今週の礼拝メッセージ
2002.8.4(SUN)
あなたもあなたの家族も救われます
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 使徒の働き16章31節
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 ハレルヤ!今日このように皆さんとともに、礼拝が守れることを感謝します。現在、「関西40DAYS」という集会がもたれていますが、そのテーマがこの御言葉です。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」このテーマを主が、特に私たちに語られているとして、受け取っていきたいと願います。
 さて、私たちが忙しい仕事から解放され、毎日曜日、少しの時間、主の前に出て礼拝できることは素晴らしいことです。日本人は忙しい人種で有名です。歩く速度を研究してみると、日本人が世界で最速だそうです。その中でも大阪人が一番早いそうで、秒速一.六メートルだそうです。東京の人は少し遅く、秒速一.五メートル、ニューヨークは一.四八メートル、パリは一.四六メートルだそうです。日本人は相当早く歩いているようです。忙しいという字は心が滅びると書きますが、日本人は神様のことを考えないし、心についてあまりケアーをしないので問題が増えています。このように毎週集まって神の御言葉を聞き、心から神を礼拝できることは素晴らしい特権です。
 同時に、永遠のいのちが与えられるとは何と素晴らしい特権でしょうか。私たちはこの地上で終わりではありません。イエス・キリストを信じたら、やがて神の国・天国に行き、永遠に過ごすことができます。今日皆さんの両横に座っておられる方々は、一生を共に過ごす仲間です。ですから、教会に来たら仲良くして下さい。永遠に良い関係であるべきです。「永遠によろしくお願いします」と挨拶しあって下さい。心からイエス・キリストの名をほめたたえましょう。神様からの祝福を受けるのには、難しいことはありません。心からイエス様をほめたたえるだけで、神は私たちに喜びを与えて下さいます。なぜなら、ここに神の霊である聖霊が満ち溢れているからです。私たちは神の中に生き、動き、存在していると聖書は教えています。二週間前、ここで御言葉を学びました。詩篇一篇一節から三節の御言葉です。

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

 イエス・キリストを信じるならば、「何をしても栄える」、そのためには祝福の流れのほとりに植わる大切さです。また、救いとは、私たちだけの問題ではなく、新しい世代にも関係があり、家系に祝福が及ぶと学びました。私たちの家系を振り返ると、祝福よりも呪いのように、代々同じような問題が次から次へと後を絶たずに追いかけている光景を目にします。しかし、イエス・キリストを信じると、そのような呪い、家系の束縛から解放されるのを体験します。
 聖書は救いについて教えています。新約聖書と旧約聖書を照らし合わせて、救いについて定義すると、エレミヤ書三十一章十六節から十七節に、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 「救いとは何か・・」それは、将来と希望です。「あなたの将来には望みがある」そして「彼らは敵の国から帰ってくる」と約束されています。まさに救いとは、「敵の手からの解放」です。これを新約聖書の概念と重ねると、「暗闇から光り、サタンの支配下から神の支配下に勝ち取られる」という事です。私たちの人生、私たちの家系が、悪魔の手から神の手に勝ち取られることが救いです。普通の状態では、ずっと悪魔の支配下、敵の国に束縛されているのですが、そこから解放されるのです。
 「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。」と書かれています。ある意味で、私たちの人生は目から涙、口からは叫びが溢れているかも知れません。しかし、あなたが敵の手から解放されるときに、「あなたの将来には望みがある」という希望の言葉です。エレミヤ書三十一章二十七節から三十節に、

『見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。・・主の御告げ。・・その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。』

 「『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。」これは先程読んだ、「目には涙、口には叫び声」という、悲しみとの関わりです。今まで私たちが常に悲しみ、また泣き声を上げていた原因は、信じられない事ですが、「父が酸いぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」というような事柄の故だ、というのです。
 こんな話しは聞いたことがありません。父親が酸いぶどうを食べると、家にいた子どもの歯が痛み出したなどとは聞いたことがありません。また、おじいさんが酸いぶどうを食べたら、孫の歯が急に痛み出したことも聞いたことがありません。この意味は、「家系の呪い」についてです。そして救いとは、個人的な救いだけでなく、家族も新しい世代も悲しみと涙、叫び声からの解放なのです。私たちは、救われていない家族のために祈らなくてはいけません。救いは回復であり、ただ一人で終わりません。必ず、周りに救いが及びます。この教会の中にも、はじめは一人が救われ、やがて家族が救われ、親族が救われたという方が多くおられます。
 そして今年は、神が預言的に「家族を救ってあげます」と語っておられると信じます。この夏、家族のために祈るなら、救いに導いて下さると信じます。
 今日、皆様にお勧めします。個人的な救いだけではなく、家族にも家系にも解放が訪れます。父が酸いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くといった悲しみで満ち溢れた家庭や家系に救いが訪れ、「その日には、先祖の呪いで苦しむようなことはない・・」
 その日とは、イエス・キリストを信じた日です。既に、二千年前にイエス・キリストは十字架にかかられ、よみがえられた時に救いは完成しました。それを受け取りましょう。
 使徒の働き十六章三十一節、

『ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。』

 この御言葉を宣言しましょう。使徒の働き十六章は、家族の救いのために用意されたマニュアルだと思います。ここには二組の家族の救いがレポートされています。第一は、テアテラ市の紫布の商人、ルデヤという女性と家族の救い、そしてもう一つは看守、囚人達が牢獄から逃げないように守っていた人の家族の救いについて記されています。
 十六章十一節から十五節に、

『そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。』

 これは、ルデヤと家族が救われた記事です。また、その後のストーリー、十六章二十五節から三十三節に、

『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。』

と書かれています。さて、これらの背景に、どのようなことがあったのでしょうか。ルデヤの家族が救われた過程に、次のような出来事がありました。十六章十六節から十九節に、

『私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。』

 パウロとシラスがピリピという町に伝道に来ました。ピリピとは、ギリシアよりも北にあるマケドニアの町でした。当時はローマの植民地の町で、そこには多くの人が集まっていました。彼らが町に伝道に来たとき、一人の女性がつきまといました。この女は女奴隷で、「占いの霊」に支配されていました。そしてその女性が、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と言いました。悪霊に支配された人がパウロとシラスの伝道をサポートしたかのように見えます。しかしこれは、決してサポートにはなりませんでした。なぜならば、それは悪霊の叫びであったからです。その光景を見て、人々はパウロやシラスから次第に離れていったことでしょう。
 その時、パウロは、女の背後に働く霊に向かって、「イエスの御名によって命じる。この女から悪霊よ出て行け」と命じました。すると即座に霊は出て行ったというのです。
 パウロにはすごい権威がありました。一発でこの占いの霊と呼ばれる悪霊を、追い出してしまったのです。イエス・キリストを信じるときに、悪霊に打ち勝つ権威が与えられます。これはパウロだけのことではありません。私たちもイエス・キリストを信るときに、悪霊に挑戦して勝利できる力が与えられるのです。
 しかし、ここを読むと、不思議な思いになります。パウロに、こんな権威があったのなら、もっと早く悪霊を追いだしたら良かったではないか、と思います。つきまとって来たときすぐに、「悪霊よ。ここから出て行け」と言えば良かったと思います。多くの人が、この箇所を読んで、「パウロは霊的戦いをあまり強調しなかったから、我々も強調しなくても良いのではないか。止むに止まれず最後にやったのだから、そのような状況下でやれば良いではないか」という消極的な意見があります。しかし聖書をよく読むと、そうではないことが分かります。
 パウロの伝道生涯は華々しいものでした。けれども晩年は、ローマで軟禁状態が続きました。活動的なパウロも、その時は活動できませんでした。そんな中で彼は、数々の人生の中で起こった事件を思い返し、神に祈りました。そのとき、色々なことを神から教えられました。それがエペソ人への手紙などに記されています。エペソ六章十一節から十二節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 パウロは晩年になって、自分の働きをほぼ終えた時点で、一つのことを神から教えられました。「あなたは今まで、人生の中で色々な問題に出会いました。それには霊的な背景がありました。それは、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊との戦いでした。」というものでした。私たちは現実の世界の中に生きていますが、戦いは現実の世界の戦いではなく、「霊的な戦い」であり、それも悪魔・悪霊による「組織的な戦い」だと気づかされたのです。
 「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」とは、「組織」を表しているものです。悪魔は悪霊を遣わし、組織的に人々を苦しめるのです。
 「パウロ。あなたは、色々な苦しみに出会いました。それは、悪霊の組織が関わっていたのだ」と教えられたのです。彼は晩年になってその事に気づきました。彼の伝道生涯の中で、最も大きな問題が起こったのが、エペソにおいてでした。それで急遽、その教会に手紙を書き送りました。「今、私は神から教えられました。エペソで起こった事件は人間的なことではなく、霊的なものでした。」
 彼がピリピで働いていたときには、はっきりとわかりませんでした。しかし、晩年になって気付いたことは、戦いは血肉ではなく、悪魔とその子分、悪霊たちとの「組織的な戦い」だということでした。
 私たちも人生において、色々な問題に遭遇しますが、これが霊的戦いだとはなかなか気付きません。晩年になって気付いていても遅いのです。もっと、早く気づくことが大切です。私たちが霊的戦いに勝利する秘訣は、ただ一つ、「早く気づく」ことです。早く気づけば、私たちの人生も勝利に変えられます。もちろん、パウロには霊的な視点がありました。女奴隷を見て、「これは悪霊だ」とわかり、追い出しました。しかし、それが「組織的な悪霊との戦いだ」とは気づいていませんでした。そのためか、悪霊を追いだした後、彼らは捕えられ、牢獄に引き渡され、悲惨なことが起こりました。
 私たちもこの視点を早めにいただきたいものです。ここで皆さんにお勧めします。私は「クリスチャンって最高だ!」という本を出版しました。これを読まれると、霊的戦いがわかると思います。霊的戦いがわかったら、パウロのように晩年になってからこれが霊的戦いだったと言わなくて済むと思います。ここには、霊的戦いの秘訣について凝縮されているので、ぜひ、お読み下さい。
 さて、パウロが「占いの霊を追い出した」と記されています。しかし、実はこれは意訳です。ギリシア語本文では、「プュニューマ・ピュトン」となっています。直訳は「ピュトンの霊」です。ピュトンの霊とはなんでしょうか。
 当時、ピリピの町は政治的にはローマの支配下にありました。しかし、宗教的にはギリシアの支配下にありました。ギリシアには神話が満ち溢れていました。その神話の中に、ピュトンが出てきます。当時、ギリシアにデルフォイという町がありました。人々はその町を、世界の中心だと考えていました。それも神話が関わっていました。そこにはアポロンという神が祭られていました。そして、アポロンという神がピュトンという蛇をやつけたという神話がありました。デルフォイの町には、アポロンの神殿がありアポロンと、ピュトンを祭っていました。そして、その神々の特徴は「占い」でした。人々はデルフォイに行き、政治家から商人、また庶民に至るまで、占いを受けていました。そして、デルフォイから、他の町々にアポロンとピュトンがセットになった偶像礼拝の形態が輸出されていました。
 日本も同じです。伊勢に行くと伊勢神宮があり、天照(アマテラス)が祭られていますが、それは地方にも同じ形態があります。アポロンが太陽神でピュトンは蛇です。日本でも太陽を拝み、また蛇も拝んでいます。また蛇を殺したという神話もあります。須佐之男(スサノオ)がヤマタの大蛇を殺したという神話です。ギリシア神話の影響を受けているのかも知れません。何しろ、ギリシアの町々に、日本でいう神社のようなものがありました。そこに人々が来て、デルフォイに行かなくても、ピリピで占いを受け取ることができたのです。
 ピリピの町は、ギリシアの中心にあるデルフォイの霊的支配下にありました。パウロが川岸に来て、ルデヤという女性に伝道したとありますが、川岸には「祈り場」があったというのです。祈り場とは、ピュトンを拝みアポロンを拝む占い場があったところです。この水辺で占い師は沐浴をして身をきよめ、アポロンに山羊をささげて人々に偽の預言をしました。パウロとシラスは、そのような場所に行き福音を伝えました。
 このルデヤという女性は、ピリピから五百キロほど離れたテアテラというところから、商売の為かも知れませんが、ピリピに来て占いをしてもらうために川岸に立っていたのです。そこにパウロとシラスが来ました。そして彼女に伝道していたときに、女奴隷が来て邪魔をしました。しかしパウロは、ピュトンの霊を追い出しました。その時、ルデアが救われたのです。そして彼女の家族も救われました。ここに霊的戦いと、家族の救いの対比が記されているのです。
 しかし、パウロは捕らえられました。なぜならば、女奴隷が占いの力を失ったからです。それまで彼女は悪霊の支配によって占いをしていましたが、占いができなくなってしまいました。それで、女奴隷を使っていた主人が怒って、パウロとシラスを牢屋の中に入れてしまいました。
 しかし牢屋に入れられたパウロとシラスには、神の深い摂理がありました。ここには、現代を生きる私たちに神が教えようとする、一つの事柄がありました。
 彼らは捕まえられて牢屋の中に入れられました。もしかしたら、翌日は首を切られて殺されてしまうかも知れない、というような環境にありました。しかしその牢屋の中で、パウロとシラスは何をしたのでしょうか。十六章二十五節に、

『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。』

 彼らは大胆でした。牢屋の中に入れられても、元気を失うことはなく、真夜中に祈りつつ賛美していたというのです。手には鎖が付けられ、縛られている中で賛美をしていました。他の囚人は、彼らを見て「なぜ彼らは明るいのだろうか」と思って聞いていました。ところが、彼らが賛美していたときに地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動きたちまち扉が開いて皆の鎖が解かれるという奇蹟が起こりました。ここに神のわざがありますが、その背景にあったのが、「獄中の賛美」でした。
 私たちは賛美をしますが、賛美はただのものではありません。神が働かれる現場であることを知っています。何週間か前に、私たちは「床の上賛美集会」をしました。朝起きた時に、神が私たちに与えて下さった賛美を記録し、それを集計して教会で歌うという賛美集会でした。それは素晴らしいときでした。その根拠となる御言葉が、詩篇一四九篇五節から九節の御言葉です。

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

「床の上で高らかに歌え」と書かれています。パウロとシラスは真夜中に、賛美していました。囚人たちにとってはまさしく床の上であり、彼らもまた、床の上でした。そこで主への賛美をしていると、何と鎖が解かれ、逆に、「鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため」とありますが、獄舎の土台が揺れ動き、鎖が取れて獄舎から出てしまいました。これは詩篇一四九篇の御言葉の実現です。
 私たちにも、朝から床の上に響いてくる賛美がありますが、それは重要です。それを賛美するときに家族が変化します。家族の中で、家族を縛っている悪霊の力が打ち砕かれ、獄舎から出てくるのです。「家族・親族の中で私一人がクリスチャンです。家族が救われるためにはどうしたら良いですか」と言われる方は、毎朝、また夜中かも知れませんが、神からの賛美を受け取って賛美してみて下さい。
 土台が揺れ動き、獄舎から出されるという、詩篇の御言葉が現実的にパウロとシラスの状況の中に起こりました。しかし、パウロとシラスが偶然に夜中に歌っていたかというと、ただ偶然に歌ったのではありません。
 先程、パウロとシラスが追い出したのは「ピュトン」という占いの霊でした。ピュトンは、アポロンという神話上の神の子分でした。支配はアポロンにあり、その下にピュトンがありました。初め、ピュトンが打ち破られ、次に、パウロとシラスが牢屋に入って賛美したとは、アポロンとの関わりがあったのです。
 アポロンとはどのような性格の悪霊だったかというとこれは、「音楽神」でした。占いや儀式を司るときには、悪霊的な音楽がありました。それはアポロンという悪霊が関わっていました。ということは、パウロとシラスが床の上で賛美したのは、デルフォイという拠点の町から遣わされ、ピリピの町を支配していた、権的な力に立ち向かっていたのです。彼らが賛美しているときに、見えない世界では、アポロンの軍勢が打ち破られていました。そして。その力が打ち破られたゆえに、その結果が地上に現われました。彼らは獄舎から出されたのです。
 パウロとシラスの状況は、ピリピの町の人々の状況そのものでした。彼らはアポロンによって閉じ込められ、鎖でつながれていました。彼らが真夜中に賛美しているときに、鎖が解けただけではなく、牢屋も砕けてしまったのです。これは町に対する霊的勝利をあらわしています。ピリピに地域的な霊的戦いの勝利が起こりました。その結果、牢を守っていた看守の家族が救われたという出来事につながったのです。
 このように、二つの家族、「ルデヤの家族と看守の家族」が救われた背景に、地域を支配している悪霊との戦いがあったのです。それに勝利したときに、何と、家族が救われたのです。
 家族の救いのためには、地域のとりなしをしなければなりません。その拠点が「祈り場」であったのです。
 日本人が「祈り場」としているのはどこでしょうか。それは、「神社と仏閣」です。そして、必ず、神社・仏閣の背景には占い師がいます。そこが祈り場となっています。それは、町を支配している大きな力です。そこで立ち向かって祈るとき、見えない世界に勝利が訪れ、そして、家族は救われるのです。
 使徒の働き十六章は、二つの家族の救いの背後に、町を支配していたアポロンとピュトンが打ち破られたのを教えています。私はこの箇所を読んで、「地域のとりなしは無駄なことではない、家族の救いに必要なことだ」と確信を得ました。
 来週は、また、とりなし祈祷があります。これは、家族の救いのために重要なことです。ぜひ、祈りに加わって下さい。そして、家族のために自分の住んでいる地域のために祈ってください。地域を支配している悪霊の力が、打ち破られるように祈って下さい。
 私は先週、ある一つの教会に行きました。昨年も行きました。昨年は、霊的戦いと個人の解放について話し祈りました。すると、その教会の先生が「順先生、一度、地域に出ていって祈るとは、どういうことか教えて下さい。どこで祈ったら良いのですか。」と質問されました。それで私は、その町を調べて、「ここと、ここに祈りに行くと良いですよ。」と言いました。すると、「そうですか。では、私たちはついて行きますので、先生祈って下さい」と言われ、共に祈りに行きました。私は先生に、「この辺で一番霊的に暗いところはどこですか。人々が教会に来たことのない地域はどこですか」と聞きました。すると、「川の向こう側からは、誰も来ません。本当に暗いところです。」と言われるのです。ですから、そこに行って祈りました。そこには古い寺と神社がありました。そこで真剣に祈りました。「主よ。この地域から、救いが現されるように」と祈りました。そして、私たちは帰ってきました。
 今年もその教会に招かれました。すると、先生が、「順先生、昨年九月に来て祈って下さいましたが、十月に不思議なことが起こりました。一緒に出かけて行って祈ったあの場所から、すごい人が来て救われたのですよ。」と言われました。
 先生と奥様が正直に言いました。そのときは、「こんなところで祈って何になるのでしょう」と思っていたそうです。しかしそこから一人の奥さんが来られました。その方は、町の助役の奥さんで有名な人でしたが、数年間家に閉じ隠り、家事も何もできずに姿はひどい格好で、誰も近づけないような人でした。三十年ほど新興宗教に入り、財産も全部失ってしまったそうです。退職金も前借りして全て費やし、新興宗教で拝んでもらったけど、全く状況は良くならなかったのです。「こんな状況ですが、教会でどうにかなりませんか・・・。」
 ちょうど個人の解放と、地域のとりなしのことを聞いた後だったので、教えられた通りにその人のための解放の祈りをし、地域のとりなしをしました。すると、何と、四年も五年も閉じ隠っていた人でしたが、一ヶ月間で治ってしまったそうです。そして毎週、教会に来るようになったのです。
 彼女は見る見るうちに明るくなり、全く癒されたようです。周りの人はその後、彼女の家を見てこう思ったそうです。そこには、布団が干されていたそうです。「・・ついにあの奥さんが亡くなったんだ・・」
 しかし、奥さんが布団を干していたそうです。今は身なりもしっかりとした美しい方で、熱心に主を求めている姿を見ました。そして今や、家族もイエス様のことに興味を持っており、職場にも復帰し、周りの人々が「なぜあなたは癒されたの?」と聞くほどです。古い因習に捕らわれ町ですが、その人は今注目の的だそうです。
 今回、熱心に主を求めている彼女の姿を見て、神が与えられた原則に沿って祈るときに、主は奇跡を起こして下さると確信しました。
 家族がまだ救われていなかったら、その地域の祈り場のあるようなところに行って祈らなくてはなりません。また、私たちが神様からの賛美を受け取り、家の中で賛美することも鍵です。私たちの中に、必ず回復を前進させて下さいます。決して止まることがありません。すでに皆さんが救われているのは、家族回復の路線上にあるのです。やがて家族が救われ、家系が勝ち取られ、三代、四代の呪いから解放され、「父が酸いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮く」というようなことがなくなるのです。これが救いです。すべての方が、この素晴らしい救いを受けることができますように。一言お祈りします。

バックナンバー

戻る
戻る