今週の礼拝メッセージ
2002.10.13(SUN)
思い煩うな
新城教会 滝元 明 牧師

新約聖書 ペテロの手紙第一 5章7節
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 ハレルヤ!久しぶりに、ここで御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。先週は加古川にある教会で奉仕しました。感謝なことに、日本の教会も段々と恵まれてきました。その教会には二百台入れる駐車場があり、大きな教会でした。非常に期待して伝道集会を持つことができ感謝します。
 さて、今日は第一ペテロの五章から学びます。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

私たちの人生には色々な戦いや心配事がありますが、今日は「一切の思い煩いを神に委ねなさい」とあるので、この御言葉を自分の御言葉として受け取って下さい。そうしたら素晴らしい祝福を得ることができます。この前後を見ると、
 ペテロ第一の五章五節から九節

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

と書かれています。そして、この最後に「堅く信仰に立って悪魔に立ち向かいなさい」と記されています。私たちの毎日の信仰生活の中には、霊的戦いがあります。悪魔は目に見えません。毎日「サタンよ退け」という宣言する戦いもあります。しかし、悪魔に立ち向かうことについてペテロ第一の手紙五章五節に、

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。』

と書かれています。サタンに立ち向かうとは「長老に従う」と書かれています。長老とは牧師のことですが、牧師が語る「神の御言葉に従う」ということです。ある意味で霊的戦いに勝利することは、「毎週語られる神の御言葉を捕まえて、それに従う」ことが大切です。
 加古川の教会に行くと、若い人が多かったです。素晴らしい教会だと思いました。雨の中でも自転車で喜んで教会にきて、一生懸命イエス様に仕えていました。若い人は従いたくないという、反抗心がありますが、反抗することはサタンから出ているので「若い人は従順に従いなさい」と書かれています。
 エペソ人への手紙二章を見ると、私たちは「かつては空中の権威を持つ、サタンに従っていた」と書かれています。特に、「不従順の子らに働く霊に従った」と書かれています。霊的な戦いでサタンに立ち向かうとは、イエス様に「はい」と従うことです。イエス様のいうことを聞かずに、サタンに立ち向かうことはできません。イエス様が示されたことは「従順になる」ことです。また次には、『みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。』と書かれています。サタンに立ち向かうことは「へりくだる」こと、「謙遜」が大切です。サタンに立ち向かう生活をしている人は、謙遜な生活をしています。高ぶりはサタンの罠です。いつでも神の前にへりくだることが大切です。サタンの策略は、高ぶらせることです。その高ぶりに乗ってはいけません。へりくだることです。聖書の中に

『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』と書かれていますので、「へりくだること」も霊的戦いです。皆さんの職場や家庭の中で、サタンの策略に立ち向かうとは、実際においては、「へりくだって生活する」ことが道であると教えています。
 そこで、サタンに立ち向かう秘訣について学びたいと思います。七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 案外サタンの策略であるとわからない時があります。それが、「心配事」です。「思い煩うことはサタンの罠」です。立ち向かうことは、思い煩わないでイエス様に信頼することです。神様に思い煩いを全部委ねたら、サタンに立ち向かうことができます。
 新聞を見たら、ある人が盗みをしたことが書かれていました。お菓子を二百三十円分盗んみ、逮捕されたと書かれていました。なぜ、そんなことをしたかというと、自分の貯金がなくなるのを恐れていた、と書かれていました。それで何度も盗みをしていました。その人にいくら貯金があったかというと、五千数百万円あると書かれていました。それだけお金があっても、なくならないかと心配です。老後のこと、明日のことかど、サタンは色々な心配事を入れてきます。子どもや経済、命のことなどについても心配を入れてくるのです。しかし、「心配そのものがサタンの罠」です。サタンに立ち向かうことは、「心配を神様にお委ねする」ことです。だから、色々なことを考えて思い煩うのではなく、すべてお委ねしましょう。箴言十六章三節に、

『あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』

と書かれています。これから、色々な計画があると思います。中学を卒業し、高校、大学を卒業し、結婚して、どうしようかと思いますが、あなたのしようとすることを神に委ねなさいとありますので、イエス様に全ての問題を打ち明けて、お委ねることです。詩篇三十七章四節から五節に、

『主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

と書かれています。本気で神様にこれからの人生を信頼して委ねたら、すべてを成し遂げて下さると書かれています。ペテロ第一の手紙五章七節には、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

と書かれています。皆さんは、色々な心配をするけれど、それ以上にイエス様は全部知っておられ、神があなたのことを心配されているから心配ない、神様が助けてくださる、だから委ねなさいということです。人間の知識より、神様の知識の方が素晴らしいです。私も人生七十三年間歩み、クリスチャン生活は五十二年になりました。時には、神様の前に委ね切れないような問題もありました。「イエス様、こうしてくれなかったら、私はどうなるのでしょうか。」と言うことがありました。
 特に私は、新城に来る前に、大家さんから「家を買ってくれるか、引っ越しするかどちらかにしてくれ。」と言われたときには、目の先が暗くなりました。それから一生懸命家を捜しましたが、全部駄目でした。最後に、下津具に御殿のように大きな家があり、「これだ!」と思ったので、「イエス様、これを与えてくれないと、もう生きていけません」と祈りました。そして、その持ち主が新城にいたので、お願いに行きました。
 「お宅の、下津具にある家を貸してください。」と言うと、「駄目だのん。人に貸すことになってる」と断られ、ショックでした。私はそこで降参しました。「イエス様、降参です。もう駄目です。全部お委ねします。」と祈りました。そして家に帰り、聖書を読むと、「昼は日汝を打たず、夜は月汝を損なわじ。」と書かれていました。昼は屋根があるから、日に打たれないということは、住む家があるということだと確信しました。そして、丁度、新城に出ていた見城さんに家内が手紙を書くと、すぐに返事が来て、「家は何とかします。いらっしゃってください。」と書かれていました。そして、元ダンスホールの家が与えられました。考えてみると、下津具の御殿のような家を与えてくれなかったら、私は生きられませんと言っていたのは、結局自分の思いで、そこが与えられていたら今私は、下津具で伝道しており、新城に教会はなかったと思います。
 時々、祈りが聞かれないと思っていたところに答えがあるのです。ですから、神様にお任せしたら一番良い道が開かれます。人間の道と神様の道は違うので、お委ねしましょう。神があなたのことを心配してくださいます。マタイの福音書六章をよくお読み下さい。三十一節に三十二節に、

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。』

と書かれています。その前には、空の鳥を見なさい。空の鳥は種を蒔くことも刈ることもしない。けれども天の父は空の鳥を養っているではないかと書かれています。ですから心配する必要はない。何を飲むか、何を着るか、何を食べるか心配しないでも良い、と書かれています。
 私が先週、軽井沢に良くと、一人の方が今度開拓伝道をすることになっていると言いました。その方のご主人が心配し、「家内が神学校を出て、今度教会を始めるので土地を買い家を建てなくてはいけないので、私の退職金がなくなってしまう。そんなつもりで神学校に行かせたのではない・・・」と言っていました。ご主人にとっては深刻そうだったので、私はこのように話しました。「心配しなくても良いですよ。聖書の中にイエス様のために家、土地、財産をささげたら百倍にして下さると書かれている。土地も家も最初は自分の名義にしておきない。困ったら売れば良いです。また、信徒が多くなったら、その家を教会で買えば良いです」と言うと、「そうですね」と言いました。あっても心配する人がたくさんいます。私はほとんどないですが、心配していません。また三十二節に、

『こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。』

と書かれています。人生で生きる限りは、食べ物が与えられます。今は不景気です。これからどんな時代が来るかわかりません。しかしどんなに不景気になっても、神様は必ず着るものも、飲むものも与えてくださいます。段々、不景気になると、悪魔は「食っていけるか?」と言ってきます。「教会ばかり行かないで、働いたら良い」などと、一生懸命言ってきます。しかし堅く信仰に立ち、「私は神に従います」と宣言し、従っていくべきです。そうしたら、必ず神様が責任を持って導いてくださいます。三十三節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

と書かれています。神様を第一にしたら、神様が責任を持って下さいます。自分が第一だったら、自分が責任をとらなくてはなりません。明日のことは明日が心配します、と書かれているのは、明日を支配するのは神様です。だから、明日のことは神に任せることです。明日は明日で神様が必要を与えてくださる、というのです。悪魔は色々な心配を入れますが、心配が来たら、イエス様を信じてサタンに宣言しましょう。ピリピ人への手紙四章六節に、

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

と書かれています。色々な心配事があります。心配事が来たら、祈れば良いのです。「心配です。助けて下さい」と祈ることです。「思い煩うな」と書かれていますが、心配事はやはり来ます。その時はすぐに祈ることです。「イエス様こんな心配事があります。お願いします。」と神様の前に出して本気で祈ったときに、解決がつかないことはありません。ですから問題を出して祈ることです。「任せます、お委ねします」と祈ることです。聖書を見ると、信じる道は非常に優しいです。マタイの福音書七章七節から八節に、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』

と書かれています。九節からに、

『あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』

と書かれています。真理はやさしいのです。難しく考えるのではありません。簡単なのです。子どもが「お父さん、パンちょうだい」と言うのに、石を持ってきて与えることはありません。また、「魚をちょうだい」というのに、魚の代わりに蛇を持ってくる親はいない、と書かれています。また次に十一節に、

『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』

と書かれています。神様から見たら、聖書の中に「義人はいない。ひとりもいない。」と書かれているので、神様から見て悪い者である私たちであっても、自分の子どもには良いものをあげます。まして、神様は良い方ですから、求めてくる者に良いものをくださらないはずがない、ということです。とても簡単なことです。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」神様の方で心配していてくださいます。心配ならば、祈ること、求めることです。聖書の中にパンを求めるものに、石をあげるようなことはしない、魚をくださいというのに蛇をあげるような親はありません。私たちが悪い者であっても、良いものを与えるとしたら、天の父は求めるものに良いものをくださらないはずがないと書かれています。ですから、今週の霊的な戦いは「心配するのをやめる」ことです。
 「悪い者であっても」と書かれています。色々な悪い者があるかも知れません。大阪四十日の集会のことを証したいと思います。今度ミッションニュースに詳しく書かれますが、私が八月六日に弟子教会でメッセージしました。その教会の先生は、元ヤクザの金沢先生です。その教会に行くと、一人のヤクザ歴四十年のトシカワさんという方が来られていました。その方は、金沢先生がクリスチャンになったときにとても怒り、「何だお前は。ヤクザをやめて。宗教に足を突っ込むな!」と怒ったそうです。またテレビで入れ墨を出したら、「俺たちと戦うつもりか」などと、随分怒ったそうです。「もう一回ヤクザに帰ってこい!」と怒ったようでしたが、金沢先生は「俺は帰らん!」と言い、数年間、電話もなかったのですが、ある日、「ここに電話をくれ」と留守伝が入っていたようです。それを見ると大阪の番号でした。電話をしたそうです。すると、彼は横浜でたくさんの借金を作って逃げ、大阪に来てると言い、行き詰まっているから助けて欲しいというのです。そこで早速、金沢先生が行ってみたそうです。行ってみると、ヤクザの姿がなくなって、みすぼらしい姿で落ちぶれていました。実家に行くと、「ヤクザの人は入れたくない」と言われたので「助けてくれ」と言われたそうです。そこで、金沢先生は彼を家に呼び、一軒の家を借りて住まわせたそうです。すると彼は金沢先生に、「ちょっと財布を見せろ」と言って、財布の中から一万円をとって行ってしまったそうです。教会に来始めましたが、彼は、「俺は、教会に来るけど、二年間は勘弁してくれ。」二年間は、絶対にイエス様を信じないというのです。しかし、イエス様はあなたのために死なれ、三日目によみがえってくれたと言うと、「知っている、だけど俺は二年間は絶対に信じない」と言っていたそうです。そう言った彼が、八月六日の集会に来ていました。彼は兄貴分でした。またもう一人のヤクザも一緒にいて、その日私はメッセージをしました。私のメッセージに聖霊様が働いてくださり、最後に、「モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もまた必ずあげられなければならない、竿にかけられた蛇を見ただけで救われたように、十字架のイエス様を仰ぎ見たら救われる。今日、信じたい人は手を挙げなさい」というと、そのヤクザが手を挙げました。そして近くの人も見ていたそうです。二回も手を挙げました。私は手を挙げた人に、前に出て祈ることを勧めると、二人のヤクザが出てきました。その日、私は「悔い改めてイエス様を信じなさい」というと、彼らは信じました。彼は、二年間は信じないと言っていましたが、信じました。
 集会が終わってから、彼はこう言いました。金沢先生に、「大体、お前たちも、モーセが蛇をあげたという話しはするけど、それだけで終わる。今日この先生は、見上げたら救われると話された・・・」と言われていました。親分としてのプライドがあります。子分から聞いて信じたくないというのがあったと思います。しかし私の説教を聞いて、彼は信じました。
 信じて間もなくして、彼は体の調子が悪く、医者に連れていくと、診察の結果はガンでした。「一ヶ月もたない」と言われました。彼は八月六日に決心し、その後ガンで一ヶ月も持たないという、死の宣告をされました。その時彼は、「俺は、準備ができた。死ぬことは恐くない。」と言ったのです。それで洗礼を受けました。私はそれを後に、ビデオで見せていただきましたが、教会の皆が感動して泣いており、彼が悔い改めて告白しているところを見ました。素晴らしい洗礼式でした。酸素吸入をしながらの洗礼式でした。
 そして、病院に帰って、彼は九月十二日になくなりました。「二年後でないと信じない」と言っていましたが、八月六日に決心してバプテスマを受け、九月十二日に召されました。彼は、曖昧ではなく、はっきり信じていました。機会は神が造っておられます。神様の道にピタリとあわせたら素晴らしいです。彼が「信じなさい」と言われたときに、「俺は二年・・・」と言っていたら、彼は天国に行けなかったかも知れません。しかし四十年間、ヤクザだった男が、救われて天国に行ったのです。
 ヨハネの福音書四章に、イエス様がユダヤを去ってガリラヤに行こうとしたことが書かれています。その時、「サマリヤを通過しなくてはいけなかった」と書かれています。サマリヤ人と、ユダヤ人は交わりがありませんでした。サマリヤ人は、アッシリア人とイスラエル人の混血だったので、ユダヤ人はバカにしていました。そこにイエス様が来て、昼の暑いときに、イエス様が旅の疲れで井戸に座っていると、一人の女性が水瓶を抱えて来て水を汲もうとして来たとき、イエス様はその女性に向かってこう言われました。
 「私に水を飲ませてください。」彼女は驚いて、「あなたはユダヤ人でしょう。ユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女に水を飲ませてくださいというのですか。」と言うと、イエス様が、「もしあなたが神の賜物について知り、水を飲ませてくださいというのが誰であるかわかれば、あなたの方から先に願い出て、その人からいのちの水をもらったでしょう。」と言いました。これが神の時でした。イエス様は、どうしてサマリヤを通過されたかというと、この女性が目当てでした。丁度昼の十二時でした。なぜならば、この女は悪い女で、五人男がいましたが、六人目の男と住んでおり、人々は通常朝水を汲みに来るのに、彼女は人目を避けて、昼に来たのです。丁度そこに、神様のタイミングがありました。
 神様に委ねると、神のタイミングがあります。皆さんに対して、神が計画している時に従わなかったら、祝福を失います。従うかどうかが問題です。四十日の伝道集会を計画しなければ、トシカワさんは救われませんでした。これも神の時です。
 以前、東北の大原敬先生のところに行きました。空港まで迎えに来てくださり、盛岡に行く途中、彼が、「先生、田中先生の教会に来ている、藤田姉の実家がすぐ側にあります。ご両親ともクリスチャンではなく、りんご園を経営している。」と言われました。私は「立ち寄っていこう」と言いました。ご両親が帰って来られ、色々話しをしました。話しをして、私の書いた「千代に至る祝福」という本をあげました。
 しかし、丁度その日に、藤田姉のお姉さんは、赤ちゃんができないために離婚され、実家に帰っていました。嫁ぎ先の人が占いに見てもらい、「この女を置いたら、この家は祝福されないから離婚しなさい」と言われ、夫婦は愛し合っていたのですが、お姉さんは追い出されたそうです。
 丁度私が行った日、彼女は悲しくて実家で泣いていました。そこでイエス様の話しをしている私の声を二階で一生懸命聞いていたそうです。そして、「千代に至る祝福」を私が帰った後、すぐにとりに行き読んだそうです。読むと、「偶像礼拝は悪霊礼拝で、偶像から離れなければならない」と書いてあり、「イエス様を信じたら救われる」と書いてあったので、彼女は「信じます」とその日に決心をしたのです。
 もし、私がその時に立ち寄らなかったら、どうなったでしょうか。今その姉妹は、大原先生の教会に来られています。そして素晴らしい男性と再婚され、良い家庭を作りました。神様の時があります。神様に委ねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです、と書かれていますので、たとえ今どんなに悪くても、へりくだるか、高ぶりを捨てるか、悪魔に立ち向かうかが問題ですので、心の底から神様にお委ねしましょう。そうしたら御言葉どおりに祝福されます。聖歌の中にこういう歌があります。

心にもだえあらば 
イエスに話せ イエスに話せ
悲しみ憂いあれば イエスに話せよ

涙のせき来るとき 
イエスに話せ イエスに話せ
かくせる罪を持たば イエスに話せ

恐れに囲まれなば 
イエスに話せ イエスに話せ
明日の気にかからば イエスに話せよ

死るに 安きなくば 
イエスに話せ イエスに話せ
惑えるその心を イエスに話せよ

 ここにあるように、何でもイエス様に話し委ねなさい。皆さんの家庭に、たくさん問題があっても良い、たくさんあればあるほど期待しなさい。こんな大きな問題を、神様に委ねたらどんなことをしてくださるか楽しみです。この子どもは悪い、どうしたら良いか。任せなさい、必ず良くなります。家の主人、妻、経済、・・・すべてにおいて、イエス様が責任をとってくださいます。すべてをお委ねしましょう。お祈りしましょう。
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