今週の礼拝メッセージ
2002.9.8(SUN)
賢い人はだれ?
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 エペソ人への手紙5章15節〜18節
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 ハレルヤ!皆さんとともに主を礼拝できることを感謝します。先週は「関西40days」を無事終えることができ、感謝します。リバイバルミッションは、来年、名古屋で行われます。ぜひ、覚えてお祈り下さい。
 今日は「賢い人はだれ?」というタイトルで学びます。聖書は私たちが賢く生きるためのマニュアルです。私たちは教会に来て、聖書の中から御言葉を学び、日頃の生活でそれを実行します。そして、人生には、神の新しい力が溢れます。
 一般に「賢い人はだれ?」と聞くと、「勉強ができる人」と答えるかも知れません。私は今まで勉強が出来たためしがありません。小学校三年までは良かったのですが、四年生からはあまり良くありませんでした。中学校に入って最初の学力テストは、百八十人中八十七番でした。高校の時もあまり良くありませんでした。四十人中で真ん中くらいでした。しかし、大学の時はよくできました。けれども大した大学ではありませんから、それも大して威張れるとではありません。何れにしても、あまり成績は良い方ではありませんでした。一般的には賢い人とは、頭の良い人です。自分の卒業した学校が良かったら、「私は賢い」と思います。先日ある人と出会いましたが、その人は五分に一度は自分の学歴について話しました。彼の話の内容は、常に、自分の学歴と子どもの学歴のことばかりでした。私がリバイバルについて語ると、またその話しに戻しました。「その話しは辞めてましょう」と言っても駄目でした。しかし、一般社会には、ほんとうに頭の良い人がいます。それはそれで神の恵みとして感謝しましょう。しかし、賢い人のに対する、聖書の価値観は違います。_コリント一章十九節に、

『それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」』

 神については、頭が良ければ理解できるというものではありません。神の知恵に満たされないと理解できないのです。そして、「神の知恵」について知った人が「賢い人」です。今日は神の知恵によって、賢い者とされたいと願います。
 今からエペソ人への手紙から学びますが、全体をよくお読み下さい。この書は全体的に、素晴らしい神の知恵を私たちに提供しています。五章十六節に、

『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』

 私は今年で五十一才になってしまいました。私は、昔から「順ちゃん」と呼ばれて親しまれてきました。今朝も昔の知り合いから電話があり、「順ちゃん」と呼ばれましたが、順ちゃんも大きくなって五十一才になってしまいました。今までの人生よりも、これからの人生の方が短くなってしまいました。いくら生きても、あと、五十年くらいかと思います。若いときは短いです。あっと言う間に年をとります。五十才くらいになると、元気に働くことができる期間はあとどれくらいだろうか、と考えます。今のように、ばりばり働ける期間は少ないのです。私の賛美リードは、かつては開先生に負けないくらいのものでした。しかし、今は息切れがしてしまいます。昔は飛び上がったり、走り回っても大丈夫でしたが、今は駄目です。機会を十分に生かして用いなさいとありますが、これからは一秒足りとも無駄にせず、機会を十分に生かしたいと願っています。一度しかない人生ですから、神が与えてくださっている時間を十分に用いて生きたいです。
 『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』という表現は、五章を前半から読むとよくわかります。この箇所を尾山令仁先生が訳された「現代訳聖書」で見ると、『悪い時代だからです』というところは、

『今は道徳面で腐敗堕落している良くない時代である。』

と訳されています。尾山先生は賢い人です。一人で旧約聖書から新約聖書までを日本語に訳された先生です。知恵も神のために働かせなくてはいけません。
 「悪い時代」それは、道徳面で腐敗堕落している時代です。五章では、特に「性道徳が腐敗している」ことを語っています。現代は、不倫、浮気が横行し、夫婦や家庭が破壊され、結婚前に多くの汚れた関係が結ばれます。そして、それがあたかも、普通のようになっています。賢い人とは、「機会を十分に生かす人」であり、その機会とは、「不道徳の機会に屈しない人」です。特に現代は多くの誘惑があります。若い人々の環境は大変です。多くの「不道徳の機会」に出会うかも知れませんが、そのような機会に屈しない人が「賢い人」です。
 なぜならば、そこには理由があります。神が結婚の法則を定められました。一人の男性と一人の女性を連れてきて、彼らに「一体である」と宣言されました。このとき何が起こるのか・・、そこには、「キリストと教会が一つ」という原則が当てはまるのです。キリストと教会を通して、神の力が家庭に溢れるのです。しかし「一対一」というバランスが崩れ、一人の男性が一人以上の女性と交わるならば、神の法則からはずれるため、幸せになることができないのです。教会に来ると道徳の規準がしっかりします。何が良いことで、何が悪いかがはっきりとわかります。特に、賢く生きるためには不道徳に出会っても、屈しないことです。屈してしまったならば、賢い人になれないばかりか、あなたは幸せに生きることは出来ないのです。幸せな結婚をするためには、聖く生きることが大切です。
 最近私は、「クリスチャンって最高だ」という本を書きました。その点についても詳しく書いていますので、ぜひ、お読み下さい。また次に、

『ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』

 神があなたのことをどのように思われているのか、神の思いが何かについて考えてください。私たち人間は、神によって造られた存在です。ということは、神の思いにあわせて生きていけば、賢く、失敗なく生きることができるはずです。神の思いからずれると、人生には色々な問題が起こります。常に神がどのように考えておられるのか、考えて生きるのです。「今からこのように行動しようと思うけど、今、神はどのように思われるだろうか」、「イエス様ならばどのような行動をされるだろうか」と考えるべきです。
 以前にwwjdという頭文字の入ったグッズが流行しました。アメリカで起こった運動ですが、「What Would Jesus Do?」、「イエス様だったらどうするだろうか」ということです。神のみこころを求める者になりましょう。十八節には、

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』

と書かれています。今、アル中で苦しんでいる人が多いです。私は二週間ほど前、沖縄に行きましたが、沖縄にはアル中の人が多くいます。家にこもって焼酎を飲んでる人が多いのです。それで仕事ができなくなり、人生をだい無しにした人が多くいます。私はそんな方々のためにもお祈りをしました。日本は酒社会で、酒を飲まなくてはうまくいかないという風潮があります。しかし聖書は、

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』

と語っています。この意味についてよく知る必要があります。そのことについても本に書きましたのでぜひ理解を深めるために、お読みください。
 聖書の中にはどのように考えても理解できない「神秘」があります。その一つが、後から行う「聖餐式」です。

『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

と書かれています。ぶどうジュースとパン、これを祝福して神の霊によっていただくと、ジュースはイエス様の流された十字架の血、パンは裂かれた肉と同じであるというのです。これは不思議なことです。その結果として、イエス様が私たちと共にいてくださるという神秘が人生に起こります。
 そもそも人類は、悪魔によって食物関連によって失敗しました。その結果として、楽園から追い出されました。ですから、最終的には、食物関連で取り返される必要があるのです。第一コリント十章十四節から、

『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

と書かれています。ここでパウロは、何を言いたいのでしょうか。聖餐式とはぶどうジュースとパンを御言葉に基づき、神の霊によって食します。するとそれは、イエス様の血であり、肉であり、イエス様が私たちにとどまって下さるという神秘です。
 しかしその逆もあるのです。間もなく日本では、「彼岸」が来ます。それは、春分と秋分の前後一週間を言います。これは日本特有の先祖崇拝です。一般家庭では、餅や団子、五目寿司、茶飯を仏壇に供えて食するのが彼岸の行事です。しかし、これは先述の御言葉に当てはまります。十九節に、

『私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

 仏教会や神道は信徒にほとんど教理を勉強させません。しかし、一つ熱心にさせることがあります。それは、単純に、供え物を食べさせることです。食物をささげて、それを食べさせるのです。その背後には一つの霊的原則があります。神にささげて食する聖餐式により、イエス様が共にいて下さる「逆」のことが起こります。偶像にささげた食物を食することは悪霊と交わることになり、その後、悪霊がつきまとうことになります。
 賢い人とはだれですか?それは偶像礼拝をせず、偶像礼拝のメカニズムをよく知っている人です。日本人として、偶像にささげたものを食べる機会が多くあるかも知れませんが、誘惑に負けないで神の側に立つ人が賢い生き方です。
 では、なぜここで「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」と語られているのでしょうか。それは当時、地中海東岸の小アジア地方はぶどうの産地でしたが、ぶどう酒醸造に当たり、必ず、そこでは酒神バッカスが祭られ醸造が始まったからです。ぶどう酒醸造に、「偶像にささげた食べ物(飲み物)」と同じ概念がありました。「酒を飲んではいけない」、その背後には「偶像にささげられた食品」という原理が働いていました。「ぶどう酒を飲めば悪霊が働き、人生が破壊される」という意味においてパウロは語ったのです。また、飲酒には放蕩があるとありますが、この「放蕩」とは「救われ難い放蕩」という意味です。アル中で苦しんでいる方がいますが、その背後に霊的な力が関わっています。
 これは地中海沿岸でのことですが、日本でも醸造の原点に同じ偶像礼拝があります。京都の松尾大社には、年間二回酒のための祭りがあります。仕込みの時は神主を招き、お払いをして醸造を始めます。だから飲むだけで悪霊がとどまります。日本の飲酒社会の中に悪霊が入り込んでいます。酒を少し飲むだけでも、そこに悪霊がとどまります。私はそれを研究中です。先日、奈良県の三輪山に行ったら、そこに祭られているのは酒神であり、醸造してできあがった酒を並べてささげていました。偶像礼拝を単純化させ、悪霊はとどまります。この事を理解して、酒をむやみに飲まないように注意しなければなりません。偶像礼拝との関わりをはっきり理解するなら、賢い生き方ができます。色々な状況の中で、酒を飲まなければならないような機会があるかも知れませんが、それは聖餐式の逆バージョンであることを知っていて下さい。
 私たちは御霊の食べ物、御霊の飲み物を飲まなくてはなりません。偶像にささげたものを食べてはいけません。それを食べることは悪霊と交わる事になるからです。
 次に、「御霊に満たされなさい」と書かれています。神の霊に満たされる人が「賢い人」です。「機会を十分に生かす」という中で、最終的に「御霊に満たされなさい」となっています。「機会」とはギリシャ語では「カイロス」という言葉が使われています。ギリシャ語には「時」を表す言葉が二つあり、「クロノス」と「カイロス」です。クロノスとは連続した時を表し、カイロスは特定の時を表します。例えば、コップに水を注ぎます。溢れて流れ出す瞬間が「特定の時」カイロスです。
 神は皆さんに特定の時を与えます。その時を十分に生かす人が賢い人です。神の霊に満たされているならば、神の特定の時を捕まえることができるのです。
 海外に行くと時差があります。私は南米に何度か行きましたが、時差は辛いです。南米と日本では、時差が十二時間ほどあり、生活が全く反対になっています。今は昼ですが南米は夜です。全く逆です。
 神様も時を持っておられます。神の国があり、神の国時間があります。しかし私たちがこの世の中の価値観の時間で生きていたら、神様が「今からと働こう」と語られても、私たちが寝ていては神の時に対応できません。しかし、賢い人とは、常に神の国時間で生きていて、特定の時に対応できる人です。それが賢い人です。
 私は今週、宮古島に行きます。ぜひお祈り下さい。宮古島は小さな島(島一周、車で約2時間)ですが、降霊術を行う場所が多いのです。その場所が島内に九百箇所もあるそうです。その島で霊的戦いセミナーを行います。
 そして来週は、アメリカのワシントン州ヤキマに行きます。そこでは街を変革するための霊的戦いセミナーがあります。そのセミナーにはアメリカ人牧師やリーダーが多く集まります。私とジョージ・オーティスという先生が講師です。私が霊的戦いについて詳しくて有名だから講師として招かれたのではありません。そこには神の深い計画があったのです。
 遡ると十五年ほど前のことになりますが、その頃、新城教会では教育館を建てたいと願っていました。どのようなものを建てるべきかわからなかったので、教会とはどのようなものか、教育館とはどのようなものかについてアメリカに見学に行きました。アメリカはキリスト教の先進国です。礼拝に何千人という人が集まる教会もあります。大きな教会ばかり見学に行ったので、大きすぎてあまり参考にはなりませんでしたが、良い勉強になりました。そして帰りはハワイで休憩し、泳いからで帰って来ました。
 帰る飛行機の中で、一人の婦人に声をかけられました。「もしもし、あなたはクリスチャンですか?」「そうです。クリスチャンです。」と言いました、「あなたが聖書を読んでいたので、クリスチャンだと思って声をかけました」と言われました。その人はアヤコ・ビラップスさんといいました。
 私が、「あなたはどこに行くのですか?」と聞くと、「私は日本に短期宣教師として伝道に行くのです。」と言われました。「そうですか。頑張って下さい。」と色々と話しました。そして最後に、「また日本に滞在中、中部地方に来られたら、わが家に寄って下さい。」と社交辞令のように言って名刺をあげました。
 すると、しばらくすると電話がかかって来ました。「もしもし、順先生ですか。行っても良いですか」と、アヤコ先生が新城に来られました。それで色々話しました。当時、私たちの教会では英会話教室をしていました。丁度、来てくれていた宣教師が帰ってしまうところだったので、「知り合いに、日本に来て英語を教えてくれる人はいませんか。もし心当たりがあったら教えて下さい。」と言いました。
 しばらくして手紙が来ました。「私はハワイに住んでいましたが、シアトルに移りました」と書かれていました。私はそれを見て、がっかりしました。ハワイならば遊びに行けるのに・・・と思いました。
 しばらくするとアヤコさんから手紙が来ました。「あなたは英会話の先生を捜していると言いましたね。私の通い始めた近くの教会に、日本に行きたいと言っている大学を卒業したばかりの女性がいます。どうですか。」と言われました。丁度タイミングが良かったので、来ていただき、英会話クラスが始まりました。英会話クラスでは、夏休みは生徒たちと共にアメリカ・ツアーを行いました。当時の私は結構暇だったので、一緒についていきました。
 私たちのツアーを受け入れてくれたアヤコさんの通っている教会に、一人の牧師がいました。それがジョー・ハイト先生でした。彼はそこで副牧師を気楽にやっていました。彼は、いつもコーヒー・カップを片手に持っているような、のりの軽い男でした。私は彼と意気投合しました。そして、時々、交わりがありました。
 ある時彼から手紙が来ました。「私は今度、シアトルからヤキマという場所に行き、牧師をすることになりました。」と書かれていました。ヤキマは荒れた街でした。私はまた、がっかりしました。私はそれを聞いたときに、「ジョー先生では無理だ」と思いました。そして私は、「そんなところに行くのはやめたほうが良いよ」と言いましたが、彼は、「神様の導きだから行く」と言い、出かけていきました。
 しかし案の定、赴任した教会は大変でした。色々な問題があり、どのような牧師が来ても問題が起こってしまうような教会でした。彼は問題に押しつぶされそうでした。
 やがて彼から手紙が来ました。「多分、ヤキマの教会を辞める」というのです。彼は、ちょっと牧会に疲れたから、日本に遊びに行っても良いかというのです。そして新城教会に来ました。何もやることがなく、ぼーっとしていたので、月曜日の夜に私たちが行っている、県民の森祈祷会に彼を誘いました。そこで彼は、聖霊様に激しく触れてもらいました。
 その時彼は、一つの幻を見ました。それは自分が住んでいる町、ヤキマが出てきて山の上に大きなふくろうがいて、彼をじっとにらんでいるというものでした。その時主が、「あなたはその町で苦労しているでしょう。その原因は霊的な戦いです。悪魔がその町に働いているので、そのようなことが起こっているのです。あなたは町から逃げ出さずに、町の解放のために祈りなさい。」と語られたのです。彼は祈祷会から帰ってきて、「今日はすごい体験をした」と言いました。
 ヤキマは昔、インディアンの町で、今でもインディアンの居住区があります。インディアンは山に毎月登って、悪霊を拝んでいます。住民はあまりそのことを気にしていません。そして、インディアンが拝んでいる対象がふくろうでした。
 それから彼は大きく変えられました。周りの教会の牧師達にも霊的戦いについて話し、毎週一度、町のために祈り始めました。すると数人の牧師たちも心燃やされ、この町の宣教は「霊的戦い」であるとわかってきました。人々を苦しめているのは、目に見える環境のせいではなく、悪霊がいるとよくわかりました。そして霊的戦いのことをもっと学ぼうということで、二年前にヤキマで霊的戦い聖会が開かれ、私が招かれました。今回は第二回目で、戦いは地域に拡大しています。
 十五年くらい前、私が飛行機内で聖書を読んでいたことがきっかけで、起こったことです。しかし、アヤコ先生は飛行機に乗る前、神様から語りかけを受けていたそうです。「あなたが明日、飛行機に乗るのは重要な意味があります。そこであなたは、ひとりの男性と出会うでしょう。この男性は鍵を持っている」と語られたそうです。彼女は緊張して祈り心で飛行機に乗ったそうです。すると、斜め前の男性がおもむろに聖書を取り出して読み始めたのです。しかしその男は、本当にだらしのない格好の男で、およそ、鍵を持った男とは思えず、二、三時間祈っていたようです。すると、神様が「この人です。」と語られました。なんと、それが私でした。私は普通、飛行機の中では聖書を長時間読めません。読もうとするとすぐに眠たくなります。しかし、私はその時に聖書を読み続けていました。それが神の時でした。あの時の出会いがなかったら、その後のことは何も起こらなかったと思います。私とジョー先生は、お互いにクリスチャンなので、やがて天国で出会ったでしょうが、天国で顔を合わせても知らない人です。まさか、日本とアメリカが手をつなぎ、霊的戦いセミナーを行うなどとは考えもつかないことですが、これが神の計画であり、神の時でした。
 私たちは何気なく生活していますが、このようなことが私たちの中に起こされます。皆さんの中の何気ないきっかけが、偉大な未来を生み出します。神の素晴らしい計画が後からわかります。
 友だちに誘われて教会に行っただけで、ある人は神の時をつかみます。その後に働く神の力は及びも付かないすごいものです。
 さて、十月には、新城教会にヤキマから三十名の方々が来られることになりました。それも十日間です。新城に行きたい人を募集したら、多くの人が集まったようです。あまりにも多すぎたので、三十名に限定したそうです。神は何をされるのかわかりません。それもたった一つのことから起こりました。飛行機の中で聖書を読んでいただけのことが、十五年経ったら、こんなにも広がってしまいました。神の時がその中にあったのです。私にも、アヤコ先生にも、また、新城教会に宣教師としてきたジョイさんにも、母教会のジョー先生にも、何気ない時間の流れの中に「神の時」がありました。
 「機会を十分に用いなさい」というのは、「あなたの人生に神の時が訪れますので、それを逃さないで下さい」という意味です。そのためには、神の霊に満たされていることが必要です。エペソ人への手紙、五章後半は、聖霊に満たされる秘訣について書かれています。「互いに語る、歌う、いつも感謝する」中で、知らないうちに神の霊の支配を受けます。そして私たちの中に神の時が現されるのです。
 そう考えると、「私は多くの神の時を逃した」と思います。しかし心配しないで下さい。「機会を十分に生かして用いなさい」という言葉は、別の訳し方をすると、「時を購い出しなさい。」という意味です。カルビンは、「機会をサタンから取り戻す」と注解しました。私たちは今まで、機会をサタンに奪われたかも知れませんが、それさえも、もう一度奪い返すことができるのです。「賢い人」それは、「機会をサタンから奪い返す人」です。
 「私の人生は失われたものが多い」と言われる方も心配しないで下さい。私たちは神の時、カイロスを聖霊によって、取り戻すことができるのです。神と共に素晴らしい人生を歩みましょう。
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