今週の礼拝メッセージ
2002.11.3(SUN)
負 債 返 済
新城教会 岡本 信弘 牧師

新約聖書 ローマ人への手紙1章14節
私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

 ハレルヤ! 主の恵みを心から感謝します。健康でここに立ち、御言葉を語ることができることを感謝します。今日は「負債・返済」というテーマで学びたいと思います。
 先週、礼拝後に運動会をしました。ヤキマから二十二名の方達が来られていたので一緒に行いましたが、アメリカ人はとても陽気で、これほどまでに違うかと思うくらい盛り上がりました。少し寒い日でしたが本当に楽しい一時でした。
 私は今回もまたパン食い競争に出ました。皆さんから、「どうやってアンパンを一回で飲み込めるのですか」と聞かれるほど早いので、私は運動が得意と皆さんは思われるようですが、実は、私は食べるのも、話すのも、風呂に入るのも全部早いのですが、運動神経が悪いので小さい頃から走るのは遅く、いつもビリから二番目くらいでした。ですから、足の早い滝元家がうらやましかったです。しかし、パン食い競争だけは昔から早かったのです。
 私はほかの競技にはあまり出ていないのに何故か疲れて、夜、熱が出ましたが、次の朝には寝込むこともなく仕事をすることができて守られたことを感謝します。
 年をとると物覚えが悪くなります。私は年に数回しかメッセージをしなくても前回何を語ったかすぐに思い出せなくなりました。昔はノートに書いていたのですが、今は全部コンピューターにポイントを入力して残しています。コンピューターにかなり依存しているので、コンピューターがなくなったらどうしようかと思いますが・・・。 
 以前のデーターを見ていたとき、丁度一年前、「与えるクリスチャンになろう」というテーマで学んだことを思い出しました。もう一年経ったのかと思いながら一年を振り返ったとき、どれだけ与えることができただろうかと考えさせられました。少しは与えることができたかも知れないけれど、与えるよりも与えられた方がどれだけ多かっただろうと思わされました。いつも与えられ続けてきた恵まれた一年であったと思い返します。
 私たちはたくさんの恵みをいただいているのにもかかわらず、その恵みを忘れてしまい、朝夕に祈るときに、「なぜですか」と愚痴を言う祈りや、「イエス様、お願いします」といったお願いの祈りが多いことに気づかされます。私たちはもっと感謝しなくてはいけないと思います。
 御言葉の中に恵みという言葉は四百回くらい出てきますが、『恵み』という言葉を辞書で見ると、「情けをかける」と書かれていました。私たちはイエス様に情けをかけていただき、また多くの人に情けをかけてもらい、このように恵みの中にいることを覚えます。私は食事もろくにとらないような不規則な生活をしているのに、健康で神様の奉仕をさせていただいています。これは素晴らしい恵みです。そして私は、「何故こんなに毎日楽しいのだろう」と思います。これはある意味で、霊、肉、魂において健康であるからこそ、喜んで一日一日主と共に歩むことができると思います。
 よく皆さんに「先生は何の悩みもないでしょう。いいですね」と言われます。時々私も悩みます。しかし、次の日まで悩みを持ち越すことはありません。時々に奉仕の中で大変なこともあります。
 先々週、丁度皆さんが遠足に行かれた日、私は留守番でプレイズで仕事をしていましたが、印刷のミスがあり怒られました。相手に怒られるだけならばよいのですが、「どうするのよ?」と問われます。即答しなくてはならないのでどうしたらよいかと考え、「すみません。明日の朝までに届けます」と言い、準備をして夜の内に車を走らせ、朝九時までに群馬県まで行って納めて帰ってきました。何とか事なきを得ましたが、その翌日、また同じような問題が起こり、次の日に埼玉に行きお詫びをして帰ってきました。行くまでは「どんなに怒られるだろうか。何て言い訳をしようか」などと落ち着きません。しかし、そのような時でも神様が共にいてくださり、一つひとつを解決に導いてくださり、楽しく奉仕ができることは、神様からいただいている恵めであり、特権だと思っています。
 皆さんも色々な苦しみや試練にぶつかる時があるかも知れませんが、神様は私たち一人ひとりを決して見離さず、見捨てられないということを覚えていてください。そして、私たちが受けた恵みを決して忘れてはいけません。
 私は小さい頃からわがまま放題に育てられてきました。しかし、いつも私が大切に思っていることは、決して受けた恩を忘れてはならないということです。四十数年生きてきた日々を思い返すと、神様によって導かれ、たくさんの恵みが与えられたことばかりで、感謝に絶えません。私のような者はクリスチャンホームに生まれていなかったらクリスチャンになっていなかったかも知れません。クリスチャンホームに生まれたからこそ救われて、主の奉仕をしているのだと思います。
 私の母は私を厳しく育てたと言うのですが、厳しくされた覚えがあまりありません。自由にさせてもらい、何でも買いたいものを買ってもらいました。ただ、礼拝に行くこと、家庭集会に行くこと、一週間に一度、早天祈祷会に行くことは厳しく言われました。しかし今思えば、それもよい思い出となり、私の信仰にとってはなくてはならない訓練であったことを両親にも感謝しています。
 私は高校の時に、将来のことを考えました。就職したらどれだけお金がたまるだろうか? 大学に行ったらどれだけ使うだろうかと計算しました。そして、私のような頭の悪い人間は、三流大学に行くよりも就職した方がいいと決断し、高校を卒業しておじさんの会社に三年間勤めました。将来神様のために働きたいと思っていたので長居は無用と思い、期限付きで働きました。会社でもたくさんのことを学ばせていただいたので、そこで受けた恵みも決して忘れてはならないと思っています。
 先日、その時の社長(今では社長を引退されていますが)に久しぶりに会って食事をしました。初めに「お前も偉くなったなあ」と言われ、何が偉いのか、そんなことはないと思いましたが・・・。私が辞めてから色々な問題が起こり、有能な五名の人が会社から出ていってしまいました。その話は何度か聞いていましたが、今回話しているうちに社長がぽろりと、「あいつらが成功するはずがない、恩を仇で返すような奴は・・・」と言ったのです。その言葉を聞いて、「おじさんは傷ついているなあ」と思いました。おじさんは真面目で、とてもいい人なんですよ。ですから私は、おじさんに対しても決して恩を忘れてはいけないと思っています。
 三年間会社で勤めたあと、マルイチ(その頃はまだ茶臼山駅前にありました)で五、六年働きました。肉や魚を切ることを覚え、今のマルイチの基盤を作ることができたのは、恵みでした。マルイチでも多くのことを学び、その後、献身しました。私が献身をしようとしたとき、教会はあまりやることがなく暇だったのですが、マルイチはすごく忙しかったので、私みたいな何もできない者が、今献身をする必要はないのではないか、マルイチで働いていた方がいいのではないかと思いました。そこで、明先生に相談しました。
 その頃は、すでに五百名入るこの会堂が与えられていましたが、人数がまだ百二十名くらいでした。明先生は私に「五百人の魂が導かれて来ても大丈夫なスタッフをまず育てなければ、神様はそれだけの魂を送ることはない」と言われました。それを聞き、私は決心して教会献身しました。しばらくは暇でした。こんなに楽で良いのかと思っていました。
 そのような中で一九九〇年前後に、大きな転機を迎えました。ミッションが始まり、プレイズの働きが本格的に始まりました。甲子園ミッションが計画されていく中で、私のような何もできないような者を滝元先生が呼んでくださり、甲子園ミッションの働きに召し出してくださいました。それまで私は、新城から出たことがありませんでしたが、その時から、色々な地域に出ていくようになりました。その働きも、大変なことがたくさんありました。しかし、その働きをさせていただいたことは、私にとって大きな恵みでした。今思うと、その大変だったときが一番たくさんの恵みをいただいた時だと思います。時が経つと、与えられた恵みを忘れてしまいがちですが、私たちは恵みに慣れすぎてはいけないし、その恵みは忘れてはいけないと思います。
 プレイズの働きが始まり、十二年が経ちます。何もないところから始まり、洋平兄が献身し、今は立派な奥様になっている鈴木寿余姉が加えられ、多くの方々の協力によってここまで導かれ、少しずつ整えられてきました。この働きに加わってくださった人、祈ってくださった人を、決して忘れてはならないと思い、その人たちにもいつも感謝しています。
 聖書には、自分で立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい、と書かれていますが、自分ですべてをなしていると思っても、多くの人によって助けられ、生活が成り立っていると思います。自分が助けた以上にもっと多くの人に助けられて支えられていることをつくづく感じる毎日です。
 私はプレイズ出版を任せられていて、楽しく働かせていただいています。そして、このビジネスをしていく上で、一つの鉄則を持っています。
 物を買うとき、例えば皆さんも電化製品を買うとき、何か大きな物を買おうとするとき、値切ったりすると思います。誰もが少しでも安く買いたいと思っていますね。私も同じです。しかし、限度を考えます。値切ることを叩くと言いますが、私はいくら値切っても、叩きすぎないようにしています。わかりやすく言うと、大工さんは、板に釘を打ちつけるときに、数回でピタリと真平らな所で打つのを止めます。叩きすぎると板に釘がめり込んで、抜くときに板を傷つけます。反対に、あまり叩かずに上に釘が出ていると、ひっかかります。丁度良いところまで叩いて止めるのは職人芸です。同じように、業者に見積をし、折衝するとき値切ったりしますが、あまり叩きすぎてはいけないのです。業者と共存していく方法は、平らなところで止めておくことです。そうすると、今度こちらが無理を言うときも、相手が気持ちよく応じてくれるのです。お互いに利益をはかりながら、ビジネスが展開していきます。これが、業者と長く付き合うための秘訣です。
 互いもそうです。私たちはひとりでは何もできません。多くの方と助け合う中で、互いに主の前に生かされ、恵まれているのです。そのことを決して忘れてはいけません。

 ルカの福音書十七章に、十人のらい病人がイエス様に出会ったときの様子が書かれています。
 「イエスさま、先生。どうかあわれんでください」と叫ぶらい病人たちに、
 『「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」』とイエス様は言われたのです。そして、イエス様が行きなさいと言っただけで、その全員のらい病が行く途中でいやされました。そのうちのひとりの人が、いやされたのがわかって引き返してきて、イエス様の足元にひれ伏して感謝しました。イエス様はその人に、
 『「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』(十七節)と言われました。イエス様は十人のいやしを実際に見たわけではありません。しかしいやされたことは知っていました。そして十人いやされたはずなのに、九人はどこにいるのかと言いました。続けて十八節で、
 『神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」』
と嘆かれました。しかし、戻ってきたひとりの人には、
 『「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」』と、彼の信仰を称賛しました。
 らい病は皆に嫌われ、皆から離れて生活しなければなりませんでした。彼らは肉体的な苦痛だけではなく、精神的にも耐え難い、苦痛に苦痛を重ねるような生活を強いられていました。ですから、らい病がいやされるなら、どんな困難なこともしたいと思っていたことでしょう。しかし、彼らはイエス様に「あわれんでください」と願っただけで、何の犠牲も求められませんでした。ただ、「祭司に見せるように」と言われました。それだけで、いやされました。イエス様のところに来て何をしたのでもなく、何の苦労もしていませんがいやされました。それは、ただ神様からの恵みです。そんな恵みが与えられたにもかかわらず、十人のうちひとりだけしかイエス様のところに戻ってこなかったのです。恵みをお返しせずに終わってしまいました。サマリヤ人だけが戻ってきて主に感謝しました。大きな恵みをたくさんのいただいているに、それを当たり前のようにして、なおざりにしてはいませんか。恵みをお返していないのではないでしょうか。
 私は妻を愛していますので、妻のために何かしてあげたいと思っています。しかし、鈍感な者なので、私がしてあげたいことと妻が望んでいることが違うことがよくあります。私が一生懸命奥さんにしてあげたことを、妻が百パーセント満足しているかというとそれは疑問です。私と妻は性格が全く違いますから・・・。私は皆さんに対しても、私にできることがあれば何でも(といってもできることは限られていますが)してあげたいと思います。私は四十数年間、たくさんの恵みをいただき、多くの方に祈っていただき、助言をいただいて、今ここにありますから、何とか一つでもそのお返しができればと思っています。しかし、先程も言いましたように、私は性格的に鈍感なので、してほしいことがあったら是非言ってください。それでも、できないこともたくさんあります。
 先日、ヤキマの方々が来られましたが、私はほとんど接待することができませんでした。忙しいということを理由にしていましたが、実は英語がまったく話せないのです。しかし、私は牧師なので、ある程度英語ができるだろうと思って話しかけられます。それが一番苦痛です。初めから「私は英語ができない」と言うのですが、日本人はけっこうみんな、「できない」と言うので、彼らは私ができると思って話してきます。本当に困ってしまいます。しかし、スタッフや周りの人は偉いと思いました。アメリカ人が帰った後に「今度、彼らが来るまでに英会話を勉強をしないといけない」と話し合っていました。その話しに加われないのは私だけでした。私は絶対に無理だと思ってしまうので身に付かないし、すぐ駄目だと思ってしまいます。
 あれこれ思うとできないことだらけです。いやし、平安、祝福をいただき、数知れない恵みを毎日のようにいただいてきました。しかし、その中でもイエス様から受けた最大の恵みは、永遠のいのちです。これは何にも代え難いものです。当然、滅ぶべき、ゲヘナに投げ込まれるべき者であったにもかかわらず、神様はただ恵みによって私たちを救ってくださいました。それは、ただイエス様の犠牲のゆえ、恵みのゆえなのです。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』(ヨハネの福音書三章十六節)

 この御言葉は、皆さんがよく知っているものですが、この御言葉どおりに、神様は私たち一人ひとりを愛するがゆえに、ひとり子イエス様を与えてくださいました。そしてイエス様は十字架にかかり葬られ、三日目によみがえられました。それは、ただ私たちが滅びることがないようにという、神様からの情け、恵みです。しかも、私たちが何か努力をしたのでもなく、永遠の命をいただき、救われるたです。さらに、 
 『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです』(ローマ書三章二十四節)とあるように、ただ、イエス・キリストの贖いのゆえに、何か犠牲をはらう必要もなく、価なしに義と認められているのです。今、私たちがその救いの中に入れられていることを感謝したいと思います。決して恵みを忘れてはいけないと同時に、この受けた恵みを何とかお返ししたいと思います。
 聖書にパウロが語った次のような言葉があります。

 『私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています』(ローマ人への手紙一章十四節)

 私も何とかこの負債を返済したいと思っているにもかかわらず、なかなか返済できません。それは何故なのだろうかと思います。皆さんもそう思っておられるかも知れません。返済するためには、返済するものが必要です。お金を借りているのならば、お金を返済しなければなりません。神様の恵みに対して、何をお返しすればいいのでしょうか。返済したいけれど、力もない、信仰も足りない私に、どうやって返済ができるだろうかと思います。事実、私たちは何も持っていないです。それは間違っていません。しかしパウロは第一コリント十五章十節でこう語っています。

 『ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです』

 パウロは、何度も死ぬような大変なところを通らされましたけれども、どれだけの人を導いたかわからないほど、素晴らしい働きをした人物です。しかし初めからそのような人物ではありませんでした。彼は、教会を荒し、クリスチャンたちを牢に入れ、迫害することに命をかけていたような人でした。しかし彼は変えられて、『神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました』と語っています。ほかの人よりも多く働いたと自分で自分を誉めることができるほど、パウロは多くの働きをしました。しかし、彼が付け加えて言っていることは『それは私ではなく、私にある神様の恵みです』と、自分の力ではない、神様が恵みを与えてくださったからなんだと言っています。
 そして、第一ペテロ四章十節に、『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい』とあるように、恵みとして賜物が与えられています。皆さん一人ひとりにも賜物が与えられます。元もと、私たちには何の力もなく、自分の力で負債を返済することは難しいことです。しかし、与えられた賜物を道具として使って、神様にお返しをすることができます。その賜物を使うことを神様が私たちに望まれています。
 先日ある人に、「先生、メッセージを語るのに誰に対して語っているのですか。誰に、というターゲットがありますか」と聞かれましたが、別に誰ということはなく、私自身が教えられたこと、神様が語ってくださったことを語っているだけです。何も語る資格のない、何も持っていない者ですが、神様が私に与えてくださっているものを少しでも分かち合うことができればと思い、語らせていただいています。
 一人ひとりに与えられている賜物が違います。

 『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい』(ローマ十二章五節〜十一節)

 ここに書かれているものは、賜物の一例です。ですから、ここに書かれているものが自分に当てはまらなくても、心配しないでください。必ず、それぞれに与えられています。そして、その賜物を使うことが、恵みに報いることであることを覚えてください。
 賜物を使う最大の目的は何でしょうか。それは魂の獲得です。私たちは神様の御前に奉仕し、伝道し、捧げています。しかし最終的に魂が救われなかったら、魂が獲得できなかったら、この地上でどんなに平安が与えられ、裕福になっても意味がありません。この魂の獲得のために、私たちひとりひとりに神様が賜物を与えてくださっています。ですから、与えられた賜物を魂の獲得のためにどうやって有効に使っていけるのかが一番重要です。
 教会の働き、ミッションの働きは直接的な伝道の働きです。プレイズ出版の働きは、ある部分では商売ですが、最終的に魂の獲得につながらなくては、いくらプレイズ出版が儲けても意味がないのです。魂の獲得のために何ができるかを考え、一人ひとりに与えられている賜物を是非用いてください。
 これから、クリスマスシーズンに入ります。クリスマスは人々を教会に誘う、絶好のチャンスです。魂に福音が届けられるときです。クリスマスキックオフのときにお話しましたが、今私たちができることは、まず、伝えることです。皆さんにしか伝達できない人がいます。クリスマスコンサートをはじめ、色々な集会がありますから、是非多くの方を誘ってください。そして、福音を伝えてください。
 特にクリスマス・ゴスペルコンサートは、文化会館の大ホールに千三百人集めるということで、容易ではありません。たくさんの人を集めることが目的ではありません。しかし今まで教会に来たことのない人、まことの神様の話を聞いたことがない人、キリストについて知らなかった人が福音に接することは、大変意義のあることです。ですから、大勢の人に来てほしいのです。
 私はコンサートのチケットをまず十一枚買い、一枚は自分の分、五枚は近くの人に売り、遠くにいる人には送って招待したいと考えています。できれば二、三十枚は売りたいと思っています。別にそれを売って私が儲かるわけではありませんが、しかし一人の魂がこのコンサートに来て救われるなら、千円は本当に安いものだと思います。
 そして私たちはこの機会に少しでも負債をお返ししましょう。「多くの人に負債を負っている」私たちは、いただいた恵みをどれだけの負債を返すことができるかわかりませんが、主の前に喜んで負債を返していきたいと思います。

 『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です』(コリント第二六章一節〜二節)

 この恵みの時に、私たちが自由に祈り、賛美し、伝道できるときに、私たちは主に負債を返済する者として、主に喜ばれる者として、主の御心を現していきたいと思います。
 お祈りします。
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