今週の礼拝メッセージ
2002.7.14(SUN)
何をしても栄える
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 詩篇1篇1節〜3節
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 ハレルヤ!今日は皆さんとともに礼拝が守れることを感謝します。先週の月曜日は、二十四時間のとりなし祈祷会がありました。また三週間連続の夜十時からの祈祷会も祝福されており、天がひらかれていることを感謝します。今日も皆さんに新しい天がひらかれますように。
 さて先週は、「天がひらく」というテーマで話しましたが、天がひらかれるときに、主は新しい祝福を持って、私たちを満たして下さいます。本日お読みした詩篇の御言葉は、素晴らしい言葉です。この御言葉を自分のものとして受け取りましょう。
 講壇に立つ前に祈ることがあります。それはイエス様が講壇に立って下さったら、何を語って下さるだろうかということです。イエス様が立たれる時、語って下さる御言葉が語れるようにと祈っています。そして、今朝は、詩篇一篇一節から三節を語って下さると信じます。

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

 今の時代、「何をしても駄目だ」という人が多いようですが、聖書は、『その人は、何をしても栄える』と「栄えるための秘訣」を提示しています。
 この付近にも川が流れていますが、その両岸を見ると木が生えています。そしてそれらの木々はよく成長しています。なぜなら、流れの側に植わっているからです。それらの木々は、別に成長のために努力しているわけではありませんが、水のほとりに植わっているがゆえに、何の苦労もなく、ぐんぐんと成長しているのです。
 同じように、私たちもいのちの水のほとりに植わっているときに、「その人は何をしても栄え」そして、『時が来ると実がなり、その葉は枯れない』のです。
 冬になると葉が全部落ちてしまう木もありますが、冬になっても青々と茂っている木もあります。人生も、そのようでありたいと願います。冬の時期を迎えても、決して葉が落ちない実を結び続ける人生でありたいと願います。 私の庭にラズベリーの木があります。何も手入れしていませんが、そこは水がよく落ちる所です。だから放っておいても実がなります。季節ごとに実を結びます。今年は駄目だろうと思っていても、季節になると実を付けます。同じように、私たちの人生も、主が一人一人に実を結ばせて下さることを感謝したいと思います。そして、その秘訣について学びたいと思います。

『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

と記されています。何をしても栄える人の条件として、「主の教えを喜びとする人」とあります。第一列王記二章に、ダビデが死ぬ直前に息子ソロモンに語った言葉が記録されています。第一列王記二章一節から三節に、

『ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。』

 人は死ぬ前に、一番大切なことを次の世代に伝えるはずです。あなたが息を引き取る寸前、家族が周りに来たら何を伝えますか。ある人は金庫の鍵、実印の在処かも知れません。しかし普通は、それよりも人生の中で得た最も大切な事柄を伝えると思います。ダビデは多くの知識を得、多くの仕事をした人でした。しかし彼が死ぬ寸前に残した言葉は、「定めとさとしとを守って主の道を歩みなさい」でした。
 また、出エジプトの立役者、モーセが亡くなる前に語った言葉があります。申命記の二十九章九節に、

『あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。』

モーセの弟子のヨシュアも言いました。ヨシュア記一章七節から八節に、

『ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。』

 主の教えを喜びとすることが栄える秘訣なのです。「主の教え」とは、具体的には何でしょうか。それは、「モーセの十戒」です。それが、出エジプト記二十章三節から十七節に書かれています。そして、『この律法の書をあなたの口からはなさず・・・口ずさまなければならない。』と命令されています。最近「声に出して読みたい日本語」という本が売れていますが、声に出して読むことは大切です。十戒を今日は朗読したいと思います。

_あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 私たちが、イエス・キリスト以外に神を持っていたら、何をしてもうまく行きません。しかし、イエス・キリストを神として信じるときに、何をしても栄えるのです。また第二は、

_あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 十戒の中心はここにあります。神はただ一人であり、偶像を作ってはならない、拝んではならない、仕えてはならないのです。偶像礼拝は父の咎が子に報われ、三代、四代にのろいが至るからやめなさい、と教えています。しかし、イエス・キリストだけを拝むなら、その祝福は千代にまで及ぶのです。

_あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 _から_までを読んでから、_番目を読むと理解し難いところがあります。「わたし以外に神があってはいけない」と言われ、次には「偶像を拝んでは駄目だ、もしも拝んだら呪われる」と語り、次には「わたしの名前をめったやたらに使うな。」と言っています。それを考えると、矛盾を感じます。わたし以外に神はないと言っているのにも関わらず、「俺の名前をめったに使ってもらっては困る」と言うのです。
 しかし、これには理由があり、その答えが新約聖書にあります。それは、「イエス・キリスト以外の名前を使ってはいけない。それ以外を使うと、その祈りは全て悪魔の所にいってしまう」という意味です。けれども、イエスの名前だけを使って祈ったら、「父なる神が祈りを聞く」という意味なのです。よく覚えておいて下さい。
 クリスチャンになるとは、祈りが変わることです。人は一般に祈り心を持っています。しかし誰の名前で祈って良いのかわからないのです。しかし、私たちはわかります。「イエス・キリストの名で祈ったら父なる神に祈りが届く」だから、私たちはイエス・キリストの名前で祈るのです。
 今日始めて教会に来られた方も、「キリスト教は難しい」と思わないで下さい。ただ、「イエスの名前で祈る」ことによって、父なる神に祈りが届くのです。だから、旧約聖書では、「主の名をみだりに唱えてはいけない」と表現されたのです。聖書は旧約から新約で一冊であり、全体から意味を受け取ることが大切です。

_安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 ある意味で、日曜日は安息日です。今日、皆様は教会に来られましたが、神を礼拝するための一日は大切です。日曜日に教会に来れなかったら、水曜日に行われる礼拝に来て下さい。今まで私たちは、「水曜礼拝」と言っていましたが、この名称を変えた方が良いと思いました。それは、偶像礼拝、太陽礼拝と同様に水曜礼拝、すなわち、水星を礼拝するような意味になるからです。日本語は使い方が難しいです。水曜日に行われる「主日礼拝」です。私たちにとっては、すべてが主の日です。イエス・キリストの名によって、真の神を礼拝する日を覚えて集まるならば、「何をしても栄える」のです。

_あなたの父と母を敬え。

 親不孝では幸せにはなれません。ご両親が生きている間に親孝行をして下さい。亡くなってからでは、親孝行をすることができませんが、生きている間は精一杯親孝行して下さい。

_殺してはならない。

 これは当然なことです。殺しは罪です。最近は殺人事件が多いです。殺しを何とも思っていない人が多くいますが、この教えを心に留めていたら、この世の中に殺し合いは起こらないのです。
 もう一つ悲しいことは、日本では年間三万以上が自殺するからです。これは新城市が一年で亡くなってしまうような大事件です。町からすべての人が消えてしまうのと同じ事です。
 今日、ぜひ、知って下さい。自殺は「殺人の罪」です。私は自殺した人がすべて滅びたとは思いません。死ぬ直前に、神が哀れんで下さるチャンスが残されていたと思います。しかし、まず私たちが良く知っておくべきことは、自殺は殺人の罪です。死んではいけません。神が天に引き上げて下さるまでは、自ら死を選んではいけません。どんな問題や苦しいことがあっても、その試練から抜け出す道を神が用意しておられるというのが、聖書からのメッセージです。

_姦淫してはならない。

 これは今大きな問題です。覚えていて下さい。性的な乱れは国を滅ぼします。今までの世界の歴史を見てみても、大国が滅びた背景に、必ず性的乱れがあります。今、日本は、聖書の中のソドムとゴモラと同じような状況です。ソドムとゴモラという町が性的に乱れたときに、天から火が降って滅びました。現代は危険な状態です。聖書はどんなに世の中が「性は自由だ」といっても、「姦淫してはならない」とはっきり告げています。特に若い方は、不品行の罪を決して犯さないよう、注意してください。聖い生活をするならば、「何をしても栄える」ことができます。

_盗んではならない。

 泥棒が横行し、万引きが多い時代です。時々スーパーで商品を持ちながら、つい盗んでしまおうと考えることがあるかも知れません。しかし盗んだら栄えることができません。

_あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

 これは簡単に言うと、うそを言ってはいけないと言うことです。嘘を言ったら幸せになることができないのです。そして最後は、

_あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 これは「むさぼってはならない」と言うことです。「必要以上に物を欲しがってはならない」ということです。案外、必要以上に物を欲しがってしまいませんか。昨日買ったのに、また翌日、違うものを欲しいと思うことはむさぼりです。自分が持っている物で満足しなければなりません。携帯電話も、すぐに新しい製品が欲しくなります。使えるまでは、使わなくてはなりません。これらの戒めを守ったら、それも喜んで守ったら、「あなたは何をしても栄える」のです。これは大切なことです。
 これを「口ずさみなさい」とありますので、出エジプト記の二十章の三節から十七節までの御言葉を声に出して口ずさみましょう。

 聖書には、素晴らしい祝福を受けた人物の人生が綴られています。「何をしても栄える」という言葉が実現した人の人生から、情報を得ることができます。聖書は私たちが生きるためのマニュアルです。祝福を受けた人の人生を通して、祝福の秘訣を読みとらなくてはなりません。
 特に、私は「イサク」という人物に目が留まりました。イサクは祝福を受けた人です。何をしてもうまくいきました。創世記二十六章十二節から十三節に、

『イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。』

と書かれています。彼は一年に百倍の祝福を受けたのです。「イサク」というところに、自分の名前を入れてみたらどうでしょうか。「滝元順は、その地に種をまき、その年に百倍の収穫を見た。」となります。自分の名前を入れて見て下さい。自分が聖書の中に入ったら、御言葉はさらに祝福となります。
 イサクは、周りの人達が何をやってもうまくいかなかった時代に、「何をしてもうまく」いきました。創世記の二十六章をよく読むと、それがわかります。周りが全くうまく行かなかった時代に、彼だけが祝福されました。現代は、何をやってもうまくいかない時代ですが、何をしてもうまくいく原則がここにあります。それは霊的な原則ですから、現代にも共通するものです。
 第一原因は、創世記二十六章一節から二節に、

『さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。』

 イサクが祝福された第一の理由は、神の声をいつも聞いていた事でした。当時、飢饉がありました。ゲラルという地一帯に飢饉があり、そんなところに住んだら、大変なことになってしまうと彼は考えました。それで当時の大国、エジプトへの移住を考えたのでしょう。しかし、神はイサクに「あなたはエジプトに行ってはいけない。この地、ゲラルに住みなさい」と飢饉の真っ直中に住むように語られました。神の声を聞きました。そして彼は、神の声に聞き従いました。
 私たちも神の声を常に聞くべきです。先週、天がひらかれると「預言的に生きる」ことができると話しました。天がひらかれる時に、預言的に神が私たちの生活を導いて下さるのです。神の声によって人生が導かれるのです。イサクは正に、神の声に聞き従って生きた人でした。
 第二に、彼が何をしてもうまくいった秘訣は、二十六章三節から五節に書かれています。

『あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」』

 イサクの父の名はアブラハムでした。イサクが栄えた原因は、父アブラハムが神の声に従って、神のみこころの中に歩んでいたためでした。その結果として、イサクは祝福されたのです。
 神を信じた者の責任は大きいのです。皆さんが神を信じ、神に従っていくときに、何と、その祝福が自分に与えられるだけではなく、次の世代にも受け継がれるのです。
 ということは、神の祝福がどこにもたらされるのかというと、「家系の中に現される」ということです。
 初代のクリスチャンは、ある意味で戦いが多いのですが、頑張って下さい。そうしたら、次の世代も祝福されます。イサクが祝福されたのは、他でもなく、父親が神に従った結果でした。アブラハムは色々な戦いがあっても、真剣に神に従いました。ゆえに神は、「イサクを祝福しないわけにはいけない。」と語られたのです。
 今日、あなたが神を信じ、神に従っているのは、子どもたち、孫、曾孫にまで影響を与える大きなことです。
 家系を見ると、逆の結果も成り立ちます。父親が問題を持っていると、子どもにも問題が起きています。また、おじいさんが問題を持っていると、孫も問題を受け継いで滅茶苦茶になっている事も多いのです。
 私は滝元家に生まれましたが、滝元家を三代、四代というスパンで見ると、それは決して祝福されて来たとは言えません。ひどい事件が、多く起こっています。あのまま両親がクリスチャンにならなかったら、私の人生は滅茶苦茶だったかも知れません。皆さんの人生も、家系を調べてみたらどうでしょうか。案外、父の祝福が子に委ねられている人は少なく、破壊されている家系の方が多いようです。
 私は「霊的戦い」という分野で働いていますが、その中で分かることは、サタンが温床とし、隠れているのが家系だと言うことです。
 午後から、霊的戦いセミナーを行いますが、その学びを通して、皆さんの人生が変えられたら素晴らしいです。悪魔は、家系を捕らえます。しかし、イエス・キリストを信じる時に、家系が解放されるとは、なんと素晴らしい事でしょうか。
 アブラハムの家系を見るときに、祝福を受け継いでいますが、反面、呪いのようなものも受け継いでいることを発見できます。
 実は、先週、ある兄弟との交わりの中で、この事に気づかされました。「アブラハムの家系の中では、同じような事件が起こっていますね」と言われ、本当にそうだと私も気づきました。創世記二十章一節から三節に、

『アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」』

 アブラハムがゲラルに来たときに、周りは神を信じていない人ばかりでした。それで彼は恐れました。「もしかしたら、殺されてしまうかも知れない・・。」彼の妻、サラはとても美人だったので、彼女を奪うために自分を殺すのではないかと恐れ、アブラハムは妻サラを「妹」と紹介しました。そこでアビメレク王はサラを召し入れたのです。
 もしも、ここにおられるご夫婦で、いのちが危険にさらされた時に、奥さんを渡せば主人のいのちが助かるような状況の中で、「これは私の妻ではありません。妹です」とご主人が妻を紹介したら、どうでしようか。
 アブラハムは信仰の勇士のように書かれていますが、結構いい加減なところもあり、自分のいのちが助かりたいために、妻を「妹です」と紹介しています。それでサラは、王様にとられてしまいした。しかし、アブラハムとサラに神の計画があったので、アビメレクに神が夢の中で現れ、とどめられたのです。
 さて、息子イサクが同じ、ゲラルに来たときにことが二十六章に記されています。父はかつて、ここで自分の奥さんを妹だと紹介し嘘をつきました。そして二十六章六節から七節を見ると、

『イサクがゲラルに住んでいるとき、その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です。」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。』

と書かれています。イサクの妻、リベカは美しかったのです。イサクは妻リベカを連れて、ゲラルに住みました。ゲラル人が彼のいのちを狙うように見えました。そこでイサクは、妻リベカを妻だとは紹介せず、「私の妹です」と紹介し、親と同じうそをつきました。どこで習ったのかは知りませんが、嘘つきの流れが、アブラハムの家系にはありました。
 さて、アブラハム・イサクの次には、ヤコブとエサウが生まれました。ヤコブとエサウは祝福の奪い合いをしました。その中でまた、ヤコブが嘘をつきました。ヤコブとエサウは双子で、ヤコブは次男でしたが、お父さんが目が見えないことを利用して、ヤコブはエサウになりすまし、嘘をつき、長男の祝福を奪いました。何しろ、アブラハムの家系に流れていたのは、偽りでした。
 私たちもここから学ばなくてはならないのです。父親が嘘つきだと、子どもも嘘つきになり、また、孫も嘘つきになり、ずっと嘘つきの家系になってしまうのです。
 先日、北海道で奉仕すると、二人の女の子が来て泣いていました。「私のお父さんとお母さんが離婚したから悲しい。私は絶対に離婚しない」と言っていました。しかし案外、離婚した家系の子が離婚しているのです。これは自分の力ではなく、家系の中に霊的プレッシャーがあるのです。神様は、そのような呪いを、祝福に変えて下さるお方です。
 皆さんの過去に、どのようなことがあっても、全部取り返して下さり、祝福に変えて下さるのです。
 イサクは、嘘つきということ以外は祝福をも受けました。私たちも家系の中に祝福がもたらされることを、祈りたいと思います。「あの家系は何をやっても栄えている」というようになりたいと思います。

 更にイサクの人生から学ぶと、二十六章十五節から十六節に、

『それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」』

 イサクは飢饉の真っ直中で、アビメレクから追い出されてしまいました。そして父親の井戸は埋められ、使えなくされてしまいました。十七節から、

『イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。』

 イサクには力がありましたが、争わず出て行きました。アビメレクの言葉に従って出て行きました。そして、もう一度、埋められた井戸を掘りました。すると、ゲラルの羊飼いが来て、「これは俺たちの井戸だ」と言い、井戸を奪いました。その時にもイサクは、ゲラルの羊飼いたちに、井戸をあげました。それでイサクは別の所に行き、また別の井戸を掘りました。しかし、また別の人が来て、イサクは井戸をとられました。しかし、彼は争いませんでした。そして二十六章二十二節に、

『イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」』

 彼の祝福された秘訣は、彼が「平和を愛した」というところにあります。「なんて不条理なことだろうか、これに関しては断固戦ってやる!」とエキサイトするような時があるかも知れません。しかし、イサクが祝福された条件は、平和を愛したことでした。彼には力がありました。戦えば勝利できる力がありました。しかし彼は争いを好みませんでした。平和の人だったというところに、栄えた秘訣がありました。
 二十六章をずっと読んでいくと、やがてアビメレクは、イサクが神によって祝福されていることを認めるのです。アビメレクの方からやってきて、「あなたが神によって祝福されているのがわかりました。私と契約を結んで下さい」と和解が申し込まれた、と書かれています。
 そんな中、また新しい井戸が掘りあてられ、その地がベエル・シェバと呼ばれるようになった、と二十六章には書かれています。
 彼が何をしても栄えた秘訣は、「平和を作り出す人」であったということです。『平和を作り出す人は神の子と呼ばれる』とマタイの福音書五章九節にありますが、私たちも平和を愛する者になりたいです。
 時々、不条理なことで苦しむことがあるかも知れませんが、主の御手に任せて、平和を愛する者になっていきたいと願います。私たちは背後の悪霊に対しては厳しく、人に対しては平和を愛する者にならなくてはならないのです。イサクのようなライフ・スタイルにしていただきたいと思います。

 「水のほとりの木は決して枯れることがない」と書かれています。聖書解釈に、「初回言及の原理」というのがあります。最初に「水」が出てきて、最終的に水とは何を物語っているかに着目すると、それは「聖霊」であるのがわかります。ヨハネの福音書七章三十七節に、

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』

と書かれています。水は御霊であり、聖霊であると教えています。詩篇一篇に、

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

と書かれています。聖霊の流れのほとりに植わっている人は、「何をしても栄える」と教えています。常に、聖霊の流れの側の人でありたいと願います。
 クリスチャンでも、聖霊の流れのほとりに植わっている人と、少しそこから離れている人があると思います。同じクリスチャンですが、聖霊の流れの川のほとりに立っているならば違います。成長が違います。時が来ると実がなるのです。皆さんの人生に、時が来ると実がなり、その葉は決して枯れることがないのです。
 「あの人は何をしても栄えている。あの人には神の川が流れている」と、他の人が認めるような素晴らしい人生になるよう、祈りたいと思います。
 悪魔は流れの中に色々な異物を入れます。聖い流れではなく、汚れた流れを流します。または、源流をつかみます。そのことに関しては、午後のセミナーで学びます。そこで、何をしても栄える者となるように、源流を回復していたくけるよう、お祈りしたいと思います。
 私の代からは、呪いではなく、祝福が流れ出しますように、今まで家系に流れていた、全ての呪いが打ち破られ、祝福と変えられますようにと、祈りましょう。
 また、私たちが主の教えを基準として、どんなに世の中の基準が変わっても、私たちが主の教えを基準として生活できるよう、お祈りしたいと思います。

バックナンバー

戻る
戻る