今週の礼拝メッセージ
2002.8.25(SUN)
主の愛が今
新城教会 上條 実 牧師

旧約聖書 イザヤ書53章1節〜5節
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 ハレルヤ!主の御名を心から賛美いたします。今日は「主の愛が今」というタイトルでみことばを学んで行きます。先週日曜日の午後からは、「日本の平和を祈る祈祷会」という集会が行われました。私たち戦争を知らない世代にとっては衝撃的なビデオを見た後、岡本政次兄や夏目義高さんがご自分の体験談を生々しく語って下さいました。今年終戦五十七年迎えましたが、約六十年ほど前のことを、さながら昨日のように思い出してお話下さいました。ビデオは二時間番組でしたが三十分に編集したものを見ましたが、短い時間でも、何て大変な事を日本はしたんだろうと心から日本の犯した罪を自分の罪として祈ることができました。私が特に感動したのは、最後に順牧師が戦争体験者を前に出てきて頂き、彼らの戦争で受けた傷の癒しのために、祈ることができたことです。私たちには想像できないほどの苦しみや傷を受けてこられたことを思う時、完全なる癒しが与えられるように祈る事ができました。また体験談を語って下さったお二人が、昨日のことのように語って下さった事に驚きました。それだけ彼らにとって大きな傷を残し、日本にも傷を残しているのだと思い知らされました。彼らが多くの人を殺し、傷つけ、自分も傷つけられ、多くの同僚が殺されてしまった・・・語ることができない程の深い傷を今も負っている事に、心から癒されるよう祈るしかありませんでした。またこの近くの浜松市、豊橋市、豊川市でも空襲があり、多くの人が犠牲となられた。その遺族の悲しみと、その地域の癒しを祈らなくてはいけないと教えられました。私にとっても、この教会にとっても、また日本にとっても貴重な祈祷会を持つ事ができました。そしとて次の日の朝、私が御言葉を学んでいる時、神様がこんな御言葉を私に語ってくださいました。それはエレミヤ書三十三章六節に

『見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。』

という御言葉です。また、エレミヤ書三十章十七節に、

『わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。――主の御告げ。――あなたが、捨てられた女、だれも尋ねて来ないシオン、と呼ばれたからだ。」』

というみことばでした。前回私がここに立たせていただいた時「イエス様がかしらであり、私たちは各器官である」とお話ししました。一つの器官が苦しめば、体全体が苦しむとあります。今日一人でも心が傷つき、苦しんでいたとしたら、その人の苦しみ、傷は教会全体の苦しみ、傷として教会が苦しんでいることを覚えて下さい。『わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。』、『わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。』という御言葉をいただいた時、自分自身が癒されていくことと同時に、この教会の傷を癒していただきたいと願わされました。イエス様がかしらで私たちが各器官の教会が、神の権威の中で私たちは強い、生きたクリスチャンにならなくてはいけないことを教えられました。私も過去振り返ると色々なことがありました。もう十六年も前になりますが、原因のわからない病気になりました。東京の病院に検査入院を一ヶ月間し、非常な痛みの中で苦しんだ時がありました。初めのきっかけは、咳が出て胸が痛くなりました。はじめ新城のとある病院で見てもらった所、心臓が悪いと言われ、薬を頂いて飲みました。しかし薬が合わず、余計悪くなってしまいました。その当時家内の妹が東京で看護婦をしており、良い先生がいるから一度見てもらったらと言う事で、その東京の病院へ行って検査すると、今度は肺が悪いのではと言われました。つらい痛みの中、一ヶ月間検査し続けましたが、なんの病気か分かりませんでした。当時自分の信仰はすべてに否定的で、不信仰なものでしたが、不思議な方法で神様は癒してくだいました。あのことを考えると闘病生活が昨日の出来事のように私も甦ってきます。大変つらい出来事でした。二度とあんな苦しい目にはあいたくないと願っています。しかし先週関西40DAYSのファイナルウィークのため会場を下見したり、事務的な仕事を忙しくしている時、不安になったことがありました。それは、自分が十六年前、病気になったと同じ痛みが右の胸の辺りに起こりました。痛み出したとき、あの時と同じだ。十六年前の病気が再発したのかと思い、いろんな事を考えました。また入院になったらどうしよう。あの痛みはもう経験したくない。などなど考えている内に自分がどんどん暗くなってしまいました。不安で心が一杯になりました。そんなことは絶対ない。イエス様が助けてくださるとわかっていながらどんどん、暗闇が大きく膨らみました。しかし今は何ともなくその時だけで癒されましたが、あの病気は私にとっては傷となっており、もう一度自分もその傷が癒されるように真剣に祈る事ができました。過去の事を考えると病気もすごく辛かったし、その他、人に言うことのできない、問題、傷がある事に気づかされました。みことばを読んでいた時イザヤ書五十三章五節に、

『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

と書かれています。肉体的な病いだけではなく、私たちの心の傷も癒してくださるということを御言葉を読み、感謝しました。だれにも知られたくない自分の傷。だれにも言いたくない事、思い出したくない出来事、思い出してしまったら、喜びが止まってしまうことがあると思います。昔の傷が再び痛み、苦しんでしまうことがあります。ある方は昔の罪にたいして、思い出すだけで苦しくて平安がなくなるような方もあるかも知れません。皆さんは神様の中で癒されていますか?まだ癒されていない所があるならば、完全に癒されるようお祈りしましょう。
 またこの教会の傷を考えても十年ほど前に一緒に礼拝していた愛する兄弟姉妹が霊的戦いの混乱の中で理解できず、また私たちの足りなかったところもあると思いますが、分裂してしまった。また新城教会の歴史を考えるとき他にも教会の傷があり、まだ癒されていない所があるのではないかと思わされます。個人と同時に教会の傷が癒されるように祈って行かなくてはいけないと教えられます。個人が癒されれば、教会が癒されます。だから今日あなたの心の奥底まで点検させて頂き、すべての傷が癒されるようにお祈りしていきたいと思います。霊的戦いをしていけば行くほど、教えられる事は聖さです。それと同時に心の奥底にあるものまでも全部、神様に委ねる事、解放される事です。ヨハネの福音書八章十二節に、

『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』

と書かれています。イエス様を信じたら、イエス・キリストが世の光であり、私たちはいのちの光を持つことができるとあります。絶対に私たちは闇の中を歩むことがないとあります。昨夜誰もいないこの会堂で、電気をつけないままお祈りしました。夜電気をつけないと真っ暗です。しかし昼間は全部何もかも見えると同じように、私たちの心はイエス・キリストを信じる前は真っ暗闇であり、罪だらけで神様を見ることができない状態であったかも知れませんが、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださり、葬られて三日目によみがえってくださった。十字架で流してくださった血潮で、罪が赦され、光の中を歩むことができるというのがこの御言葉です。イエス様は世の光です。世の光であり、暗いところは何もないと聖書に書かれています。しかし、私たちはまだ光が届いていない、多くの傷が残っていないでしょうか。蓋を閉めきって、絶対に開けてはいけない、ここには触れてもらいたくない、祈ってもらいたくないというようなところがありませんか。今日、イザヤ書五十三章の御言葉を覚えてください。あなたのためにいのちをかけてイエス・キリストが体験してくださったことを覚えてください。二節からに、

『彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。』

と書かれています。イエス様は輝かしく、明るい顔をされた、知的なイメージの神様だと想像しがちです。聖書物語を見るとイエス様はひげを生やして、温厚な姿に描かれています。しかし聖書は、イエス様は『見とれるような姿もなく』また、『輝きもなく』『慕うような見栄えもない』と書かれています。今の言葉で言えばただのおじさんという言葉に適するような、光るところが何もなかったようなイエス様の姿が書かれています。また三節には、

『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』
と書かれています。この所は十字架の預言が書かれていますが、十字架の時はイエス・キリストは誰からも背けられ、のけ者にされてしまうほど哀れな人間の姿をとり、十字架で死なれました。そして四節に、

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。』

と書かれています。私たちが味わう苦しみ、いやそれ以上の苦しみをイエス様は受けて下さり、極悪死刑囚がかかる十字架にかかられ、葬られて私たちを救って下さったことが分かります。ということは、あなたがまだ隠し持っているような心の傷も全部イエス様が、既に痛みをになってくださっているというのです。しかし、私たちは周りの人にそれが知られたら恥ずかしい、など自分から心の扉を閉ざしてしまっています。今日覚えてください。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架にかかってくださり、葬られ、いのちを捨てて三日目によみがえってくださった、この出来事は、罪を赦し、永遠の命を下さるだけではなく、あなたのすべての病い、心の傷までも癒して下さるためであったことを覚えて下さい。五節に、

『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

と書かれています。イエス様があなたのために苦しみを受けて下さいました。あなたのために十字架で血潮を流してくださり、あなたのためにイエス・キリストが滅んでくださったことを覚えてください。信じた時救われます。しかし今日、中途半端にイエス様を信じるのではなく、あなたが百パーセント心を開いたときに神様が助けて下さいます。心を開きつつも「ここだけは触れないでください」「ここだけは見ないでください」と扉を閉めてしまったら、神様はそこに触れることはできません。今日あなたはイエス様の中にあって癒されます。イエス・キリストは多くの傷を受けてくださいました。その打ち傷のゆえにイエス・キリストは癒されたと聖書に書かれています。今日あなたは神様の前に、「神様、まだこんな傷があります。こんな知られたくないところがあります。主よ。赦してください」と心の扉を開け時、光を投じてくださいます。今日百パーセント私を癒し、赦してくださいと神の前に祈ってください。第一ペテロ二章二十四節に、

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』

とも書かれています。打ち傷のゆえにあなたがたは癒されるとあります。また詩篇一四七篇三節には、

『主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。』

と書かれています。主の心の打ち砕かれた者は、主の前にへりくだり、全部神の前に明け渡す時いやして下さいます。イエス・キリストはあなたの傷を癒して下さる方であることを覚えて下さい。人がどれだけ優しい言葉で慰めてくれても、大丈夫だよと言ってくれても、一時的にしか癒されることはできません。しかし今日解決はイエス・キリスト以外ありません。だからその神の権威をしっかりと認め、十字架の上で流された血潮はあなたを救い、打ち傷によってすべての傷を癒して下さるのです。「わたしは世の光です。決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われたイエス様があなたの暗い部分に光を届けて下さいます。しかし光が見えなくなる原因があります。それは何でしょうか。光が見なくなる原因は第一ヨハネ二章十一節に、

『兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。』

と書かれています。「兄弟を憎む者は」とあります。解放の祈りの中で「憎しみ」という部分をよく祈ります。私たちの心の傷は、人間関係の中で傷つきます。人の言った言葉や行動で傷つき、「赦せない」とか「憎しみ」が生まれてきます。今日あなたはすべての人を愛する事ができますか?すべての人を受け入れる事ができますか?憎しみがあったならば、イエス様を見る事ができません。今日神の前に告白しましょう。「憎んでいる人を赦します」と神様に告白して祈りましょう。神様は真実な方ですから、絶対に触れて欲しくないような部分にも光を照らして下さいます。今日心の扉を開けて、神様に祈りましょう。先ほども言いましたが、私たちは人の慰めの言葉では一時的な者であり、根本的には直すことができません。しかし、聖書は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言っています。一番奥底まで神に光を照らしていただき、人に言わなくても、イエス様に告白して祈りましょう。そして百パーセント癒しをいただきましょう。私たちの教会は今日も行いますが、毎週のように聖餐式を行います。この聖餐は御霊によって、イエス・キリストの体と流してくださった血潮です。そのことをしっかり覚え、頂きましょう。そして全能なる神の力によって、傷ついた心に触れてくださり、癒していただきましょう。今日あなたがイエス・キリストが生きていて真の神であると信じたら癒されます。神の御言葉は、間接と骨髄さえも刺し通すと書かれています。通ることができないようなところを神の御言葉は差し通すことができるとあります。今日イエス様を百パーセント受け入れて祈りましょう。あなたのためにもう救いは完成されています。イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかってくださり葬られ、三日目によみがえって下さいました。傷を受けてくださったのはあなたの肉体の傷だけではなく、心も癒して下さいます。いつまでも引きずって辛い人生を送るのではなく、イエス・キリストを信じたときにすべてが生まれ変わり、神様は百八十度変えてくださるという約束を信じて下さい。
 最後にいくつかの御言葉を皆さんと一緒に宣言したいと思います。告白は大きな勝利があります。神様の前に宣言しましょう。第一ペテロ二章二十四節、

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』

マタイの九章二節

『すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。』

第一ヨハネ一章九節

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

イザヤ書五十三章五節

『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

このみことばを百パーセント信じ、イエス様を受け入れ、明け渡したときにあなたを慰め、励まし、傷をいやして下さいます。お祈りしましょう。
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