今週の礼拝メッセージ
2002.8.11(SUN)
目的地はどこ?
新城教会 岡本信弘 牧師

新約聖書 コリント人への手紙第二 5章1節〜5節
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

 ハレルヤ! 主の御名を賛美します。こうして皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを感謝します。今日は第二コリントの五章から「目的地はどこ?」というタイトルで学びますが、お一人お一人が素晴らしい祝福、恵みを持って帰られることを願います。
 私はプレイズ出版の責任を持っていますが、先週はとても忙しく、徹夜をしても終わらないような状態でした。忙しいという漢字は、心を滅ぼすと書くと言われますが、目の前の山のようにある仕事を、一つ一つこなしていくしかない、と思いやってきました。しかし、そのような中でも皆さんのお祈りによって健康が支えられていることを感謝します。
 この仕事の忙しい中で、関西40daysの集会が続けられているのを思うとき、実際的なお手伝いは何もすることができませんが、祈っています。明先生が毎日メッセージを取り次いでおられますが、毎日違う御言葉から準備をしていると言われました。大変なことです。
 御言葉を取り次ぐということは、すごくプレッシャーがあります。私は前回ここでメッセージさせていただいてからすでに一ヶ月くらい経過していますが、「もう私の番が来たのか」と思ってしまうのですが、毎日御言葉を取り次ぐというプレッシャーを考えるときに私がどんなに徹夜をして忙しいといっても、毎日真剣勝負で魂の救いのために御言葉を語っておられる明先生の働きは、すごく大変なことだと思います。それでも明先生は楽しんでやっておられると思いますが・・・。私も今日、喜んで御言葉を取り次がせていただきたいと思います。

 聖書に『食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現わすためにしなさい』という御言葉があります。私たちが生まれてきた目的、今日生きている目的、何をするにも目的があります。
 この夏休み、色々なところに遊びに行かれる方、もうすでに行かれた方もいると思いますが、一つお勧めしたいコースがあります。八月三十一日、九月一日の二日間、三千人が入れる大阪野外音楽堂で集会があります。こんな熱い炎天下の中で大変だから、やめておこうと思われる方もいると思いますが、ぜひ行ってください。ともに参加し、魂が救われる喜びが分かち合われることを願っています。大阪には楽しめる所がたくさんあるので、一日、二日前に家族で行かれるのもいいと思います。私も最後の週はそちらの奉仕に行こうと思っています。
 旅に行く時にも目的があります。私は六月にカナダに行きました。娘が留学しているのですが、ホームステイ先はどんなところか、どんな生活をしているのか、親バカかも知れませんが、一度は見に行ってきたいと思って、行かせていただきました。
 私は海外の食事が駄目ですし、英語も話せないので、旅行に行く前から心配していましたが、無事に行ってくることができました。娘もその場所に目一杯溶け込んでいて、何の心配もなく楽しそうに生活していたので、本当に安心しました。一つの目的を果たしたわけです。
 せっかくカナダへ行くので、ついでにと思ってナイヤガラの滝へ行くことを計画しました。同じカナダといっても、娘のいるビクトリアとナイアガラの滝のあるトロントは、飛行機で四〜五時間かかり、一度乗り換えをしなければなりませんでした。しかし、行ってくることができ、もう一つの目的も達成されました。
 旅行において目的が達成されるかどうかは、大きな問題です。温泉に浸かりたいと思っていっても温泉がなくては意味がありません。また、買い物をしたいと思っても、買い物をする場所がなければしかたありません。ですから、どこかへ行こうと思うときには、色々なことを調べて行きます。また、目的地を目指してそこに行くまでにも色々な楽しみがあると思います。
 皆さんはどう思っておられるかわかりませんが、私は気が小さいです。特にバスに乗るのが大嫌いです。電車は調べれば時間通りに来て時間通りにつきますが、バスは大体遅れてきます。そして目的地別に同じ停留所からたくさんのバスが出ています。私は間違えたことが何度もあります。先回、「このバスでいいのか」とそんなことを心配しながら乗ったら、整理券を取り忘れ、運転手に「何をしているのですか」と怒られて、「すみません、すみません」と謝りました。もう二度とバスに乗るまいと思ってしまいました。
 そんな気の小さい者なので、海外に行ったり新しいことが駄目です。しかし、東京や大阪には毎週行っているので、だいぶ慣れて、色々なところを案内できます。私は運転が好きなので車で行くことが多いです。私の車にはカーナビが付いていて、ほとんどの場所の電話番号が入っており、行きたい場所の電話番号を入れると、目的地まで何キロあってどのように行き、何分かかるということが数秒にして示されます。悪用されたら恐ろしいですが・・・。そんなナビはすごい、誰が考えたのだろうかと思いますが、ナビによって確実に目的地に着くことができるというのは、本当に安心感があります。

 丁度私たちの人生を一つの旅だと考えるとわかりやすいと思います。私たちは生まれた時から人生の旅に出発します。五年、十年、二十年と、すでに七十年、八十年と旅をされた方もおられますが、その旅で一番重要なのは目的地がどこであるかということです。
 私はあまり昔のことは思い出さない方ですが、保育園の頃のことはよく思い出します。その頃私は優秀だったようで、園長先生から「この子は何でもすぐに覚えるし、将来大物になる」と言われました。現在の私を見ると、園長先生は見る目がなかったと思いますが・・・。
 私は保育園・小学校とほとんど休んだことがありませんでした。先週、家庭集会で「うちの子は保育園に行くのが嫌で泣く」という話をされていました。私は保育園に行きたくないと泣いたことはありませんが、逆に保育園が休みだと、どうして保育園に行けないのかと泣いたことがありました。それに引き換え、滝元家の息子たちはいつも「行きたくない、行きたくない」と私の目の前で泣いていました。ある人は保育園を退園した人もいます。たとえ、そんなつまづきがあったとしても、私たちがどこに向かって人生を歩んでいるかという事が大切なのです。
 第一コリントの五章一節を見ると、
 『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です』と書かれています。
 地上の幕屋とは私たちの地上の生活です。皆さんの人生、どんなに管理して健康に注意していても、いつか肉体が滅び、死ぬ時が来ます。そのような時に際しても、『神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です』とあります。
 クリスチャンは、この地上の生活だけではなく、その年月とは比べることができないほどの、長い長い永遠の生活があることを知っています。神様は、この地上の生活が終わった後、天にある永遠の家を私たちに用意してくださっているのです。
 今、不況で多くの人がリストラされ、また、事業が倒産し、多くの人が苦しんでいます。また、この世は物に溢れて何の不自由もないにもかかわらず、多くの学生が学校に行きたくないと言い、精神的な病になり、多くの人が悩んでいます。問題にぶつかり、どのように回避しようかと思った時、自分なんかいても仕方がない、生きていても何の価値もない、死んだ方が余程楽ではないか、と思って多くの人が自殺を選びます。それが一番の解決の近道だと思っています。しかし、人生を自分で途中下車してはいけません。
 私たちは肉体を持って生まれてきましたが、同時に魂も生き、魂は永遠に生きていきます。もし私たちの人生の目的地がただ墓場に行くだけのものであるならば、何とむなしいことでしょうか。何と不公平なことかと思います。しかしそうではありません。私たちの人生、地上の生活は七十年、八十年、九十年で終わるかも知れません。しかし、それから永遠に続く人生があることを知ってください。

 ヨハネの福音書三章一節から二節に、パリサイ人で、ユダヤ人の指導者であったニコデモが、イエス様の所に来て質問したことが書かれています。
 『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」』。
 ニコデモは、人間的に優れた人でした。教師であり、指導者でした。そんなりっぱな人が夜、イエス様のところに来ました。当時、人々は自分たちを救いに導いてくださるであろうメシヤの現れを待ち望んでいました。しかし、実際にイエス・キリストが来られた時、誰も彼をメシヤと認めようとしませんでした。その一方で、あそこで奇蹟が起こった、ここで癒された人がいる、死人がよみがえった、という噂がどんどん広がり、そんな噂を聞いたニコデモは、まやかしではないかと思う一方で、この方には何か力があるのではないかと思ったと思います。そして質問に来たのです。、
 『「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」』。
 その質問に対してイエス様は、答にならないようなことを言っています。

 『「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」』。

 ニコデモが聞きたかったことは、「皆が噂をしているけれども、あなたは本当に神ですか。あなたはただの人でしょう」と、もしかしたらと思いつつも、半信半疑で、むしろ信じようとしないままイエス様に問いかけています。イエス様はその心を読んでいたのです。

 クリスチャンの方も、クリスチャンになる前のことを考えてみてください。イエス様のなさった奇蹟の業を聞いても、ニコデモと同様に、「そんなバカな・・・」としか思えず、「イエス様は救い主です。神です」と聞いても、「信じられない」と思った方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 そしてニコデモは質問しています。

 『「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」』。

 「できるはずがないでしょう。そんなことは無理に決まっている」とニコデモは思いながら、そんなバカげたことで私が納得するはずがないとでも言うかのように、イエス様に質問しました。しかし、その時イエス様は、

 『「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません』と言われました。
 
 初めの答では、「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」とそして、二回目には、「水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません」と答えています。
 これは、ニコデモという人に対してのイエス様の答ですが、丁度、今の時代にもイエス様は語られています。私たちは新しく生まれ変わって初めて神の国を見ることができます。そして、水と御霊によって生まれ変わるときに、私たちは神の国に入ることができるということを、是非覚えてください。
 しかしニコデモは、

 『「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」』(九節)と言って、「そんなことがあるはずがないではありませんか、どうしてそんなことが起こりうるのですかと」と、まったく信じていません。
 
 最初にお読みした第二コリントで、この地上の幕屋と、天にある永遠の家のことが書かれていましたが、私たちは今持っている常識や経験で考えるなら、ニコデモと同じように「そんなことあるはずがない、どうしてそんなことがあるのか」としか思えないでしょう。しかし、神は真実であり、また天地万物を造られた方であることを、知ってください。
 創世記一章を見ると、
 『初めに、神が天と地を創造した』と書かれています。

 日本では創造論ではなく、進化論を教え、信じていますが、聖書は、神様が天地万物を造られ、人間アダムとエバを造られ、人に息を与え、生かしておられるのも神ご自身だと教えています。
 神様は愛の対象として、神様と楽しい交わりを持たせるように人間を造ってくださいました。しかし、初めの人間アダムとエバが高ぶりの罪を犯し、そして神様との契約を破ったために、神様と人との間に罪という壁ができてしまいました。そして、神様と自由に交わることができなくなってしまいました。そのために多くの人が、なぜここに生まれてきたのか、なぜこのような生活しているのか、そして何のために生きて、どこに行くのかと、生きる目的を見失っています。
 多くの人がそんな疑問を持ち、将来に不安を感じながらも、とりあえず家族が幸せだったら、今が幸せだったらいいではないかと、この地上での生活だけに追われて毎日を過ごしているのではないでしょうか。
 しかし、私たちは生きる本当の目的が何であるかを知る必要があります。それを知ったなら、私たちの人生観が変わってきます。
 それまでは自分を楽しませるために、今の生活の安定のために何ができるか、何を楽しもうかと考えていたけれども、イエス様と出会った時、人生観が変わってきました。永遠を思う心が与えられました。クリスチャンになられた方の多くが、そんな体験をしておられることだと思います。
 皆さんも生きる目的がはっきりしたなら、人生を楽しく過ごせると思います。私も先週はとても忙しくしていましたが、どんなに忙しい生活の中でも、主のために働くことができるという目的がはっきりしているので、こんな素晴らしい生活はないといつも思っています。
 ヨハネの福音書三章十六節に、

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』と書かれています。
 これは新約聖書中もっとも有名な御言葉です。私たち人間は、罪によって神様との隔たりができ、交わることができなくなってしまいました。そのような状況の中で、人間が生まれ、生活し、そして死んだのち、永遠の滅びの場所、地獄に行くことがすべての人間に定まっていました。しかし、私たちを救うために、今から二千年ほど前に、神が人の姿をもってこの地上に生まれてくださったのがイエス・キリストです。そして、私たち人間のすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、死ぬだけではなく、その死の力を打ち破ってよみがえってくださいました。私たちはそれを信じるだけで、永遠のいのちを持つことができるのです。信じるだけで、罪という神様との隔たりが全部取り除かれ、神様と直接的に交わることができる生活に変えられるのです。
 『神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が(イエス・キリストを信じる者が)、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』という救いをぜひ知ってください。
 また、コリント人への手紙第二の五章二節から三節には、天での祝福が書かれています。
 『私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです』。
 この地上では一生懸命働き、収入を得て生活をする。お金がなければ、食べる物も、着る物も買うことができないというシステムがあります。しかし死んだのち天国へ行くなら、私たちは天から与えられる住まい、不死を着ることができ、それを着たなら裸の状態なることは二度となく、永遠を喜んで過ごすことができるというそんな素晴らしい計画があなたに与えられているのです。
 肉体は、三十年後、四十年後、五十年後、いつかはわかりませんが、必ず滅びるときがきます。しかし、私たちが神様の恵みを受け入れる時、主によってあがなわれ、永遠のいのちが始まっていきます。神様が用意された永遠の家において住まうことができます。どのような家か楽しみです。私は天国に入れるなら、ほったて小屋でも何でもいいと思いますが・・・。イエス様を知るならば、今からの人生が一変します。
だからと言って、この地上の歩みをないがしろにしているのではありません。
 『確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです』(四節)とあるように、この地上にあって、生活するには色々な苦しみ、重荷があるかもしれないけれども、神様を信じ、神様とともに歩み、永遠の家に住まうという目的を持って生きるなら、死ぬべきものも生かされ、いのちへとつながっていくのです。
 そして、神様は私たちに助け主を与えてくださっています。
 『私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました』と書かれています。
 私たちはこのことを頭で理解しようと思っても到底理解できません。皆さんも御言葉を毎日読んでおられると思いますが、何度読んでも何を言っているかわからないところがあると思います。神様の言葉ですので、人間の小さな頭では全部は理解できません。神様は目で見ることも、もちろん手で触れることもできません。しかし、私たちは頭で理解するのではなく、心で信じています。そして、私たちがイエス様を、心に、霊、魂に迎え入れるなら、神様から遣わされた御霊によって、時に応じて御言葉を理解することのできる知恵も与えてくださるのです。私たちには導いておられるイエス様がともにおられるという確信があります。
 神様は、人間一人一人に祝福の人生を与えようと、計画をたてておられます。私たちはまず、神を認め、神様と生きる人生を選択し、神様の目的に従って生きていくならば、神様はその交わりを回復し、私たちに素晴らしい人生を約束してくださいます。そして、最終目的地である天国へと、私たちを導いてくださる方なのです。皆さんも是非そのことを知って、今日から真の目的を持って歩んでいただきたいと思います。
お祈りします。

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