今週の礼拝メッセージ
2002.9.29(SUN)
恐れず、最前線に出ていこう
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 ヘブル人への手紙10章35節〜39節、11章1節〜2節
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。』

 ハレルヤ!昨日の夜十一時半頃、アメリカから新城に帰ってきました。皆さんのお祈りに支えられ、アメリカでの奉仕も祝福され、心から感謝します。
 一九九十二年、新城教会において霊的戦いが突然始まり、どうしたら良いかと思うような混乱の時もありましたが、十年間経過して、まさかアメリカにまで霊的戦いを持ち出してくださるなどとは夢にも思いませんでした。しかし、そのように導いてくださった主に心から感謝します。
 私は九月二十日に新城を出発して、昨日帰ってきましたが、今回はワシントン州ヤキマというところで「ストラテジック・ホライズン2002(strategic horizon 2002)」というタイトルの、戦略的な霊的戦いを学ぶ集会で奉仕しました。その集会に、私とジョージ・オーティス・ジュニアという先生が招かれました。ジョージ先生は世界を巡って「トランフォーメション」といって、七十パーセントから九十パーセントの率で福音化した町を調査している先生です。先生の話によると、数年前までは町全体が福音化した例は少なかったのですが、近年世界では、そのような町がかなり増えており、今わかっているだけでも百七十位の町々が福音化していると言われていました。全く神を知らなかった町が、福音によって変えられ、犯罪率や構造までが変化したという町が世界には百七十近くあると言われていました。集会は先生が前半で、私が後半を受け持ちました。ヤキマは人口六万人位の町で、教会が七十近くあります。そのうち、二十名ほどの牧師が集会やセミナーに参加され、多いときには三百数十名の会衆が参加して下さいました。ドリアさんが通訳をしてくださり、強く聖霊様が働かれた集会となりました。
 今回、集会を主催した牧師の一人は、元シアトル・マリナーズの選手でした。私がよく頑張ったということで、マリナーズの事務所に電話をし、イチロ−と同じ県から来た牧師がいるからゲームに招待してあげて下さいと言って、ファースト側の五列目に招待されました。私は初めてプロ野球を生で観戦しました。残念ながらマリナーズは最後に負けてしまいましたが、選手の救いを祈ってきました。皆さんのお祈りを心から感謝しています。
 さて今日は「恐れず、最前線に行こう」というテーマで学びたいと思います。ヘブル人への手紙十章三十五節から三十九節に、

『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。』

と書かれています。私たちの人生の中には忍耐を強いられるような事柄がたくさんあります。すべての事柄は忍耐とつながりがあります。アメリカに行くだけでも十数時間かかり、狭い飛行機の中で忍耐を強いられます。私は飛行機に乗る前に、「どうか、良い席がありますように」と祈りましたが、残念ながらジャンボ機の真ん中の席で、両横は大きな外国の方で最悪でした。しかし、この御言葉が思い浮かびました。誰かがこの席に座らなくては飛行機は飛び立つことができません。だから祈りつつ我慢しました。そんなことならばまだ良いのですが、人生の色々な問題で忍耐を強いられるようなことも多くあります。しかし、イエス・キリストを信じる者にとっての忍耐は、ただの我慢とは違います。
 日本人が持っている「忍耐」という言葉のイメージは、サウナ風呂の中に入ってじっと堪えるというイメージです。しかし、これは聖書の世界観とは違います。インドネシア語で忍耐という言葉を「クタバハン」と言うそうです。これはただじっと我慢して座り込んで時が経つのを待っているというのとは違い、「忍耐しながらじりじりと前に出る」という意味があるそうです。同様に、聖書の忍耐も、ただ、座り込んでじっと時が過ぎるのを待つというのではなく、じりじりと問題を押し返して、前進するという意味があります。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない・・。」必ず、忍耐した結果が現されると約束しています。だから、「あなたがたが神のみこころを行い、約束のものを手に入れるのに必要なことは忍耐です」と語られているのです。
 信仰という枠組みの中で起こってくる色々な問題に関しては、決してその場所にとどまってじっと我慢している忍耐とは違うのです。じりじりと前に進んで、「やがて来るべき方が来られる。遅くなることはない。」必ず、「勝利の出口」があると約束しています。
 ルカの福音書二十一章で、イエス様も忍耐について語られました。十九節に、

『あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。』

 人生は忍耐によって勝利できるということです。また、ローマ五章三節から、パウロの生涯で経験から語られている事柄は、

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』

 イエス・キリストを信じる者は、ひとりぼっちではありません。「神が共にいてくださる」、「聖霊によって神の愛が私たちに注がれている」のです。ときに、色々な艱難がありますが、それはただの艱難として、破壊的になるのではなく、ただじっと我慢して座っているのでもなく、忍耐は、「練られた品性」を生み出し、練られた品性が「希望」を生み出していく、次々と新しい段階へ導いてくださると約束しています。
 今日もしかして、色々な艱難の中にいる方がおられるかも知れません。また、忍耐の中にある方もおられるかも知れません。しかし、信仰生活という枠組みの中での忍耐は、決して失望には終わらないのです。そして、「信仰生活の枠組み」というのは、ただ教会に来たときだけを指すのではなく、一日、二十四時間はすべて主のものです。
 ローマ人への手紙十二章には「礼拝」について、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と書かれています。
 教会に来たときだけが礼拝ではなく、「人生そのものが神へのささげもの」であり、「礼拝」であるのです。そんな中での忍耐は、必ず約束のものを手に入れることができるのです。ヘブル書の十章を見ると、

『私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』

と書かれています。忍耐と共に、「恐れ退いてはいけない」と励ましています。
 時々色々な問題や艱難にぶつかると、そこから一秒も早く逃げ出したいと願いますが、聖書は「恐れ退いてはいけない」と告げています。今日もし、皆さんが色々な問題に直面していても、決して恐れ退いてはいけないのです。なぜなら、主が共におられ、必ず主は約束のものを手に入れさせてくださるからです。だから主はあなたに、前に向かって進むようにと語られています。恐れ退こうとしている方がおられたら、主は「恐れ退いてはいけない、前に進みなさい」と語られています。
 一般の戦争においては、最前線が最も危険な場所です。最前線に行くと、弾が当たって死ぬかも知れません。最前線ほど恐ろしい場所はありません。昔の日本兵は勇敢に敵にぶつかっていきました。八月に平和を祈る祈祷会があり、大変恵まれました。その時に戦争を経験された兄弟たちにお話を伺いました。その話の中で「突撃!」という時に出ていった人は、みな死んでいったというのです。「突撃」と言ったときに、隠れていた人は助かったと言います。だから、隠れていた人は要領が良かったのです。私たちにとって最前線は恐ろしいものです。最前線よりも少し引いたところにいるのが安全だと思います。
 そのような概念と重なり、信仰生活も最前線よりも少し退いて、温々とやりたいという気持ちが誰にでもあります。しかし、聖書の教える世界観は、日頃持っている世界観とは全く逆を提示しています。日頃考えているところと全く違うところに身を置くときに、思わぬ問題解決の鍵があり、祝福がもたらされるのを経験するのです。私たちは神の国の価値観を学ぶべきです。
 旧約聖書には多くの戦いが記録されています。特に、イスラエルが敵と戦った記録が記されています。今もイスラエルは大変な状況にありますが、戦争の記録が旧約聖書には記されています。旧約聖書に記されている戦いは、カナンの先住民との戦いの繰り返しでした。色々な戦いのパターンが記録されていますが、それを記録として読むだけでは、ただの歴史を紐解いているだけになってしまいます。しかし、それらが新約聖書の世界観とつながるとき、これが「信仰の戦い」であり、「霊的な戦い」との関わりがあることがわかります。ということは、旧約聖書に記されている戦いを学ぶときに、その中から信仰と霊的戦いの情報を得ることができるのです。
 その中でも、特に有名なストーリーがあります。それは子どもたちも知っているストーリーですが、「ダビデとゴリヤテの戦い」です。ダビデはイスラエルの王様になりましたが、彼がまだ若い少年時代、ゴリヤテというペリシテの陣営の一番強い勇士をやっつけたという記録です。それがサムエル記第一の十七章に書かれています。ここでペリシテの陣営から一人の「代表戦士」が出てきたと記されています。ペリシテ全体を代表する戦士が一人出てきてイスラエルをなぶり、「お前たちの中からも代表戦士一人を出せ。俺と一騎打ちしよう。もしも、お前らが俺を倒したら、俺たちの軍隊はお前たちの奴隷になる。しかし、お前たちが俺を倒すことができなかったら、お前たちは俺たちの奴隷となるのだ!」と言って「代表戦士」が出てきました。サウル王が軍隊を指揮していましたが、それを聞いたときに、王様をはじめとして全員が意気消沈してしまいました。サムエル記第一の十七章四節。

『ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。』

ゴリヤテは背の高さが三メートル近くもありました。そんな大男がイ、スラエルに戦いを挑み立ちはだかりました。それで彼らは、
 十一節に、
『サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。』

 また二十四節には、

『イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。』

と書かれています。こんな大きな男が出てきては、誰が戦っても勝つことはできないと逃げてしまいました。
 そんな時に少年ダビデがやって来たのです。彼はお父さんから、前線に出ていた三人の兄たちの安否を尋ねるよう言われ、最前線まで慰安物を持ってやって来たのでした。そこで見た光景は、味方のイスラエル軍が恐れ隠れている姿でした。そんな姿を見て、サムエル記第一十七章三十二節に、

『ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」』

 このダビデの発言は常識では考えられない、ばかげたものでした。当時ダビデは少年でした。それと比べて、ゴリヤテは優秀な勇士で、どう考えても戦いにはならない、「あなたは何を言っているの。バカなことを言うのはやめなさい」という状況であったと思います。しかしダビデはこのように言いました。

『ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」』

 ダビデは羊を飼っていましたが、ときおり羊を狙ってライオンや熊が襲いかかってきたとき、彼はそれらに勇敢に飛びかかり、獅子や熊の手から羊を守ったという経験がありました。ですから、彼はその経験と結びつけ、「神はあの時も守って下さったから、あの大きな男と戦っても絶対に負けることはない」と考えました。それを聞いたサウルは、「そんなに言うなら戦って見ろ」と言いました。
 サウルもダビデもイスラエルの王となった人物ですが、同じ現実を見ても全然見方が違います。サウルは状況を見て「恐れ退いて」しまいました。しかし、ダビデは、どのように状況を見たのでしょうか。彼は「信仰の目」で見ています。同じ状況を見ても、信仰の目で物事を見るのと、現実の目で見るのでは大きな違いを生じるのです。サウルとイスラエルは大きな男を見て「戦うことはできない」と考えました。しかしダビデは、同じ状況にありましたが、彼は、「今まで私を助けてくれた神は、これからも助けてくれないはずがない」と信じました。ダビデは問題を信仰の目で捕らえ、戦いに挑みました。
 私たちもふだんの生活の中で色々な問題を体験しますが、どのような視点で問題を捕らえるかが大切です。一般的な見方をすれば「駄目だ、絶体絶命」と言って恐れ退いてしまうような事柄が生活の中には数多くあります。しかし、これは普通の見方です。けれども、ダビデの視点はそうではありませんでした。それらを信仰の目で見ました。目の前にある敵はサウルにとっても、ダビデにとっても同じです。しかし見方が違いました。ダビデは、「神はかつて、獅子の口からも、熊の爪からも救い出してくれたではないか。だから、この大男からも救い出してくださる、勝利を得させてくださる」と信仰を持ちました。
 この信仰の姿勢は、新約聖書にも貫かれており、同じ視点があります。コリント人への手紙第二の一章八節から、

『兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 紀元二千年に「スーパーミッション」が行われ、その時のテーマが「将来と希望」でした。それは爽やかな、心温まるテーマでした。さて、「将来と希望」とはどのように定義されるのでしょうか。この手紙を書いたパウロは、将来と希望についてどのように定義しているのでしょうか。彼は絶えられない、死を覚悟しなければならないような数々の苦しみに出会いました。パウロの生涯を記録した「使徒の働き」や「パウロ書簡」を見ると、パウロが福音を宣べ伝える中で、多くの苦しみに出会ったことを記録しています。そのような中、彼は何度も「もう駄目だ。ここで死ぬしかない」というような場面に直面しました。彼はここで、そのような試練に出会って知らされた「究極的試練の目的」について語っています。第二コリント一章九節で、

『ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。』

 私たちの中にも、色々な信仰の試練や問題がありますが、結局、そのような事柄を通して、「神により頼む者となるため」であると述べています。現実の世界に住みながら、見えない神に頼ることは難しい面があります。目に見える神が目の前に立っていたら、誰でもより頼むことができるかも知れません。しかし、神は目に見えないのです。色々な事柄が起こってきますが、それらは総合して、「自分自身ではなく」、「神により頼む者になる」ように私たちを変える為に用いられるのです。
 今、忍耐を体験しているとしたら、神は私たちに「神により頼む者となりなさい」と教えているのです。
 「神により頼む者となる」・・私たちの人生が、「神により頼む」というところに基盤を置くことができれば、神のわざを人生の中に見ることができます。一章十節に、

『ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 パウロにとっての「将来と希望」の定義は、「過去、神は私を救い出して下さった。今も救い出してくださっている。だから、将来においても救い出して下さるに違いない」というものでした。彼は信仰によって「将来と希望」をつないでいきました。
 ダビデも同じでした。「神が過去にライオンや熊の爪から私を助け出してくださった。だから、今度戦おうとしているゴリヤテにも勝たせてくださるに違いない。」これがダビデにとっての「将来と希望」でした。
 イエス・キリストを信じるとき、何らかの力を体験できます。「あの時は確実に、神が私に働いてくださった」という体験が誰にでもあると思います。何の体験もなく、クリスチャンになる人は少ないです。ほとんどの人に、何らかの神体験があります。神が力強く人生に介入してくださった、という体験があるがゆえにクリスチャンになれたのです。しかし、過去にどんな体験があっても、次に新しい試練が起こると、恐れ退いてしまいます。「この間は良かったけど、今度は駄目かも知れない」と恐れ退きます。しかし、信仰とは、「今まで主は、あなたを助けてくれたでしょう。だから将来も助けて下さいます。そこに信仰の基盤を置きなさい。」というものです。
 今まで皆さんを神が助けてくださったという体験があったとしたら、「神は必ず将来においても、助け続けて下さる」ということです。どのような問題や試練があっても、脱出の道を備えて下さるのです。私たちの神は「良い方」です。どのような問題や試練の中にあっても、必ず、それと共に脱出の道を備えてくださいます。だから、将来においても希望を持つべきです。ダビデはそのような信仰の勇士でした。信仰の目で現実を見て、戦いを見ました。それは誰も果たし得ることができなかった勝利に結びつきました。
 信仰とは、未来を切り開いていくものです。それも、ただ闇雲に信じるのではなく、今まで神が私たちに良くしてくださった事柄をベースとして、将来に対して希望をつなぐものです。
 思い返せば、色々な良きことを主が、あなたに成してくださったと思います。それを材料にして、将来に対しても助けてくださると信じてください。ダビデも同じ信仰を持って、ゴリヤテと戦いました。そしてゴリヤテを倒すことができました。たった一つの石でゴリヤテを倒しました。サムエル記第一の十七章四十八節からに、

『そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。』

 ダビデは羊を集めたり、猛獣を追い払うために使う石投げの道具を持っていました。彼は川辺でなめらかな石を五つ拾って袋に入れ、その一つでゴリヤテの額を射抜きました。彼は見事に、一発で敵をしとめました。あとの四つの石は残っていました。ということは、勝利には相当、余裕があったのです。
 神はギリギリではなく、余裕のある勝利を与えて下さいます。彼には一振りの剣もありませんでしたが、ゴリヤテを撃ち殺してしまいました。神が私たちに与えて下さる武器は、日頃私たちが考えるような武器とは違うことを教えています。そして、ダビデの勝利はどのような領域へとつながったでしょうか。十七章五十一節からに、

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。』

と書かれています。この勝利は、ゴリヤテに対する勝利だけではなく、ゴリヤテが属していた「ペリシテの軍隊をすべてを追い払う完全勝利」につながりました。
 イスラエルとユダヤの人々は恐れ退いて隠れていました。彼らは、ダビデはゴリヤテの餌食になって殺されるか、八つ裂きにされるに違いない思いました。しかし予想に反し、ダビデはゴリヤテに勝利しました。その時、隠れていた彼らも奮い立ち、前線に出ていきました。一人が信仰を持って立ち上がるとき、何と、後ろで隠れている人たちをも引き出したのです。ということは、一人が突破口となるか、ならないかで状況が大きく変わるのです。家の中で、誰か一人が信仰を持って立ち上がるなら家族が変わります。家の中に隠れていた人々も皆、主の前に出てくるのです。
 そもそも勝負とはそのような面があります。一昨日、シアトルでマリナーズ戦を見に行きましたが、初めは二対〇でマリナーズが勝っていました。しかし、途中一発アスレチックスのヒットが出てから状況が一変し、最後には五対二でマリナーズが負けました。ちょっとしたことで試合の雰囲気は変わります。
 試合を見て、信仰の世界もそうではないかと思いました。私たちも時々、恐れ退いて隠れてしまうような時がありますが、一歩前に出て退かずに戦いを挑むときに、神は私たちを勝利に導いて下さいます。色々なことで意気消沈し、「祈るのをやめよう、もう駄目だ信仰を持つ事なんてできない」と敗北感を感じている方は、もう一度奮い立ってください。「過去に神は私を助けてくれたではないか、だから、必ず神は私を助けてくださる」という信仰にたち、前に出ていくとき、戦いを挑む軍隊を敗退させることができるばかりか、後ろに隠れている人たちをも引き出すことができるのです。
 やがてダビデは、自分の人生に起こった事柄を歌にしました。詩篇二十三章五節から、

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 詩篇二十三篇は『たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。』という、一つの人生の戦いをテーマとしています。この中で彼は、神は「敵の面前で食事を整えてくださる」、そして「敵の面前で油を注いでくださる」と語っています。この詩は、どのような体験から出来たのでしょうか。それは彼が若い頃、ゴリヤテと戦った体験から来ていると私は思います。彼も人間なので、敵の面前で少しは恐れたと思います。けれども過去、神が助けてくださったという信仰と共に、ゴリヤテの前に出て行ったことでしょう。そこで体験したことは、「最前線こそが、一番、神の力と油注ぎを体験できる場所であった」ということでした。だから、「主は敵の面前で食事を整えてくださる、敵の面前で油を注いで下さる方だ」と、自分の体験を歌に託したのだと思います。
 最前線で戦うときに、そこに神の力と恵みが満ちています。私の働きも、ある意味で「最前線」に出て行かねばならない場合がよくあります。霊的戦いの最前線に出て戦うのは、しばしば辛いこともあります。しかし最前線ほど神が色々な奇蹟を見せてくれる場所はないことを私も体験しています。
 イエス様が、ゲラサに行ったとき、イエス様を迎えに出たのは、ゲラサの村長ではなく、町の人でもなく、悪霊につかれた人が迎えに出ました。そして悪霊たちは「イエス様。私たちを追い出さないでください」とイエス様の前にひれ伏したとあります。私も奉仕に行くと、「順先生、よく来てくださいました」と言って迎えてくれます。しかし牧師先生が迎えに来られたら、少しショックを受けます。「私はまだまだ、イエス様とは違う」と思います。もしも悪霊につかれた人が迎えに出てきて、悪霊どもが「先生、私たちを追い出さないでください」と言ったら、私も一人前になった時かと思います。
 先日、神戸に奉仕に行ったとき、新神戸の駅に降りると、牧師先生が私を迎えに来てくれました。しかしもうひとり、薄気味悪い人が迎えに来ていました。「もう一人来ているのです。」と言われ、「誰ですか」と聞くと、その人は柱の陰に隠れて私をちらりと見ているのです。男性か、女性かわからないような人でした。見るからに、ゲラサの人のようでした。「最近、教会に出入りしているのですが、先生が来てくださったら何かあるかと思い連れてきました。」と言われました。その人はどうも私と会いたくないようで、柱の陰に隠れて、こちらの様子を見ているのです。この人と車に乗るのは嫌だ、と思いましたが一緒に教会まで行きました。「今日、集会があるから出てください」と勧めましたが、集会には出ませんでした。集会中は、室内をウロウロしていました。しかし不思議と家には帰りませんでした。
 集会も終わり、皆が帰ってもその人は教会内にいました。すると牧師が、「__さん、順先生があなたのために祈るから、こっちにおいで!」と言いいました。すると、「嫌だ・・」と言って走り出し、ついには先生と追いかけっこが始まりました。その人は逃げまくって最後には机の下に潜ってしまい、足だけ出ていました。やがて蛇の尻尾を引っ張るように、その人は引きずり出されて来ました。「嫌だ!離せ!」と言っていましたが、私はその方のために祈りました。祈り始めるとその人は、大暴れしましたが、聖霊の注ぎがあり主が触れてくださったのがわかりました。そのようなことがあり、私の働きも少しは前進したかと思いました。
 先日、名古屋リバイバルミッションのキックオフに私は家内と共に出席しました。そのとき、観客席に座っていたら、後ろから肩をトントンとたたかれ、「順先生」と呼ぶ声を聞きました。振り向くと、何と、その時の人でした。そして、その人は女性でした。髪の毛を長くし、きれい染めていました。「今日は集会に来ました。昔、私は名古屋に住んでいて、ここで多くの偶像礼拝をしたので、現地で断ち切りの祈りをしたい」と言っていました。見違えるように立派になって、美しい人になっていました。信じられないくらいに変わっていました。今は、喜んで教会に来られているそうです。名古屋の集会では、ずっと悪かった体が癒されたり、更に元気になったようです。
 最前線に出ていくときに祝福して下さる事を私も体験しています。皆さんにもそれぞれ、遣わされた場所があり、それぞれの最前線があります。しかしそこから逃げてはいけません。私がそのような現場に立ったとき、逃げてしまったらどうでしょうか。その人は解放されません。もちろん、逃げたいと思うときもあります。アメリカに行っても大変でした。しかし、逃げずに立ち向かっていくときに、神が素晴らしい祝福を与えてくださいました。それぞれ、遣わされた現場で、色々な戦いがあるかも知れませんが、一歩も引かないで下さい。信仰を持って立ち向かって行くならば、そこが一番油注がれた神の奇蹟を体験する現場となるのです。一般的に逃げたいと思う場所に、ダビデのように出て行ってください。そこに祝福があります。恐れ退いてしまうのではなく、忍耐して戦い、勝利を受け取る者になっていただきたいと願います。お祈りします。
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