今週の礼拝メッセージ
2002.12.1(SUN)
主の祭壇を建て直せ!
新城教会 滝元 順 牧師

旧約聖書 歴代誌第二34章1節〜5節
ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。彼は、祭司たちの骨を彼らの祭壇の上で焼いて、ユダとエルサレムをきよめた。

 ハレルヤ!今年も、あっという間にクリスマスの時期となり、主のご降誕をお祝いできることを感謝します。しかし、私たちは赤子のイエス様を礼拝するのではなく、よみがえりのイエス様を礼拝すべきです。あなたの誕生日に、毎回、あなたの赤ちゃんの時の写真を持ってきて、「おめでとう」と言われたら嫌だと思います。イエス様の誕生についても同様です。私たちはよみがえられて、今も生きておられるイエス様を礼拝しなければなりません。
 十二月には、たくさんのクリスマス集会がありますが、そこにおいて、心から一人でも多くの方々の解放と癒しを願っています。すべての集会の上に、祝福があることを祈ります。
 今日は、「主の祭壇を建て直せ」というタイトルで学びます。歴代誌第二の三十四章一節から二節に

『ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。』

と書かれています。私たちはやがて人生を終え、それぞれの歴史が刻まれる事だと思います。その時、ヨシヤと同じように、たとえば、「滝元順はイエス・キリストの真理の道をまっすぐに歩み、右にも左にもそれなかった」と刻まれたら、人生は成功です。しかしながら、「滝元順はイエス・キリストの道をたまには歩んでいたが、時に、右と左に大きくぶれた」というのではいけません。皆さんの人生も、信仰の道を真っ直ぐに歩んでいただきたいと願います。
 ヨシヤは異教の祭壇に満ちていた国を、主のものとして取り戻し、主への礼拝の祭壇を築き直した人物です。私たちも、そのようでありたいです。
 日本の偶像礼拝は、先祖代々からのものです。そのような中で、イエス・キリストを信じ、真の神に立ち返るのは大変なことです。自分で始めたものを、自分でやめるのはたやすいかも知れませんが、先祖代々から伝わってきているものを途中でストップし、方向転換するには大きなエネルギーと戦いが伴うのです。しかし、その働きは大変重要な働きです。それは、崩れていた主の祭壇を建て直す尊い働きです。
 「聖書」は旧約聖書と新約聖書で一冊です。旧約聖書は訳が古くて、新約聖書は訳が新しく読みやすいと言うのではなく、旧約聖書とは「古い契約」、新約聖書は「新しい契約」を意味します。聖書は、古い契約から、新しい契約への転換がテーマです。「私は旧約聖書が好きだから、旧約しか読まない」というのでは、古い契約だけにとどまってしまいます。また、新約聖書だけでは、旧約聖書あっての新約聖書なので両方をバランスよく読み、理解すべきです。そしてその全体から、神が私たちに望んでおられる事柄を理解しなければなりません。
 旧約聖書の時代の礼拝は、今日の礼拝スタイルとは全く違いました。どの宗教でも、礼拝をするときには祭壇を作ります。仏教でも神道でも祭壇を築いて礼拝していますが、旧約時代に神はこう語られました。出エジプト記二十章二十三節から二十六節に、

『あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。』

 これは十戒に付属する細かい礼拝規定です。神を礼拝するときに、「像を作ってはいけない。土を盛り上げて祭壇を作り、羊や牛を殺してささげ、神を礼拝するように」と語られました。土で盛り上げた祭壇、そこは「聖域」でした。だから、そこにむやみに登ってはいけないというのです。それは聖なる場所でした。石で祭壇を造る場合、ノミで削って作るのではなく、自然石を使うようにという細かい規定までありました。現在、私たちが旧約時代に生きていたら、牛や羊を殺して礼拝するのです。そうしたら、祝福をいただけるというのです。古い契約の時代は大変な礼拝であったと思います。
 しかし、新約聖書の時代になると、イエス様が十字架について血を流してくださったので、ゴルゴダの丘が祭壇状態となりました。そこで神の子の血が流されたことにより、古い契約の礼拝行為が撤廃されました。ヘブル人への手紙九章十一節から十五節に、

『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。』

と告げています。イエス様がただ一度だけ、人類のために血を流して下さったので、私たちは再び、牛や羊を祭壇にささげて礼拝する必要はなくなったのです。旧約時代の礼拝は常に悔い改めと共にありました。私たちは罪深いものなので、神の前に出るときには罪の身代わりとなる犠牲が必要でした。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりとなって血を流して下さったことによって、私たちに対する古い規定はいらなくなったのです。コロサイ人への手紙一章十九節から二十二節に、

『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』

イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、血を流して下さったので、罪があっても罪のない者とされ、大胆に神の前に近づくことができるという、新しい契約が結ばれたのです。イエス様は「古い契約」と「新しい契約」の「仲介者」です。仲介者とは、真ん中に入ってとりなす者という意味があります。「もう、牛や羊を身代わりにする必要はない、わたしがこの人の罪の身代わりとなって死んだのだから、礼拝の時にいけにえは必要ない」とイエス様が父なる神の前にとりなしてくださるのです。このように、新しい契約へと、規定を変えてくださいました。
 イエス様がサマリヤに行ったときに、「サマリヤの女」と呼ばれる五人も夫を変えた女と出会いました。彼女のイエス様への質問は、「礼拝はどのようにしたら良いのか」でした。当時、サマリヤ人はゲリジム山に祭壇を築いて神を礼拝していました。礼拝の場所は間違っていけないと考えられていました。またユダヤ人たちは、エルサレムで礼拝していました。そのような状況の中、彼女はサマリヤ人で、イエス様はユダヤ人でしたから、「どちらが本物の礼拝か」という疑問をいだいていました。その時のイエス様のお答えは、ヨハネの福音書四章二十一節から二十四節に、

『イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』

 ここでイエス様が語られたのは、礼拝は祭壇を築いて牛や羊を殺して礼拝するのではなく、また、この山だ、あの山だというのではなく、神は霊だから「霊とまことによって礼拝する」ことが真の礼拝だと語られました。
 「霊とまこと」による礼拝、これが現代の礼拝です。しかし、「霊とまこと」と言われても意味は難しいです。
 しかしこの意味は、パウロによって解き明かされています。 ローマ人への手紙十二章一節から二節に、

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 「霊とまこと」による礼拝とは、『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です』と解き明かされています。現代の礼拝は、イエス様の十字架によって、古い契約から新しい契約に変えて下さったゆえに、私たちは血を流す必要はありません。ただ、私たちが聖い生きた供え物として生きていくのが「霊的礼拝」なのです。だから、「この世と調子を合わせてはいけない」というのです。
 私たちは廻りに多くの罪を見ています。何と罪が多いのだろうかと思います。それと同時に、多くの誘惑と戦って生きていかなくてはならない現実があります。「クリスチャンになったけど、色々と大変だ。皆は、自由にやっているけど、私は不自由だ」と思われるかも知れません。しかし、神の前にきよく生きることが、霊的な礼拝なのです。先週も葛藤があったかと思います。クリスチャンでなければこんな行動をとらなかっただろう、クリスチャンは大変だ。クリスチャンの「ク」は苦しいの「苦」だという方がいますが、私たちがきよく、この世と調子を合わせずに神のみこころに従って生きること、これが霊的な礼拝であり、神はそれを喜んでおられるのです。一週間の礼拝は、皆さんの戦いそのものでした。これがすなわち、「礼拝」だというのです。
 『神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』と書かれています。私たちの信仰生活で必要なものは、「心の一新」です。それは「決断」です。人間には自由が与えられているので、決断するも決断しないのにも自由があります。しかし私たちが神の前に礼拝をささげるためには、「心の一新」が必要です。例えば、「私は罪から離れるのだ!」と決断します。背後には悪霊のプッシュがあるのも事実です。しかし、勝利のためには、「心の決断」が重要です。私は多くの解放の祈りの奉仕をさせていただいていますが、やはり本人の心の決断がないと駄目です。「私は解放されたい、悪魔の力から解き放たれたい、罪から離れたい」という決断があると、神は祈りを聞いてくださいます。常に、「心の一新」を持って、神が一番喜んで下さるところで生きていきたいと願います。神のみこころをつかみ、神のみこころの中に生きていくことが「真の礼拝」であると告げています。昔は、血が流れ死んだものを祭壇にささげました。しかしイエス様が十字架にかかり死なれたので、今は「生きたもの」が神の前にささげものとなるのです。それが今日の礼拝です。
 またヘブル人への手紙十三章十五節から十六節に、

『ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』

と記されています。「生きた供えもの」の一つが賛美です。今の時代の礼拝、主の祭壇を築き直すのは賛美です。心から主を賛美することは、生きた供えものである証拠です。死んだものは賛美することはできません。生ける者たちだけが賛美できます。今日もこの礼拝で賛美をしましたが、これは主の祭壇を建て直しているのです。霊と真の礼拝、それが賛美です。
 同時に、『善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』と書かれてます。「持ち物を人に分け与える」ことが礼拝です。私たちは今、暖房設備の整った心地よい場所で礼拝しています。しかし、昔、新城教会はみすぼらしい四軒長屋の片隅にありました。隣の家の声がまる聞こえのような所で礼拝していました。しかし、初代のクリスチャンたちが自分の持ち物を分け与えてくださり、力の限り献金をしてこの地に教会が建ちました。最近、教会に来られた方もおられますが、すぐにこのような建物ができたのではありません。救われた人々が、その年代ごとに一生懸命ささげてくださったからこそ、今があるのです。これは主への礼拝の結果です。ここに建物があることは奇跡的なことです。私はいつも感謝します。すなわち、これは礼拝の結果であり、礼拝そのものです。皆さんが献金することは礼拝なのです。
 また、持ち物を人に分け与えるとは、物質的なものだけではなく、霊的なものをも含んでいます。ここにいる全ての方は神から、特別な霊的能力が与えられています。全員に与えられています。ときどき、「私にはそんな賜物はありません」と言われる方がおられますが、全員にあります。そして、与えられた賜物は自分のためではなく、他の人のために使わなくてはなりません。癒しの賜物を持っていたら、他の人のために使わなくては何の意味もありません。また悪霊を追い出す賜物を持っていたら、悪霊を追い出すことによって他の人が解放されるのです。他にも、色々な賜物について聖書は教えていますが、それぞれに賜物が与えられていますので、他の人に分け与えていくことが礼拝です。
 私も神様から、いくつかの賜物をいただいています。それを使わなくてはならないと思います。だから神が「使え」と言われるときにはいつでも使えるように祈っています。皆さんもぜひ、与えられた賜物を十分に使うことができますように。それがすなわち、礼拝となり、神へのいけにえであると、新約聖書の礼拝規定に記されています。それは神の祭壇を建て直すものです。
 さて、ヨシヤの時代には、多くの祭壇がありました。それは神への祭壇ではなく、悪しき祭壇でした。だれが作ったかというと、ヨシヤの祖父マナセが作った偶像の祭壇でした。私たちの周りにある偶像も、ほとんどが自分で作ったものではなく、昔から受け継がれているものばかりです。新城の神社・仏閣は八百年以上、いや千年以上続いているところが多いのです。
 私は先週、島根県の出雲大社に行きました。それは、新城が祝福され、日本のリバイバルのためにとりなしの祈りに行きました。
 今年、ある姉妹が私のところに来て、「私は出雲大社の偶像礼拝と深い関係があります。私のために祈ってください」と言われました。その方は病気でした。長い間下痢が止まらず、病院に入院していました。しかし、いくら入院しても薬をもらっても、どうにもならず、医者から一生直らないと言われていました。彼女はしょんぼりして、「神様、癒してください。」と祈っていると、「あなたは出雲大社の悪霊と強いつながりがあるから、その場所に行って決別の宣言の祈りをするように」と語られたそうです。「私は命がけですが、順先生も行って戦ってください」と言われました。私はその時忙しかったので、「そんな遠いところまでは行けない」と言うと、「じゃあ、私一人で行ってきますから、祈ってください。」と言って、一人で祈りに出かけて行きました。現地に行き、断ちきりの祈りをして帰ってきたら、何と、すべて病気が直ってしまいました。「癒されました!」と言われるので私は驚きました。それで出雲について興味を持ち、少し調べました。新城市は出雲の神々を持ってきて作られた町です。本宮山の頂上に行くと、そのことが看板に書かれています。調べるうちに、新城のリバイバルのためにも、現地に行ってとりなし祈らなくてはいけないと、神から強い迫りを感じました。出雲までの交通機関を調べてみると、名古屋から飛行機がありました。しかし飛行機代が高いのです。私はよく、飛行機に乗ります。よく飛行機に乗るとマイレージがたまり、無料航空券をくれます。それを使おうと思いました。しかし航空会社が違ったので、使えず出雲にはいけないと思いました。その航空会社のマイレージは一万マイルほどしかありませんでした。出雲まで行くには、一万五千マイル必要でした。しかしホームページを見ると、「特別キャンペーン」で一万マイルで出雲まで行ける、と書かれていました。これはやはり神のみこころだと思い、先週、出雲まで行ってとりなして祈りました。神の時があります。
 島根県は十一月を神在月と呼び、神在祭という行事が行われていました。朝早く出雲大社に行くと、神主や職員たち百数十人が勢揃いし、東に向かって最敬礼して微動だせずに偶像を拝んでいました。そこで私たちは真剣に戦って祈りました。
 この日本を見ると、古い偶像礼拝の祭壇が今でも息づいています。かつてのイスラエルもそうでした。ヨシヤの時代には、祖父マナセが作った偶像が国に満ち溢れていました。そのことが列王記第二の二十一章十一節から十二節に書かれています。

『「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行なったすべてのことよりもさらに悪いことを行ない、その偶像でユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、主は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。』

 偶像礼拝の罪は恐ろしいです。それゆえに「わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。」と書かれています。私たちの人生に、わざわいや予期せぬ悪いことが起こります。その根本的な原因が、偶像礼拝なのです。そのわざわいの内容を聞くと、恐ろしくて耳がなるくらいのものだというのです。
 マナセという王様は、未だかつてないほどの偶像礼拝者でした。そのような家系の中に、ヨシヤという孫が生まれ、彼も王となりました。しかしヨシヤは、その悪しき習慣を受け継ぐのではなく、国を改革しました。「このままでは国が滅びてしまう。偶像礼拝から離れなくてはならない・・。」
 ここにおられる方々は、クリスチャン一世が多いです。今まで長く続いた偶像礼拝の家系の中から救われた人達です。「偶像礼拝をしていたら家系が壊れてしまう。だから改革しなくてはならない。神の祭壇を建て直さなくてはならない」と気づいた人たちです。それは、ヨシヤ世代に当たります。ヨシヤ世代は真っ向から偶像礼拝と戦い、神の祭壇を建て直す役割を担った人たちです。神は「ヨシヤ世代」を祝福しておられます。列王記第二の二十三章二十四節から二十六節に、

『さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。これは、祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法のことばを実行するためであった。ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。』

と書かれています。ヨシヤは特別な人物でした。なぜならば、今までの偶像礼拝をストップさせた人物だったからです。
 日本のクリスチャンは、ヨシヤのような存在です。心を尽くして、精神を尽くして主に立ち返ったのです。神は何とそれを喜んでおられる事でしょうか。今日、偶像礼拝のただ中で戦っておられる方々を、主は祝福しておられます。ヨシヤと同じようにあなたはスペシャルであり、あなたは先にも後にもいないと語られています。
 ヨシヤは国中に張り巡らされた、悪霊のネットワークを打ち破りました。列王記や歴代誌を読むとその様子を知ることができます。彼は王なので、命令を出して偶像を壊すことができました。しかし、彼は実際に現地まで行き、その悪しき祭壇を崩し、偶像を壊す働きを指揮しました。今の時代では現地まで赴き、祈ることの大切さを私はここで教えられました。
 ヨシヤ王は祝福された王となりました。ですからその世代には悪いことが起こりませんでした。彼の世代には、神のさばきは起こりませんでした。しかし、二十三章二十六節に一つのことが書かれています。

『それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。』

 ヨシヤは改革者でした。国中から偶像を取り除きました。それにも関わらず、神はユダを赦すことは出来ない、マナセの偶像礼拝は赦せないと言われました。これは旧約時代のことですから、今日の新しい契約時代とは別ですが、神はマナセの行為に対しては、いくらヨシヤが頑張っても赦せないと語られたのです。そこには、ヨシヤの改革をはねのけるほどの強い呪いが、ユダの地にあったのです。その理由とは何でしょうか。_列王記二十四章三節から四節に、

『ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった。』

 マナセが犯した罪が究極的なものであり、赦せないと言われた理由は、「偶像礼拝」であり、もう一つ、「罪のない人たちの血を流した」ことにありました。ユダの地は偶像礼拝で汚れていましたが、その上で虐殺が行われ、多くの血が流されたのです。そのことが神の怒りに触れました。民数記三十五章三十三節から三十四節に、

『あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」』

と書かれています。「土地に血が流される」ことは、土地を汚してしまう事になるのです。それを回復する為には、血を流させた者を殺してその血が土地に流されなければ、地は回復しないのです。マナセは偶像礼拝と共に、血を流したのです。このことについて神が怒られたのです。これはいままで話した「祭壇」を意味します。偶像礼拝をすることにより、その土地が祭壇化します。そしてそこで血が流されることは、動物がほふられて生け贄として祭壇に乗るようなものです。当時、ユダの地全体が悪しき祭壇化し、血が流されたことにより国全体がいけにえとして悪霊に渡ってしまったのです。国自体が偶像礼拝とその上に流された血によって祭壇状態となり、国民がすべてが悪魔への生け贄状態になったのです。そして、この罪こそ神にとっては、最も重く、赦しがたい罪であったのです。
 これは何を意味しているのでしょうか。私たちの国でも同じことです。日本は偶像礼拝が何千年も継続され、その上で戦いがありました。十六世紀、新城では、設楽原の戦いがあり数時間に一万六千人もの人々の血が流されました。マナセの犯した罪とおなじ項目が当てはまります。私たちがいくら祈っても悪魔は、「これは最大の罪だ」と訴えるのです。かつて日本は、神国であると主張し、偶像礼拝をベースにアジアに出ていき多くの罪のない人々の血を流しました。太平洋戦争において、日本では三百万人以上の血が流されました。ということは、日本の国自体、丁度ユダと同じように、神の怒りから逃れることができない最も大きな罪と、怒りの中にあると言えるのかも知れません。私たちの住んでいる街や土地は大きな束縛の中にあるのです。
 しかし、それと共に今私たちは、新しい契約に立つのです。古い契約のままであったら大変なことです。ヨシヤが一生懸命やってもなぜ赦されなかったのでしょうか。古い契約においては、偶像礼拝は三代、四代と続く呪いであるからです。マナセ、アモン、そして、ヨシヤは三代目でした。それで、結果的にユダは、バビロンへと捕囚にされてしまいました。これは古い契約で訴えられていた結果です。
 しかし今は新しい契約が成立しました。イエス様が十字架について血を流して下さいました。イエス様は地に血を流されたのです。神のひとり子の血が流されたのです。ということは、イエス様が死んでくださったことにより、古い契約ではどうしようもない中から私たちは救い出され、二度と責め立てられることはないのです。
 クリスマスは、今まで土地が悪しき祭壇状態と化し、呪われてどうにも回復できない状況の中に神が人となられて、十字架にかかり血を流して下さった、神の子のお生まれになった日です。全世界のいけにえとして血が流され、土地も回復されたのです。その結果、土地全体が神への祭壇となり、生きた供えものとして、主を礼拝するように回復してくださったのです。
 イエス様の十字架は尊いことです。罪のない方が血を流してくださったことは、崩れた祭壇が建て直された事を意味します。私たちはもはや、古い契約で訴えられることはないのです。私たちが住んでいるこの日本は、悪しき偶像と流された血によって、赦し難い呪いを受けた国かも知れません。しかし、そこにイエス様の十字架の血による勝利を宣言しなければなりません。イエス様の十字架で流された血は、この日本の汚れた土地のためでもありました。それゆえに私たちは解放されるのです。
 今日は午後から、皆さんと共に祈りの時を持ちます。それは新城市の四方の山に登り、今まで新城は悪しき祭壇となっていましたが、今度は神の祭壇であると宣言し、イエス様の十字架の血を象徴する聖餐式を行い、「この土地は二度と悪魔の手には陥らない、この土地は主のものだ」と宣言し、主の祭壇を建て直し、賛美し、礼拝し、この地の回復のために祈りたいと願います。
 イエス様がこの地上に来られたのは、壊れた祭壇をもう一度建て直すためであり、私たちにも、それを要求されています。今私が救われたのは、大きなイエス様の犠牲のゆえです。この恵みに感謝し、今週も歩みたいと願います。お祈りします。
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