今週の礼拝メッセージ
2002.11.17(SUN)
確かに、神は、遠く離れてはおられません
新城教会 滝元 順 牧師

使徒の働き 17章24節〜31節
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

 ハレルヤ!今朝、皆さんと共に聖書から学ぶ時間が与えられて感謝です。「確かに、神は、遠く離れてはおられません」というタイトルで学びます。神様はあなたのすぐ側におられます。お互いに、「確かに、神はあなたの側におられます」と宣言し合って下さい。
 先週私は、「ですから、皆さん。元気を出しなさい」というタイトルで話しました。ある方から、「今度はその続きですか」と聞かれました。タイトルの形式は少し似ています。今日は「確か」にという言葉にポイントがあります。神は遠い空のかなたにおられるような感じがしますが、「確かに」神は私たちと共にいてくださるお方です。神が近くにおられることを、いろいろな方法で、明らかにしてくださっています。そのことを皆さんと共に学んでいきたいと思います。
 神様はパウロという人物に計画を持っておられ、彼をローマに導かれたと先週、話しました。彼は死ぬ程の危険な目に遭いましたが、神が彼に計画を持っておられたので、途中で使命は終わることなく守られたのです。神の計画が成し遂げられるまで、私たちは生かされ守られます。使徒の働き十七章二十六節に、

『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。』

と書かれています。神は全てに計画を持っておられ、一つとして偶然はないとクリスチャンは信じています。今日ここにおられる一人ひとりは、神の計画の中にあると信じてください。私たちは二十一世紀という記念すべき世紀に住んでいます。この時代に生かされているのは、偶然ではなく、神の計画です。神が二十一世紀を生きるために、造ってくださったのです。
 同時に、国々の境界線や、住まいの境界線をも神は定められたのです。皆さんが現在、住んでいる場所も、神の計画の中にあること、住んでいる家も、地域も、すべて神の計画の中にあるのです。なぜ、こんな田舎に生まれたのだろうか。もっと都会に生まれたかったと思わないでください。新城の片田舎に生まれた人も、神の計画の中で生まれ、また、さらに山の中に、都会に生まれたと色々な人がいると思いますが、すべて神の計画の中にあるのです。神の計画が、人生のすべての領域にあると信じることができたら素晴らしいです。この時代に生かされていることも、会社で働いていることも、すべて神の計画の下にあり、神は計画を必ず成し遂げられるお方であることを知るなら、勇気を持って毎日を歩むことができます。
 先週、キリスト教が全世界に拡がった理由の一つについて話しました。神は歴史の中において、ご自分を現してくださいます。歴史を支配されているのは神であることが、歴史を見るとよくわかります。パウロがローマに福音を伝えた事は、どのような意味があったか。その後、ローマでは迫害の中にありましたが、キリスト教が公認され、それと前後して、ゲルマン人がローマに入って来ました。彼らがローマでイエス・キリストを信じたことにより、福音がヨーロッパに持ち出され、今や世界中に福音が伝えられるようになったと話しました。神は世界に起きる様々な事件の背後にも働いておられ、人が見たら辛い、悲しいことをも益としてくださいます。しかし、色々な悲惨なことを神が行っているように思ってはいけません。その背後に悪魔・悪霊の働きがあります。しかし、そのような破壊的な出来事があっても、神はそれを益としてくださる良いお方です。
 キリスト教が初代教会の手によって、順調に拡がったのは奇跡的なことです。なぜならば、イエス様が生きておられた時代、今のように交通や通信手段が発達していませんでした。今は簡単に情報を伝え、情報を手に入れることが出来ますが、昔は一通の手紙でさえ届けるのが困難でした。手紙は、誰かが歩くか、走るか、馬車に乗るかして届けなければなりませんでした。イエス様の話しが、テレビやラジオ、インターネットで全国放映されたわけではありません。それでも教えが、間違わずに伝えられていったのは、すごいことです。印刷技術の発明は十五世紀です。ということは、それまではすべて手書きで情報を伝えました。しかし現代の信仰の基礎が、情報手段の少ない時代に確立したとは、すごい奇跡です。人間は聞き伝えの情報だけであると、考え方は変わりやすいのです。昨日はイエス様が神だと聞いたとしても、翌日、隣の人が、「キリスト教はやめておきなさい」と言ったら、「そうか」と思います。そんな状況にも関わらず、キリスト教信仰が確立したのはすごいことです。それを見るだけでも、神は生きておられることがわかります。その理由について、第一ヨハネ二章二十節に、

『あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

と書かれています。また二十七節に、

『あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、__その教えは真理であって偽りではありません。__また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』

と書かれています。
 当時、福音が伝わる中で、強力な反対勢力がありました。主を信じさせまいとする勢力がありました。それがユダヤ教でした。キリスト教はユダヤ教が母胎ですが、ユダヤ教はイエスがメシヤ・救い主であることを信じません。彼らは真剣にクリスチャン撲滅のために働きました。クリスチャンになるのを止めさせるために伝道者を遣わし、信仰を止めるようにしました。しかし、イエス・キリストを主と信じた者たちは、信仰を失いませんでした。なぜならば、「あなたがたには注ぎの油があるから」というのです。今でも基本的には同じです。今は昔よりも情報が多い時代です。何を選択すべきか、何がみこころの中心かわからないような時代に生きています。しかし私たちには、同じ神の油注ぎがあります。だから主が共におられ、神が私たちに語りかけられ、私たちを正しい道に導いて下さるのです。今から二千年前に初代教会の人たちが情報のない中でも、決して道を逸れることがなく、正しい道を歩み、キリスト教の基礎ができたのは、「聖霊の働き」によるのであり、今でも同じです。神の霊がともにあり、あなたの人生を導くので心配しないで下さい、というのです。育ててくださるのは神です。神は遠くではなく、あなたの近くにおられ、あなたを正しい道に導こうとされます。
 パウロがローマにまで福音を伝えたことは、キリスト教発展に大きなことです。しかし、その影で、神は歴史の中に働かれ、すでに周りの環境を整えておられました。私たちはそのような歴史を見るときに、神は歴史に介入され、すべての環境を整えてくださる方であると知ることができ、神は遠くにはいないことを知るのです。
 当時、キリスト教は、ユダヤ教から出た新興宗教のように思われていました。「ナザレのイエスという男が癒しや奇蹟を行うらしい。人々がそこになびいているが、あれは危険だ」という感じでした。多くの人が反対したのは、情報のない時代では無理もないことであったと思います。しかし、旧約聖書の中で預言されていたメシヤがイエス様であることを証明するために、神は準備されていました。
 旧約聖書はヘブル語で書かれていました。ヘブル語はユダヤ人を中心に使われていた言語で、あまり広がりはありませんでした。そして、当時の公用語はギリシア語でした。
 時々、日本語が公用語になったら良いと思います。しかし、日本語は使える範囲が狭いのです。日本から出たらほとんど使えません。お隣の韓国に行っても、近い国なのに全く通じません。日本語は汎用性のない、限られた言葉だと思いました。ヘブル語も同じようなものでした。しかしそのような中、紀元前三世紀後半に、ユダヤ教の人たちが一つのプロジェクトを開始しました。それは一部の人しか読めないヘブル語の聖書を、ギリシア語に翻訳し出したのです。エジプトの国際都市アレクサンドリアに、エルサレムから学者たち七十二名を呼び寄せ、旧約聖書をギリシア語に訳しました。それが「七十人訳聖書」と呼ばれているものです。それはギリシア語の世界に聖書の中身がどのようなものかを教えるために、大へん有益でした。ヘブル語で旧約聖書を読んでもわからない人々が、ギリシア語で読めば理解できたのです。パウロが西廻りに福音を伝え、やがてローマに行きました。ローマの人々はギリシア語を公用語として使っていました。キリスト教がユダヤ教から起こった新興宗教で危ないと思っていた人々に対して、「七十人訳聖書」があったのです。人々は、「七十人訳聖書」を読み、旧約聖書の中に預言されていたメシヤが、イエス様のことだとはっきりと認識出来たのです。神は一つの事柄と共に、歴史の中で他の事柄も同時進行され、来るべき計画実現のために準備されます。
 最近、「七十人訳聖書」がギリシア語から、日本語になって出版されました。興味のある方はお買い求め下さい。
 神様はそのように、準備されました。みこころが実現されるために、私たちの知らないところで、神の計画は進行中です。来るべき日のために、神のみこころ実現のために、神は色々なことを準備されています。ですから、楽しみにして下さい。「私の人生のために、私の知らないところで、神はみこころのために計画を進行中だ」と知って下さい。すべてが瞬間的に満たされる時が来ます。
 歴史を支配されている神を知るときに、神は遠くにおられる方ではなく、私たちのただ中におられるという信仰を持つことができます。
 さて、『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して・・・』と書かれています。私たちが神を知るために、神はあえて多くの国々や民族、文化をも創造されたのです。
 日本人の宗教は、主に、仏教と神道だと思っています。それがすべてだという感じです。日本が全世界を覆っていたら、本当の神を知ることはできません。色々な国の人々がいるので、これが全てではないと分かるのです。
 何年か前に、インドネシアに行ったことがあります。当時は日本からの駐在員がたくさんインドネシアにいました。ジャカルタで日本人教会に行きました。そこで、「日本から仏壇を持ってきて、朝晩おつとめをしています」と言われる人がおりました。その人が言うのには、周りを見ても仏壇を拝む人は一人もいないというのです。自分だけが拝んでいて、段々、空しくなったと言われました。日本では皆やっているのに、インドネシアではやっていない。それで、私も教会に行くことになったというのです。インドネシアはクリスチャンが多いのです。互いの文化・習慣などを学ぶ時に、神を知り、神が近くにおられることを知るのです。
 世界には国連に参加している国だけでも、百九十一ヶ国あります。また言語は数千あるとも、方言を含めるなら何万もあるとも言われています。たくさんの言語があります。日本から出ていくと、時々、カルチャーショックを受けます。挨拶の仕方一つでも、日本と他の国々では違います。私たち日本人は、誰かに会うと、「こんにちは」と頭を下げます。しかしアメリカでは頭は下げず、手をあげるくらいです。私たちから見ると、礼儀を知らない人達と思いますが、それが向こうでは普通なのです。頭を下げるだけが挨拶ではありません。しかし日本人は頭を下げることが挨拶だと思っています。
 私は先日、韓国に行きました。日本で普通のことが韓国では普通ではなく、また逆でもあります。そこでは、見るものすべてが珍しく見えました。日本で高速道路のサービスエリヤに立ち寄ることは普通のことです。しかし韓国のサービスエリアは、興味深いものがありました。そこで、うどんを注文しました。うどん一杯を買っただけなのに、店員が私に深々とおじぎをするのです。私は驚いて、「ありがとうございます」と言いましたが、日本では高級料亭に行かなくては下げてくれないほど、深々とおじぎをしてくれました。韓国はうどん一杯でも、深々と頭を下げる礼儀正しい国だと感動しました。色々、文化の違いがあります。日本が全てではないことがわかります。
 日本人は誰かと話しをする場合、互いに頭を下げても、頭がぶつからない程度の距離で会話すると安心します。その距離が、一歩近づくと一歩下がる性格があります。しかし、各国によって会話の時の距離感が違います。アメリカに行くと、日本より近づきます。アメリカでは腕を伸ばした距離が平均です。しかし南米に行くと、もっとその距離が縮みます。南米では、ひじを曲げた距離が会話をするときの平均距離だといわれます。アルゼンチンに行ったときは、みんな、頭を付き合わせてスクラム状態で話しているように見えました。世界には色々な文化・習慣があります。そのような多様性を通して、神はご自分の偉大さと、私たちのただ中におられることを教えておられます。
 世界中で神を認めない民族は一つもありません。かつて共産主義によって国を作ろうとたソビエトが、「宗教はアヘン」だと言って宗教を根絶しようとしました。それにより、多くのクリスチャンが殺されました。しかし宗教を取り去ることは、決してできませんでした。そうすればするほど、人々は隠れて神を礼拝し始めました。中国では一億人以上がクリスチャンではないか、と言われています。表面的には教会を作って礼拝できない状況がありますが、人々は隠れて集まって礼拝しています。ということは、決して宗教心を人々から取り去ることは出来ないのです。それは、神がおられることの証拠です。
 しかし神の認識の仕方は、各国、民族によって違います。ヨーロッパやアメリカでは日本とは認識が違います。一般的に、西洋では、「神はおられるが、神の世界と人の世界とは全く別の世界で、切り離されている。神は人に対して干渉せず、人も神に対して干渉できない」という、人は人、神は神という考え方に生きています。しかし、アジアの諸国は、そのようには考えていません。「神々は人のただ中に住んでおり、度々、人に干渉してくる」という考え方です。
 しかしこれらの考え方には、互いに良いことろもあり、悪いところもあります。西欧人はある意味、神と人との関わり、霊的世界が人の世界に影響を及ぼすとは考えません。
 「霊的戦い」という領域が開かれてくると、地域的な悪霊の働きがあることに目覚めさせられます。住んでいる場所は、神のみこころの場所に住まわされますが、悪魔も地域に働く現実について目が開かれます。悪霊は地域を捕まえ、地域そのものをささげさせてしまおうとします。村祭りは、村全体・町全体をささげる行為として行われます。ということは、町に住むだけでも色々な霊的影響を受けます。
 しかし、アメリカやヨーロッパで、そのように話すならば、地域が人に影響を及ぼすなどとは、全く信じることはできないと言います。場所は場所、人は人であり、住んでいる地域が霊的な関連性の中にあるなどと考えることはなく、全くそんなことは眼中にないのです。アメリカでの霊的戦いセミナーにおいて、地域に働く悪霊の影響について話しても、なかなか通用しません。日本で話せば、だいたいわかります。何かこの場所は暗い、この場所は嫌だ、他の所に住みたい、そこに行くと頭が痛くなるというような体験が多くの人にあります。しかし、西洋の人たちには意識されません。けれども悪魔は同じように働き、人々を束縛します。その為には、日本やアジアの人々の世界観を知らなければ理解できない面があります。しかし、その考え方にも行き過ぎがあります。
 九月にヤキマで集会をしました。その中で地域に働く悪霊の力を砕く祈りをしました。素晴らしい集会でしたが、一人の女性が聖霊に触れられて、倒れて立ち上がれませんでした。一時間、二時間、経っても動かず、泣いていて手がつけられない状況でした。困ってしまいましたが、その人と話をしました。彼女は幼いときから多くの傷を受けており、悪魔が真剣に攻撃しているように感じました。話を聞くと、生まれた場所で色々な問題が起こったのを知りました。そこでの霊的つながりが、その人に悪い影響を与えていると感じたので、その場所がどこかと聞きました。すると近所でしたので、「その場所に行って、悪霊との断ち切りを祈ってきましょう」と言いました。しかし、「そんなことをして、何か意味があるのか」と感じているようでした。しかし、私たちは集会の帰りに、その場所に立ち寄り、彼女の解放のために祈りました。地域を支配している悪霊に対して戦い、祈りました。そうしたら次の朝、彼女が元気になって早天祈祷会に「ハレルヤ!」と言って来られたのです。それで教会の人たちも、霊の世界と人の世界は関係ないと思っていたけど、関係があるのか。土地からも色々な影響を受けることについて目が開かれました。そこは長い間、インディアンにより偶像礼拝がなされ、白人達によって多くの血が流されていた場所でした。ジョー先生は、その時からさらに霊的な目が開かれ、地域のため祈るようになりました。その方のためにその場所に行き、その後も何度も祈ったそうです。すると彼女は見る見るうちに元気になり、今神様のために用いられているそうです。
 一方、日本は霊的な影響に気づきやすいのですが、行き過ぎもあります。日本人の神概念は、神が人と共に住むというものですが、物の中に神が住むという概念があります。ギリシア人は日本人とよく似ています。今日のテキストは、パウロがギリシアのアテネで語った言葉ですが、ギリシアの人々は、日本人と同じように、石や木や金属で多くの偶像を作って拝んでいたからです。
 日本人は、霊が物の中に宿ると信じています。だから偶像礼拝が成り立ちます。そのような考え方がなければ、仏像も仏壇もなく、拝むこともありません。日本人には遺骨信仰が強いです。昨年、ハワイにおいて「えひめ丸」を引き上げてくれと、真剣になった感情の後ろには、遺骨信仰が関係しています。真珠湾攻撃でアメリカの軍艦が沈み、今、記念館ができています。記念館の下に沈んでいる、戦艦アリゾナの中には千数百体の遺体があるそうですが、一体も引き上げていないようです。けれども、日本では六百メートル海底から骨を拾ってくれと願います。それは、「骨の中に、肉親の霊が宿っている」という考え方が強く影響しています。聖書は霊は物の中にはとどまらないとはっきりと教えています。使徒十七章二十四節に、

『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。』

と書かれています。日本人が神社崇拝を行うのは、社に神霊が住んでいると考えて行うのです。パウロはアテネで、「神は社に住むような方ではない」と言いました。アテネの人々も、物の中に霊が宿るという考え方を持っていたのです。パウロは、「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れていない。」と語りました。「物の中に神霊が住んでいるというのは悪い考え方ですが、確かに、あなたがたが考えているように、神は遠くではなく、近くにおられる。そのような考え方においては、あなたがたの考えは間違いではない」と語ったのです。
 神理解の概念を互いに学び、つき合わせていくとその中から真理が出るように思います。神が人類を作られたのです。日本人はものの中に霊が宿ると考えいますが、ヨーロッパの人たちは神の世界と人間の世界は全く別だと考えています。その考え方を一つにすると、真理が段々と浮き上がってきます。パウロが語った真理は、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」というものでした。神は物の中や、遠く離れた他世界に住むのではなく、私たちの方が逆に、「神の中に生き、動き、存在している」というのです。私たちは神から遠くありません。神は天地の主であり、全地に満ちておられるお方です。そして私たちの方こそ、神の中に存在しているのです。あなたがどこに行こうとも、あなたは神の中を動いているのです。また、神と共に歩んでいるのです。だから私たちの内側に、主がおられると言っても良いのです。
 しかし、日本人的な考え方で「主が内側にいる」というと、物の中に主がいるというような、アニミズム的な考え方で捕らえ、ちっぽけなキリスト像が体の中に入っているような気がします。そうではありません。天地宇宙を貫いておられる神の中に、私たちは生き、動き、存在しているのです。ヨーロッパ的な世界観と、日本的な世界観をつき合わせて調整すると、神は私たちのただ中におられるとわかります。
 同時に、ユダヤ人の神概念は、どのようなものであったのでしょう。彼らは、「名前の法則」を重んじていました。神は呼べば答えてくださる方だと考えていました。聖書の中に素晴らしい言葉があります。エレミヤ書三十三章三節、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

 神がどこにおられるのか。ユダヤ人達は、「呼んだら答えてくださる方だ。名前を呼ばなければならない。」ということでした。聖書を見ると、「彼らは主の御名によって祈り始めた」と書かれています。彼らは名前の法則を知っていました。
 私たちにも、名前がついています。名前を呼ばれたら振り向きます。私の名前、「順!」と呼ばれると、私は振り向きます。神様を呼ぶときには、神様の名前を呼ばなければなりません。しかし、旧約聖書の中では、名前の法則が厳しく使用制限されていました。「みだりに主の御名を唱えてはいけない」と言うのです。「ヤーウェ」という神聖四文字があり、それは発音してはいけない、使うと神にさばかれるという恐れを持っていました。それで、神の名前を呼びたくても呼べませんでした。人は困ったときに「神様!」と呼びたいのですが、彼らにはいつもブレーキがかかっていました。
 しかし、新約聖書の時代になり、素晴らしいことが起こりました。気軽に神様にアクセスする方法が与えられました。それが「イエス」という名前です。イエス様という名前を通して、天の父なる神のところに入っていくことができ、それも「アバ父よ(お父ちゃん)」と呼ぶことができるようになったのです。
 神は天地宇宙を造られたすごいお方です。本来は旧約聖書にあるような、みだりに呼んではいけない神々しいお方です。しかしイエス様がこの地上に来られて、「わたしの名によって求めたら、わたしはその祈りを父なる神に届けてあげる、父なる神とわたしは一つなので、アバ父よと呼ぶことができる」と語られたのです。いまの時代は素晴らしいのです。私たちがイエス様の名前を通して祈れば、天地宇宙を造られた神のところに祈りは入っていくのです。それも、「お父ちゃん、私の願いを聞いてくれんか?」という感じで、祈ることができるのです。ということは、神は遠くにではなく、近くにおられるのです。各国の考え方をつき合わせると、さらに神がクローズアップされます。神は近くにいて下さるのです。呼べば答えてくださる場所に、共にいてくださるとわかってきます。私たちを助け、救うためにこの地上に来て下さいました。
 しかし人間は残念ながら、そんな素晴らしい環境がありながら、神を求めず、手で作った神々をずっと拝んでいるのです。神は厳然として神であるために、人類に一つの期間を用意され、「この期間内にどうにかしてくれ、それでも駄目なら、世界をリセットしなくてはならない」「期間内に神の恵みを求めてくれ」と言われるのです。使徒の働き十七章二十九節から三十一節に、

『そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」』

と書かれています。イエス様が十字架にかかられて、よみがえられたことは、「世の終わりがある」ということの確証だというのです。世界は現在、無秩序状態ですが、神は世界をこのまま放っておかれません。やがて仕方なく、リセットされる日が来るのです。それが神の「さばきの日」です。だからその前に、石で作ったような神々から離れ、本物の神を信じてくださいというのが愛なる神からのメッセージです。
 やがて終わりの日が来ます。イエス様のところに人々が来て、終わりの日にはどんな状況になるかと聞きました。すると、イエス様は答えられました。マタイの二十四章三節から八節に、

『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。』

 今、私たちは毎日のように、戦争と戦争のうわさを聞いています。国は国に敵対し、民族は民族に敵対して、方々に飢饉や地震があります。毎日のニュースの中心は、戦争や民族紛争など、血生臭いことばかりです。北朝鮮で大きな飢饉があったとか、今の日本は地震で危ないとか言われています。
 先日、東海沖地震の被害予想図が発表されましたが、私はそれを見てつくづく浜松に住んでいなくて良かった、と思いました。津波で町がすべて流されてしまいそうです。浜松のために祈ってください。しかし、その中には新城も入っていました。新城のためにも祈らなくてはいけません。この近所に住んでいて、助かるところはありません。東海沖地震が起きたら、全滅状態です。気象庁が毎日、地震のあった場所の発表をしてますが、地震のない日はありません。今日も既に、二ヶ所で地震がありました。一日中、日本が揺れています。
 十節から十二節に、

『また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。』

 日本の宗教人口は二億人以上です。偽預言者の宗教がたくさんあります。そして人々の愛は冷たくなると書かれています。今の時代、愛がどんどん冷えています。そして、「世が終わる」という大きな神のサインについては、十四節に書かれています。

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

 イエス様の公生涯は三年しかありませんでしたが、今や福音は世界を覆っています。ある意味で、私たちは終わりの時代に生きています。だから私たちは今こそ、神を信じて神と共に生きていくべきです。
 しかし私たちは、恐怖で信じるのではなく、神は愛を持って人類を救うために来てくださいました。
 イエス様がお生まれになる七百年前、預言者イザヤを通してイエス様の十字架とその意味について語られました。イザヤ書五十三章一節から六節に、

『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』

と書かれています。イエス様がこの地上に来てくださったのは、私たちをさばくためではなく、救い、癒すためだというのが真のメッセージです。今日、癒し主なるイエス様が私たちのただ中におられ、私たちの近くにおられるのです。あなたのために世界の歴史を支配されています。決して神を遠くの方だと思わないで下さい。私たちのただ中におられ、私たちを助けて下さるお方です。それがイエス様です。今週はイエス様を近くに感じることができますように。私たちが神の中に生き、動き、存在しているということを実感できる週となることを祈りたいと思います。
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