今週の礼拝メッセージ
2002.7.28(SUN)
バラバラになるな!
新城教会 上條 実牧師

新約聖書 コリント人への手紙第一 12章14節〜27節
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 ハレルヤ!今日は「バラバラになるな!」というタイトルで学びます。昨日少しだけほさなクラブ(子ども集会)でこの御言葉について話しました。その後私の所に子どもたちが来て、「何をしている?」と聞くので、明日のメッセージタイトルを考えていると言うと、子どもたちが考えてあげると言って今日のタイトル「バラバラになるな!」とつけてくれました。先ほど読んでくださったみことばは教会について書かれてあります。教会はキリストが頭であり、私たちは各器官だと書いてあります。教会は目に見える建物ではなく、キリストが頭であり、ひとりひとりが各器官をになっているということです。私たちの神様は生きています。そして教会を通して神様は働いて下さいます。今日これから学んでいきたい事は、その教会が確かに生きているかを皆さんと確認したいと思います。この新城教会が生きたからだとなって勝利ある教会になって行かなくてはなりません。聖書の黙示録三章一節に、

『また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。』

と書かれています。先ほど言いましたように、教会はキリストが頭で私たちは各器官です。新城教会に神様は多くの恵みを与えて下さっています。現在三〇〇名近くの方が集まって礼拝をしています。神様は教会の中で素晴らしい祝福を与えて下さっています。また一人一人の生活の中にも確かに神様が生きておられるとがわかるよう祝福を与え続けてくださっています。しかし今回私がこのメッセージのために祈っている中で黙示録三章一節の御言葉が心に響きました。

『また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。』

今まで祝福をいただいてはいるが、私たちの教会は本当に生きているだろうか。霊的戦いを一生懸命し、地域の祝福、人々の祝福のために祈って来たが、まだ祈っても一向に祈りが答えられずに終わってしまっている時が沢山あります。今日あなたは生きているとされているが、実は死んでいるという御言葉、私たちの新城教会が生きているようで実は死んでいるのではないかと考えさせられました。何か人間の形をしているよで、マネキンのように動けない所があるのではないかと思います。私たちの神様は全能なる神様です。確かに今も生きて働いて下さいます。私たちの祈りは絶対に答えられます。しかし、なぜかまだ答えられていない祈り、現実の中で大きな問題があります。霊的戦いをし、一生懸命祈っています。しかしまだ解決されていない現実があります。この霊的戦いの中で勝利が見える教会。すべての人々が教会を見たときに、この教会の神様は本物だとわかるような教会になって行かなくてはならないと思います。神様が生きているにも関わらず、実は死んでいるようなサルデスの教会のように、生きているようで死んでしまっている私たちの教会を覚えなければなりません。主イエス様にあって私たちが一つになることができるように、キリストが頭で私たちは各器官である生きた教会。生きたクリスチャンになっていきたいと思います。教会が一つになり、バラバラにならないようにしなくてはいけません。第一コリント十二章二十五節から二十七節に、

『それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

と書かれています。今日私がこの御言葉を語るに当たってこの教会が更に一つになっていくためにはどうしたら良いですかと祈りました。互いに愛し合い、互いのために祈り合っていることは確かです。そんな中で特別神が語って下さった事は『分裂がなく、各部分が互いにいたわり合う。』というこの御言葉でした。この教会に霊的戦いを開いて下さり、霊的戦いの中で十年間経ちました。神様が多くの勝利を与え、またリバイバルの下準備をさせていただきました。祈りが進んできていますが更にこの時、皆が一つになり、分裂せず、互いにいたわり合っていくということを学んで行きたいと思います。その時必ずこの教会に大きな勝利が与えられていくことを覚えましょう。そのような中で今日私たちが何をしていくべきか。私たちはどのように立ち向かって行くべきかを覚えて行かなくてはなりません。
 それはまず第一に自分を知ることだと思います。自分が教会の中でどのようなポジションにいるかを知らない限り、自分がどのように神様のために働いていけばいいのかわかりません。自分が良いと思って教会生活や兄弟姉妹とのつき合いを行っている中で、ある面で逆効果の時があります。自分は良い事だと思っても、知らない内に分裂になり、妨げになってしまっていることがあると思います。先週の日曜日の礼拝中に一つのショックなことがありました。私は子どもたちと一緒に座っていますが、集会中に子どもに言われたことで、すごいむかついて、怒りがわいてくるような事がありました。それはその子どもに静かに!と注意した時に、下から私を眺めて子どもが「鼻、ドでっかい」と言われたのです。私は鼻が大きい事が昔からのコンプレックスでした。いつも気になっていました。その事を子どもに言われて、静かにしなさいと言いながらも、気分はむかついていました。そこにも小さな分裂があります。むこうは単純に、見たまま言ったことが、私にとっては大きな怒りになってしまう事があります。今日覚えて下さい。指に小さな傷ができたときに痛いのでその傷に集中します。色々な処置をします。しかし教会は口には出さなくても人の言った言葉で傷ついています。そしてその傷を癒さないのです。処置をしないでそのままにしています。その為膿んできてしまいます。傷だらけの器官です。更に私たちはあの人のようになりたいと希望を持ちます。また目標となる人の真似を良くします。申賢均師がメッセージの途中で途中賛美をします。私も賛美しようかなあと思ったことがあります。しかし緊張すると音も外れるし、何を歌っているかわからなくなります。昔、独唱して下さいと言われたときに、聖歌のなかから「人生の海の嵐に」を賛美したときがあります。折り返しの部分で、いと静かきと歌うところを、いとしの所をちと歌ってしまいいとチーズケーキと歌詩がなってしまい、大笑いになってしまいました。その時以来もう絶対に人の前で歌いたくはないと思っていますが、申先生のように、歌ってみようかなと思ったことがあります。しかし、真似はできません。私はメッセージだけで精一杯でメッセージの中で歌うことはできません。また順牧師が霊的な素晴らしい御言葉を取り次ぎますが、自分も先生の真似をして一生懸命語ろうとしても絶対に無理です。また明牧師が語るように語ろうと思っても語ることができません。順牧師や明牧師のように力もないし聖さもないと思います。顔では色々な人が上條は「岸義弘先生ににていますね」と言われます。先週家庭集会では「ジャッキーチェーンに似ていますね」とも言われました。しかし似ていたとしても自分は自分です。何か私たちはあの人のようになりたいと思い、一生懸命努力しますが、その人にはなれません。追いつきません。越す事ができません。その目標が崩れていくとき、自分は駄目だとあきらめで不信仰となり、駄目だったと傷になってしまいます。神様はあの人を用いられたが自分は用いる事はしなかった。駄目だ、自分はできないと知らないうちに自分は駄目、何をしてもできないと思ってしまいます。先週の日曜日に天野先生が面白く御言葉を解き明かして下さいました。いつもは騒がしい子どもも静かに御言葉に聞き入っていました。昨日ある子が、「明日上條先生も、天野先生みたいに話してよ。そうしたら静かにしているで・・。」というのです。天野先生の時は子どもたちは食い入るように静かに聞いていました。しかし自分はそんなキャラクターではないし、知恵もないし自分は駄目だ、天野先生のようには話せないと言いました。先週天野先生が素晴らしくまたハイテンションでお話しくださったので、今週ここに立つのも立ちにくいような感じがし、メッセージもやりにくいと思いました。天野先生があんなに元気にやったのに次は、「皆さんこんにちは。」と暗く語る私。天と地の差がありメッセージしにくいと思いました。あんな賜物があったら良いと思いますが、自分にはできません。そんな中でもう一度神様がキリストが頭で私たちが各器官だと教えられました。そして自分に神様が教えて下さったことは、お前はお前だ。だからお前が今示されているものを語れば良い。お前の性格も神様が与えたのだ。だからお前はお前の通りで語れば良い。決して背伸びをし、いかに立派に見せようと思いますが、結局最後には疲れてしまい、墓穴を掘ってしまい、恥をかき、神の働きをストップさせてしまいます。だから自分は自分で良い。人と比べるのではなく、今の自分のポジションを神様のために精一杯用いていただければ良いということを教えられました。今日、私は神様から示されたことを語ろうと思ってここに立たせていただいています。背伸びをしているうちにバランスを欠き、倒れてしまいます。ただあなたが神様から示されていることを第一歩歩き始める時自分のポジションを知る事ができます。いつも自分が気になっている人、また生活の中でいつも思い浮かぶ人はいませんか。神があなたの心にそのように教えているのです。人のためにあなたが一歩前に出てみて下さい。その人のために祈り始め、その人の救いのために、癒しのために、解放のために手を差し伸べてあげて下さい。ある人はもっと祈りなさい。ある人はこの人に伝道しなさいと語っているかも知れません。あなたが正直にあなたの心に示されていることを一歩やり始めていく時、勝利が始まります。二十一節には、

『そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。』

と書かれています。皆が目ばかりだったら気持ちが悪いと思います。すべての器官があって体になっています。ですからあなたはあなたのポジションがあります。あなたが今日愛されていて、救われていることは確かです。あなたを新城教会に導かれたということは、あなたが新城教会に必要だったからです。いつまでもお客さん気分ではなく、あなたのポジションを覚えて動き始める時、各器官は順調に動き始めます。あなたというポジションが動き始める時、分裂がなく、愛し合っていくことができることを覚えて下さい。
 第二番目に、知らないうちに心の中で裁きあっていることがあると思います。愛し合いましょう、一つになっていきましょうということは御言葉で教えられています。だから人に言われたことでカッと来ても、表面的にはさばきはしません。しかし心の中ではちがいます。人間関係を崩してはいけないと思うので表面的には愛し合っているふりをしますが、心は煮えくりかえっています。ぜひ、覚えて下さい。表面的にさばいてあの人はと言うのも問題ですが、心の中で裁き、あの人は嫌、あの人と交わりたくないという思いがあったら今日神の前に悔い改めていきたいと思います。話しにくいとか、気が合わないとか色々な理由で交わりが持てないところがあるかも知れません。しかし心の中でもさばく事がないようにしましょう。聖書の中に隣人を自分自身のように愛せよとあります。自分と同じように愛し合って下さい。また私たちが罪を言い表すならば、神は真実で正しい方ですからその罪を赦してくださると書かれています。この後で聖餐をいただきますが、教会の中でさばき合い、表面的にうまく付き合っているようでも、さばきあう心があったら悔い改めましょう。礼拝後の交わりの時にもいつも同じ場所に座り、同じ人と交わっています。同じ教会のからだにあるにも関わらず、この教会で一度も話したことがない方がおられるかも知れません。本当に私たちの手や足、指で考えると、指は十本ありますが一本を失ったらどんなに痛く、苦しく大変なことでしょうか。日吉伸也兄が手に傷をしていましたが、包帯を巻いていても痛々しくて、傷を見せてもらった時には人の傷ですが背中がぞくっとするような気持ちがしました。もし自分だったらどうなってしまうのだろうかと思うくらいです。交わりも同じです。私たちは各器官です。私たちが壁を作ってさばき合っているところから亀裂が入り、分裂が始まります。霊的なからだは鈍感で鈍いのでその痛みがわかりづらいのですが、私たちの器官は大きな痛みを持って傷を持って苦しんでいることを覚えて下さい。今日ぜひ、兄弟姉妹が互いに愛し合い、互いに意識していなかった兄姉のために祈り初めて下さい。その時にリバイバル、素晴らしい勝利が進んでいくことを覚えて下さい。
 また最後にもう一つ教えられていることは無関心、いたわり合うと言うことです。知らないうちにいたわりあいがなくなっています。今日、キリストの体には傷があり痛んでいます。また多くの兄弟姉妹が病気をもって苦しんでいます。聖書の中に隣人を自分自身のように愛しなさいとありますが、隣に座っている方、近くにいる方がどんな病気を持って毎日苦しんでいるかご存知でしょうか。幸いにして私は祈る立場にあり、色々な方の病気について聞いているので祈っていますがまだまだ知らない人がいるかも知れません。また隣に座っている方がどんなに苦しんでいるか、問題をもっているのか、傷を持っているのか知れません。苦しんで引きずっているにも関わらず、あの人は元気がない、駄目だよね。元気を出さないと・・・とすぐにさばき合ってしまったり、私たちは上から見てその人を見下し、いたわり合いがない、本当に無関心なのです。私たちは隣人に関心を持つことができないでいます。今日私たちは自分のことで精一杯という方がいるかと思いますが、今日自分のことで精一杯の方でもあなたの隣にいる方のために祈り初めて下さい。一歩前に進んで誰かのために関心を持って下さい。関心を持ち始めるときキリストの体が動き始めます。では隣人のためにどうしたら良いのでしょうか?私たちは祈ることができます。兄弟姉妹のためにいたわり合うための最高の武器は祈りだと思います。お互いのために祈って下さい。祈り始めたとき、私たちの中に素晴らしい祝福があるということを今日覚えて下さい。
 今日、キリストが頭で私たちは各器官であるという意識がないために日曜日礼拝だけに集まれば良い。神の家族という意識がない。これでは駄目です。主は教会を通して働いて下さいます。互いに無関心ではなく、いたわり合い、愛し合い、接していく時にこの体は実は死んでいたというのではなく、生きたからだとなって動き始めます。そして勝利をいただき、全能の神がその生きたところに働いて下さると信じます。今日ぜひあなたのポジションをしっかりと見極め、そしてさばく事をせず、無関心を改めて、生きたキリストの体となるよう祈っていきましょう。キリストのからだのことを全く考えていなかったところを主の前に悔い改めて互いのためにいたわり合っていきましょう。そのような中で主が働いて下さり、決して今までの霊的な戦いが無駄にならず、神様が暗闇の力を打ち砕かれてリバイバルを進めてくださるよう期待しましょう。マネキン状態から生きたキリストの体となりましょう。今日あなたが一歩今まで足らなかったところを一つ始めてみて下さい。そこから恵みが流れてきます。よく小さい頃、手首を握って血を交わせないようにする遊びをしたことがありました。(決して真似をしないでください。)すると血が通わず感覚がなくなってきます。感覚がなくなった頃にパッと手を離すとジワーっと血が通る遊びをしました。マネキン状態では、血が通わずにいました。マネキンは叩かれても動けない、傷つけられても何も動くことができなかったものですが、今日一致しましょう。そうしたら血が通わなかったところに血が通うようになり、感覚がわかるようになります。キリストの体として意識し始めると痛みがわかってきます。全能の神、何でもできる方がこの教会を通して素晴らしい栄光を現して下さることを信じます。今日一つになること、あなたが各器官であることをしっかりと覚えて下さい。お祈りします。

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