今週の礼拝メッセージ
2002.9.15(SUN)
救いとは、家系からの解放です
新城教会 滝元 順 牧師

旧約聖書 エレミヤ書31章27節〜31節
見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。・・主の御告げ。・・その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

 ハレルヤ!今日は敬老の日ですが、教会は老人から赤ちゃんまで、一つとなって集まれる素晴らしい場所です。教会以外ではこのように一つになれる場所は、なかなか、ないのではないかと思います。
 「キリスト教の救いは何ですか」と聞かれたら、クリスチャンならば、「イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちが与えられます」と答えます。イエス・キリストを信じるならば、「永遠の救い」があります。人生は地上だけで終わるのではなく、やがて私たちは神のもとで永遠に過ごすことができるのです。ということは、教会の集まりは一時的なものではなく、永遠に続くものです。今日、ここに集められた一人ひとりは永遠の仲間です。救いとは「永遠のいのち」であり、永遠のおつき合いの始まりです。
 同時に、聖書は、救いとは「全人的な救い」であり、「世代を越えた救い」につながることを教えています。
 今日は救いが、「家系の呪いからの解放」であるという視点で聖書を学びたいと思います。今日お読みした箇所には、普通では考えられないようなことが書かれています。エレミヤ書三十一章二十九節から三十節、

『その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。』

 これは一般では体験しないことです。お父さんがぶどう園に行き、酸いぶどうを食べると、ぶどうを食べてもいない子どもの歯が痛むということは現実にはありません。おじいさん、おばあさんが酸いぶどうを食べたら、孫が「歯が痛い」と言って苦しんだという事は、一般ではあり得ないことです。しかし、これは私たちの人生を物語っています。私たちの人生に起こる諸問題は、考えても原因がよく分からない問題が多く起こります。聖書は父が酸いぶどうを食べた結果として、子どもの歯が痛むような、父親の罪の結果が子どもに現れるようなことがあり得ることを示唆しています。ここで告げている救いとは、どのような救いかというと、『彼らはもう父が酔ぶどうを食べたので子どもの歯が浮くとは言わない』とあるように、「世代を越えた呪いから解放される」という事柄を含んでいるのです。もしも、皆さんの人生の中に、理由のない悲しみ、苦しみを受けてきたと言われる方がおられたら、イエス・キリストを信じるとき、「新しい契約」が結ばれ、二度と父が酔ぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くということはなくなる、という解放があることを知ってください。そして今朝は、家系の呪いから解放を受けてお帰り下さい。
 新城教会に多くの方が集われますが、私は来られた方々と共に祈ります。それは、人生に起こった様々な問題をお聞きして、その解決のためにお祈りの時間を持ちます。しかし、話しをお聞きしながら、何と言葉を返して良いのかわからない時がしばしばあります。
 先日、一人のブラジル人のおばあさんとお話しました。彼女は若いときに両親とともに、秋田県からブラジルに移民しました。そしてブラジルで育ちました。昔、ブラジルは日本にいるよりも幸せに暮らせるということで、日本から多くの人がブラジルへと移民しました。ご両親は汗水流して一生懸命働き、収入を得、やがて生活は豊かになったそうです。そして今では、家族は四代に渡り、四十九名に広がり、一族ができました。しかし、その中を見ると、交通事故で亡くなった人が四名、水死した人が二名、自殺した人が二名、ガンで亡くなったのが五名、総計十三名が、良からぬ事件で命を失っていました。率でいうと約三割です。これはすごい確率です。家系の中に、死と破壊というテーマがあるのを見ました。あまりにもひどいことです。
 聖書の記述中にも、世代を越えて呪いが引き継がれるような光景を発見します。聖書はある家系をフォローしながら、その中に、どのような事件が起こったのかを記録しています。その中から私たちは、神の意志をくみ取らなければなりません。聖書は、私たちが生きる上でのマニュアルです。
 聖書の書き始めは創世記です。アダムとエバから人類が始まりました。神は人間を造り、エデンの園という楽園に置きました。そこは食べるものも豊かで、気候も良く、何の苦しみも悲しみもない、素晴らしいところでした。そこにはいのちの木があり、その実をとって食べるなら、人間は永遠に生き続けることができたようです。
 今日、敬老の日に何を老人の皆さんにプレゼントしようか考えました。もしも、いのちの木の実をどこかで手に入れる事が出来、それをプレゼントしたら最も良いと思います。おじいちゃん、おばあちゃんがその実を食べた途端、しわが伸びて若くなるのです。エデンの園には、人生を何度でもやり直すことができる「命の木の実」がありました。しかし初めの人類アダムとエバは、園から追い出されてしまいました。なぜならば、神が一つだけ取って食べてはいけないと言われた、「善悪を知る木の実」を取って食べたからです。
 生きる上で必要でも、食べてはいけないというものは我々の廻りに多くあります。善悪を知る木の実も、その一つであると考えれば良いです。しかし、アダムとエバは神の言いつけには従いませんでした。なぜその実をとって食べてしまったのでしょうか。それは蛇が近づいて、食べるように勧めたからです。神が「とって食べてはいけない」と言われたその実を食べてしまったゆえに、人類は園から追い出され、荒野に出されてしまいました。創世記二章十七節に、

『しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

 善悪を知る木の実をとって食べたら、「あなたは必ず死ぬ」と言われました。三章六節には、

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』

 神は初めに男アダムを造り、続いて女エバを造りました。エバは男性の助け手として作られました。しかしエバは、とって食べてはいけないと言われた実をとって、それをアダムにも食べさせました。三章二十四節に、

『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

 この状況がどのようであったのか、推し量ることはできませんが、その実をとって食べたことにより、いのちの木への道はふさがれ、園から追い出されるという、悲惨な結果となりました。
 神は最初、「とって食べたら必ず死ぬ」と言われました。しかし二人がこの実をとって食べた瞬間、苦しみ、死んだという事はありませんでした。
 私はこの箇所を読むたびに、アダムかエバのどちらかが死んでいたら、どんなに幸いであったかと思います。なぜならば、どちらかが死んでいたら、不幸な人類は生まれなかったからです。善悪を知る木の実を食べても、彼らは生き延びたのです。
 こうしてみると、神が「あなたは必ず死ぬ」と言われたのは何だったのだろうか、と思います。神が嘘を言われたのだろうか、と思います。もちろん、これは肉体の死だけではなく、霊的な死についても意味していますが、神は「死ぬ」と言われたのです。しかし、この言葉は嘘ではなく、実現しているのです。
 アダムとエバが子どもを生みました。それがカインとアベルでした。四章八節に、

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』

 木の実を食べても、アダムとエバは死にませんでしたが、何と、「息子が死んだ」のです。死は新しい世代に、突如としてアダムの家族に現れたのです。
 このストーリーは、色々なことを我々に教えていると思います。私たちは、皆、良心があります。罪に関して人間は同じ基準を持っています。「殺してはいけない」、「不道徳はいけない・・」と、同じ基準を持っています。しかし時々、それらを破り罪に手を出してしまいます。その時、神が私たちにパンチを飛ばしてくれればわかりますが、罪を犯しても案外、大したとがめもなく、神が即、私たちを裁かれるわけでもないのです。ですから結構、罪が楽しくなってしまうようなことが多いのです。
 しかし知るべきことは、罪は自由意志で選択して、手を出すことは容易にできますが、その請求書がまわってくるのは、自分の世代というより、世代を越えて廻ってくる可能性があることについて教えているのだと思います。
 創世記はアダムの家系を追跡しています。そのような中で色々な出来事を発見できます。アダムとエバの息子カインとアベルが喧嘩して、カインはアベルを殺してしまいました。カインがアベルを殺すに至った原因は、彼らが神の前にささげものを持って行った時、神はカインのささげ物よりも、アベルのささげ物を喜びました。それでカインはアベルに対し、また、神に対して苦々しい思いと怒りを持ちました。そんな憤ったカインに対して、神は、「カインよ、あなたは憤っていてはいけません。あなたはその怒りや憤りを治めなければなりません」と警告されました。しかし彼はどうしても、怒りを治めることができず、弟を野に連れ出して殺してしまいました。この殺しの原因が「憤りと怒り」でした。
 生活の中、憤りや怒りは日常茶飯事ですが、聖書は憤りや怒りをコントロールしなくてはならないと告げています。第一ヨハネ三章十五節に、

『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』

と書かれています。我々はこの御言葉を、強く、心に留めるべきです。私たちが誰かを憎んでいたら、人殺しと同じであり、その中には「永遠のいのちはない」というのです。日頃、私たちは怒ったり、憤ったりしますが、それをコントロールしなければなりません。エペソ人への手紙を見ると、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

とあります。私たちが日頃いだきやすい、怒りや憤りをどのくらいセンシティブにコントロール出来るでしょうか。カインはコントールできず、弟を殺してしまいました。
 しかしその後、彼には恐れがやってきました。弟アベルを殺したとき、今度は自分が殺されるのではないかという恐れに襲われたのです。そしてカインは神に、「今度は私が殺されるかも知れない」と言って泣きつきました。すると神は、創世記四章十五節、

『主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。』

 カインは人を殺しておきながら、身勝手なものです。しかし神はカインに一つの「しるし」を与えました。このしるしとは、「奇蹟」という意味です。カインがアベルを殺したときに、彼の身に奇蹟が起こったのです。それは良い奇蹟ではありませんでした。人類が最初に体験した奇蹟は、良い奇蹟ではなく、「悪い奇蹟」でした。どんな奇蹟であったかというと、これは「特別な力とすごみ」でした。彼は弟アベルを殺しました。すると、カインの殺しの力が、七倍にふくれあがったのです。だから人々は、彼を恐れて近づけなくなりました。皆、カインから身を引きました。彼はそんな七倍の殺しの力を帯びて、人生を歩みました。聖書は続いてカインの家系を追跡しています。カインから六代目に「レメク」という男が出てきます。四章二十三節から二十四節に、

『さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」』

 カインは一人を殺し、その結果、彼は七倍の殺しの力を受けました。そして、その六代後のレメクはどうなっていたでしょうか。「レメクには七十七倍」すなわち、レメクにはカインの殺しのパワーが、その「十一倍」にも増大したのです。レメクの殺しは、残虐極まりないものとなったはずです。
 今の時代、事件はどんどん残虐化しています。この背景に、今述べたような理由があるのです。一つの罪が家系の中に入ると、初めはちょっとしたことかも知れない、実をとって食べるようなことかも知れない、憎しみかも知れない、けれどもそれは、やがて死の剣となり、七倍、七十七倍とふくれあがるのです。
 レメクに一人の息子が生まれました。創世記五章二十八節から二十九節に、

『レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」』

 箱船で有名な「ノア」は、七十七倍にも凶悪化したレメクから生まれました。しかしレメクも生活に疲れていたのでしょうか、「ノアが私たちを慰めてくれるように」と希望を持って、彼を育てました。しかし、その後の時代はどのような時代になったのでしょうか。それは、手が付けられないほど、荒れた時代になったのです。六章五節から七節に、

『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」』

と書かれています。レメクの時代、それはアダムとエバが住んでいた時代とは大違いで、手が付けられないほど、荒れ狂った世の中になっていたのです。神は地上を見て、人類を造ったことを後悔され、「人を始め、家畜やはうもの、空の鳥に至るまでこられを造ったことを残念に思う」と言われ、その後大洪水により、ノアの一家八人以外は皆殺されてしまいました。アダムの家に罪が入り、家系に呪いが入ったゆえに、その家系だけでなく、周りにも悪い影響力が及び、ノアの時代にはすべてが滅ぼされてしまうという、大事件へとつながりました。
 ノアの時代の出来事と、現代を重ねると案外共通しています。今を見ると、どうでしょうか。悪が増大し、手が付けられないような状況があります。昨年の九月十一日には大規模なテロが起こり、その後一年が経ちましたが、悲惨な戦争や事件はあとを絶ちません。神は今の時代をどのように見られているのでしょうか。神は人を造ったのを後悔しておられるのではないかと思います。人も獣も全部、滅ぼしてしまおうと思われているのかも知れません。
 現在、自然界も環境が変わり荒れています。「絶滅種」と呼ばれる種がたくさんあります。かつては生きてたが、今は生きていない動物もたくさんあります。日本でも、かつて生きていて、現在は絶滅してしまった種が多くあります。日本に昔から生息していたほ乳類百八十八種中、六十八種が絶滅、あるいは絶滅の危機に際しているのです。また、鳥類は六百六十八種類中、百三十二種が絶滅、あるいは危機にあるそうです。これは、ある意味でノアの時代と同じです。また今年は洪水が多いです。先日も、台風で韓国はすごい被害でした。時間降雨量が60ミリという強い雨が何時間も降り続きました。またヨーロッパにも洪水がありました。ノアの時代とあまり変わらないような感じです。
 ノアの時代もレメクが七十七倍にも殺しの力が増大し、全世界が滅びてしまいました。しかしノアは神の前に正しい人だったので、辛うじて箱船により生き延びました。神はある意味で、人間も動物もリセットしようとされました。そして一見、ノアの洪水を通して、すべてが消え去り、新しい時代が始まったかのように見えます。しかし、そんな中、家系に入った呪いのしつこさをも同時に発見します。九章十八節から二十五節に、

『箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」』

 ノアには三人の息子がいました。セム・ハム・ヤペテという名前でした。聖書はこの三人を通して、全世界に増え広がったと語っています。洪水後、ノアはぶどう園でぶどう酒を飲み、酔いつぶれて裸で転がっていたのです。すると、九章二十二節に、

『カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。』

 ハムはセムとヤペテに、「すごいことが起こっている」とお父さんの恥を広めました。しかし二十三節に、

『それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。』

と書かれています。「ハム」という息子は、父の恥ずかしい姿を見て言いふらしました。しかし、その他の息子たちは、父の姿を見ずに後ろ向きに覆ってあげたというのです。やがてノアが酔いからさめたときに、次のような言葉を語っています。二十四節から二十五節に、

『ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」』

 「ハム」がお父さんの恥を言いふらしました。しかし、ノアが起き上がって語ったことは、「ハムよ、呪われてしまえ」とは言わず、ハムの息子、「カナン」に対して呪いの言葉を語りました。これは、呪いが「強力に家系に受け継がれている」事実を現しているのではないでしょうか。
 初め、蛇はアダムとエバを誘惑し、アダムとエバを罪に陥れました。それからこの蛇はどこかに姿を消しています。どこへ行ったのでしようか。この蛇は、アダムの家系の中に深く潜入し、隠れて破壊活動を行っていたのです。実に、家系は悪魔の隠れ家であり、呪いの温床なのです。ですから、家系を見るときに、意味も分からないような問題が多いのです。
 先週私は、宮古島に行きました。宮古島は人口四万人ほどで、車なら、一周二時間ほどで廻れます。丁度、新城と同じくらいですが、山はなく平地です。島の方々は大変暖かく、フレンドリーでした。私は集会の合間に、島を廻ったり、博物館に行って島の歴史などについて研究しました。そのような中、この島の人たちに、一つの賜物が神から与えられていると思いました。それは「祈りの賜物」です。この島の人たちはよく祈る人たちでした。しかし、その祈りは、真の神への祈りではありませんでした。悪魔に向かって祈っている姿を多く見かけました。そこに行くと「祈り場」がたくさんあります。島にはなんと、九百箇所もの祈り場があります。それを「御嶽(ウタキ)」と言い、自然界や先祖を拝む拠点です。それを教会として例えたら、人口四万人の町に九百の教会があるのと同じです。朝から晩まで、誰かが祈っているような島です。これだけ祈っているのだから、神が島を守り、祝福してくれても良いのではないかと思います。しかし、そこには多くの問題があり、離婚や再婚、死にまつわる問題など、数々の恐ろしい問題があることを見聞ききしました。
 一人の方のために祈りの時間を持ちました。若い娘さんで、車椅子に乗っていました。「私はビルの四階から飛び降り、脊髄をやられ、立つことができません」と言われました。そして、今でも「常に私は、死にたくて仕方がない」というのです。九百箇所の祈り場を作って祈っているのにも関わらず、どうしてそんなことばかり起こるのかと思いました。私はそこで、悪魔の隠れ家について話しました。それが家系であり、偶像礼拝は三代、四代に至る呪いで、神ならぬ悪霊に祈るならば、その家系には呪いが入り、常に死と破壊がつきまとうと話しました。その集会に来られた多くの方が解放の祈りを必要とされ、始めて教会に来られた方も涙を流しながら、「私の家系は滅茶苦茶で、蛇が入っています」と言われました。そして、イエス様を信じて帰られました。私たちは、家系の中に入った呪いから解放されるべきです。そしてエレミヤ三十一章二十九節から三十節に、

『見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。・・主の御告げ。・・その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。』

 「その日」とは、十一節にあるように、「新しい契約が結ばれる日」です。これは旧約聖書の記述ですが、新約聖書の理解に立ちますと、イエス様が十字架にかかって死に、三日目によみがえられたときに「新しい契約」が結ばれたのです。その中に、「家系の呪いからの解放」が含まれているのです。自分自身が罪を犯し、「自分の歯が浮く」ということは仕方ありません。それも、イエス様の十字架の血潮によってきよめられ、赦されるという方法があります。古い契約においては、父が酸いぶどうを食べて、子どもが苦しめられるようなことがありましたが、新しい契約では、そこからも救ってくれるのです。
 イエス様を信じるなら、素晴らしい結果を人生にもたらします。なぜなら、新しい契約が結ばれるからです。イエス・キリストを信じる前、我々は「古い契約」の中にあったのです。全ての人類は、この古い契約の中に閉じこめられていたのです。「呪い」という、古い契約の中です。この古い契約は、新しい契約に置き換えられなければならないのです。新約聖書、ヘブル書八章八節に、

『しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。』

と書かれています。神は、「古い契約」には「欠け」があるから「新しい契約」を結んであげると言われます。
 今回、宮古島で悲しい島の歴史を見ました。十七世紀から宮古島には「人頭税」と呼ばれる税がありました。そこには、百五十センチくらいの石の柱、人頭税石が建っていました。そこに子どもたちが連れてこられ、石の柱よりも背が高くなったときに税金がかけられたのです。男女ともに十五才から、税金がかけられました。その税率は、なんと、九十パーセントでした。それが約三百年近く、二十世紀の初頭まで続いたのです。九十パーセントの税率とは、十万円取っている人は九万円を税金として取られ、一万円で生活しなければならない計算です。あまりにも、かわいそうです。初めは、琉球王国が宮古島に重税をかけていましたが、その後、薩摩が琉球を占領し、人頭税は継続されたのです。彼らは重税に悩まされました。
 しかし、ある時、一人の役人が宮古島に来て、「この島の人は奴隷のようだ」とその惨状を幕府に持ち帰り、やがてその税が廃止されるに至ったのです。人頭税という、古い契約が人頭税廃止という、「新しい契約」に置き換えられたのです。その為に働いた役人が新潟県人でした。だから、今でも宮古島の人々は新潟県民が大好きです。だから食べる米も新潟米です。新潟人、大歓迎だそうです。なぜならば、新潟県人が彼らを救ってくれたからです。彼の働きにより、古い契約が撤廃されたからです。
 イエス・キリストが来られる前まで、人類は古い契約によって、不条理な問題で苦しめられていました。しかし、新しい契約が与えられる、その日が来る、と旧約聖書は預言していました。そして二度と父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮くとは言わなくなるというのです。そしてヘブル書二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 今までは家系の中には剣が入っており、いつ何時、予期しない死や破壊が起こるかわからず、人は常に死の恐怖におびえていました。けれども、イエス様が地上に来られ、十字架で悪魔の持っていた死の力を打ち砕いて下さいました。それは、アダムとエバの罪以来、家系の中に深く潜行していた「蛇」すなわち、「悪魔」が討ち滅ぼされたのです。だから、あなたはもう、死の恐怖に脅えなくても良いのです。もう、不意に死の力が人生を襲うようなことはないのです。あなたは喜んで、安心して人生を楽しむことができる、イエス・キリストを信じたら、家系の呪いから解放されるというのが聖書のメッセージです。
 今日、イエス・キリストの救いは、このような家系の呪いからの救いであることを知り、解放を受けて下さい。それは自分だけではなく、家族や、新しい世代も守り、呪いから解放し、神と共に歩む人生に変えられるのです。永遠の国まで、素晴らしい人生を送ることができるよう、共に祈りたいと思います。
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