今週の礼拝メッセージ
2002.7.21(SUN)
天野弘昌先生 特別講演記録
〜これだ!これだ!〜
草加神召キリスト教会 天野弘昌牧師

新約聖書 ヨハネの福音書5章1節〜9節
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

 私は埼玉県の田舎の草加市から来ました。私の牧会している教会に、この教会からも先生方が来て下さいました。そして今朝は、この教会と一緒で嬉しく思いながら、ここに立っています。この教会に来られている皆さんは幸せです。神の御言葉がそのまま解き明かされ、御言葉に書かれている事柄が、この時代の中に現実に起こっていることは素晴らしいです。これはドラマや映画よりも劇的なことです。
 私の牧会している教会には、海外からの方々も集まっています。ブラジル人、フィリピン人、そして、多くの世界の人々が集まっている場所には、世界で起きている主の御わざが同じように起きるのです。あらゆる問題や病が癒され、私たちが想像できないことが、私たちの教会に集っている人々を通して起こっています。死人が三人もよみがえりました。もちろん、それは人の力やわざではありません。それがあたかも、人間が手を置いて祈り、人が起こしたように思いますが、違います。今賛美され、いつも祈られている、主イエス様の御名によって祈るときに、そのような御わざが起こるのです。信じますか。アーメン!
 この教会にもそのような御わざが起こり、また多くの人が病から癒され、暗闇の力から解き放たれ、自由になっています。何と幸いでしょう。神の国が降りてきて、この地上にいながら天国を味わうことができることに興奮し、驚きます。
 私が初めて新城教会に来たとき、ここはカントリーサイドだと思いました。しかし、その中にこれだけの教会が建てられているのは何故でしょうか。滝元先生を初めとする涙の祈り、そして霊的戦いを通してこのようなことが起こってきたと信じます。その後、後継者として順先生を初めとする多くの方を通し、この地に、日本中に起こされている事柄は、歴史上見い出すことができないものです。素晴らしいです。この教会を通して、津波のように、日本全国にこのようなことが起こされていることを知っていますか。
 今日初めて来られた方は驚かれるかも知れませんが、この教会は素晴らしいです。主にあって誇るべきことです。皆さんに祝福が豊かに与えられるように、御言葉を取り次ぎたいと思います。
 今日は、「これだ!これだ!」というタイトルで話したいと思います。教会とはどういう場所か、ということについて話したいと思います。このタイトルを付けるに当たり、今までのタイトルを思い起こしました。はじめは、「なんじゃこりゃ」というタイトルをつけました。「太陽にほえろ」で撃たれるときに、「なんじゃこりゃ」という言葉がありました。そこから取りました。このタイトルに沿って、神様の御わざはそれほどに驚くことで、病が癒され、死人が生き返るようなものだと宮崎の教会で話しました。するとそこの教会の牧師婦人が、私にひそかに美味しそうなものを出しました。それは大福でした。私は大福を食べた後、口から出た言葉は、「なんじゃこりゃ」でした。その饅頭は「なんじゃこりゃ饅頭」でした。「なんじゃこりゃ」というタイトルも、聖書を信じる人にとってはすごいことです。
 また、私は明石家さんまが大好きです。彼の速い回転にあこがれを持っています。そして彼の言葉を借りて「意味な〜いじゃん」というタイトルをつけました。教会を知らないで生きる人生って、「意味ないじゃーん!」
 私たちが生まれて与えられたいのちを、自分のことにだけ自分の欲望のためにだけに燃焼して、終わってしまうような人生って意味がないのです。私たちが生きる目的は、神を喜ぶことであり、同時に神様の栄光を現すことです。だから、私たちが本当の意味のタイトルを付けると「意味あるじゃん」です。
 私は「学校に行こう」というテレビ番組が好きで、その番組では、中学生たちが屋上に上って主張します。その中で私が大好きなのは、
 「最近の僕のお母さんは(イェーイ!)、美人湯が大好きです!(どうして?)お母さ〜ん、いつになったら美人になるの〜???」
 お母さんは美人湯に浸かっていながら、子どもの目から見て美人になっていないのでその美人湯は、「意味ないじゃん。」というわけです。私は皆さんに伝えたいことは、明石家さんまや太陽にほえろではなく、これから話すことです。
 教会とは単に結婚式をする場所ではありません。よく宣教師が、「あなたは スコヤカナ時も ヤメル時も コレヲ愛し コレヲ慰め コレヲ永遠に愛することを チカイマスカ?」と言います。私の教会の外人牧師は、日本語ができるのに、わざとこのように言います。すると花嫁が感動して泣くのです。何れにしても、結婚式だけの教会ではありません。結婚式は大切です。キリストの花嫁として教会が迎えられる、そのために結婚はしっかりときよめられなければなりません。しかし教会は、結婚式だけではありません。同時にクリスマスだけでもありません。この教会でも、大きなホールを借りてクリスマスをすると言われましたが、私の教会でも一三〇〇人のホールを借りて、二日間クワイヤーによるコンサートを企画しています。クリスマスの時にだけ、教会に来るというのも意味のないことです。本当は、毎日の生活の中で、教会は開かれ、聖書の素晴らしい出来事が展開されていく、それが、皆さんが経験されていくものだと思います。その一番の原型が、今日開かれた聖書の記事です。
 ベテスダという池があります。それを当時の伝説と訳す人もありますが、私は信じます。この御言葉通りのことが起こったのです。その場所は、四節の注解に、「主の使いが時々、この池に降りてきて水を動かし、水が動かされた後で最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである」と書かれています。劇的な、初めの教会に思えるベテスダは、「神の恵みの家」と訳されます。その場所においては、毎日のように人が集まって、神の天使が降るのを待ち望み、水が動かされた時に入るとその人は癒される、私はこのことが今日の教会においても今、現実に起こっていることを知ります。世界の各教会では、本来、病気ということについてある聖書学者によると、「弱さ」と訳しています。完全な者、弱い者として造られた人間が、いつの間にか罪に染まり、罪を指摘するサタン・悪魔によって身体が弱くされていくのです。だからはじめは、誰一人、病気・弱さを持っている人はいないと思います。この中で一つも病気をしたことがない、という方がいますか。たぶんいないと思います。すなわち罪あるサタンの支配的な中に生きている私たちは、必ず病気や弱さにいつも陥れられます。
 しかし、ここにすごいことが書かれています。それは三十八年も病んでいた男がいたのです。三十八年に、皆さんの年を足して下さい。何才まで病気だったかがわかると思います。例えば、五十才の人は八十八才まで病気ということです。また六十才だったら、九十八才までです。辛いと思います。どんな状況でしょうか。三十八年は、一年を三六五日とすると、一三八七〇日です。すなわち、一週間に一回、ベテスダの池にトライしたとしても、彼はほぼ二千回はトライしたことになります。しかし彼は、飛び込もうとしたのですが、できませんでした。イエス・キリストは、自分の弱さや病が、絶対に直らない、癒されない、無理だ、不可能だと思う、その人の前に訪れます。
 今皆さんの内側に、主が語りかけられていると信じます。イエス・キリストは、第一声で、ヨハネの福音書五章六節に、『良くなりたいですか』と尋ねています。そう問われた人が何と答えかというと、「主よ。私には・・・・」と言っています。ここが人間の問題です。改善されない、癒されない、何の変化もない、人生こんなもんだ、もうこれで終わりだ、おしまいだと。
 「良くなりたいか」と神様が言われます。皆さんの経済的な問題、人間関係、様々なトラブルは、この地上がサタンの支配にある関係で、いつも問題があります。しかし、この男と同じような私たちを、見るのではないでしょうか。この男は、「主よ、私には水がかき回されるときに、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです。」
 これは自分がそうできない、そうならない理由や言い訳として、イエス様に言ったのでしょうか。おそらく、多くの人がこの問題に捕らわれています。第一番目はこれです。「否定的な言葉に捕らえられている」、またもう一つは、「人に依存している」、そして「将来に対して希望を持つことができない」
 前もって、今の段階で将来を否定しています。もう駄目だ。今駄目だから、明日も駄目、来年も、もうずっと駄目。皆さんの内側に、そのような響きがありませんか。
 私はそういう人間でした。昔はこのような話し方をしませんでした。「・・愛する皆さん。今日は、聖書の講解説教ですが、ヨハネ五章七節、これはギリシア語原典によると、こうです。そして皆さんの信仰生活の中で、こう適応するべきだと思います・・。」
 私は、そんな牧師で、ほとんどの人が説教中寝ていました。それは安息日ですので、否定することができません。私の教会の多くの兄弟姉妹は、聖歌、賛美歌を歌っている時点から寝ているようでした。この教会は元気良く、立ち上がって賛美されています。それは効果的です。私たちの内側に喜びが溢れ出ます。私の教会も最近そうです。私の教会はリバイバルしていると言うだけではなく、ライブハウスのようだと言われる方もいます。皆さんにとってイエス様は、どのような方でしょうか。イエス様は常に皆さんに、希望を与えています。イエス様は、希望のメッセージをいつも語られています。悲しみや失望、落胆のメッセージを語っておられるとか、あるいは、失業のためにどうするべきかと語っているところは一ヶ所もありません。イエス様は、いつも希望のメッセージを与えています。将来と希望を与えています。この方が皆さんに「良くなりたいか」と言われます。人の言葉によって慰められ、励まされ、力づけるということがあるでしょう。しかし、人によっては、どんな励ましも、どんな慰めも、その人にとっては全然効果的ではない、それは単なる言葉で通り過ぎてしまうことがあります。
 私の兄は薬物で自殺をしました。親にとっては、最も期待している長男が命を絶ったということは失望、落胆の淵に追いやられたのです。人々は両親を慰め、励ましました。宗教の人たちもこうしなさい、ああしなさいと言いましたが、母の内側は何一つ変わりませんでした。三年間寝込みました。ノイローゼになり、薬の副作用でぶくぶく太り、自分の思考回路や感情パターンは滅茶苦茶になり、親とは思えないような状況になりました。
 しかし、希望を与えることができる真の癒し主、救い主なる方が私の家族に訪れ、一週間で、イエス様を信じて癒されました。そうできる方は、イエス・キリスト以外にありません。
 私のおじいさんは労働委員長をやり、中央労働委員会の委員長をし、NHKなどの講演会にいつも出演している人物でした。あるときおじいさんが、私の教会に珍しいことに来ました。孫の教会だからといって来てくれたのです。来たときはいつも私にメモを残していきます。「お前の講演会はここがこうで、ああだから・・・こうしなさい。」と書き渡すのです。そんなことが二年、三年と続きました。おじいちゃんだから許せたのです。私は心の中で、言いたかった。
 「講演の方法がどうであれ、語り方がどうであれ、聖書の語っているメッセージをおじいちゃんは受け取ってるの?」と思いました。しかし、そのことは言わずに、祈っていました。「聖書の中にある大事なメッセージを、おじいちゃん受け取らなかったら、滅びてしまうよ。私はおじいちゃんに対して、どんなに偉くて立派で、あちらこちらの講演会に招かれて、一度の講演で何百万円ともらっても、あなたのいのちは、永遠の滅びに落ちるよ」という焦りを持っていました。
 そんな中でイースターのメッセージで、復活について語りました。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さった。何一つ罪のない、全ての人類の罪を身代わりに負って下さり、頭にはいばらの冠がかぶせられ、十字架に釘づけられ、血を流し、肉を裂き、苦しんだ自己犠牲の愛を語りました。おじいちゃんは、表情を変えませんでした。しかし、おじいちゃんを捕らえられたメッセージが、一つだけありました。
 イエス・キリストは死んだ。そして墓に葬られた。しかし、三日目によみがえり、イエス・キリストの墓の中には骨がなくなり、空っぽだった。おじいちゃんはその「空っぽ」という言葉に捕らえられました。嘘だと思ったと思います。どんな宗教学者も、どんな偉人も墓の中にも、骨のない奴などいない。骨が風化してどっかに行ってしまったり、この世の中に無縁仏になって、どこかに行ってしまうことはあるけれど、骨がないなんて・・・。おじいちゃんの言葉は、「なんじゃこりゃ」でした。おじいちゃんは、その復活のメッセージ「空っぽ」に捕らえられて、「この方は人ではない、神の子キリストだ。」
 彼は信仰を告白し、洗礼を受けました。どんなに頑なで、賢くても、自分の知的なものが障害となって御言葉の真理を、受け取ることができない人が主イエス様に触れられ、聖霊に触れられるときに変わります。おじいちゃんは、その後、あらゆる所に講演に行くときに、キリストの話をします。問題もありましたが、大胆に語るのです。「呼びたくないなら、呼ばなかったら良い。俺のメッセージは今までとは違う。聖書の生きた真のメッセージだ」と言って語っていました。
 その時から、私はおじいちゃんの講演会に出る度に、おじいちゃんにメモ書きを渡すようにしました。何れにしても、今おじいちゃんとおばあちゃんが、手を取り合って仲良く教会に行くようになりました。
 今日こんな方が皆さんの前におられます。あなたの心の扉に、ノックしています。イエス様は、皆さんを愛してます。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」失望に終わらせることがない方です。死をよみがえらせる力、無から有を生み出すことができる方。人にはできないが、神にはどんなことでもできるのです。すごい方です。そんな方を前にして、この三十八年病んでいる人が、色々と言い訳をつけています。
 今日、同じように言いたい方は、三十八年間病んでいる人と同じになってしまうので、今日からやめて下さい。それはどういうことかと言うと、この人は、まず人に依存していました。自分の人生を、「人が、人が・・・」と言っていました。ですから、聖書の記事にも、先程読んだように、五章七節に、池の中に私を入れてくれる人がいません。「行きかけると、もう他の人が先におり・・・」と、人が、人が・・・と言っています。皆さんの中に、目に見えないけれど、復活の主がおられるのに、そうではない、人物に依存している人はいませんか。聖書の中に、「鼻から息の出る者に頼ってはならない」と書かれています。頼ってはいけないのです。真の主が皆さんを愛し、救い出そう、皆さんを癒そう、皆さんに希望を与えよう、人生を変えよう、と言って下さいます。素晴らしい方です。この方があなたの所におられます。
 しかしもう一つ、否定論者はこう言っています。「自分が行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです。」「行きかけると」は未来形です。未来について、現在と過去の断定否定をしています。これが日本の教会や、クリスチャンにもあるのです。今までリバイバルが起きなかった。だからこれからも起きっこない。家族のために救いを祈って断食までした。徹夜までした。しかし、救われなかった。だからもう何をしても駄目だ。今まで結婚の問題で悩んでいた。しかし失敗した。だからもう将来、結婚はうまくいかない。夫婦の問題、家族の子どもたちの問題。すべてが未来を否定する方向へと断定してはいませんか。そこに問題があります。彼は目の前に、無から有を生み出す、死を打ち破り、墓を空っぽにし、復活の主がおられるのに、彼の頭や彼の心は、過去の全てに束縛されて、首根っこを捕まれて引きづられて行く、将来を呪うように、将来を否定しています。
 皆さんの中にそのような人がいますか。この問題から解放され、素晴らしくなった人が私の教会にいます。彼は、静岡県の出身の建設業の社長の養子だから仕方がないと言って静岡県に帰ることになりました。自信のない奥さんが社長でした。奥さんのお父さんもお母さんも社長でした。しかし、イエス・キリストの救いと希望が与えられたときに、彼は変わりました。奥さんが驚いて、「うちの主人はどうしたの。何が起こったの。」とイエス様に触れられ、自信のないコンプレックスの固まりのようなご主人が変えられ、男らしくなりました。会社をひっくり返すような、偶像を全て撤去して焼き払い、神の愛を持って事業を展開し、私の教会では最も神にささげる人になっています。
 この中で、経済的な問題を持っておられる方にも主は言われます。「もっと良くなりたいですか?」結婚の問題を持っておられる方、家族の問題、様々な問題があるでしょう。全部イエス・キリストは「良くなりたいか」と言っています。
 そのために、何を私たちは変えられる必要があるでしょう。それは何回も言っているように、未来を否定的に、現在や過去によって縛ってはいけません。目の前にいる方、主ご自身を見つめて、イエス・キリストを心にお迎えするのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とイエス様が語られます。主は水の上を歩くこともできる、嵐を瞬間的に静めることもできる方です。
 その時ペテロも言いました。「僕も水の上を歩きたい。」その時に彼も歩いたのです。「歩ける!」イエス様を見ていたペテロは歩くことができました。そのことは聖書に真理の言葉として、人間の人知を越えた科学で証明することのできないようなことが書かれています。しかし、無から有を生み出す、全能の神を知るならば、それもアーメンです。ペテロは歩きました。しかし、水が揺れ動き、風を見たので沈み始めました。「やっぱり私は人間だ・・・。」沈み始めました。その時、イエス・キリストは水の上で「信仰の薄い者。」イエス様は沈んでいくペテロを引き出します。イエス・キリストはそのような方です。皆さんがこの方に目を留め、受け入れるならば、あなたの人生は変えられます。私の人生がそうであったように、兄弟姉妹がそうであったように、今までに見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないような、素晴らしいことがあなたの人生に展開してほしいと思いませんか。皆さんに豊かな祝福が訪れるように祈りたいと思います。
 最近の新聞記事で心を痛めています。現代はイエス・キリスト知らないゆえに、色々な問題が起こっているということを思います。これは社会現象です。
 日本の現状はこうなっています。不景気と不況が重なり、失業率が五.二パーセントに及ぶと、四十代から六十代の自殺者が三万人を越えようとしている。それだけではなく、ビジネスマンの五分の一はうつ病だと言われています。都会に行きビジネスマンを見ると、目がうつろです。電車の中では彼氏・彼女に見せられないような寝方をしています。疲れているのです。今日本は何のために、また、どこに向かって進むかわからない時代に来ています。それだけではありません。二〇〇〇年は二十六万だった離婚件数が、二〇〇一年には二十八万人を越え、今三十万人に及ぼうとしています。家庭が崩壊している時代です。それだけではなく、青少年の犯罪は次々と激増しています。幼児虐待、性的虐待、またストーカー被害はあとを絶ちません。薬物中毒者は二百五十万人から増大しています。真の主に触れられるならば変えられるであろう、満たされるであろうという心の領域を、間違ってサタンがくれる薬に手を出し、人生が破壊されている人が三百万人を越えようとしています。また引きこもってしまい、家から出ることができない人たちがあまりに多いです。百二十万人から、百五十万人の人が引きこもってしまっています。八十パーセント以上は将来に希望を持っていないと言っています。今の私たち大人を見てつまずいているのでしょう。国立大学の教授でさえ、セクハラで捕まる時代、医者が信用できないほどにまで堕落している時代、どこに希望があるのでしょうか。
 私は皆さんに声を大にして言いたいです。それは聖書の記事の中の最も大いなる主役、地上ができる前から存在し、終わりまでおられる方、イエス・キリストによらなければこの現代の問題は解決できません。この方をこの朝、ぜひ知っていただきたい。
 私も銀行のニューヨークにいた時代、大変な世界にいました。当たり前のようにローレックスを付け、バーバリーのスーツを毎日のように替え、お金はあり余っていました。今思うと、とっておけば良かったと思います。瞬間的にドルと円の売買をしているだけで、何千万円というお金が入ってくるのです。トップのディーラーは、ヘッドハンティングで取られていきます。何千万と野球選手のような華やかなところにいました。しかしその中には多くの問題がありました。性的な問題、家庭の問題、麻薬中毒患者、支店長でさえそれにやられている、ホモセクシャルの人、彼らは物質的にこの世において地位や名誉やお金が豊かに与えられる中に、最も大切なものを失っていました。私はテロでビルに飛行機が突撃したのを見、多くの友が死んだとき、哀れみと同時に彼らに対する裁きかと思うほどの生活をしている人があまりにも多いのです。しかし、そんな中でクリスチャンもいたのです。自分のいのちを犠牲にして、多くの人々のために今は色々な本の中であかしされています。テロの事件時に、国会議事堂に向かっていた飛行機を押さえて、自分のいのちを犠牲にし、やがて生まれる子どもを持つ三人の父親が死んでいます。その結果、飛行機はピッツバーグの地に墜落し、国会議事堂が守られたという証。クリスチャンは時々、自分のいのちさえ惜しみなく与えることができる、力強い方がいると感謝しました。それだけではありません。そのビルの中で、八十三階にいた一人の人物が救出された記事があります。これを読んだときに、イエス・キリストを信じることはどんなに幸いだろう、と思いました。イエス・キリストは、皆さんといつも共にいてくださり、皆さんが苦しい時にはあなたを背負い、あなたを把握し、いつも抱き、あなたの人生の節目節目に、あらゆる所に伴ってくださるのです。永遠に変わらない無条件の愛を持って愛し、この世の友は裏切っても、私の主は決して失望に終わらせない、孤児にしない、イエス・キリストは決して見放さない方です。私はこの方に出会って変わりました。クリスチャンたちはこの方に出会って変わったのです。弱い物が強いと言われるようになった。そして人生はいつも天国を歩くように、神の国を前進するように使命感に燃えている。そんな人生を送りたいと思いませんか。タダで受けられるのです。難行苦行する必要はないのです。
 私の親戚は曹洞宗の坊主です。しかし、彼は肝臓ガンに侵され死の間際に彼は私を呼びました。「お前の信じている神はおれを救うことができるのか。」毎日経を唱え、人々のために経を上げている防さんが、死ぬ前に死ぬのが恐いと言って来ました。その時電話越しに、「おじさん、行っても良い?今祈りたいです。」と言って、神学生であった私は行きました。おじさんは「こんな立場だけども、お前が信じている神を信じることができるのか?」と聞きました。「おじさん、タダでできます。イエス様を迎えるだけで難行苦行もいらない。信じるだけで救われるのです。」と言いました。
 どうなったと思いますか。「おれはその神、イエスを信じる、心の中に迎えれば良いんだな。弘昌、祈ってくれ」と言うのです。私はおじさんの為に祈りました。肝臓ガンの末期で黄疸があり、瀕死の状態のおじさんの枕元で祈りました。彼はイエス・キリストを心の中に受け入れました。「おれの人生、今まで誤った宗教の中に身を投じていたけれども永遠の世界に入るんだなっ。」「おじさん、そうだよ。入るんだ」と言いました。彼は死の間際で「ハレルヤ!」と言って天に凱旋していきました。
 そんな宗教を越え、人類を越え、文化を越え、救い主として今も変わらなく愛され、今も生きておられる方、イエス・キリストが、今日、皆さんの生活の中に「良くなりたいか?」と言われます。一言お祈りしたいと思います。

 「神は、実に、そのひとりごをお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」
 この朝、無条件の愛を持って今日教会訪れて下さった方の心の扉に主は触れておられます。あなたの心の扉を叩いておられます。この方を受け入れる者、この方を信じた方のためには神は素晴らしい神の子としての特権を与えて下さいます。私の友人が死んだ世界貿易センターの八十三回に一人のクリスチャンwという人がいました。以前から彼はこのオフィスのためにクリスチャンとして祈るように主から示され、いつも早めに出勤し、心から魂の救いのために、堕落した魂の救いのために、堕落した横行した多くの従業員のために祈っていました。しかし昨年九月十一日の朝、出勤したときにいつもと違う物騒ぎがし、特に彼は祈り込んだ。そして仕事を始めるとすぐに大きな音がし、隣の第一ビルにジェット機が突っ込んだ。皆は大変なパニックになり、階段やエレベーターに殺到した。「この第二ビルは問題ない、戻れ」と言う全館放送があり、みんな渋々戻り、それから間もなくのことであった。その第二ビルにしかもw兄弟のいる八十三階にめがけてもう一機が突っ込んできたのである。とっさに机の下に隠れたw兄弟は周りを見ると、八十三階のフロアー全体が火の海で原形をとどめることがなかった。w兄弟は慌てて脱出しようとしたが出口が見当たらない。一気に煙が立ちこめ、「お前はこれまでか」と思ったときに、「ここから逃げよ、ここから逃げなさい」と一人の男が壁を指した。「ここは壁だぞっ。どうやって逃げるんだ。」w兄弟がそう言うと、その男は自分の剣でその壁を突き刺した。すると何と壁が大きな穴を開け、向こう側には消防隊員がいるのが見えた。消防隊員はどうやってこの壁を打ち破ったんだ。その隊員は信じられない顔つきをしていた。w兄弟は即座に階段を下り、ビルが崩壊する直前までに無事に地上に着くことができた。八十三階で生存して生存したと確認したとされた男はこのw兄弟だけであった。今主の救いのわざが世界各国に起こっています。聖書の終末預言によれば、もう間もなく、主がこの地上を閉じ、終わりの時代に多くの滅び行く魂にキリストは救いに導いていると各世界の教会が証ししています。何億という人がキリストを信じ、神の国、天国へのいのちの書に名を記されている、そんな素晴らしい体験をしている次第。ただ祈りの書簡に記される者だけではなく、この地上にこの男のように時には救い出され、癒され、解放され多くの祝福と恵みを受けるために主は今働き続けておられます。この時代にいかがでしょうか。あなたの人生の全てをあなたは見つめながら良くなりたいと思いませんか。何としてでもこの問題を何とかして欲しいと願いを持ったそのようなものがありませんか。一番大切なものは死に対してあなたは備えられていますか。あなたが死んだ後どこにいるのか確信を持って心から言うことができますか。永遠に変わらない聖書真理はもしイエスを信じるならば救われる、永遠のいのちが与えられる。しかし、そうでなければそうはならないと記されています。今日あなたに最高の最大のプレゼントが主によってささげられようとされています。あなたはそれを受け取るだけで良いのです。そうであるならば、あなたが永遠のいのちの書に名前が記され、この地上の傷害の中で恵みと祝福の豊かな人生を歩むことができるのです。そうなりたい。良くなりたいと思われる方、今その方を信じたい、祝福を祈って欲しいですと願われる方のためにお祈りします。あなたのために主はいのちを捨てられました。どんなに愛する人でもあなたのために十字架にかかるまでに命がけで愛し、あなたを守ってくれる人がいますか。人は裏切り、時に人は失望を与えます。傷つきます。しかし私はこの二十数年、高校三年生の時にイエスを心に迎えてから一度も裏切られたことがない。本当に信じて良かった。自分の人生は感謝に満ち、最高な人生です。私は神社と寺の中に生まれた者です。父は神社、母は寺。そんな中に主は来て下さり、私と私の家族も救われました。一方的な神の恵みです。心に信じただけで救われました。いかがでしょう。今この時がチャンスだと信じます。私も良くなりたい、心に迎えたいと言われる方のために祝福を祈りたいと思います。主の恵み、救いの時はここに備えられていますがいつ終わるかわからないと聖書は言っています。お祈りします。

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