今週の礼拝メッセージ
2002.12.15(SUN)
わたしは主、あなたをいやす者
新城教会 滝元 明 牧師

旧約聖書 出エジプト記十五章二十六節
そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 ハレルヤ!お早うございます。今朝は、出エジプト記から御言葉を学びます。

『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』

 皆様にお祈りいただき、私もあちらこちらに行っていますが、健康でここに立つことができることを感謝しています。聖書の御言葉は、神様の言葉であり、これを信じれば、常識を覆すような素晴らしい祝福が与えられます。私たちは病気をせずに、人生を過ごすことができたら素晴らしいです。ある人は風邪を引いたり、色々な時があります。しかし聖書には、

『「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』

と書かれています。この御言葉は、イスラエル民族が四三〇年の奴隷生活をエジプトで終え、紅海を渉り素晴らしい神の栄光をほめたたえる中で、神が語られたことです。神様がこれからカナンの地に行くまで、もしあなたがたがわたしの言葉に聞き従ったら、病気もせずに元気に、そこに行くことができるという祝福の御言葉でした。今朝、この御言葉を信仰によって、自分のものとして受け止めることができたら素晴らしいことです。「わたしはエジプトに下したような病気を、何一つあなたの上に下さない。」と書かれています。「わたしは主」と言われるイエス様に、生涯をかけたら何一つ病気をしなくても良い、「わたしは主であって、あなたをいやす者」だと言われています。
 しかし、「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、」という条件があります。
 わかりやすく言うと、出エジプト記十二章十二節を見ると、神様がエジプトの神々に対してさばきを行ったと書かれているので、四三〇年間ある意味で悪霊の圧制の中で苦しめられた彼らは、色々な病気をしたのだと思います。しかし、そこから解放された時に、「これからあなたがたは悪霊の奴隷ではなく、わたしに快く従うならば、これからエジプトに下したような病気は何一つあなたがたに与えない。わたしについてきなさい。わたしは主、あなたをいやす者だ」と言われたのです。イスラエル民族が主に従い、偶像を拝まなければ、これからあなたがたに健康を与る。祝福を与えてあげる、ということです。
 ですから、この約束を私たちも信じるべきです。偶像から離れ、神の御声によく聞き従ったら、病はいやされ、また何一つ病にしないという御言葉が成就したら、何と素晴らしいことでしょうか。
 最近、私が新城教会に対して、感じていることがあります。新城に帰ってくると嬉しいニュースを聞きます。十二月七日は、ここで「子どもクリスマス集会」がありましたが、その前に私は聞いていました。子どもたちは、去年よりも、多く集まるように昨年よりも「一名」多い、「四〇一名」の目標を掲げて祈っていました。だから、私も祈っていました。そして、当日になると、子どもたちが、五八〇名も集まり、大人が一二〇名ほど集まり、七〇〇名が集まったというのです。教育館ホールはパンクしそうでした。私はそれを見て、「神様はすごいことをなされた」と思いました。主催している子ども会の責任者が言われました。「わからない。どうしてあんなに来たのかがわからない。自分たちの計算よりも、どこから来たか、わからない人たちが四〇〇名程いる」と言われました。これは嬉しいことです。
 私は考えました。「これは新城の地が癒され、神の救いがこの地に訪れているしるしだ」と思いました。「わたしは主、いやす者」ということは、癒しは個人的な病もありますが、この町全体、教会が癒され、神様が素晴らしい天の窓を開けて下さったことにより、このような祝福を与えて下さったと感謝しました。
 また今日は「クリスマス・ゴスペル・コンサート」があります。新城教会の兄弟姉妹が、粟野さんの指導を受けながら成長しました。昨年は、文化会館の小ホールで四〇〇名でしたが、「今年は大ホール」と聞いたときに、正直言って私は、「集まるかなあ」と思いました。大ホールは一三〇〇名が入ります。
 今から十数年前に、小坂忠さんが来られた時に満席になりました。しかしその後、色々なことがあり、果たしてどれくらい集まるかと心配しながら祈っていました。
 今朝も電話が入り、「チケットがありますか」と言われましたが、「すみません。売り切れてしまいました。」と断っていました。ローソン、ユニー、アピタ、文化会館にチケットを委託しました。初めの外部チケット販売目標は一〇〇枚でしたが、「売り切れたからチケットを追加して下さい」と言われ、そこで売れた数は、四〇一枚でした。クリスチャンが売ったのではありません。外部は完売し、ユニーは少し残っていたので、「これ以上売らないでください」とお願いしたそうです。
 クワイヤー関係で八八五枚売り、教会員が五〇〇枚を買い、大体全部売れ、今のところ販売された券が、「一七八六枚」という報告がありました。一三〇〇人の所へそれだけチケットを売ってしまったのは問題だと思います。しかし、私には喜びもあります。どうして、皆がそんなに来て下さるのだろうか。新城のゴスペル・クワイヤーは上手になっていますが、世間にそんな噂もないし・・・。とにかく皆が行きたいという気持ちを持ったことは、新城の地を神が癒され、教会を癒してくださったゆえであると信じます。これは大きな祝福です。ですから、私たちは、「わたしはいやす者」と言われた主が、新城を癒して下さったことを信じましょう。また教会も癒され、新しい門が開かれていることを感謝しましょう。必ず、この地にリバイバルが起こされることを、信じていきましょう。
 時々、国に色々な問題があります。第二歴代誌七章十三節から十四節に、

『もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

と書かれています。雨が降らなくなったことを霊的解釈すると、聖霊の働きがなくなり、霊的に食い荒らされたような状況です。そんな祝福を失った場合には、「わたしの名を呼び求めているわたしの民(クリスチャン)がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」と書かれています。
 新城教会が神様の前にへりくだって、祈り求めたことに対する祈りの答えを神が見せてくださっていると信じます。「癒し」の為に、私たちが真剣に祈るべきことは、「新城の地の癒し、また、日本が癒されるように」祈るべきです。最近の日本は滅茶苦茶です。しかも教会が祝福されていません。私は、先週とその前にも、他の教会に行きましたが、日本には七千八百程の教会がありますが、礼拝出席者平均は三十七名だと言われています。東京を見て、あれだけ人がいて教会に人が来ないことは奇蹟だというくらい、人が集まりません。なぜ人々が教会に来ないかと思うと、やはり教会が病気になっているからです。癒されなければなりません。また、日本の国がこんなに犯罪が多いのは、日本が癒されなければならないのです。ですから、私たちはこの日本のために、全体が癒されるように心から祈っていかなければなりません。第二サムエル記二十一章一節に、

『ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」』

と書かれています。ダビデ王の時代に、三年間飢饉がありました。その時、飢饉があったということで終わらず、ダビデは「なぜ飢饉ですか」と祈っています。その時に神が言われたことは、「サウルとその一族に、無実の血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」と語られました。無実の罪の人たちをサウル王が殺したから、この罪のない人を殺した血の呪いが、この地を覆っている。そこで、ダビデは真剣に神の御言葉を聞き、悔い改めて神のいうことを聞きました。そこで十四節には、

『その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。』

 日本には、アジアにおいて多くの人々を殺し、罪のない人たちの血を流した責任があります。この新城市を見ても、設楽原において、一万六千人の血が流されたということもあります。これらのことを、私たちは、「自分の罪」として受けとめて、神の御前に赦しを祈ることは、「地を癒す」ことです。またサムエル記第二二十四章二十五節に

『こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。』

と書かれています。それはダビデ王様が高ぶったからです。数えてはならない民の数を数え、自分の栄光を求めたことにおいて、神罰が下されたのです。しかし彼は、神の前に、自分の罪を告白して悔い改め、「神様。皆が悪いのではない。私が悪かったのです。赦してください。」心から彼は、自分の罪を告白し、神の前に悔い改めたとき、「主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。」と書かれています。ですから、私たちも、この日本のために、日本の罪を自分の罪として、神の前にへりくだって悔い改めたら、日本が癒されるのです。何によって癒されるのか・・。
 それは、イエス様の十字架の血潮と復活によって、新しい時代が到来しいているからです。心からこの地が癒されることを祈っていきましょう。
 リバイバル新聞の論説委員の一人である滝元順牧師が、今週、書いています。「新しい契約の宣言をしよう!」というテーマで、日本の教会がなぜ癒されないかということについて、国家的な罪、血を流した罪があるので悔い改め、祈ることについて書かれています。今はイエス様の十字架と復活によって、すでに新しい契約なので、昔のように祭壇を建てる必要はないけど、自分自身を神様にささげ、神の前に出ていきましょう。信仰を持って祈っていきましょう、という記事が書かれています。
 その中に、新城において、四方に行き町々の祝福を祈り、また設楽原の戦いの地に行き、先祖の罪を悔い改めて聖餐式を行ったことが紹介されています。私たちは霊的戦いをし、山々に上って祈ったり、町々の祝福を祈っています。ある意味で、神がその祈りを答えてくださり、子ども会にどこから来たのかわからないけれど、多くの子どもたちが来た、という祝福を与えてくださっています。今は新しい契約の時代ですので、私たちもこの日本の祝福を覚えて祈っていきましょう。
 新城教会が癒されたもう一つのきっかけがあると思います。それも霊的な戦いです。一九九三年十一月の「甲子園リバイバルミッション」の時に、私は、十日間断食をし、県民の森の山に登って祈りました。そして、十一月三日に、山の上で切に祈りました。大きな戦いなので、「イエス様。どうしても力が必要です。私に力を与えて下さい。何でもしますので、悔い改めることがあったら教えて下さい。」と祈りました。その時、聖霊様が「あなたを裏切った人、妨害した人を心から赦しなさい。また赦すだけではなく、祝福しなさい」と語られ、山の中の誰もいないところで、具体的に声を上げて真剣に祈りました。
 「私は、あの人からこんなことを言われました。また、ある人は私を裏切って出ていきました。」と口に言い表し、「しかし、今日は、あなたの言われるとおりに、全てを赦します。また、あの方をイエスの御名によって、祝福します」と祈りました。最後の一人まで、「あの方も赦します、祝福します」と祈ったときに、聖霊様が上から臨まれました。そしてはっきりと、「立ちなさい。さあ行くのです」と語られました。私は、「イエス様。一緒に行ってください。」と言って、泣きながら山を下りたことを覚えています。
 イエス様がゲッセマネの園で、人類の罪を背負われ、十字架に向かう前に、イエス様が眠っている弟子たちに、「立ちなさい。さあ行くのです。裏切るものが近づきました。」と言われました。その時、イスカリオテのユダが松明を灯し、彼はイエス様を裏切るために銀三十をもらい、ゲッセマネの園に来て、「私が最初に口づけするのがイエスだ」と言って、民衆と兵隊を連れて来ました。ユダは、「先生、お元気ですか。」と、イエス様に抱きつき口づけしました。その時、イエス様が、「友よ。あなたは何のために来たのか。」と言われました。「あなたをしもべとは呼ばず友と呼ぼう」と「ヨハネの福音書」に記されていますが、個人的に友と呼んだのは、裏切ったユダに対してが初めてでした。
 イエス様が十字架につけられるときに、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからずにいるのです。」と言われました。
 ある意味でこの教会でも、悪口を言われたりして、色々傷ついた人もいたかとは思いますが、新城教会が人々を赦しましたというのが、この教会の癒しになったと思います。教団から追い出され、一〇〇名近い人が出ていき、寂しくなりました。しかし今は多くなりました。
 夕べもここで外国人の方が劇の練習をしていました。百名程の方が土曜日に来られています。昔は一緒に礼拝をしていました。しかし、今は一緒では会堂に入り切れません。
 イエス様は、「友よ。何のために来たのか。」と言われました。この教会が癒されたことは「赦した」ことです。皆さんの家庭、あなた自身が癒されるために必要なのは、心から赦すことです。また祝福することです。
 ルカの福音書に記録されていますが、二人ずつ伝道に行くようにと言われ出て行きました。そして帰ってきたときに、彼らは喜んでイエス様に、「先生。すごいです。あなたの名前を使うと悪霊は出ていき、病気が癒される。すごいことが起こりました。」と言いました。するとイエス様は、

『イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

「伝道に行ったときに、悪魔の力が打ち砕かれた」と言いました。なぜ天からサタンが落ちたのでしょうか。彼らの使った方法は、イエス様が言われた「どこに行っても平安を祈りなさい」ということでした。
 「平安」、・・人々の祝福を祈ることです。これが勝利の秘訣です。サタンの策略は「怒り」です。「戦い」です。「分裂」です。「争い」です。しかし、イエス様ご自身は「赦し」ます。「祝福」します。これが「癒し」です。そして彼らは力を得ました。コリント第二の二章十節から十一節に、

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

と書かれています。サタンの策略は赦さないこと、憎むこと、争うこと、戦うことです。しかし私たちはサタンの策略に対抗して赦します。この教会が赦したときに癒されました。今私たちは悔い改め、この町と国のために真剣に祈っています。必ずこの地が癒され、祝福されてリバイバルが来ます。ヤコブ四章六節から七節に、

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

と書かれています。これから、更に大きなことが起こされると思いますが、聖書は更に、恵みを与えるから、高ぶらず、へりくだりなさいと書かれています。へりくだってサタンに立ち向かえば、祝福されると書かれています。今日、たくさんの方々がコンサートに来られても、「私たちが・・」と言うのではなく、主の前に謙虚にへりくだり続けることが大切です。神様の御言葉に聞き従うことは、癒されることです。
 私が近頃奉仕した教会で、こんな話を聞きました。大阪のある教会の姉妹が、長い間、お母さんの救いを祈りました。そして、ついにお母さんが教会に来て、イエス様を信じました。そして仏壇を焼いたそうです。しかしどうしても、ご主人のことが忘れられずに、位牌だけ持っていたそうです。
 ある時、主の祈りの中で、「悪から救い出したまえ」と祈った途端、信仰がわからくなってしまったそうです。ここには、サタンの介入があったと思います。今までは、少しずつイエス様のことがわかってきたのですが、突然、まったく、わからなくなってしまったのです。
 そこで娘が、「お母さん、あの位牌を持っているからでしょう。捨てなさい」と言いました。お母さんが、位牌を捨てると、再び目が開かれてイエス様のことがわかったそうです。主の御声に聞き従うことです。
 私が以前奉仕した、熊本の教会の先生の奥様がこう話されていました。その方は、昔、すごい迫害にあっていたそうです。その方の先祖は占い師でした。クリスチャンになったときに迫害がひどいので、心が揺れ動いて、やめようとした時に、夜、仏壇のある部屋で寝ていたそうです。
 仏壇の灯明の火を消し、仏壇の戸を閉めて寝ていたそうです。すると夜中に、悪魔が彼女の首を絞めたそうです。「苦しい!」と思って目を開けると、不思議なことに、仏壇の戸が開いており、灯明がついており、そこから悪魔が手を出して首を絞めていることがわかり、叫ぶことができなかったのですが、心の中で、「イエス様!イエス様!」と叫びました。すると彼女は、悪魔の手から解放されました。その時、イエス様が、「死に至るまで忠実であれ」と語られました。彼女はその時に心を決めたそうです。
 もう亡くなられましたが、昔、新城教会に「服部金松」という兄弟がいました。彼はとても熱心でした。しかし彼の奥さんは、霊幽会に熱心で役員をしていました。なかなか教会に来ませんでした。「私の家内は偶像を拝んでバカです」と言って一生懸命祈っていました。あるとき、奥さんが、一人で仏壇の部屋で寝ていると、その奥さんの前に、白装束を着た三角巾をつけたお化けのような悪霊が仏壇から出てきたそうです。「キャー、助けて!あんた、出た」と言ったそうです。それで目が開かれ、仏壇を捨てました。それから、その家庭が祝福されました。
 主の御声に従うこと、偶像から離れることです。聖書に「わたしはエジプトに下した病を一つも下さない。」と書かれていましたが、現実に主の声に聞き従ったヨシュアとカレブを見ると、カレブは八十五才の時にこう言っています。「彼がモーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」と言っています。心から真実に生きたカレブは、荒野の四十年、また八十になっても今も健康です、と言いました。これから快く、喜んで主のみ声に従っていきましょう。今日病の方は、イエス様が、「わたしは主であっていやす者」と言われましたので、あなたの病気も癒されます。家庭も癒されます。新城も癒されます。日本も癒されます。信仰を持ってこれから前進していきましょう。弱い方、これからイエス様が祝福してくださいます。家庭も祝福されます。お祈りしましょう。
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