今週の礼拝メッセージ
2002.10.20(SUN)
順境と逆境
新城教会 滝元 順 牧師

伝道者の書 7章14節
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。

マタイの福音書11章28節〜29節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 ハレルヤ!今週はアメリカ、ワシントン州ヤキマより、二十二名の方々が新城へ来て下さいます。ぜひお祈りくださり、プログラムにもご参加下さい。今週は日本とアメリカが民族や歴史を越えて一つとなる週だと思います。
 さて、今朝は「順境と逆境」というテーマで御言葉を学びます。聖書は、順境の日には喜ぶこと、逆境の時は反省することを教えています。
 小学校の時、一日が終わると教室に集まって自分の行動を見直す反省会がありました。「今日は掃除をさぼってしまいました」とか、「二時間目に、弁当を食べてしまいました」などと反省をしましたが、毎日繰り返して同じ事をやっていました。反省は人間の特徴です。私も試練や苦しみがあると、自分を省みます。「何が悪かったのだろうか・・、神の前に罪があったのだろうか・・」と反省することは大切です。もしも試練や苦しみ、逆境の中にある方は、まず反省してみてください。私たちは調子が良いと、つい高ぶってしまいます。時々、神様は人生にメリハリをつけ、人生にスパイスを入れて、考え直す機会を与えてくださいます。反省とは、へりくだり、身を低くする謙遜へと私たちを導くのです。そうするとマタイの福音書の御言葉が動き出します。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 さて、この言葉を語れるのは、神様かちょっと疲れている人かのどちらかです。普通の人がこのように語ることはできません。この言葉をイエス様が語られました。「疲れている人、重荷を負っている人はイエス様のところに来たら休ませて下さる」というのです。しかし、そこには条件があります。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

「安らぎが来る秘訣」は「へりくだる」ことです。イエス様はへりくだった方ですので、私たちも謙遜さを身に付けると、心が安まるのです。人生に逆境の風が吹くときに、私たちは謙遜にさせられます。そのことを通して謙遜さ、すなわち、イエス様のへりくだりを学ぶことになり、結果として魂に安らぎが来るというのが、平安が回復する方程式だと思います。ですから色々な困難は、あなたを反省させ、へりくだらせ、やがてあなたに安らぎを与えるのです。これが神からのメッセージです。
 しかし案外、クリスチャンは個人的には反省しています。もっと大きなフォーカスの中で、日本国民として、人類の一員として反省しているのかと考えると、していないように思います。
 今、日本に逆境の風が吹いています。特に経済が悪いです。新城教会に来られている方の中でも、経済的に苦しんでいる人もいます。ぜひ、経済的に守られるように祈ってください。不況の風が吹き荒れています。
 経済が悪いと言われますが、良く考えてみるとこれは大変なことです。なぜならば、一般的に、すべての営みは経済活動の為にあると言っても過言ではないからです。政治、教育、科学、医学など、究極的にはよりよい経済活動の為にあります。また、日本においては、宗教活動さえも経済活動のためです。そのような中、経済が悪いとは、深刻な問題なのです。それは、すべての領域が傷んでいるのを現す、大問題なのです。ということは、「経済が悪い」と一言で片付けるのではなく、全体的な反省が大切です。
 私たちクリスチャンの活動、すべての営みは経済のためではありません。私たちのすべての営みは、「神の栄光のため」です。私たちの営みは、神の栄光のためにあります。一般的な価値観では、経済的な祝福のためですが、私たちは「神の栄光のため」に存在しているのです。
 先週私は、青年会のメンバーとともに韓国へ行きました。それには目的がありました。日本は、いにしえから朝鮮半島と強いつながりがあります。日本人は仏教を熱心に信仰していますが、仏教はインド、ネパール、中国、朝鮮半島を経て日本に伝わった外国の宗教です。特に、日本に仏教を伝えるに当たり、大きな役割を果たしたのが、四世紀から七世紀にかけて朝鮮半島で栄えた「百済」という国です。その都「プヨ」という場所を拠点として、日本に仏教が伝えられました。
 紀元五五二年、日本に仏教が伝来したとき、日本は二手に分かれて仏教受容をめぐって戦いました。曽我氏と物部氏が争いました。曽我氏は仏教受容に積極的でしたが、物部氏は「国神の怒りに触れる」と言って反対し、蘇我氏と戦いました。仏教擁護派であった聖徳太子は、仏教の神に願掛けをし、「もしもこの戦に勝ち、仏教を導入できたら私は百済にある寺をそっくり日本に持ってきて作りますのでよろしく」と祈りました。戦いは曽我氏が勝ちました。聖徳太子は仏教の受容と戦勝を記念して、大阪に四天王寺を建てました。それは日本に仏教が入った記念碑です。
 仏教伝来の本拠地が韓国のプヨにあるのです。私は日本を福音から遠ざけている大きな力がそこにあるから、行って祈ってきたいと願っていましたが、先週韓国に出かけ、プヨと四天王寺をつないで祈りました。
 現在プヨは、人口二万人位の田舎町です。百済の都はほとんど壊されています。今は五重塔が一つ残されているだけです。しかし当時の仏教寺院の様式は、すべてプヨから日本に輸入されました。私たちは今回そこに行き、霊的な扉を閉め切る祈りをしました。
 日本の全仏教会は、プヨに記念碑を建てています。それは「仏教伝来謝恩碑」というものです。そこには、「仏教を日本に伝えてくれてありがとう。仏教が伝えられた事により日本が変えられた。この恩は永遠に忘れません」などと書かれていました。そこで私たちは、霊的な悪い扉を閉める祈りをしました。そこには、ある意味で、朝鮮半島からの悪い流れの原点があります。今回、韓国の国籍を持っている方も一緒に行って、祈ってくださいました。「韓国から、こんな悪いものを日本に持ち込んだことを赦してください、これからは良いものを伝えることができるように」と祈ってくれました。
 しかし、歴史を見ると日本人もそれ以上に、朝鮮半島で多くの悪いことをしました。日本人が韓国では、あまり行きたくない場所がソウルにあります。それは「パゴダ公園」です。観光案内書を見ると、「ここに行くと、罵声を浴びるので気を付けてください」などと書かれています。なぜならば、日本が朝鮮半島を植民地化していた時代に、色々な抵抗運動があり、日本は朝鮮半島に住む人々を虐待をしました。そんな革命を記念しているのが、この公園だからです。そこには日本人に苦しめられた体験を持っているような人々や、その遺族が多く集まっているのです。そこに日本人が入って行くと、何かにらまれるような感じです。その公園には、日本によって苦しめられた歴史的場面が彫刻となって展示されています。日本の憲兵が、人々を殺しているような場面が多く展示されています。
 日本は朝鮮半島でひどいことをしてきました。案外、歴史が進んでいくと、そんなことがあったことも忘れてしまいがちです。しかし、やはりこれは日本人としてはっきり悔い改め、反省しなくてはならないのです。日本がこれらの事柄を反省し、神の前に悔い改めなければ、日本の経験している困難や問題から、真に抜け出すことはできないのではないかと思います。
 歴史を遡ると、十六世紀、豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略しました。その時どんなことをしたかというと、朝鮮半島の人々を殺し首を切り取り、首を塩漬けにして日本に送るようにと指示しました。一首当たりいくらという賞金をかけ、朝鮮半島に住む人々を殺しました。あまりに多くの人を殺したので、首では荷物になって多すぎて運べなくなり、鼻を切り取って塩漬けにして日本に送ったそうです。
 一九一〇年、日本は韓国を併合しました。その背景に明治維新がありました。日本は新国家の為の憲法を作るために、伊藤博文らをドイツに送りました。ドイツ議会が、「ドイツ国民は神以外の何者をも恐れない」と国自慢した時、伊藤博文は、「我国は神をも恐れない」と語り、皆から笑われたという話があります。その時、ドイツで何を学んできたかわかりませんが、大日本帝国憲法の第一条は、「大日本帝国は、万世一系の天皇之を統治す。」という、天皇を国のかしらにしました。そして、第三条は、「天皇は神聖にして侵すべからず」と神にしてしまいました。なんと、愚かなことに、人が神になってしまいました。日本はおごり高ぶりました。そしてアジアに出ていきました。
 高ぶりは恐ろしいものです。おごり高ぶりがどのような結果をもたらすかについて、箴言十六章十八節に、

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。

と記されています。「日本は神国で特別だ」と言ってアジアを侵略し、人々を苦しめた結果はどのようなものであったでしょうか。日本の帝国主義が台頭したことにより、アジア諸国が侵略され、その結果、朝鮮半島が日本に併合され、次に日本はアメリカに手を出し、真珠湾攻撃を行いました。その結果、連合軍の反撃を受け、自分たちの実力のなさを知りました。沖縄には沖縄戦の悲惨さがあります。本土防衛のために沖縄を盾にしました。そして、最後には広島と長崎に原爆が投下され、最終的には日本の無条件降伏に至り、日本は倒れたのです。高ぶった結果は敗戦でした。
 高ぶりの結果は、国においても、個人においても同じです。私たちが神の御前にいつも身を低くしていないと、最終的に「高慢は滅びに先立つ」のです。しかし聖書は、箴言二十九章二十三節で、

人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。

と語っています。「高ぶると倒される」これはある意味で、神のさばきのように見えますが、実は神の愛の現れでもあります。人々を低くして、「心の低い人は誉れをつかむ」のです。
 先週のトピックは、北朝鮮に拉致された五人が日本に帰って来たニュースでした。韓国でも大きく報道されていましたが、日本に来たら更に大きく報道されていました。帰国された姿を見て、私は感動しました。家族が抱き合っている姿を見て、私はこう思いました。
 私たちはやがて天国に行き、この地上で別れた人たちと出会う瞬間は、あんなものではない・・と。
 皆さんの中で愛する人に先立たれ悲しんでいる人がおられるかも知れませんが、クリスチャンはやがて天国で再会できるのです。拉致された人たちが喜んで抱き合っていましたが、もう一度会うことができるのです。北朝鮮に帰らなくてはならない、というようなものではなく、死も苦しみも悲しみもない場所で永遠に共に過ごすことができるのです。
 しかし、あのような拉致事件を見ると心が痛みます。パゴダ公園でボランティアの人が私たちにいろいろと説明してくれました。「あなたはどのような方ですか」と聞くと、「日本人によって、私の父と祖父が殺されました」と言われました。そしてその方が最後に「今、韓国国民の一番の願いは、南北統一です」と言われました。
 たとえば、日本が二つに分断されていて互いに行き来できなかったら、どうでしょうか。東京あたりで線が引かれて、東北の方に住む人々と全く、行き来ができないとしたらどんな気持ちでしょうか。親族がいても全く会えません。同じ民族の中でも会えないのです。
 彼はこう言っていました。「皆さんに考えて欲しいのは、南北分断の歴史に日本が関わっていた事実です」それを聞いて大変心に痛みを覚えました。
 北朝鮮と韓国が分断された歴史の中に、日本が深く関わっています。第二次世界大戦が早期に終結したのは、ソ連が参戦したからです。ソ連が攻め込んできたときに、金日成が立ち上がり、共産革命を起こして最終的に三十八度線が引かれました。日本が朝鮮半島を併合した結果、分断の歴史につながったのです。
 今日本は、北朝鮮によって拉致された、と言って怒っています。その家族の立場になったら、それは当然のことだと思います。しかし、一つ歴史に目を転じてみると、日本が朝鮮半島で行った拉致は、十人や二十人ではありません。千九百四十年から四十五年の間に日本に連れてこられた朝鮮半島の人々は、約百二十万人だというのです。また日本が支配していた間に、日本のために徴用された人々、日本に連れてこられたり、家族を失った人々の数は、五百万人位いると言われます。北朝鮮の拉致問題も大きな問題ですが、私たちも悔い改めなければならないのです。
 ソウルから二十二キロ南にスワンという場所があります。そこに提岩里教会があります。韓国語でチアモリ事件という大変有名な事件が起こった場所です。それは一九一九年四月十五日に起こりました。
 当時日本が韓国を統治しており、民族運動が各地で多く起こっていました。日本はそれを鎮圧させるために民衆を弾圧し、争いが耐えませんでした。その町にも十日前にそのような事件があり、憲兵隊が群衆を鎮圧しました。そして、事件の日、四月十五日に憲兵隊がその村の人々を教会に呼び出しました。「私たちはあなたがたにひどいことをしたから謝りたい、だから教会に集まってください」と集められました。二十一名の信徒たちが教会に集まりました。憲兵隊は点呼をとり、「ちょっと待って下さい」と言って外に出ました。そして教会の扉を閉め、板を打ちつけてだれも出られないようにし、教会に火を放ちました。そして、教会めがけて一斉射撃をしました。中には乳飲み子を抱えていた母親もおり、「この子どもだけでも助けて下さい」と懇願しましたが、憲兵はお母さんと乳飲み子を日本刀で切り殺し、全員を殺してしまったのです。それは韓国に大きな傷を残した事件となりました。このことに関して、日本の教会は謝罪しなければなりません。なぜなら、当時の日本教会は無力であったからです。
 近年になって、日本のクリスチャンたちが献金をして、教会を建て直そうという運動が起こりました。それを行ったのが尾山令仁先生でした。初めは断られましたが、やがて誠意が伝わり、今では新しく教会堂が再建されています。韓国でそれらの話を聞きながら、日本が今まで犯して来た罪の深さに心が痛みました。
 ある意味で近年に至るまで、日本は繁栄を喜んでいました。焦土と化した日本がなぜ、ここまで回復したかというと、一つのきっかけがありました。第二次大戦後、朝鮮半島において再び戦争が始まりました。それは朝鮮動乱です。共産軍が攻めてきて、朝鮮半島で戦火が上がりました。その時国連軍が朝鮮半島に上陸し、共産軍と戦いました。その戦争において、国連軍は故障した戦車やトラックの修理や物資を日本から調達しました。そんな特需が起こり、日本の経済が息を吹き返し、日本はやがて順境を迎えました。しかし、一方、朝鮮半島の人々は日本の順境とは別に逆境でした。日本は朝鮮半島の犠牲を、またもや踏み台にして繁栄したのです。
 私たちは、歴史の中で犯された罪に関して、「私個人には関係ない、そんな五十年も六十年前のことだから関係ない」という立場になりがちですが、現在、日本の経済が悪い原因の中に、「それらを考え直し、へりくだって悔い改めたら、神はあなたがたを祝福してあげる」と語りかけているような気がしました。
 日本と韓国のキリスト教の歴史は、韓国の方が短いのです。しかしキリスト教の受容率は韓国の方がはるか上です。日本はキリスト教が伝えられて百五十年以上になりますが、一パーセントの壁をどうしても越えることができません。しかし、韓国は国民の約二十五パーセントがクリスチャンです。教会は至る所にあります。そして国民の心が柔らかいです。
 今回、私たちのガイドをしてくれた人がいました。クリスチャンかどうかと聞くと、「私は宗教は嫌いだ」と答えました。しかし、私は彼女に伝道しなくてはいけないと思いました。はじめ、とりなしツアーでこのような人をガイドとして使って、どのように祈ったら良いのかと複雑な気分でした。「主よ、助けて下さい」と祈りました。そして、色々と交わりをしました。すると彼女の心が変えられてきました。私はツアーを祈りから始めましたが、途中で祈りを忘れると、その人が、「お祈り忘れていませんか。祈りましょう。私のためにも祈って下さい」と変えられてきました。帰るときには彼女は涙を流して、「みなさんは、ほんとうに良いお客さんでした。私もこれから教会に行ってみたいと思います」と言われました。国民の心が日本よりもずっと耕されていると思いました。
 国家が歴史の中で犯してきた罪は、クリスチャンしか神に悔い改めることができません。これらは霊的な問題です。我々が神の前に国民を代表して、へりくだり祈ることが大切です。「日本は高ぶって、人々を苦しめてきました。アジアの諸国に迷惑をかけてきました。この罪を赦して下さい。私たちはへりくだります」と祈る必要があるのです。
 今まで、私たちは個人的な反省をしましたが、国を代表して反省し、神の前に祈ることはなかったかも知れません。だから今日は、一人一人が国を代表して祈りたいと願います。その時、神は素晴らしい祝福を私たちに与えて下さると信じます。ヤコブの手紙四章六節に、回復の条件が記されています。

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」』

 クリスチャンは、イエス様を信じてすでに祝福されています。しかし「更に」豊かに祝福されるためには、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」というところに鍵があるのです。更に四章七節から八節、

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』

 一九九九年一月に「祝福を受けるクイック・マニュアル」を学んだことがあります。それは、「高ぶると退けられ、へりくだるならば高くされる。神に従い、悪魔に立ち向かうならば、悪魔は逃げ去る、神に近づくなら、神も近づいて下さる」というものでした。祝福を受ける前提として、「高ぶる者は退けられ、へりくだる者に恵みを与えて下さる神」というところが鍵です。
 日本を覆う問題のただ中で、もう一度私たちはへりくだって、この国の未来に関して祈る必要があると思います。そんな祈りと共に、どうしても動かなかった問題の領域も動くのではないかと思います。個人的な悔い改めや反省をしても、何かいまいちスッキリしない部分がありますが、この問題についてへりくだらないと動きがないのではないかと感じています。神は「もっと、フォーカスを引いて、あなたの国やあなたの歴史を見るように」と導かれていると思います。国を代表して悔い改めましょう。へりくだる者に恵みを与えて下さる神が、魂に安らぎを与えて下さると信じています。
 今週、アメリカの方々が来られます。彼らが、「広島に行って悔い改めをしたい」と言われています。ぜひ、共に行って祈りたいと思います。そこで互いに赦し合い、祈ったら壁が崩れます。神が国際的な視点を、現在、この教会に与えて下さっていると思います。祈りましょう。
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