシタンであったと言われます。すごい勢いでキリスト教が前進していました。しかし、設楽が原の戦いで、徳川家康が勝利したことによって、政策が変わりました。キリシタンを撲滅のために鎖国がなされ、寺請制度や五人組が形成され、そのシステムを今でも引きずっています。江戸時代にキリシタン撲滅の徹底的な働きがなされたのです。設楽が原の戦いで武田軍が勝っていたら、日本の歴史は変わったと思います。
 また、この戦いは近代戦の始まりでした。それまでの戦いは剣や槍の戦いでしたが、そこで初めて実戦で鉄砲が使われました。鉄砲が使われた為に、短い時間に一万六千人が亡くなりました。一万六千人が亡くなったことは、霊的には死の力の大きな介入であり、もたらされた結果は、キリスト教迫害でした。これを霊的な側面から見たら、「日本のリバイバルを阻止するために、悪魔が立ち上がった日」とも言えます。だから私たちは、原点から回復を行ってくださるように、祈らなくてはならないのです。ですから、明日はぜひ、祈りの輪に加わってください。そして日本がリバイバルされ、この場所から回復が起こされますよう祈りましょう。設楽が原で日本のリバイバルが止められたとしたら、ここから回復しなければならないと思います。主がここから霊的戦いを始められたのは、偶然ではありません。神の深い計画があったのです。しかし、これは天がひらかれることと連動して行われたのです。天がひらかれるのは瞬間的なことです。
 パリサイ人がイエス様に、「神の国はいつ来るのですか」と尋ねました。彼らはイエス様がイスラエルの王になるとか、神の支配が来るということを連想していました。しかしイエス様の視点は全く違いました。ルカの福音書十七章二十節から、

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。』

と語られました。ここでは再臨や世の終わりについても言及されています。しかし、世の終わりや再臨も、神の目から見ると「神の時」にしか過ぎません。天がひらかれる瞬間にしか過ぎません。ということは、天がひらかれるプロセスは、すべてに共通しているはずです。天がひらかれるのは、丁度、いなずまが光るような瞬間的なことです。他の箇所では、私たちが、この世のことで楽しんでいる時や、食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたり、というただ中に現わされると語られました。天がひらかれるのは、生活のただ中なのです。今週は、私たちの生活のただ中に、天がひらかれることを求めましょう。
 最後に、天がひらかれる条件について学びましよう。マタイの福音書三章十六、十七節に、

『こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』

 ここには、三位一体なる神が同時に顕現されています。天がひらかれたのは、「バプテスマの瞬間」でした。バプテスマを受けることは重要です。最近、この教会で、多くの方々がバプテスマを受けられますが、これは儀式ではありません。コロサイ人への手紙二章十二節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と書かれています。これはイエス様と同じ、ポジションになるということです。イエス様がよみがえられた時に、「天においても、地においても、一切の権威を受けられた」語られました。そしてこの権威は、バプテスマの瞬間に私たちに与えられるのです。バプテスマの時に、天がひらかれるのです。イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊が降ったのと同じように、天がひらかれるのです。案外そのような認識がないために、天がひらかれているかわからない人が多いのです。すでにバプテスマを受けられた方は信じてください。イエス様がバプテスマを受けたときに天がひらかれたように、バプテスマを受けた時に天がひらかれているのです。バプテスマを受けておられない方にお勧めします。バプテスマはキリスト教の入会式ではなく、権威が与えられる時であり、天がひらかれる瞬間です。
 続く天がひらかれる条件として、マラキ書三章十節に、

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。__万軍の主は仰せられる。__わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』

 これは献げものについて書かれているところです。二週間前に「リバイバル感謝報告会」が行われましたけれども、この教会も皆さんの愛とささげものによって支えられていることを感謝します。この教会が祝福されている秘訣は、皆さんがその働きにおいて得た糧の中から、熱心にささげてくださったので、天がひらかれているのです。ささげることによる祝福を経験された兄弟姉妹が多くおられます。ささげることによって、神さまが天の窓をひらいてくださるのです。心から神さまに十分の一をささげてみようではありませんか。新約聖書には自ら喜んでささげなさい、と書かれていますので喜んでささげたいと思います。神さまに十分の一をおささげし、更に天をひらいていただこうではありませんか。
 しかし、経済的には、献げることがむずかしい、という方もおられるかも知れません。そのような方は、何をささげたら良いでしょうか。ヘブル人への手紙十三章十五節に、

『ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。』

と書かれています。私たちが経済の十分の一をささげることも、天がひらかれることですが、賛美自体がささげものなので、賛美を通して天がひらかれるのです。賛美の中で恵まれるのは、天がひらかれるからです。私はあまり献金ができないけれど、唇の果実をささげますでも良いと思います。二十四時間の十分の一の時間を、賛美をもって神にささげますというのも素晴らしいでしょう。神様を賛美するときに天がひらかれるのです。
 また第三の条件は、ルカの福音書三章二十一節から二十二節に書かれています。

『さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』

 この箇所はマタイの福音書三章十六節と十七節と同じ記事です。ルカとマタイの記述は少し違います。ルカはマタイよりも深い観察力を持っていました。同じ場面を見ても皆取り方が違います。マタイはイエス様がバプテスマを受けたら、天がひらけたと率直に表現しています。しかしルカは、イエスがバプテスマをお受けになり、そして「祈って」おられると、天がひらけと・・・。「祈っておられる」が挿入されています。天がひらかれる最大の条件は「祈り」にあります。祈りの中で天がひらかれのです。イエス様がバプテスマを受けて祈っているときに、天がひらけたと鋭い観察をしています。
 今年は「祈りの年」と主は、私たちに語ってくださっています。今年は祈りの年にしましょう、と目標を掲げて2002年が始まりました。神様は祈りの中で私たちに天をひらくことを計画されておられると思います。私たちが祈りを更に強化して行くときに、必ず天がひらかれると信じます。また預言的に祈るということが大切だと思います。私達は常に神さまの導きに従って、祈らなければなりません。それは天がひらかれる瞬間につながるからです。
 新城教会の一連の流れを見ると、霊的戦いが始まり十年が経過し、十一年目を迎えるこの時、主が新たなる天をひらこうと計画されているのではないかと感じます。私の中からも、常に祈りがわき上がっています。祈らなくてはおられない、九十二年の時もそうでしたが、今もそんな感じです。主は必ず、天をひらいて下さると信じています。
 また皆さんの生活のただ中に、今週、新しい天がひらかれて、素晴らしい神の栄光が現されることをお祈りします。

バックナンバー

戻る
戻る