今週の礼拝メッセージ
2002.9.1(SUN)
あなたには、神の権威が委ねられています−part2−
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 マタイの福音書8章5節〜13節
イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

 ハレルヤ!皆さんと共に御言葉を学ぶことができ、感謝します。昨日は、こちらから大勢の方が「関西40DAYS」に出かけられ、今日も向こうにとどまっている方が六十名、七十名おられます。また、十一時半には、礼拝を終えてそちらへ向かわれる方もおられます。本日が「関西40DAYS」の最後の日となります。祝福されるよう、ぜひお祈り下さい。昨日も天候が支えられましたが、今日も多くの方が来られる事を期待しています。
 今から学ぶ御言葉は、八月十八日の続きです。その時の御言葉は、私自身にとっても大へん恵まれました。神から御言葉を頂けることは嬉しいです。真理に気づかせていただくこと、そして、一つの霊的法則に気づかされることは大きな喜びです。講壇から御言葉を語るにも、自分が感動していなくて、どうして人に感動を伝えることができるでしょうか。やはり自分自身が御言葉に感動するなら、他の人にも伝えることができます。福音を宣べ伝えることについても同じです。自分が救われた喜びに満たされていなくては、福音を人に語ることはできません。
 前回語らしていただいた御言葉を通して、神が私たちに権威を与えてくださっていることに、自分自身、気づかせていただき嬉しく思っています。詩篇八篇五節に、

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

と書かれています。人は神よりいくらか劣る者、すなわち、少しだけ劣るものとして創造されました。神が天地万物を創造したとき、権威の順序の中で、神の次に権威ある存在として人類を造って下さいました。そして、悪魔・悪霊は決して私たちよりも権威が上ではないということを前回話しました。
 私たちの教会では、毎週語られるメッセージのテープを起こし、文章となっていますので、八月十八日のメッセージを忘れてしまった方は、ぜひ受け取ってお読みください。
 私の家族は、私が語るメッセージをあまり誉めてくれません。悪いところをたくさん指摘してくれて、良い勉強をさせられますが、娘が「八月十八日のメッセージは恵まれた!」と言ってくれました。
 イエス・キリストを知ることは、権威のオーダーが正しい順序に戻ることです。人類は罪を犯したがゆえに、蛇族に属するような「悪魔・悪霊」に権威を奪われてしまい、この世界は、悪魔の手に渡ってしまいました。しかし、イエス・キリストを信じることにより、またバプテスマを受けることによって、権威が回復し、神の権威を委ねられて生きることができると話しました。
 福音書の中で、イエス様が「驚かれた」と記されているところはそんなに多くはありません。私が調べた所によると、民衆がイエス様のわざに驚いたところはたくさんありますが、イエス様ご自身が驚いたのは一ヶ所だと思います。しかし悪い意味で驚かれた箇所は他にあります。良い意味で驚かれたのは、この百人隊長の信仰についてです。驚いたのは百人隊長が気づいた真理についてです。「この霊的法則に気づくとはすごい!」と驚かれました。マタイ八章十節に、

『イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』

と書かれています。イエス様は、百人隊長の持っていた信仰理解に驚かれました。
 案外私たちは、「信仰」の定義がハッキリしていません。信仰とは、「信じること」と平たく考えますが、現代の神学者たちは信仰に関して定義してます。その一つが、「信仰とは、意志も知性も含め、自己のすべてを神的存在に向ける態度である。全実存を傾ける性格」と定義されています。もちろん単に信じるということも含みます。しかし、それ以上に、「全実存を神に傾けること」が「信仰」です。
 百人隊長の持っていた信仰の態度が素晴らしいとイエス様は驚かれました。しかし、一方、イエス様が驚かれたのは、イエス様がご自分の育ったナザレという村に行き、彼らの「不信仰に驚かれ」ました。
 信仰とは神にどれだけ自分の人生を傾けるかにあります。その中での神理解は重要であり、百人隊長の理解は素晴らしかったのです。
 彼は軍隊に属していました。軍隊では、上官が発した言葉はただの言葉ではなく、それは直ちに行動となり、やがて結果となって現れるという「権威の法則」を体験します。
神は見える世界も、見えない世界もすべてを造られたお方です。コロサイ人への手紙一章十六節に、

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。』

と書かれています。これは天地宇宙が神によって造られたという記述であり、見える世界と同時に、見えない世界の王座、主権、支配、権威というものも、イエス様によって創造されたと告げているのです。組織的なものは人間が作り出した産物のように思いますが、国々の秩序や権威的組織も、元々は神が造ったのです。そして見える世界がすべて、組織によって成り立っているように、見えない世界も組織だっています。その中には、丁度、軍隊と同じように、上官の命令が下に言葉として伝えられるならば、それが行動となり結果となるという法則があるのです。
 人間は神に次ぐポジションです。ということは、私たち人類は、神の命令をそのまま聞けば良いのです。そしてその命令を下のポジションの存在にそのまま流せば、それが行動となり、結果となって現れるのです。
 先週のメッセージは上條実先生が「主の愛が今」というタイトルで、イザヤ書五十三章一節から五節の御言葉から、癒しのメッセージを語りました。神が私たちのために癒しを用意されたという約束を受け取るならば、心も体も癒しを受けることができるのです。マタイ八章を読むと、百人隊長のストーリーの後、十四節から、

『それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』

と書かれています。命令系統の中で、言葉を発しただけで癒しが起きたというストーリーの後、またもやイエス様が言葉を発しました。すると、ペテロの姑の熱が癒され、イエス様のもとに連れて来られた人たちが皆、癒されました。イエス様は、言葉を使って人々を癒されました。なぜならば、それはイザヤ書五十三章の預言の成就だというのです。「彼(イエス)が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」だから、イエス様が語られたとおりに、私たちはイエス様の言葉を受け取り、その言葉を、すべてのわずらい、問題に投げかけるならば、その言葉はただの言葉ではなく、神の命令なので、命令系統の中で業が起こるという法則です。聖書の言葉は、ただの言葉ではなく、神の権威の流れの中で用いられる命令です。私たちはそれを、神に次ぐポジションで受け取り、すべてのわずらいや問題に対して、神の言葉を宣言していく信仰が必要です。
 実は、来週私は、宮古島に行きます。宮古島は沖縄から南に下ったところです。そこで霊的戦いセミナーがあります。それは聖公会という、カトリックとプロテスタントの中間のような教会で行われます。そこで霊的戦いセミナーをします。聖公会では祈りを自由にしません。祈りのためには、祈祷文があります。
 そのような伝統の中で、あるとき教会の重要な人が、病気になりました。教会はこの人の癒しのために祈ろうとしました。しかし、その人の病のためのぴったりとした祈祷文がなかったのです。「どうしようか」と皆で話し合い、自由に祈ってみようという意見が出て、皆で手をつないで病人のために祈ったそうです。
 「イエス様、聖書の中であなたは、私たちのわずらいを引き受けてくださったとあります・・・!」と祈ったそうです。伝統で固まったような教会でも、神の権威を信じて祈ったら、なんと、その人の病が癒されたのです。教会では、「こんなことは前代未聞だ」と驚きました。
 するとその教会の司祭が驚き、「私のために祈って下さい」と信徒たちに言いました。実はその司祭は、一つの問題で苦しんでいたのです。なぜなら、彼はアル中だったのです。しかし皆が祈ると、今度は司祭のアル中が直ったのです。彼は新鮮な感動を受けました。するとまたもや、ある人が病気になり入院して、集中治療室に入ってしまいました。面会謝絶でした。しかしその司祭は、「この人の病は必ず癒される」という信仰があり、面会謝絶の所に入っていき、大胆に病人に手を置いて祈りました。すると、その人は奇跡的に癒されて、集中治療室から出てきました。
 なぜ、彼には信仰があったのでしょうか。それは、集中治療室に入っていた人も、彼と同じ、アル中患者だったからです。彼は自分が癒されたので、「この人も癒されるはずだ」と信じ実行しました。それからその教会は変わってしまいました。
 今、彼は、沖縄ではなく、宮古島に転任して行きましたが、そこでも霊的戦いの勇士となりました。「順先生、宮古島に来てください。教会で戦いのセミナーをしてください」と言われました。神の御言葉の権威を神から預かった命令、権威として使い始めると素晴らしいことが起こります。
 私にとって、宮古島に行けることは嬉しいです。一九九二年に、甲子園ミッション準備のために全国の教会を廻ってリバイバルのために祈りました。その時、宮古島まで行って祈りました。その時、今回会場となる教会の前にも行って祈りました。マリヤ像などが建っていて、教会の横にはユタの集まる拝所があり、あまり霊的環境の良いところではないと思いましたが、私たちは教会の祝福を祈りました。まさか十年後、この教会で霊的戦いセミナーが出来るなどとは、当時、夢にも思いませんでした。しかし、何と、私たちの不信仰な祈りを神が聞いてくださいました。
 キリスト教も伝統化し、祈りも祈祷文になり、聖書の言葉もただの物語になったら、力を失います。しかし、神の御言葉を神の権威として受け取るならば、人生の中に素晴らしいことが今でも起こるのです。
 今、学んでいる百人隊長についての記述は、マタイの福音書八章のほかに、ルカの福音書七章にも記されています。
 聖書は色々な記者によって書かれ、一つの事柄を別々の視点で記している箇所がいくつかあります。この箇所も二つの記事を照らし合わせると、全体像が浮かび上がります。人間一人ひとりには異なった視点があります。聖書も、筆者によって視点が違います。細かく見ている記者と、大ざっぱに見ている記者、また、強調点も違います。ルカの取材には、マタイよりも細かい視点があります。ルカの福音書七章二節から、

『ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。』

 マタイの福音書と、ルカの福音書を読んでその記録の違いがわかりますか?マタイの福音書は、イエス様のところに百人隊長が来て、「直訴した」という立場で記されています。しかし、ルカの視点は更に細かく見ています。

『百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。』

と記しています。マタイの記述では「百人隊長が来た」ということになっていますが、実は、本人は来ていません。まず、百人隊長は、イエス様のところに、「ユダヤ人の長老たち」を送ったのです。百人隊長はローマ人だったので、親しくしていたユダヤ教の長老たちに頼みました。「何とか、うちのしもべを助けてもらえるように、イエス様に同胞として頼んでくれませんか?」
 百人隊長から、ある意味、命令を受けた長老たちがやってきてイエス様にお願いしたのです。するとイエス様は、「行って直してあげよう」と言いました。
 イエス様は当時売れっ子の先生です。忙しい方でした。「来てください」と言っても、そう簡単に、個人の家に呼ぶことができるような先生ではありませんでした。しかしイエスさまは、嫌な顔を一つしないで、「行って直してあげよう」と希望の言葉を語られました。長老たちは百人隊長にすぐ伝えたと思います。
 イエス様は今も昔も同じお方です。「わたしは毎日、世界中の人々からの祈りを聞いていて、ノイローゼになりそうだ。うるさい」とは言われないのです。あなたの祈りを聞いたら、「行って直してあげよう」と、あなた個人のために、行動を開始してくださる方であることを知って下さい。
 私もこれを見習わなくてはいけないと思っています。イエス様ほど力があったら、「病人よ、集まれ!皆、手をつないで下さい。今から癒しの油注ぎが来るように祈ります。直れ!」というと、聖霊が降って、全員の病がいやされると思います。しかし、イエス様は、一人ひとりに手を置いて、祈ったというのですから、すごいと思います。私も、イエス様のようになりたいです。イエス様のようにへりくだった、腰の軽い牧師になりたいと願います。
 百人隊長が、イエス様の所に長老たちを送りました。するとイエス様は、「行って直してあげる」と言われました。イエス様が行動を起こされました。すると、マタイの福音書を見ると、百人隊長が、「主よ、私にはあなたを屋根の下に入れる資格がありません。」と語っています。しかし、実は、ルカの福音書の記述によると、ルカ七章六節、

『イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。』

と書かれています。「屋根の下にお入れする資格はない」と語ったのも、百人隊長が語ったのではなく、「友人を遣わして」語らせました。すると、イエス様はその言葉に感動され、「あなたのしもべは癒される」と宣言されました。しもべは、そのとき、癒されたと記されています。
 マタイの福音書と、ルカの福音書を照らし合わせると、百人隊長は全くイエス様と顔を合わせていないことが分かります。百人隊長は、「ただ言葉だけをください」と言うことに終始したのです。
 私たちから考えたら、「そんなに頼みたかったら、実際に本人が出て来い!」と思うかも知れませんが、軍隊の方式は違うのです。上官が先に出ていくのは順序が違うのです。まずは命令を下して、下の者が遣わされていくのが軍隊の命令系統だったのです。百人隊長は、軍隊組織の秩序の中で、言葉は結果を生むという原理をよく理解していたのです。そして、人間よりも権威のあるイエス様から言葉をもらったとき、しもべは癒されたのです。
 ここに、前回語らせていただいた、見えない世界の霊的法則と、権威の伝達の順序を見ることが出来るのです。そして「言葉さえ」受け取るならば、それは現実となって結果を生むという法則を見いだします。
 神は、「神、人、獣」という権威を定められました。私たちは、神に次ぐ、二番目に権威ある存在ですが、悪魔・悪霊は私たちを訴え、色々な問題を持ち込みます。しかしそれらに関して、私たちは神の言葉をそのまま、命令として彼らに伝えるならば、彼らは命令に従わなければならないのです。聖書の御言葉は、神が人間に発せられた命令の書です。私たちはその言葉を上官からの命令として受け取り、今度は私たちよりもそもそも位が低い、悪魔・悪霊に対して宣言しなければなりません。神の言葉が私たちを通して、悪魔・悪霊に伝えられた時、悪魔は全く働くことはできないのです。ここに素晴らしい権威の法則を見ることができます。
 今回、私は特に「言葉」に関して感動しました。ぜひ、聖書の御言葉を神の「命令の言葉」として、受け取る態度を持ちたいと願います。「神様、あなたは私にどのような命令を発してくださるのですか?」
 この命令は、私たちだけにとどまりません。その下に属する存在に対して適応できます。私たちは人生において、色々な煩いを体験しますが、それに対して、神はイザヤ書において、「神が私たちの煩いを身に引き受け、私たちの病を背負った」と命令を発せられました。ということは、私たち人間のために、神が発してくださった命令を受け取れば良いのです。そしてそれを、すべての煩いや病の背後に関わる霊的存在にはっきりと宣言できるのです。そうすれば、神の御わざが現されます。この法則を使ってください。神の言葉を今週は受け取りましょう。今週聖書を読むときには、「私に御言葉からの命令を授けてください」という祈り心で読まれると良いと思います。
 先々週の日曜日、一つの家族がここに来られていました。その方は、とても喜んで来られました。礼拝が終わってから、その方々のために祈らせていただきました。
 実は、去年の暮れに、この家の奥さんが子どもを連れて新城教会に来られました。その方はずっとノイローゼで、夫婦は別居していました。そして息子は自閉症で、たいへんかわいそうな状態でした。奥さんは子どもの世話も満足にできず、滅茶苦茶になっていた家庭でした。その件に関して、ある牧師から電話があり、「その人がそちらに行くのでお願いします」と言われていました。出会ってみると、その方はある意味、精神的錯乱状態で、子どもは自閉症で走り回って、手に負えないような状況でした。奥さんは、「私は主人との回復は望みません。毎月の生活費を振り込んでくれればそれで良い。」と言っていました。私は、「このような不幸の人が、どうしたら良くなりますか」と神に祈りました。特に、その人の家族や親族を家系を通して背後から攻撃している存在が、完全に打ち破られるようにと祈りました。
 そのとき、神が働いてくださいました。そしてその方は家に帰って行かれました。しかし頻繁に教会に来られる状態ではありませんでした。けれどもその方は、病気の中でも神と御言葉に信頼しました。家に帰ってから、彼女は大変な中でも神を真剣に求めました。「神様助けて下さい。私はこの子どもを抱えて、精神的にも行き詰まり、どうすることもできません。助けてください」と祈りました。
 しばらくすると、電話がありました。「もしもし、順先生、大変なことが起こりました。主人が脳溢血で倒れて、今、集中治療室にいます。」ご主人のためにも祈っていましたが、倒れたと聞いて驚きました。ご主人はアダルト・チルドレンという症状があったそうです。アダルト・チルドレンとは、普通の生活が成り立たないものだそうです。ご主人が倒れたために、別居はしていても法律上は彼女が奥さんなので、だれもほかに看病する人がいないので、彼女が病院に呼ばれました。それで、奥さんは毎日集中治療室に入り、「神様、夫を癒して下さい」と祈り、また、ご主人に愛をかけたそうです。アダルト・チルドレンという症状は、育った家庭に問題があり、愛を受けていないというところに原因があるようです。毎日のように、ご主人に愛をかけて祈ったそうです。すると神はその方を癒して下さいました。そして、その病気が直っただけではなく、病院から退院したときに、倒れたときに脳のアダルト・チルドレンの症状の回路が飛んだのか、正常になったのです。そして家に戻ってきて、今まで全く主人としての生活ができなかった人が、良く働くようになり、ごみ出しをしてくれたり、子どもの世話もするようになり、奥さんを愛するようになりました。そして、その家庭に回復が訪れました。なんと、自閉症の息子さんも良くなってきて、今回礼拝に来られたときには、ずっと席に座っていました。そして、「ありがと」と声を出すようになり、また、「お母さん、ありがと。」と二音節を話すようになりました。
 始め奥さんは、「主人を取り戻すことは、期待していない」と言われましたが、神の御言葉を信じて祈ったときに、悪く見えるような事柄も通して、夫婦関係さえも回復して下さいました。そして先々週の礼拝に来られたのです。ご主人は礼拝に出席して感動され、「今度私は、新城教会に来てバプテスマを受けます」と言われました。
 神の言葉は、現実的に力をもたらすのです。「言葉」に鍵があります。神の「言葉」に信頼して下さい。「神の命令」として、言葉を受け取るときに、生活の中に現実として結果が現されるのです。今週は、神の言葉を体験する週となりますよう、お祈りしたいと思います。神の兵士として神の命令を受け取りましょう。
 パウロもテモテへの手紙で『キリストイエスの立派な兵士として私と苦しみを共にしてください』と語りました。パウロの理解も、「私たちはイエス様の兵士」だという理解でした。私たちが「兵士」であったら、イエス様の言葉を「命令された言葉」として用いることができます。イエス様の兵士として、百人隊長のような素晴らしい信仰の持ち主として、全生涯をかけて主に従い通していきたいと願います。一言お祈りします。
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