今週の礼拝メッセージ
2002.11.24(SUN)
香り
新城教会 滝元 明 牧師

新約聖書 マルコの福音書14章3節〜11節
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

 ハレルヤ!久しぶりにここで、メッセージを取り次ぐことができることを感謝します。皆さんのお祈りによって、ここまで守られていることを感謝します。色々なところを巡回しましたが、こうして今日あることを感謝します。また今週も、家内と共に沖縄で奉仕しますので、覚えてお祈り下されば幸いです。今日は「香り」というテーマでお話しします。
 イエス様が十字架にかけられるすぐ前のことです。エルサレムの近くのベタニヤのらい病人シモンの家に、イエス様が立ち寄られたことが書かれています。そこにおいて、

『ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。』

と書かれています。「ひとりの女」と書かれていますが、他の箇所には「ベタニヤのマリヤ」と書かれています。ここには純粋で非常に高価なナルド油をイエスの頭に注いだと書かれています。他の箇所には、イエスの足に注いだと書かれています。

『すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。』

と書かれています。この中には「何人かの者」と書かれていますが、他の所を見るとイスカリオテのユダと書かれています。彼がこの直後に、イエス様を銀三十で売っています。ユダが彼女を訴えたのは、彼が盗人であり、イエス様の財布からいつもごまかしており、自分の罪を隠すために人を攻撃したのだと思います。そのことに対して、イエス様は、「彼女は、埋葬のための準備をしてくれた、だからそのままにしておくように、彼女は立派なことをしてくれた」とほめています。イエス様は間もなく十字架につけられるので、彼女が、私の埋葬の準備をしたと言われました。聖書を見ると、彼女は純粋で非常に高価なナルドの油が入った壷を持っていたと書かれています。
 私は小さな油を持っています。これが「ナルド油」です。二年前に京都であった世界宣教会議の時に買ったものです。結構高値でしたが、この香はあまり良くありません。なぜならば、これは純粋ではなく、混ざりものが入っているからです。聖書には書かれているのは、純粋で非常に高価なものだと書かれています。
 以前、大阪で万博があったときに、一人の娘が中東から来た皇太子の通訳をしたそうです。そうしたら最後に、その働きを喜んでナルドの油をくれたそうです。それを少しだけわけてもらったある先生が、私の聖書に一滴ナルド油を注いでくれました。すると、半年くらいその香りがしていました。良い香りでした。
 「純粋で非常な高価なナルド油」と書かれています、これは三百デナリしたと書かれています。一デナリが一日の給金で、一日一万円だとしたら、三百万円もする香油であったわけです。聖書には、部屋いっぱいに香りが充満したと書かれています。
 マリヤはイエス様が間もなく、十字架にかかられることを聞いていたと思います。それで彼女は、自分が持っている一番素晴らしいものを全部注いだのだと思います。もし、彼女がナルドの油を持ってきて、「高いから全部はもったいない」と少しだけ使ったのなら、聖書にこの記述はないと思います。マリヤはイエス様を愛するがゆえに、喜んで壷を割って、全部をイエス様に注ぎ、イエス様の足にまで流れた油を自分の髪で拭きました。それを見たユダは彼女を責めました。「何てもったいないことをするのだ。これを売ったら三百デナリになる。貧乏な人にあげたら良いではないか」と言いました。そこに何人かがいたと書かれているので、ユダの言葉を聞いてきっと同調した人がいたと思います。しかし、イエス様は、マリヤのしたことを喜びました。家いっぱいに香油の香りが漂ったと書かれています。
 聖書には、この後すぐに、ユダは祭司の所に行き、イエス様を銀三十で売ることにしたと書かれています。銀三十とは、一シェケルが四十デナリくらいなので、百二十デナリです。日本円で百二十万円位です。マリヤはイエス様を愛するがゆえに、三百万円を使い、ユダはイエス様を売って百二十万円もらったのには随分差があります。
 私たちが人生で気をつけるべきことは、時々、私たちは人の失敗は厳しく責めます。責めすぎることは良くないこともあります。
 私は国会を見ていると、何人かの代議士たちが失敗し、失脚します。女性議員が強く責めて、後に自分の問題で訴えられて辞めました。非常に厳しく責めている人は、後から自分も失脚している場合があります。ですから、私たちも、マリヤのようになるべきです。自分自身を反省し、愛に満ちた人生を送ることが大切です。
 私たちは純粋な信仰であるべきです。混じりけのない、偽りのない純粋なものでありたいと願います。非常に高価なナルドの油をイエス様に注いだとありますが、一番良いものをイエス様にささげて、イエス様に喜ばれる人生を送っていきたいと願います。マリヤがナルドの油を全部注いだとき、すごい香りだったと思います。私たちもイエス様を信じて、クリスチャンとして良い香りを放つべきです。
 私は大衆伝道者ですが、「体臭」伝道者にならないように気をつけています。人にあっても汗臭い人がいます。口臭が気になったりします。そのようなことがないようにしています。私たちも毎日のクリスチャン生活で、良い香りを放たなくてはなりません。「この人の側にいるだけで良い気持ちがする、やっぱりクリスチャンですか」と言われるようになりたいと思います。良い香りを放つクリスチャンになれるようにお祈りしましょう。第一コリント十章三十節から三十一節に、

『もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』

と書かれています。
 先日大阪に行った時、一人の難しいご主人が救われたことを聞きました。彼は時々、宣教師の所に遊びに行っていたそうです。その宣教師が、一杯のコーヒーを飲むときにも敬虔な態度で、「イエス様。このコーヒーを祝福してください。」とお祈りされたというのです。自分はご飯の時にも祈ったことはないので、たった一杯のコーヒーのためにお祈りする姿を見て、「これは素晴らしい!」それに感動して、クリスチャンになる決心をしたそうです。ですから、食べるにも飲むにも、私たちを通して、イエス様の香りを現すことが大切です。雅歌一章三節に、

『あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。』

と書かれています。クリスチャン生活の中で香りを放たなくてはなりません。エゼキエル書二十章四十一節に、

『わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。』

と書かれています。ここに「なだめの香り」という言葉が書かれてます。「なだめる」ということばを辞書で見ると、「和らげる、沈める、慰める、罪を緩やかにする、とりなしをする」という意味があります。クリスチャンの存在は、側に行くだけで何となく柔らかくなる、という存在があると良いです。また慰められるという香りを放たなくてはなりません。また罪を緩やかにする、とりなすと書かれています。私たちは素晴らしい人にならなくてはなりません。
 私が初めて教会に行った日は、とても感動しました。クリスチャンの目が美しく、顔が輝いており、「何と素晴らしい人たちだろう」その時に、「私は何と汚い人間だろうか」と自分の汚れがわかりました。それで私の心の中で、「私もあんな美しい人になりたい」と思いました。
 今朝も考えました。なぜ、あの時にクリスチャンの目が美しく見えたのだろうか。また、なぜ顔がきれいだったか。私は現在、色々なところを廻ってメッセージをしていますが、最近はクリスチャンってきれいな目をしている、とはあまり考えません。そういう意志がないかも知れませんが、なぜかと思うと、詩篇五十一篇十七節に、

『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』

と書かれています。
 私が教会に行ったときには、その教会に悔い改めの霊が注がれていました。ある土曜日に集会に行くと、一人の女性が話をしていました。「私は罪が赦されて嬉しいです。私は戦争中、絆創膏工場で働いていて、いつも絆創膏を盗んできたけど、イエス様に出会い罪がわかって社長さんに謝りに行ってきました。喜んで許してくださり、それだけではなく、お土産にまた絆創膏をもらってきました」と喜んでいました。私はその時は、「絆創膏を盗んだなんて、何という奴だ」と思いました。しかし神様は、「お前はどうだ」と言われました。またその時、「自分の郷里に帰り、罪の悔い改めに廻ってきました」というような告白が多かったです。ですから、その中で注がれていた香りは、「砕かれた人たち」がそこに集まっていたと思います。砕かれた人たちから、神様の香りが漂っていました。ですから、私たちがこれから良い香りを放つために、砕かれた魂、砕かれた悔いた心、はっきりとした神の前に、偽りのない心を持つべきです。そうしたら、私たちを通して良い香りを放つことができます。
 聖書には、ダビデは姦淫の罪を犯し、人妻を取ってしまい、彼女の主人を殺してしまいました。そのことを預言者ナタンによって責められたとき、彼は弁解せずに、「私は罪を犯しました」と本気になって悔い改めました。それで彼は赦されました。
 聖書を見ると、放蕩息子について書かれています。彼はお父さんの財産をもらって、遠い国に行ってその全部使い果たしてしまい、豚の食べるいなご豆で飢えをしのごうとしていたと書かれています。しかし、彼は飢え死にする寸前に我に返って、お父さんの元には腹一杯食べている雇い人がいる。しかし、私はここで死のうとしている。そこで彼が考えたことは、「そうだ!もう子どもとして呼ばれる資格はないけれど、雇い人の一人として使ってもらおう」ということで、彼は恥ずかしい気持ちを捨てて自分の家に帰ってきました。しかし父は、汚い服装で、帰った息子を見たときに、走り寄ってきて彼を抱きしめ、口付けしました。乞食のような子を見て皆はびっくりしたと思います。けれどもお父さんは、「さあ、最高の着物を持ってきなさい。指輪を持って来なさい。子牛をほふりなさい。死んでいた子どもが生き返ったから喜びましょう」とお祝いしています。
 この子どもは、なぜ祝福をいただいたのでしょうか。それは、「砕かれた魂」です。自分の罪を悔い改めて、帰ったから祝福されました。中途半端では、おそらく息子は父の家に帰り、もう一度お父さんを騙して、金を取って来たでしよう。そんな気持ちであったなら、彼は祝福を受けることはできなかったと思います。
 クリスチャン生活における良い香りとは、「私は罪を犯していました」と悔い改めが大切です。イスカリオテのユダのように、自分が悪いことをしながら、激しく奮起するのではなく、自分自身を顧みて、私が罪を犯しましたという砕かれた心を持つときに、私たちを通して素晴らしい香りを放つことができます。エペソ五章二節に、

『また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。』

と書かれています。
 クリスチャン生活の中で、素晴らしい香りを放つことは、イエス様に自分の生涯を百パーセントささげることです。「神様、私を使ってください。」神を利用するのではなく、神様に利用される、神を使うのではなく、神様に使ってもらう、自分の人生を神様に全部ささげて、イエス様が私たちのためにいのちをささげてくださったように、私たちも心から神様の前に喜んで自分自身をささげたら、素晴らしい香りを放つことができます。ピリピ四章四節に、

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』

と書かれています。
 クリスチャンの香りは「喜び」です。イエス様を愛して、毎日喜んでいます。喜んでいる人を見たら何て素晴らしいのだろうと思います。いつも悩んだ顔をして、クリスチャンですと言われたら、悩んでいる顔が素晴らしいという人はいません。『いつも喜んでいなさい。もう一度言います。喜びなさい。』クリスチャン生活は、何を喜ぶのかというと、イエス様をを喜ぶことです。毎日イエス様を喜びましょう。また五節に、

『あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』

と書かれています。寛容の反対はイライラしたり怒ることです。あまり細かすぎてもいけません。人の弱点を突くのはよくありません。だから、寛容な心を人々に知らせることが大切です。それを通して、香りを放つことが大切です。また六節に、

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

と書かれています。昨日、心配しないでお任せすることが大切です。お祈りすることは素晴らしいです。
 私は昨日、朝五時二十分に家を出て、伊勢神宮に行きました。なぜなら、私は小学校六年生の時に、修学旅行で伊勢神宮を拝んだことがありましたので、悔い改めて関係を断ち切るために出かけて行きました。
 あまり記憶がありませんが、私は初めて伊勢に行ったときに海を見ました。山育ちなので、その前の晩は嬉しくて興奮して一晩中騒いでいました。あまり興奮していたので、父に怒られて小遣いを減らされました。伊勢に行って海を見た時に感動しました。今回、そこに行き、束縛から解放されるように断ち切って祈ることができて感謝しました。解放されたことを考えると嬉しいです。 
 今日はピアノ独奏を聴きましたが、私は音楽を聴くと、自分のふるさとを思い出します。聖書に、「あなたが掘り出された穴を見よ。」と書かれていますが、田舎からイエス様に救い出されたことは、イエス様の愛だと思います。時々、私たちは掘り出された穴を見ると、こんな田舎者が東京に行き、イエス様を信じて、今日まで主が導いて下さったと考えると嬉しいです。
 伊勢から帰って来て、岡崎の伝道集会でメッセージをしました。そして家に帰って寝ようと思うと、咳が出て風邪を引いたと思いましたが、祈りに行ったので攻撃にあっているかも知れないと思い、祈りました。今朝は癒されました。聖書の中に「思い煩わないで」と書かれていますが、時々問題が起こる時、心配しないで祈ることが大事です。何でも祈ることです。風邪を引きそうだったら、すぐに祈ることです。薬を飲むのも悪くはありませんが、まずは祈ることです。『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』とあるので、お祈りをして、感謝の願い事を通して神と共にいたら、神は私たちを通して素晴らしい祝福と香りを現してくださいます。また七節から八節に、

『そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。』

と書かれています。今週も、「私を通して栄光が現されるように。自分の力ではなく、すべてをささげます。砕かれた心を持って私を救ってください。私を砕いてください。お委ねします。イエス様を喜びます。」と祈りましょう。それが素晴らしい人生を送る秘訣です。マリヤが高価なナルドの油をささげたように、私たちも思い切ってイエス様に一番良いものをささげましょう。イエス様が祝福してくださいます。今週、私たちを通して、会う人たちに、良い香りを放つことができますように。
 もしも、家庭や社会であまり良い香りを放っていないと思われる方は、砕けた心を持ってください。「私を砕いてください。私の人生を通して、神の栄光を現してください」と祈ってください。イエス様が私たちのために、十字架にかかって死んでくださったように、私もあなたに人生をおささげしますとお祈りしましょう。お祈りします。
バックナンバー

戻る
戻る