今週の礼拝メッセージ
2002.8.18(SUN)
あなたには、神の権威が委ねられています。
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 マタイの福音書8章5節〜13節
イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

マタイの福音書10章1節
イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

 ハレルヤ!夏の暑い最中で、体調を崩されている方もおられるかも知れませんが、今日は癒しを受けてお帰り下さい。
 教会は毎週集まり、聖書の中から人生に必要な神の言葉を受け取ります。また、人生を切り開いていく霊的法則を学ぶ場所でもあります。今読んだ箇所は、イエス様が感動されたところです。百人隊長の語った言葉に対して、イエス様は、「こんな信仰は今まで見たことがない」と感心されたのです。百人隊長が持っていた視点を同じように受け取るならば、人生が変わるはずです。イエス様を信じると、天地宇宙を造られた神の権威が委ねられます。ですから、神を信じない人生とは、全く人生模様が変わります。
 さて、百人隊長はローマ人でした。当時のイスラエルはローマの属国であり、ローマの兵隊が駐留していました。ユダヤ人から見ればローマ人は異邦人でした。しかし、異邦人である隊長の信仰にイエス様は感心されたのです。
 百人隊長はイエス様に懇願しました。

『「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」』

 中風病とは現代でいう脳溢血のような病です。このしもべは若者でした。時々私も若い人の病を見て、何とか癒されて欲しいと願います。百人隊長もそんな若者の姿を見て心を痛めていたのです。
 彼がこのように懇願すると、イエス様は素晴らしい答えをされました。八章七節に、

『イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」』

 当時イエス様は大人気で、大へん忙しい先生でした。百人隊長はそんなイエス様をつかまえて直訴したのです。普通ならば、わざわざ出向いてあげようというわけにはなかなか行きません。「忙しいから、私の聖会に出席し、按手の時間に出て来なさい」という位だと思います。しかし、イエス様はそうではありませんでした。
 「行って直してあげよう」と言われました。ここにイエス様のご性格を見ます。イエス様は優しいお方です。私たちの信じている神は、優しいお方なのです。日本人の神観念は、「恐い神」です。しかし、私たちの信じる神は、「優しいお方」です。私たちが困ったときに、「忙しいからそこに行けない」と言うようではなく、「行って直してあげる」と言われるお方です。そしてイエス様は、昔も今も変わらないのです。
 しかし、この時イエス様がせっかく「行ってあげる」と言われたのに、百人隊長はイエス様を家に招きませんでした。八章七節から九節に、

『イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」』

 百人隊長は、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と語り、「私にただ言葉を下さい」と言いました。
 百人隊長には一つの立場がありました。彼には百人の部下があり、彼の発した命令によって部下が動くという、「権威の伝達構造」を知っていました。そして、言葉を発することが、すなわち、「行動となる」ことを認識していました。ですから、この時に百人隊長が、「イエス様、あなたは私の家に来なくても良いです。ただ言葉を下されば事が起こりますから」と語ったのです。
 すると、イエス様は、「お前の理解はすごい!」と感動されたのです。「そんな信仰はイスラエルでも見たことがない」と称賛され、「さあ、帰りなさい。あなたのしもべは癒されているから。」と告げられました。百人隊長が、この言葉をイエス様からいただいた時、しもべは癒されたのです。
 この中に、「霊的方程式」を見出すことができます。私たちも神が定めた、霊的方程式や法則を捕まえると、人生が変わります。その一つが、今日学んでいる「権威の法則」です。
 世の中には色々な力があります。そして、どの力が一番強力で偉大なのだろうかと考えます。まず、力として思い浮かぶのは「腕力」です。小学校低学年頃までは、どこにもガキ大将がおり、腕力が強い者が一番強い者でした。しかし、小学校も高学年になると、腕力だけでは人々をのすことができなくなります。今度は「知力」が問題になります。そして、もっと年をとると、腕力や知力だけではなく「経済力」も必要となります。経済力がなければ、生きることはできません。そのように考えると、どのような力が、最も私たちに必要なのだろうかと考えます。
 しかし、腕力がなくても、知恵がなくても、経済力がなくても、人々を動かすことができる力があります。それが、権力であり、権威です。これは悪い意味でも使われますが、権威さえあれば、どのように弱々しくても、言葉を発しただけで物事が動きます。
 時々私たちも、権威の下に屈服しなくてはならないときがあります。交通違反をして、切符を切られるのは嫌なものです。実は、最近、私も交通違反をして捕まってしまいました。色々と弁解し、「牧師なので、忙しくて急いでいました。」と言い訳すると、「牧師さんなら、もっと安全運転に心がけて下さい」と言われ、どうしようもありませんでした。相手がたとえ婦人警官であっても、何も言えません。体力は私の方があっても、駄目です。その権威には屈服しなければなりません。権威の力は、すごいものです。それは見える世界の権威ですが、見えない世界でも、権威が存在します。そしてそこには、「権威の流れ」があります。それを理解すべきです。
 まず、権威の源は、天地宇宙を造られた神がもっておられることに、心に留めなければなりません。
 さて、人間は、どのような権威の位置づけなのでしょうか。神は天地万物を造られました。見えるものも、見えないものも、人間も動物も霊的な存在も、すべて造られました。世界には、多くの生き物が存在しますが、人間がどのような位置づけで造られたかご存知ですか。詩篇八篇五節に、

『 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

と書かれています。神は私たち人類を、「神よりもいくらか劣る者」とし、これに「栄光と誉れ」すなわち、「豊かさと輝き」の冠をかぶらせてくださったというのです。権威の位置づけからすると、神様が一番です。しかし人類は、その神よりも「少し」低い者として造られました。ということは、万物の存在の中で、神に次ぐ者が人類だということです。神は天地宇宙、生物を造られ、その後、初めの人類、アダムとエバを目の前にしてこう言われました。創世記一章二十八節に、

『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 これは初めの人類アダムとエバに対して、神が語られた言葉です。神は人間に「海にある物、空の生き物、この地上にいる動物、地をはう物も全て支配せよ」と命じられ、人類に権威を与えられました。そんな中、一つの生物が初めの人間、アダムとエバに近づいてきたことが聖書に記されています。
 創世記三章一節、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』

 「蛇」が人類に近づいてきました。この蛇は私たちがよく見る蛇とは違います。これは霊的な存在で、悪魔を表しています。神は人に対して、「地をはうすべての生き物を支配せよ」と語られました。その中には蛇が含まれています。ということは、「悪魔は蛇族」ということになります。人は悪魔・悪霊よりも権威的には上に造られたのです。ですから本来、悪魔・悪霊を恐れる必要はありません。オリジナルの権威の流れでは、神で、人で、次が地をはうもの、すなわち悪魔、悪霊だからです。ということは、神が言葉を発したら、人間にその通りになり、また人間が言葉を発したら、百人隊長の例でも分かるように、その下の支配に関して、事が実行されるのです。人は悪魔・悪霊を支配できる存在として、本来は創造されました。
 時々人生に悪魔・悪霊が関わり、滅茶苦茶にされていると言われますが、本来はそうではないはずです。蛇がアダムとエバに、「神様は本当にこの園の中のすべてを食べてはいけないと言われたのですか。」と、神の命令された言葉を破るように仕向けました。
 神はアダムとエバを造られ、「この園から、何でもとって食べても良い、でも一つだけ、善悪を知る木からは実をとって食べてはいけない。取って食べると死ぬから。これだけ守って下さい。他のことは自由です。」と言われました。
 私たちが生きる中でも、存在は必要であっても、食べてはいけないものがあります。初めの人類にも、同じことがありました。しかし蛇は、神が取って食べてはいけないと言われたものを、食べるように仕向けたのです。人は蛇が語った言葉に耳を傾けました。そして、善悪を知る木の実を食べてしまいました。その結果、人類は楽園から荒野に追い出されたのです。
 人類で現在、楽園に住んでいる人は、ほとんどいないと思います。この世の楽園と呼ばれる、ハワイや南の島々に行っても、景色は楽園のようですが、人々の心と生活は荒野です。皆、荒野に出てしまいました。その背景に、悪魔の誘惑があり、神がやってはいけないと言われることに人が手出ししてしまったという、事実があります。それが罪です。
 しかし、「罪とは何か」を突き詰めると、「権威の流れに逆行した」ことにあります。
 そもそも、私たちの周りでも、権威に逆行すると問題が起こるのを経験しています。例えば、親と子の権威はどうでしょう。今の時代、この権威のバランスが崩れています。子どもの方が親のようになったら、必ず家庭に問題が起こります。学校でもそうです。昔、先生と生徒の間には一つの緊張感がありました。私が小学校の頃は、学校に行っても先生が恐かったです。先生に怒られないようにと、いつもピリビリしていました。メダカの学校でも先生は、「鞭を振り振り チーパッパッ」というように、厳しかったのです。しかし、段々、メダカの学校も現在は様変わりし、「誰が生徒か先生か・・・」というようになってしまいました。今は教育の世界も、生徒の方が権威を持つようになり、それで学校のバランスが悪くなりました。また夫婦間でもそうです。夫は妻を愛し、妻は夫に従うというのが聖書の教えです。そのような権威の流れなら、家庭はうまく行くのです。また、政治の世界でも、日本は主権在民ですが、政治家が国民よりも力を持ってしまうと、今のように汚職などの問題が起こります。これはすべて権威のバランスの逆行によって起こる事柄です。
 神と人間という構図は、絶対的なものです。神が主権者であり、人間はその下にあります。ということは、神が「こうしなさい」と言われる事柄に従わないと、バランスを欠きます。百人隊長は、このバランスが崩れると軍隊がおかしくなることと、命令は上から下に流れていくものということを、よく理解していました。
 そもそも、「百人隊長」というギリシア語の原語は、「百」、「支配」という二つの言葉から成っています。「百を支配する」という意味です。ひとりの隊長が発する言葉が百人を支配し、事柄が実行に移されるという構造をよく知っていました。
 百人隊長は神を信じ、イエス様が神であることを知っていました。だから、イエス様の発する言葉を受け取ったら、それが自分の中にも、自分のしもべにも実行されるという、「権威の流れ」を知っていたのです。
 私たちの人生の中で問題が起こるのはなぜでしょうか。神と人間の歴然たる権威の中で、人間が神の命令に従っているときには問題は起こりません。しかし、人間が神に命令したり、人間が神の命令に逆行するときに、問題が起こるのです。軍隊の命令はトップダウンであり、上から下まですみやかに流れ下るのです。
 今日の午後は「平和を祈る祈祷会」を行います。今から約、六十年前、日本は戦争に巻き込まれ、大きな被害を被りました。たった四年の戦争で、約三百十万人が死にました。日本は、世界で最初で最後になって欲しいのですが、核被爆国になりました。しかし今や、戦争を知らない子ども達の時代になりました。私も戦争を知らない世代の者ですが、私の小さな頃はまだ戦争の余韻がありました。テレビでも戦記物がたくさんあり、それをよく見ていました。けれども今や、国民の七割が戦争を知りません。歴史は繰り返します。だから、今日は若い方にお勧めします。日本の平和を祈らなければなりません。戦争が起こらないように、祈らなければなりません。午後には、太平洋戦争の記録ビデオを見たり、実際に戦った人たちの体験談を聞く時を持ちます。そして、私たちは、二度とそのようなことが起こらないように祈ります。死線をくぐり抜けてきた方々から、生の体験を聞き、二度とそのようなことが起こらないように祈る一時です。
 話は元に戻りますが、軍隊は命令の中ですべてのことが行われます。上官からの命令を聞かなかったり、反発したら首が飛びました。
 霊的な世界でも、同じような権威の流れがあります。私たちが神の命令に背いたら、幸せに生きることができません。そもそも、人間が不幸になったことは、神の権威に反発したところにあります。神の命令に背くとは何でしょうか。また、神の命令とは何でしょうか。それが旧約聖書にある「十戒」です。それに、新約聖書の概念を重ねて見るとき、神の命令に逆らう最たる罪が「偶像礼拝」です。手で造った神々を拝むことが、神様の命令に一番反することです。そしてもう一つは、不品行、姦淫という「性的な罪」です。この二つが、私たちの人生を最も脅かすのです。
 そもそも、初めの人間アダムとエバが神の命令に逆行したことにより、本当は神で、人間で、悪魔という権威の順序が逆転してしまいました。神、悪魔、人間という順序になってしまいました。だから聖書は、「今この世は暗闇の支配下・悪魔の支配下にある」と告げているのです。元々あった、素晴らしい権威が人から、取り去られてしまいました。しかしイエス・キリストの「救いは何か」というと、「支配権の転換」であり、権威の回復を意味します。
 しかし一方、神がオリジナルで決められた権威の流れ「神、人、悪魔」という構図は、いくら悪魔が権威を奪い取ったかのように見えても、本来は変わっていないのです。すなわち、悪魔が人に関わるためには、それなりの「人間からの許可」がいるということです。
 命令の系統の中で、上官が命令を発しても、部下が上官の許可を得たら、その許可の範囲内では、何でもすることができます。同じように、悪魔が人に関わるときには、基本的には人間の許可が必要なのです。人間が許可を出したら、悪魔は人に関わります。そして、許可の度合いによっては、問題が起こってきます。しかし、その基本にあるのが、神と人間との間の関係です。神と人との間で、「偶像礼拝してはいけない」と神が言われます。「偶像礼拝をしたら三代、四代が呪われる」と言われます。けれども、人間がその命令に逆行することは、同時に、今度は人の下に権威を持つ「悪魔に許可を与える」ことになるのです。それにより、悪魔は人に関わり、色々な問題が起こるという構図があるのです。
 悪魔は人間を騙して、多くの許可を取ります。そして人間の世界に、鋭く関わってきます。
 太平洋戦争に至るまでの歴史を見るときに、悪魔は巧みに日本国民を騙して許可を奪い取った形跡を見ます。
 十六世紀頃、キリスト教が日本に入って来ました。当時の人口は、はっきりとは分かりませんが、二千万人位ではないかと言われます。そして当時既に、七十万人近くのクリスチャンがいました。そして宣教は、どんどん広がりました。そのような中、最終的に徳川家康が天下を取り、キリシタンを迫害する流れになりました。そのために色々な制度を作りました。仏教と神道をいっしょにしたり、寺請制度を作りました。今でも「檀家」がありますが、それは自分がキリスタンではないという証明でした。人々は毎年、寺に行って、「私はキリシタンではない」という証明書を発行してもらいました。彼らが旅行するときでさえ、寺の許可がいりました。そのような中、鎖国の中、多くの国民的偶像礼拝によって、許可書が悪魔の手に渡りました。
 続いて明治維新時には、神道が国の権威をとりました。やがて、現人神が出てきて、仏教と神道の受け皿が完全に整ったとき、太平洋戦争に突入しました。戦争で死んだ人々は皆、靖国神社に神として祭られ、また個人としては、家庭内の仏壇に祭られました。偶像礼拝によって、日本人から悪魔は許可を取りました。
 その結果、三百十万人が死に、国は破壊され、死と破壊以外何の収穫もありませんでした。
 悪魔に許可書を発行してはいけないのです。一番大きな悪魔に対する許可書発行が、「偶像礼拝と性的な罪」です。「罪を犯さない」とは「神様の命令を守る」ことです。守ったら祝福されます。しかし神の権威に逆行したら、悪魔に許可を与える事となり、ポジションが逆転してしまうのです。
 しかし、イエス様がこの地上に来て下さったのは、ポジションが逆転したのを、もう一度取り戻すためでした。
 イエス様がこの地上に来られ、働きを始められたのは三十才の時でした。三十才までイエス様は、普通の人でした。イエス様の生涯は、誕生と十二才の時のことは少し記録されていますが、三十才になるまで、あとは何も書かれていません。それまでイエス様は、ごく普通の生活でした。
 イエス様の職業は「大工」でした。しかしイスラエルに行くと、イエス様が大工ではなく「石屋」だということがわかります。家は石でできているからです。
 イエス様は普通の生活をされて、三十才まで過ごされたのです。しかしある日突然、イエス様が変わりました。悪霊を追い出し、病を癒し、奇蹟を現すようになりました。人々は驚きました。なぜなら、皆、三十才までのイエス様を知っていたからです。
 どこから変わったのでしょうか。イエス様は神様ですが、私たちの代表者としてもこの地上に来て下さいました。だから、イエス様の生涯を見ると、私たちの人生にも対応できます。私たちも、ある時から変わるのです。
 マタイの福音書三章十六節に、

『こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。』

 イエス様が色々な奇蹟のわざを始められたのは、バプテスマを受けられてから後です。それまでも、イエス様は存在されていました。しかし奇蹟も何もされませんでした。またイエス様は、勿論、バプテスマを受ける必要はありませんでしたが、バプテスマのヨハネのところに行きました。そして、「わたしに、バプテスマを授けて下さい」と言いました。ヨハネは驚いたのです。イエス様がバプテスマを受けると、『すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。』と書かれています。この時からイエス様の生涯は変わりました。そして多くの奇跡を行いました。イエス様の弟子たちはイエス様についていきました。マタイ十章一節に、

『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』

 イエス様がバプテスマを受けられてわざを行い、その受け取った権威を弟子たちに渡しました。イエス様の弟子たちに対する訓練は、机上の訓練ではなく、実地訓練でした。一緒に行動し、弟子たちは悟っていきました。そのような中で、権威のポジションがどのように転換するかを教えています。神、悪魔、人間という権威の順序が、「神、人、悪魔」の本来の構図に戻されるのが「バプテスマ」であると教えています。
 今日ふたりの方がバプテスマを受けられますが、バプテスマはただ事ではありません。権威のポジションの転換です。コロサイ二章十二節からに、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と書かれています。イエス様がよみがえられた時、「わたしは天においても地においても、一切の権威を受け取った」と語られましたが、バプテスマを受けるときに、私たちはイエス様と同じよみがえりポジションに変えられるのです。これは今までの、悪魔に奪われていた権威が奪い返され、もう一度、オリジナルの権威のポジションに変わることです。また次に、二章十三節から十五節に、

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

と書かれています。「彼ら」とは悪魔・悪霊です。私たちがイエス様を信じる前、バプテスマを受ける前は、権威のポジションが悪魔に取られていました。しかしイエス・キリストを信じバプテスマを受けると、罪が赦され、債務証書が無効にされ、悪魔の持っているすべての武装が解除され、悪霊が捕虜とされるのです。
 ここにおられる多くの方が、すでにイエス様を信じてバプテスマを受けられました。受けられた方は、権威的に悪魔の上に立っているのです。まだバプテスマを受けられていない方は、将来バプテスマを受ける決意をして下さい。そうしたら、同じ権威の中で守られると思います。バプテスマを受けたら、イエス様がバプテスマを受けたときに、奇蹟を成し、悪霊に勝利するようになったのと同じように、私たちにも、ポジションの転換が起こされるのです。今日、すでにそのようなポジションが与えられていることを知って下さい。そして神から語られた言葉を受け取って、私たちに問題を持ち込む悪魔・悪霊に命令を下すならば、言葉だけで、それらをはねのける権威が、私たちに与えられるのです。
 マタイ十六章十八節から十九節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 これは、私たちが地上でつないだり、解いたりするならば、天においても同じようになるという約束です。そのような権威が皆さんに与えられているのです。これは素晴らしいことです。
 今日バプテスマを受けられる、宮城さんの証を少ししたいと思います。宮城さんの奥さんは、一ヶ月間、家から出ることができませんでした。色々、へんな声が聞こえ、恐くて一人で過ごすことが出来ませんでした。ご主人も仕事を辞めて一ヶ月間付き添っていました。愛のあるご主人です。しかし、どうにもならなかったそうです。しかし約一ヶ月前、新城教会に来られました。
 それで、「私たちのポジションは神、人、悪魔」ということを信じて、彼女のために祈りました。悪魔の力が打ち破られるようにと祈りました。すると、彼女は完全に癒されました。元気になり、神の力を体験したのです。それで、ご主人も一緒にバプテスマを受けられます。主に栄光をお返しします。
 しかし、その裏に、もっとすごい証があります。今日、お姉さんが共に来ておられますが、お姉さんは、小学校の頃から摂食障害で病院に長い間、入院されていました。そして何度も、自殺未遂を繰り返し、もう助からないと何度も宣告され、家族は完全に希望を失っていました。しかしある時に、新城教会で摂食障害から解放された人の証を私がどこかで語ったのをカセットで聞いたそうです。それで、イエス様が癒してくださるのならば、癒していただきたい、彼女は沖縄に住んでいますが、わざわざ新城まで来られました。
 自殺を繰り返すのは人間の力ではありません。後ろに死の力があります。死の力が訴えているのです。死にたいと思ったら、自分の気持ちだとは思わないで下さい。
 その日、彼女が教会に入って来ました。「一人で来たの」と聞くと、「いや、主人と一緒です」と言いました。それで、ご主人も中に入るようにと勧めました。すると彼女は、「主人を連れに行きます」と言って教会を出て行きました。
 するとなかなか帰って来ないのです。どうしたのかと思って待っていると、茶臼山の駅付近で、急ブレーキをかける電車の音がしました。何があったのかと胸騒ぎがしました。
 新城教会には、礼拝以外にも毎週、色々なドラマがあるのです。何があったと思いますか。彼女が電車に飛び込んでいました。しかし電車が今にも止まるところだったので、引かれないですみました。私は大へん驚きました。もしも、少しでも間違ったら、彼女は生きていませんでした。その後、彼女はここに連れてこられました。私は、それが絶対に人間的な力ではない、悪魔の力、死の力であるとわかります。
 「イエス様の御名によって、悪魔の力が打ち破られますように!」と祈りました。その時、神が働かれました。それから彼女は癒されました。それで、自分の弟の奥さんが病気であることを聞き、同じように、癒されるに違いないと、わざわざ沖縄から愛知県に来て、連れてこられたのです。そしてお姉さん同様、弟さんの奥さんも癒されたのです。
 神は死から命に変えて下さるお方です。私たち教会、クリスチャンは、神の権威の下にあり、神の権威が既に委ねられているのです。この事をしっかりと理解したら、イエス様が行ったのと同じように、悪霊は出ていきます。そして勝利が現されます。これから日本にこのようなことが多く起こされますように。
 戦争は絶対に人間のわざではありません。背後に悪霊が働いているのです。人間を殺し、盗み、滅ぼす目的の悪魔がいます。その力が打ち破られるように祈るべきです。死と破壊の力によって働いている悪魔に勝利できるのは、霊的なポジションを回復されたクリスチャンです。私たちが祈らなければ、今度は私たちの子どもや孫の時代に、同じことが繰り返されます。どこにも勝利者はいないのです。
 毎年、日本では三万人以上の人々が自殺しています。多くの人が苦しんでいます。悪魔が働いています。これに勝利するためには、ポジションが回復された教会、クリスチャンが必要です。今日、皆さんには、神の権威が回復されています。このポジションを奪われることがないように、悪魔に許可を出すことがないように、いつも神の栄光を仰ぎ見る者として、神から託された権威を使うことができるように祈りたいと思います。
 決して権威は悪用する物ではありません。神がおられるゆえに使うことができるのです。
 婦人警官が手を上げるとダンプが止まります。ある日、婦人警官が手を上げました。しかしその日には、ダンプが目の前を通り過ぎるのです。そして、目の前に止まったのは、一台のタクシーだけでした。よく考えて気づいたことは、「今日は非番だった!」ということです。彼女は制服を着ていませんでした。
 イエス様を信じた者は、制服を着ています。その為に悪魔はストップします。いつも私たちは、神の制服を着て歩みたいと願います。お祈りしましょう。
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