今週の礼拝メッセージ
2002.12.8(SUN)
大胆に、恵みの御座に近づこう
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 ヘブル人への手紙第二4章14節〜16節
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ハレルヤ!今日、皆様と共に御言葉を学ぶことができ感謝します。先週から、クリスマス集会が始まり、木曜日には岩淵まことさんを迎えてのコンサートがありました。そこには、百名ほどの方々が集りました。また、昨日は「子どもクリスマス」がありました。子どもたちは、四〇一名動員という目標を自分たちで掲げて、何度もとりなしの祈りをし、友だちを誘って備えていましたが、彼らの目標をはるかに上回る、五九〇名もの子どもたちが集まり、また、大人も含めると約七百名が集まりました。何か、リバイバルを見ているようでした。未来の日本を背負う子どもたちが、真剣に祈る姿は感動的でした。皆さんのお祈りを心から感謝します。栄光を主にお返しします。
 神は必ず祈りを聞いてくださいます。子どもたちが小さな時から祈り、その祈り以上に神が答えてくださるという体験をすることは貴重です。私の小さな頃は、祈りとはたまにしか聞かれないものだと思っていました。宝くじが当たるくらいの確率のように思っていました。しかし、彼らは、四〇一名を神に願いましたが、五九〇名も備えてくださいました。私たちは神の前に大胆に出て、祈ることができる素晴らしい時代に生かされています。
 さて、今朝、はじめにお読みした御言葉は素晴らしい約束です。この御言葉を自分のものとして受け取って帰っていただきたいと願います。
 特に、十六節の約束は素晴らしいです。『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』と記されています。「おりにかなった助け」を与えてくださる神です。そして、あなたの祈りに答えることができる神であるという約束です。
 ヘブル書は旧約聖書を強く意識し、新約的概念を重ねて表された書簡です。旧約時代、出エジプトを果たしたイスラエルの民に、神は、神を礼拝する場所として「幕屋」を与えました。それは移動式礼拝所のようなものでした。そして、ヘブル人への手紙四章は、この幕屋の構造を意識しながらが書かれています。その構造については、レビ記に詳しく記されています。
 イスラエルの民が出エジプトをしたとき、彼らは難民のようにではなく、軍隊のように、神を礼拝する幕屋と共に移動して行きました。幕屋は一見、垣根を張り巡らした中に小屋が建っているようなテント構造で、小屋は二つに仕切られていました。東の方に一カ所入口があり、民たちは幕屋の周りに宿営し、カナンの地を目指して進んでいきました。しかし、それは、やがて私たちに与えられる神の恵みと祝福の模型でした。ヘブル九章二十四節から二十五節に、

『キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。』

 先週は「主の祭壇」について話しましたが、旧約聖書時代の礼拝は大変でした。私たちが罪を犯したときは、動物を殺して神の前にささげ、「この動物が犠牲になったので、この人の罪は赦してあげてください」という、祭司のとりなしによる、悔い改めの礼拝でした。しかしそれは「模型」でした。それはやがてイエス様が、十字架にかかり死んでくださるという一つの型を現していました。
 私たちの教会には、住宅模型製作の仕事をされている方がおられますが、家を建てる前に、家の模型をもらうと「自分の家はこんなふうになるのか」と手に取るようにわかります。本物をまだ手に入れていなくても、本物の姿が事前にわかります。神が荒野で幕屋を備えられたのは、やがて私たちに与えられる祝福を、見える領域においても見えない領域においても現す、実体の模型であったわけです。
 神の幕屋は、色々な情報を私たちに提供しています。幕屋には、東側一ヶ所にしか入口がありませんでした。そこから入ると庭があり、祭壇がありました。人々はそこまで動物を連れてきて祭司に頼みます。「私は罪を犯しました。私の罪が赦されるように祈っていただけませんか。」「あなたは何か犠牲を持ってきましたか。」「はい。私の身代わりに小ヤギを連れてきました。」「では、子ヤギの上に手を置いて、あなたの罪を告白しなさい。」「・・・私はこんな罪を犯しましたので赦してください。」すると、祭司が神の前に出て、「ヤギがこの人の身代わりとなりますので、罪を赦してあげてください。」と祈って、ヤギを殺し神の前に罪の赦しを願いました。
 この幕屋の庭に入るのには、「一つの門」しかありませんでした。それは、やがて、イエス様がこの地上に来られ、イエス様が門であるという知らせでした。ヨハネ十章九節に、

『わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。』

と書かれています。イエス様が門です。イエス様門を通過しない限り、救いはないというのが聖書のメッセージです。今日ここにおられる方々は、イエス様を通して救われました。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と語られました。イエス様門を通過し、中に入るならば必ず私たちは救われます。そしてイエス様ご自身が私たちの罪の身代わりとして、犠牲となってくださったのです。
 幕屋の庭に小さなテントが建っており、それが「聖所、至聖所」でした。至聖所は、大祭司が年に一度しか入ることができない聖なる場所でした。聖所と至聖所の入口は、それぞれ、垂れ幕で仕切られており、祭司や大祭司は、仕切幕を通って奥に入っていました。これが旧約聖書時代の礼拝スタイルでした。そのような旧約聖書の幕屋での礼拝スタイルと共に、ヘブル人への手紙が書かれました。四章十四節に、

『さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。』

と書かれています。イエス様が、「もろもろの天を通られた」とは、かつて大祭司がイスラエル国民を代表して、年に一度だけ至聖所まで血を携えて入った事を連想させます。大祭司は、「私はイスラエルの代表としてきました。イスラエル人が一年間、多くの罪を犯しましたがその身代わりとして、動物を殺してその血を携えてまいりました。どうか国民の罪を赦してあげて下さい」と年に一度だけ、祈ることが許されていました。しかし、イエス様が犠牲になられ、ご自分の血を携えて至聖所に入り、父なる神様のみ前にご自分をささげてくださったのです。
 「もろもろの天を通られた大祭司」と書かれていますが、大祭司はイスラエル全体を代表する存在でした。「通過する」「もろもろの天を通られた」ということは、何を意味するかというと、第一にヘブル四章十五節に、

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』

と書かれています。「イエス様がもろもろの天を通られた」ということは、私たちと同じようになられたこと、そして、それはイエス様が私たちに同情して下さる方であるという意味です。
 「同情する」というギリシャ語には、「同じ目に遭う」、「同じ気持ちを体験する」という意味があります。ですからこの表現は、イエス様は神でしたが、神の座を捨てて、私たち人類の所に来られ、人類と同じ体験をして下さり、同じ目に遭って下さったということです。
 「同情心」とは、同じ経験を共有した人々の中にあります。例えば、長く入院された経験のある方は、入院の辛さを知っています。「入院した」と聞くと、入院したことのない人は「あっそう・・・」というようなものですが、入院経験のある人は、「それは大変ですね・・。あなたのために真剣に祈ります。」と同情心を持って聞きます。イエス様はこの地上に来て、私たちと同じ目に遭い、同じ気持ちを体験されたのです。ある神学者が、「神が人になられたほどの奇蹟はない」と語りました。神が人となられたとは、考えてみればすごい出来事です。人と神を比べたらどうでしょうか。私たちは神の目にも留まらないような、小さな存在かもしれません。時々、「神がいるなら、目の前に見せてください」と言われる人がいます。しかし、神が目に見えたら神ではありません。神は天地宇宙を造られた大きな方です。もしも、体があったならば、相当大きな方です。時々、子どもたちが砂場で遊んでいますが、自分よりも小さなものを作ります。神が天地宇宙を造られたとすれば、神は相当大きな体をお持ちです。見えるはずがないのです。その神が人となられたとは、すごいことです。
 皆さんは、蟻の行列を踏んだことがありますか?私は昔、アーサー・ホーランド師と共にインドネシアに行ったことがあります。中国人の華僑の家のピンクの部屋で、一週間枕を並べて泊まったことがあります。彼とある日、インドネシアの公園に行き昼寝をしました。目を開けると、腹の上に蟻が行列になって歩いていました。日本の蟻とは違い鋭い顔をしていました。私たちは、蟻を踏みつけ、あわてて振り払いました。
 しかし、これら行動をアリの世界側から考えたことがありますか。人間には大したことないですが、蟻たちにとっては大事件のはずです。蟻の世界に、ありんこテレビ局があったらどうでしょうか。その日のトップニュースは多分、この事件だと思います。
 「今日、仲間の行列に怪獣が現れて、大きな響きとともに踏みつぶされ、多くの私たちの仲間が即死しました」と報道されるのです。家族を失って泣いている蟻一家がインタビューを受けたり、悲惨な事件現場がテレビに映し出されているかもしれません。しかしそれを行った、当の人間はそんなことが起こっているとは全く知らないのです。
 しかし、ある日、人間の一人が蟻になり、彼らの生活を見聞きし、また、彼らの考えていることや日頃の悩みを聞いたら、蟻の世界についてよくわかると思います。また私たち人間側から蟻の世界に行けば、色々な情報を彼らに提供できると思います。
「道路は絶対に横断してはいけないよ。車が来るし、人が来るし・・・そこを通るから踏みつぶされてしまうのですよ。今度は、人が通らない所を道にした方が良いですよ。」とアドバイスできます。
 イエス様が地上に来てくださったのは、これに似ていると思います。創造者が被造物である人類の所に来て下さり、人類の世界を体験してくださいました。それと同時に、神が人間世界にきて「何が危険か、どこを通ったら安全か」を教えて下さったのです。それについて記されているのが聖書です。
 「もろもろの天を通られた」とは、イエス様が人となって地上に来て下さったことを教えています。
 イエス様が生まれたのは、イスラエルでした。私は、「なぜイエス様はイスラエルにお生まれになられたのだろうか、もっとわかりやすく、日本に来て下さったらよかったのに」と思います。例えば、日本にお生まれになったら、聖書も変わったはずです。聖書に出てくる地名はカタカナで書かれています。それが日本でお生まれになられたら、「今日、鳳来町でイエス様がお生まれになられました」とか、漢字で書かれていたらもっとわかりやすいと思います。「なぜ、イエス様は日本を選ばれなかったのだろうか」と思います。
 しかしここにも理由があります。なぜならば、世界中で一番蟻のように踏みつけられ、苦しみを受けたのがユダヤ人であったからです。モーセの時代には、四百三十年もエジプトで奴隷生活を送り、やっと脱出してカナンの地にたどり着いたのもつかの間、自分たちの王国はやがてアッシリア、バビロンに捕囚され、民族の尊厳は踏みにじられ、いつも他国から支配を受け、休む暇のない民族でした。近代に至るまで、その苦しみは続いています。第二次世界大戦時には、ナチス・ドイツによってユダヤ人は六百万人も殺されました。それは人口の三分の二です。
 今、パレスチナ問題が大きく報道されていますが、なかなか理解しがたい部分があります。「ユダヤ人はもう少し寛大になれないものか。パレスチナ人に少し土地を分けてあげて、互いに仲良くすれば良いではないか」と思います。しかし、何千年にも渡り国土を失い、自国に帰ってきてもまた国土を失うという歴史が繰り返し続いている国民の、国土に対する執着心は、私たちには理解できないのです。
 日本は他国から支配された経験がないので、その痛みがなかなかわからないと思います。第二次大戦後、しばらく連合軍が日本を占拠していた時期がありました。しかし日本人は変わり身が早く、アメリカ人がきたら、「ギブ・ミー・チョコレート」と言ってアメリカ寄りになりました。だから、民族的な差別や苦しみを受けたと言われても、あまり理解できません。イエス様はどのような方でしたか。イザヤ書五十三章に、

『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。』

と書かれています。イエス様の生涯の預言をイザヤがしています。イエス様が生まれた時代、イスラエルはローマの属国になっていました。周りにはローマの兵隊が駐留していました。ユダヤ人は、ローマからさげすまれ、そこには民族的な差別がありました。
 今世界を見ると、各民族が自分たちが最も優秀だと高ぶり、人々を差別しています。今日はどのような日でしょうか。一九四一年十二月八日は、太平洋戦争の開戦記念日です。パール・ハーバー攻撃開始の日です。日本が連合軍に対して宣戦布告した日です。日本人が最も優秀だと高ぶって、アジアに出ていきました。その背後にあったのは、民族的高ぶりと差別でした。イエス様は差別を受けるという体験をしてくださいました。イエス様は宗教家からも、のけ者にされ、「人が顔を背けるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」と聖書は記しています。
 また、「イエス様は悲しみの人で、病を知っていた」と記されています。イエス様の生涯は三十才から公生涯が始まりましたが、それまでの三十年間に関しては、記事はほとんどありません。生まれたときと、十二才のことが少し出ていますが、後は何をされていたのか全くわかりません。その期間においては、私たちと同じ体験をしてくださったはずです。イエス様の公生涯は、実にパワフルでした。福音書を読んで、イエス様が風邪で寝込んだとか、病気になって自分で手を置いて癒したというような記事はありません。けれども、聖書には記録されていませんが、イエス様が三十才になるまでには、色々な体験があったと思います。父ヨセフは、クリスマス・ストーリーには出てきますが、途中で消えています。ということは、途中でヨセフは亡くなったのではないかということです。イエス様は、自分の父親を亡くすという悲しみも体験されたはずです。
 また「病を知っていた」と書かれています。風邪を引いて寝込んだこともあったのかも知れません。この地上の色々な苦しみ・悲しみを体験して下さったのです。それらを知った上で、神の座に戻られた方、もろもろの天を通られた方がおられるから、あなたがたは勇気を失わないで、全てをお委ねしなさいということです。
 時々、「私の悩みや苦しみは誰も知らない、まして、神様は何も知らない」と言われます。けれども、そうではなく、イエス様は人となられ、人を体験された神ですから、私たちの苦しみや病を知っておられるのです。もろもろの天を通られた方です。ですから、私たちのことを同情して下さるのです。
 今日皆さんが、何か辛い思いをされているのなら、イエス様は何と言われるのでしょうか。「お前、助かりたかったらもっと努力せよ。もっと頑張れ」とは言われません。「あなたに同情しますよ。なぜならば、私には、そのような体験がありますから。」
 「知っていた」という意味は「体験する」という意味と同時に、「知識を持つ」という意味があります。イエス様はすべての知識をお持ちです。あなたのことを心配してくださっていますので、あなたは心配する必要はありません。
 イエス様は、「あなたと共におられます」と語られます。それは、もろもろの天を通られたという大祭司が、至聖所まで入って行く動作を通して、神が人の世界にまで貫いて来て下さったことを現しています。
 「もろもろの天」とありますが、天がいっぱいあるように考えますが、原文だと「複数」になっているだけです。日本語には複数形がありません。「もろもろの天」とは、英語の聖書では「heavens」となっています。「もろもろの天」についてパウロは、次のような体験をしました。第二コリントの十二章二節に、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。』

と書かれています。「第三の天」とは、「神の国」であり、神の支配が完璧に現れている場所を現しています。
 幕屋に入ると、まず「庭」がありました。そして真ん中の小屋の幕を開けると、「聖所」があり、その奥には「至聖所」がありました。ここは、大祭司が一年に一度しか入れない最高の聖域でした。幕屋は、「もろもろの天」を現しています。そしてこれは、霊的な世界です。「第一の天」は私たちの世界です。そして、「第二の天」、「第三の天」も私たちのただ中に同時存在しているのです。私たちは何気なく生きていますが、私たちのただ中に、第二の天、第三の天が共存しています。なぜならば、弟子たちがイエス様に「神の国はどこにあるのですか」と聞くと、「あなたがたのただ中にある」と言われました。神の支配は、私たちのただ中にあります。それと同時に、第二の天と呼ばれる場所も存在するのです。
 さて、「至聖所」の手前、「聖所」とは、何を現しているのでしょうか。ここは「祈りの場」でした。そこでは常に祈りを現す、香が焚かれていました。黙示録三章十二節に、

『勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。』

「勝利を取る」とは、その前に「戦いがある」ということです。祈りの場は、「戦いの場」でもあります。戦いの場である「第二の天」の模型が、幕屋の中に現されていたのです。私たちが、第一の天から、第三の天に至るまでに、立ちはだかるものがあります。それが、「第二の天」です。これはある意味で、「天の法廷」のようなものです。悪魔は私たちを、神の「古い契約」に立って訴えます。私たちは、「新しい契約」に立って彼らに立ち向かいます。この戦いに勝利するならば、第三の天に入ることができますが、「第二の天」が私たちに立ちはだかるのです。
 イエス様は、私たちと同じように「試みに遭われた」のです。ゆえに、私たちを助けることができる、とヘブル書の記者は告げています。
 「試みに遭われた」とは、何を意味するのでしょうか。それは、単に、「イエス様は病気になられ、苦しみに遭われ、悲しみを体験されたから同情して下さいます」ということは勿論ですが、それ以上の意味があるのです。今日私たちは、主の祈りの中で、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りました。この「試み」という言葉が初めて出てくるのは、マタイの福音書四章です。四章一節から三節に「試み」について書かれています。

『さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」』

また主の祈りの中でマタイ六章十三節に、

『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

 ここから分かるように、「試み」の根元は、「悪魔の攻撃」であると言うことです。イエス様が試みに遭われたとは、イエス様は神でしたが人となり、試みの根元、「悪魔の攻撃」を自ら身に受け体験してくださったのです。神が被造物である、悪魔・悪霊からの攻撃を受けたのです。まさに、神が人となられた究極的な体験です。
 イエス様が四十日四十夜断食した後、悪魔が近づいてきて攻撃をしました。悪魔はイエス様に対して、「俺を拝め、俺を拝んだら全世界をお前にあげる」と言いました。またイエス様が十字架にかかられる前には、ヨハネ十三章二節に、

『夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた』

と書かれています。イエス様の側近が、悪魔の入れた思いによりイエス様をうらぎりました。これはイエス様に対する、悪魔の大きな攻撃です。神の子がなぜ、そんな攻撃を受けたのか不思議に思います。しかしそこには理由があります。
 「人と同じになられた」、それは何でしょうか。それは、人が受ける試練の中で、最も大きな試練・・。それは、見えない世界でサタンからの攻撃を受けることなのです。
 今までの人生の中で、サタンの攻撃を受けた経験がありますか。皆さんの人生の中で起こってきた、色々な試練や苦しみは現実であったかも知れません。しかし、そこには見えない世界とのつながりがあったと教えています。人生の中に色々な苦しみや、悲しみが起こるのは、見えない世界とのつながりがあるからです。そのゆえに、問題が引き起こされるのです。この悪魔の攻撃さえも、イエス様は体験してくださったのです。「もろもろの天」を通ってくださったとは、「第一の天」に来られ、「第二の天の戦いにも勝利」され、「第三の天」、すなわち、天の至聖所に直行してくださったのです。だから、あなたはもう、二度と苦しむことはないというのが、力強いメッセージです。
 イエス様は大祭司としてご自分の血を携えて至聖所にまで入ってくださった方です。イエス様が十字架にかかられたときに、聖所と至聖所を隔てていた幕が引き裂かれました。聖所と至聖所を隔てていた幕が取り払われ、自由に通過できるようになったのです。私たちは常に、霊的戦いの領域でサタンに訴えられていましたが、それを取り除いてくださったのです。今では、私たちは大胆に至聖所に入り込み、恵みの御座に近づくことができるのです。クリスマスは、神の子が、もろもろの天を引き裂いて第一の天に降りてこられた日でした。そして人の世界から、第二の天、第三の天にまで道を作って下さったのです。ヘブル書九章十一節、十二節に、

『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』

と書かれています。第一ペテロ二章五節に、

『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』

と書かれています。また二章九節に、

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』

と書かれています。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民とされ、暗闇から光に、サタンの支配から神の支配下に勝ち取られ、御言葉を宣べ伝える存在にされたのです。イエス様が大祭司として、人類を代表し、ただ一度だけ神の前にご自分の血を携えて出てくださったことにより、必要なときに、必要な助けを受けるために神の御前に大胆に近づく道を作が完成したのです。
 旧約時代に至聖所に入ることができるのは、年にただの一度だけでした。罪があっても赦されず、一年間待たなくてはなりませんでした。しかしイエス様の十字架により、第三の天・神の御座にまで、私たち自身も祭司として大胆に御座に入って恵みを受けることができるようになったのです。その結果、「おりにかなった助け」を受けることができるのです。
 「おりにかなった助け」とは、今風に言うならば、「タイミング抜群の助け」ということです。今の時代、私たちはイエス様の十字架と復活によって、タイミング抜群の助けを受ける道が用意されたのです。
 今年も一年間、私はすばらしいタイミングを体験させていただきました。先週は平松兄が証をされました。彼は十月半ばに新城市民病院に入院しましたが、その後、豊橋市民病院に移され検査入院しました。私がお見舞いに行ったときには、病室の扉に「面会謝絶」と貼られていました。教会の人は良いと言われたので、許可を受けて私は病室に入って行きました。彼は半分意識がなく、おかしかったです。「私が行ったのを覚えているか」と先日聞くと、「覚えていない」と言いました。彼は、「黒いものが来る、黒いものが来る、あっちに行け、あっちに行け・・・」と叫んでいました。その時に、黒いものが消えるように祈りました。そして、彼に手をおいて祈ると、彼は暴れました。これはもしかして霊的な問題かも知れないと思いました。神のタイミングを信じて祈りました。また同じ、授産所の兄弟姉妹も真剣に祈りました。すると彼は病から癒されたのです。
 先週は彼の全快祝いをしました。とても嬉しかったです。神様がおりにかなった助けを与えてくださいます。私たちは信仰を持たなくてはなりません。今の時代は、イエス様がかつては簡単には入ることができなかった、至聖所にまで人類を代表して入って下さったゆえに、私たちも大胆に、神の御座に近づいて助けを求めることができるのです。
 「助けと受けることができる」とは、父なる神の前で、「大胆に語ることができる」と訳すこともできます。何でも、神の前に出て話すことが出来、話を聞いてくださるのです。素晴らしい恵みの御座です。
 クリスマス、それは、幕で仕切られて奥にまで入れなかった、天の隔てをすべて取り除き、人類が奥にまで入ることができるようになった記念日です。
 今日も大胆に神の恵みの御座に近づきたいと思います。神は必要なときに、必要な助けを与えて下さいます。お祈りします。
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