今週の礼拝メッセージ
2002.10.6(SUN)
祈りは聞かれる!
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 ヨハネの手紙 第一3章21節〜24節
愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

 ハレルヤ!今日はカナダよりジョン先生が来てくださり、素晴らしい賛美と証をして下さり感謝します。午後からはたっぷりと時間を取ってくださいますので、ぜひ、午後からの集会にもご期待ください。
 今日は皆さんと共に、「祈りは聞かれる!」というテーマで御言葉を学びます。ジョン先生はかつて足が悪くて、十五分と立っていることはできませんでしたが、イエス様の所に来たときに足が癒されて、皆の前で賛美するように変えられたと証されていました。私たちの神様は祈りを聞いてくださるお方です。

『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。』

 これはほんとうに大胆な言葉です。「求めるものは何でも神からいただくことができます」というのです。聖書の御言葉は全体から受け取るべきですが、この御言葉は実に大胆です。「求めるものは何でも与えられる」ということは、「何でも与えられる」ということです。しかし、ここには条件があります。「私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」と書かれています。神のみこころを行っているならば、私たちは大胆に欲しいものを神に求めることができるのです。しかし、そこには、「神のみこころを行う」という条件があります。第二歴代誌第二の十六章九節に、

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』

とあります。神はあまねく全地を見渡すことができる方です。なぜならば、神は私たちを造られたからです。そして心が、ご自分と全く同じ人々に御力をあらわしてくださるのです。
 神の力を体験する為にはどうしたら良いのでしょうか。それは、神と同じ心になったら良いのです。そのためには、日々、神のみこころを求めて歩んでいきたいと願います。
 しかし一方、聖書には、「神の思いと私たちの思いは異なっている」とも書かれています。神の心はあまりにも高く、地上に住んでいる我々とはあまりにも違うからです。そうなら、この御言葉を自分のものにするのは難しいのです。逆から言えば、神と同じ心にならなければ、神の力は体験できないということです。旧約聖書には神のみこころが現されていますが、神のみこころと一つとなる困難さをも示しています。
 しかし、新約聖書になって、イエス・キリストがお生まれになり、十字架にかかられ、復活されたことにより、神の御心と一つになるという事柄が単純化されたのです。それが今日学びたい事柄です。

『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。』

 「神の命令」について、三章二十三節から二十四節に、

『神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。』

 私たちが神の心と一つになるための条件、そして、祈りが聞かれるための条件の第一は、「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じる」、第二は、「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うこと」であると記されています。
 今の時代においての神のみこころを行う、同時に祈りが聞かれるための条件は単純です。イエス・キリストの「御名を信じる、互いに愛し合う」これが神と心を一つにする為の条件です。
 祈りが聞かれるためには、どうしたら良いのでしょうか。この二つを実行したら良いのです。教会では、毎週、聖書の中から幸せに生きるために必要な「霊的な法則」を学びます。この法則を学んで、今週、実行してみましょう。そうすれば、祈りが聞かれる現実を体験できるでしょう。
 まず第一に、イエス・キリストの御名を信じることです。世界には色々な宗教があります。九月に世界宗教人口が新しく発表されました。それを見ると、キリスト教徒は現在二十億人です。この中には、カトリックもプロテスタントも、様々なものが入っているので、単純には考えることは出来ませんが、イエス・キリストを神の御子として信じる人々の人口は、地球人口の三分の一です。その次に多いのがイスラム教徒で、十三億人です。イスラムは、アラーという唯一の神を信じていますが、そこに通じるためには「マホメッドの名前」を通さないと到達できないと言う教えです。イスラム教徒は、イエス・キリストの名前ではなく、マホメッドの名前を信じているのです。次はヒンズー教徒で九億人です。そして日本人の多くが仏教徒ですが、仏教徒は三億六千万人です。
 何れにしてもクリスチャンが圧倒的に多いのです。クリスチャンとは、イエス・キリストを神の御子として信じ、イエスの名前を使って祈る者たちです。聖書は、神は唯一であり、そこに通じるためには「ただ一つの名前」、「イエス・キリスト」の名が必要であると教えています。「御名」とは「イエス様の尊い名前を使う」という意味です。
 誰でも、ふだんの生活の中に祈り心があります。その祈りを「イエス・キリストの名前」で祈り始めると、答えが来るのを体験し始めます。
 私は色々なところで、まだイエス様を信じておられない方々にお話しする機会があります。そんな時、私はいつも一つのことを語ります。「クリスチャンになるのは難しいことではありません。まず、あなたの心に祈りがあったら、イエス様の名前で祈ってみてください。そうしたら変化が訪れます」と話します。そうすると人々は、「イエス様の名前は使ったことがないが、試してみましょう」と言って、イエス様の御名によって祈るのです。すると、状況に変化が訪れるのを体験するのです。
 三週間前、私は日本の南の果て、沖縄から三百キロ程離れた「宮古島」に行きました。そこは人口四万人程の島です。車で一周しても二時間ほどです。その島の人たちは大へん祈り深い人達でした。そこには「祈り場」と呼ばれる場所が九百箇所もあり、それがどこにあるのかを示す地図と九百箇所全ての祈り場の特徴が記された本もありました。これを教会に置き換えるならば、四万人の町に九百の教会があるのと同じです。島の人々は、強い祈り心を持っているのが分かります。しかし祈っている割には効果がないのも確かです。私は島の人々に聞きました。「皆さんは大へん祈り深いですね。でも一度考えてみて下さい。本当にその祈りが聞かれていますか。」すると、皆、黙ってしまいました。日本人は一生懸命に祈っていますが、その割には祈りの答えを受け取っていないという現実があります。なぜならば、イエス・キリストの御名を使っていないからです。イエス様の御名を信じて、イエス様の名前で祈り始めるならば、祈りは聞かれるのです。
 ここにお集まりのほとんどの方が、すでにイエス様の名前で祈っておられると思います。イエスの名前以外には救いはないのです。これが祈りが聞かれるための第一の条件です。しかし、祈りが本当に聞かれるためには、「第二段階」をクリアしなければなりません。

『キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』

 お互いに愛し合ったら、祈りを聞いてくださるというのです。これは頭ではわかっている事ですが、なかなか実行できない事柄かも知れません。しかし祈りが聞かれる為の条件は、ここにポイントがあるのです。
 人類が最初に体験した問題は、「人間関係のもつれ」だったと思います。はじめの人類アダムとエバは、神が絶対にとって食べてはいけない、と言われた善悪を知る木の実を食べてしまいました。それは、はじめエバが蛇にそそのかされて、とって食べたのです。その結果、彼らはエデンの園から、荒野に追い出されてしまいました。以来人類は、神の定めとは全く違った環境に出てしまうという、悲惨な出来事が起こりました。エデンの園では必要の全てが備えられていました。彼らは、何の不足もない生活をしていました。しかしエバがヘビにそそのかされ、善悪を知る木の実からとって食べてしまった結果、園から追い出されてしまったのです。
 多分、アダムとエバはその後、お互いにもめたと思います。アダムはエバに対して怒ったのではないかと思います。「エバ、お前が蛇なんかにそそのかされるからこんな風になったではないか!何でお前は蛇に誘惑されたのだ!そもそも、お前はあの木の側を通るとき、いつも食べたい、食べたいと言っていただろう。大体、お前の考えの中心は食べることばかりだ!だからお前は蛇の誘惑にかかったのだ!エバ、おまえが悪い!」「何よ。あなただって、一緒に食べたいと言ったじゃないの。」と夫婦関係は険悪になったと私は推測します。荒野に追い出された夫婦は、喧嘩ばかりしていたと思います。
 だいたい夫婦関係が悪いと、子どもたちも悪くなります。よく喧嘩している夫婦の間に産まれた子どもは、よく喧嘩をするようになります。聖書を見ても、アダムとエバが夫婦喧嘩をしていただろうという結果が、息子達、カインとアベルに現れています。カインとアベルが喧嘩をし、最後には殺人事件にまで発展してしまいました。
 ということは、人類が最初に経験した問題は、経済的な問題でもなく、健康問題でもなく、環境問題でもなく、「人間関係の問題」でした。
 私たちが一番多く体験する問題は、「対人関係」です。近頃の大学の学科で、人間関係学科というのが流行っています。そこに入学して人間関係を学ぶらしいのですが、そのような学びをしても人間関係がうまくいくとは限りません。今世界の問題を一言で表現するならば、人間関係の問題です。現在、日本と北朝鮮との間に大きな問題がありますが、これも突き詰めていけば人間関係の問題です。また、アメリカとイラクの間にも緊張があります。フセインが査察を受けるか、受けないかで大きな緊張があります。イスラエルでも、パレスチナとの間に敵対関係があります。これから世界は、どうなってしまうのだろうかと思います。しかし、これらをすべて一口で語ると、「人間関係のもつれ」です。ということは、人間関係ほど難しいものはないのです。
 現在、世界中で問題になっているのが夫婦の問題です。夫婦とは、もともとは愛し合って結婚したはずですが、多くの夫婦関係が壊れています。日本においては、三組に一組が離婚します。日本で一番離婚率が高い県は「沖縄県」です。宮古島のことを話しましたが、宮古島は沖縄県です。島内の九百ヶ所で一生懸命拝んでいるのですが、離婚率は高いのです。それは、おかしいと思います。続いて離婚率が高いのが、大阪、三番は北海道、四番は福岡、五番目は東京です。国別で言うと、各国で結婚の定義が違うので公平に比べるのは難しいのですが、一番がロシア、それと競っているのがアメリカです。ソ連とアメリカの間にはかつて冷戦構造がありましたが、国際関係がもつれている国は家族も、もつれているようです。国別で離婚率の低い国は、一位がイタリアです。次はユーゴスラビア、続いてタイです。何れにしても、世界の夫婦関係が破壊され、特に近い人間関係が崩れています。
 聖書は、それらを直さない限り、祈りは聞かれないと教えています。「互いに愛し合う」ことが大切なのです。「それは難しい」と思うかも知れません。
 しかし、人間関係のもつれに至る手順、すなわち、方程式のようなものを聖書から見出すことができます。アダムとエバの関係がもつれていった背景を調べると、関係が悪化する前に、まず、神との関係が遮断されました。人間関係がもつれる以前に、神との関係が悪くなる、これが人間関係が悪くなる為の第一条件です。先程、祈りが聞かれるための条件として、まず、神の御子・イエス様を信じなさいとありました。イエス・キリストを信じるとは、「神との関係が正常化する」ことです。教会に来ると、多くの場合、問題解決を体験します。今までまったく動かなかったような問題が動き始めます。なぜ、問題が解決し始めるかというと、神との関係が遮断されていたのが復活するからです。しかし、悪魔はその逆を行います。人間関係を壊すために、最初に神との関係を遮断するのです。神との関係が悪くなると、人間関係も悪くなります。牧師をしていて、「この人は神との関係が良い」という人に出会います。しかし、「神との関係は良いけど、人間関係は最悪だ」という人には出会ったことがありません。神との関係が良いと、人間関係も良くなります。神との関係が第一に遮断され、その結果、人間関係が破壊されていくという図式があるのです。
 そしてもう一つ、人間関係の構造の中で忘れてはいけないのが、「背後に蛇がいる」という事実です。蛇とは悪魔です。時々、私たちは人間関係のもつれを体験しますが、よく知らなければならないことは、それがただの感情的な問題ではなく、「霊的な問題」だという事です。人類が最初に直面した問題は「人間関係」だと言いましたが、もっと突き詰めれば、それは「霊的な問題」なのです。関係の中に蛇が侵入したのです。最初に蛇は「神と人との関係を遮断」し、続いて人間関係の中に入り込み「人間関係を壊す」のです。
 イエス様が十字架にかかられる直前、イエス様の弟子であったユダの所に悪魔が侵入しました。そしてイエス様を売ろうという思いを入れました。イエス様に最もお世話になった弟子の一人が、イエス様を売り飛ばしてしまうという信じられないことが起こったのです。一番良い関係であるべきユダとイエス様との関係を悪魔は壊そうとしました。しかしその背景を見ると、ユダはすでに神との関係が崩れていました。ユダもイエス様に感動して弟子になったはずです。しかし段々、イエス様の財布を預かるようになって、彼はお金に捕らえられていきました。悪魔は巧みな手口で、ユダと神との関係を遮断することに成功したのです。そして次に、悪魔はユダの心の中に、イエス様を売ってしまおうという裏切りの思いを入れることに成功したのです。イエス様との関係が悪くなるための「思いを入れた」のです。
 時々私たちの心の中に「あいつは嫌な奴だ」という思いが入ります。「もうあんな奴の顔も見たくない」という思いが入ってきます。そこには色々な背景や理由があるとは思いますが、「思いを入れる」というのが蛇の働きです。悪魔は夜中に怖い顔をして出てくる存在ではなく、私たちの思いの中に働くのです。ユダの心に「イエス様を売ってしまえ」という思いを入れたのと同じように、人との関係を裂く思いを入れるのが蛇の働きです。
 悪魔はなぜ、人と人との間に一生懸命働くのでしょうか。これは、結論的に言うと、最初に読んだ御言葉に答えがあります。イエス様が遺言のように語られたのが、ヨハネの福音書十三章から十七章です。「遺言」といっても、死んでいなくなったのではなく、よみがえられましたが、イエス様が十字架に付けられる前に、弟子たちを集められ、ご自分の公生涯のまとめをされました。
 私たちもあと一時間で死ぬ、と言われたらきっと人生のまとめをして、一番重要なことを後世に伝えるでしょう。イエス様もそれをされました。そのような中で、一番強調されたのが、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与える」と言われた事です。それを何度も繰り返して語られ、「あなたがたが互いに愛し合うこと。これがわたしの戒めです。」語られました。それがヨハネの福音書十五章十二節に書かれています。そして、十五章十六節、

『あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

という御言葉につながります。イエス様の戒めは、お互いに愛し合ったら祈りを聞いてあげるということでした。悪魔が人間関係を壊す理由がここにあります。私たちが互いに愛し合ってしまうと、普段祈っている祈りがすべて聞かれてしまうからです。だから、何しろ関係を壊します。人間関係の勝利のためには「霊的戦い」という要素をしっかりと理解する必要があります。この問題は、生活のただ中に頻繁に起こってきます。しかし、人間関係のもつれの背後には必ず蛇がいます。私たちが愛し合うことができなければ、神は「条件が満たされていないから、あなたの祈りを聞いてあげたいけれど、聞くことができない」と言われるのです。
 祈りが答えられるためには、「互いに愛し合う」という「神のみこころを深く知る」必要があります。これは重要なことです。「イエス様の御名を信じて、互いに愛し合ったら何でも欲しいものを求めなさい。」
 もしも私たちの中に、愛することができない思いがあったら、今日はそれを霊的な戦いの領域と理解して、神の前に問題を引き出してください。必ず神は対立関係から解いてくださいます。また、祈りにも答えてくださいます。
 先週私は、一人の女性のことを話しました。ある教会に行ったら逃げ回って、最後に机の下にもぐり込んでしまった人のことです。教会の女性牧師が、彼女の足を引っぱって連れ出したので、私は彼女のためにお祈りしました。その人が名古屋の決起大会に、全く変えられて来たという話しをしました。そして、先週、私はその人から手紙をいただきました。

「順先生。お元気でしょうか。私は先日、名古屋で順先生にお祈りしていただいてから、長い間苦しんでいた、頭痛と吐き気、また背中の痛みから解き放たれ、すごく元気になりました。今現在は元気に教会に行って礼拝をささげています。先生本当に有り難うございました。言葉では伝えにくいのですが、せめて感謝の気持ちをと思い、このようにペンをとり、お手紙を書いています。名古屋では、本当に悪い思い出が多かったのですが、先日の名古屋一年前総決起大会は、私自身にとって最高の良き思い出になるでしょう。そう思っています。もし、名古屋に行くことがあったら、その時は順先生に元気になった私自身を見せに行きたいです。ありがとうございました。これからは、一日一日を大切にして、神様を信じて歩んでいこうと思いますので、どうかお祈りしていてください。私もお祈りしています。長々となりましたが、またお手紙を書きます。今日はこれで失礼致します。先生のご活躍が、ますます神様を現して伝えていくことを、心から信じてお祈りしています。」

 この方は、はじめイエス様をよく信じていませんでしたが、信じた時、悪霊から解放されました。その方は人間関係も遮断されていた人でした。しかし、今は人間関係も良くなり、教会に出席し、何とその結果、病気も全部癒されてしまいました。イエス様は祈りを聞いてくださるお方です。
 今日、私たちには、たくさんの祈りの課題があります。しかし、この二つに心を留めてください。今週は、イエス・キリストの名前で祈ることは勿論のことですが、もう一つ、「互いに愛し合う」ことに心を留めましょう。
 特に、ヨハネ第一の手紙は、クリスチャンに対して語っています。教会の中で、互いに愛し合うことに強調点があります。教会もある意味で集団なので、長いこと来ていると、「あの人は嫌だ」と愛せなくなってしまうのです。「これが一番の問題だ」という視点です。
 「教会が愛し合う」とは「見えない教会が立ち上がる」ということです。それは教会を通して、天にある支配と権威、すなわち、悪魔の力が打ち破られていくからです。だから悪魔も真剣です。愛を失わせて、人間関係を悪くして、教会が立ち上がらないように働くのです。私たちの祈りが、主の前に聞き届けられるためにも、常に人間関係に働く悪しき力が打ち破られるように祈り、互いに愛し合っていく、そのような心がけが必要です。
 人間関係に勝利させていただくように祈りましょう。「主よ。私の人間関係の中にある問題に触れてください」と祈りましょう。また、愛することができない人がいたら、「受け入れることができない人がいます。どうか、背後の蛇を打ち破ってください。」と祈りましよう。今週は、この御言葉の実現を体験できますように。
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