今週の礼拝メッセージ
2002.12.22(SUN)
よく考えよう
新城教会 滝元 順 牧師

旧約聖書 ハガイ書 1章5節〜8節
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。『山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。』

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。「クリスマス・ゴスペル・コンサート」が終わり、もう、クリスマスが終わったような感じがしていますが、まだ続きます。今、世界中でイエス様がほめたたえられています。クリスマスの日に、共に集い御言葉を学ぶことができ感謝します。
 六年前、一九九六年十二月二十二日も日曜日でした。その時のメッセージを読み返しました。それがハガイ書一章五節から七節にポイントを置いたメッセージでした。

『今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。』

 教会に来て、自分の現状について考える機会が与えられることは素晴らしいです。ここでお読みした言葉は、「あなたがたは一生懸命して働いてきたが、その現状は穴のあいた袋に物を入れるような現状ではないですか」と語っています。
 私は昔、小学校の頃、春の遠足が楽しみでした。それも豊橋の海岸で潮干狩りをするのが最も楽しみでした。一番多く貝を拾った人に賞が出ました。私は、毎年それに燃えていました。先生の号令と共に、貝を拾いに干潟を走るのです。私はその日のために、袋を用意し、腰につけて捕った貝を次々と入れた覚えがあります。
 しかし、ある時、今日は絶対に優勝だと思いましたが、何となく袋が軽いのです。ふと後ろを見ると、袋が破れていて友だちがそれを拾っていました。一生懸命頑張って貝を拾ったのに、ショックを受けました。
 人生にも、そのようなことがあります。一生懸命働いて、努力してきたつもりが、現状は穴のあいた袋に貝を詰めるようで、漏れていることがあるかも知れません。ある意味で、現在の日本はそのようかも知れません。戦後、日本は一生懸命に努力してきました。しかし、穴のあいた袋に入れるようで、今は厳しい現実があります。「これからの日本はどうなってしまうのだろうか」と考えます。しかしそのような中、国のことも考えるべきですが、私たち自身のことについても考えるべきです。
 アメリカ大統領は現在、ブッシュさんですが、お父さんも大統領でした。その奥さんが、バーバラ・ブッシュ婦人でした。彼女がある大学で講演をしました。その時にこんなことを語りました。「この大国の健康状態は、ホワイトハウスで起きていることだけに左右されることではありません。皆さんの家庭で起きていることが、我が国の健康を決めるものです」
 今、日本が弱っています。穴のあいた袋に詰めているような状況かも知れません。しかしそれは、私たちの人生のただ中から直さなくてはいけないのです。
 ある人が精神的な問題を抱えて、町の精神科医を訪ねました。すると医者が、「あなたは大夫疲れていますね。気分転換が必要でしょう。良いことがあります。この町に素晴らしいサーカスが来ていて、そのピエロが大へん面白いです。どんな暗いことでも、笑いで吹き飛ばしてしまうから、そこに行くと良いですよ。」とアドバイスしたそうです。すると、アドバイスを聞いた男の顔は更に暗くなりました。
 「すみません。私がそのピエロなんです。」案外、私たちは世間では楽しそうに演じていますが、心の中には悲しみや苦しみがあるのです。しかし、イエス様は、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

と語られています。ハガイ書は、「あなたがたの現実を考えてください。漏れているではないですか」と指摘するだけではなく、その原因についても追求し、結論として回復の手段についても述べています。一章九節に、

『あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。』

と書かれています。今まで一生懸命やったけど、何も残っていない、穴が開いているようだ・・。その原因について、『それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。』と告げています。
 当時、国民は神様のことを忘れて、自分のために一生懸命働いていました。その結果として、多くを得たように思ったのですが、実際は自分のもとには何も残っていなかったのです。ハガイ書一章八節に、

『山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。』

 聖書は、イスラエルの歴史を通して人類に語っています。
 イスラエルが一番栄えたのは、ダビデ王とソロモン王の時代です。ダビデの時代、国には多くの戦いがありました。カナンの軍隊と、イスラエルの軍隊が常に戦っていました。国には平和がありませんでした。しかし神は国を祝福されました。なぜならば、ダビデの心に一つの目的があったからです。その戦いは、神の宮を立てる準備でした。ダビデは一生懸命、神の宮を国に建てるために準備したのです。旧約時代、神の宮を建てることは、神の臨在が現される為の大きな条件でした。だからダビデ王は真剣に、神の宮を建てるために戦いました。やがてすべての戦いに勝利し、ダビデの息子、ソロモンの時代に神の栄光溢れる神殿がエルサレムに建ちました。その為に国民は一丸となって働きました。そのとき、国は最も栄えたのです。
 しかし、神の宮が建った後、彼らは神様のことよりも、自分のことを考えるようになりました。
 イスラエルが転機を迎えたのは、ソロモンの時代であったと言われます。それまでイスラエルは、牧畜、農業を中心に人々は暮らしていました。しかし、神の宮を建てるために外国から色々な材料を輸入したことにより、経済活動の様式が変わったのです。人々は経済活動に目が移り、神様のことよりも経済活動を優先しました。その結果、国は二つに分裂し、最終的には北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに捕囚されてしまいました。
 しかし神はそのような中でもイスラエルを哀れまれ、ユダを回復してくださいました。彼らをバビロンからエルサレムに戻し、再度神殿を建て直すチャンスを与えて下さいました。それがハガイ書に記録されている事柄です。もう一度、神の宮を建て上げる意志を持って人々が働き始めたとき、預言者ハガイを通して神が語られた言葉が、今日の御言葉です。
 「今まで、あなたは神のためよりも、自分のために走り廻ったでしょう。しかしこれからは中心軸を神に移し、神の宮のために働いてみて下さい。そうしたら、今までいくら頑張っても塞ぐことができなかった穴が塞がれます」ということでした。
 この原則は、私たちの人生にも適応できます。私たちの人生も、神中心ではなく、他が中心になると、良さそうに見えるのですが、現実は穴の開いた袋に貝を入れるようになってしまいます。だから、神ご自身を中心にして生きる人生に移してみて下さい。そうしたら、あなたの人生は変えられるのです。
 続いてハガイ書二章九節では、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」と語られました。第一神殿は荘厳なものでしたが、第二神殿は外見は大したものではありませんでした。しかし、そこに現される神の栄光は、先に現された栄光とは、問題にならない程すごいものだと預言されたのです。これはイエス・キリスト誕生の預言でした。
 ある人は、今まで自分の為の神殿を建てるため、一生懸命努力してきたかも知れません。しかし、その栄光が崩れさってしまった、と言われる方もおられるかも知れません。けれども、神は、私たちにもう一度チャンスを与えて下さいます。主は、「目に見える領域は、昔の栄光に及ばないかも知れないけれど、これから与えられる霊的祝福は、先の栄光には比べることの出来ない、素晴らしいものである」という力強いメッセージをあなたに語っておられます。
 さて、人生において「神の宮を建てる」ために必要な事柄は、イエス・キリストによって具体化されました。マタイの福音書二十二章三十六節から四十節に、

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

ソロモンは、『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』と語りました。人生が祝福される第一条件は、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』です。そして、「神を愛する」とは、具体的には「神の命令を守る」ことです。教会において、聖書の中から神の命令が何であるかを学びます。神の命令を守ると、人生の穴が塞がれ回復するのです。
 申命記二十八章十三節から十九節に、

『私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。』

と書かれています。主の命令に私たちが従わなければ、『町にあってのろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。』と語られています。そんな人生は送りたくありません。しかし、ある人は、「私の人生のようだ」というかも知れません。のろいの中心は、ハガイ書二十八章十四節に記されています。

『あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。』

それは、「他の神々に従ってはいけない」ということです。神はお一人です。日本には、八百万の神々がありますが、それは偽物です。天地宇宙を造られた神はお一人です。手で作った神々を拝んではいけません。祝福を受けるためには、手で作った偶像から離れ、本物の神、イエス様の名によって礼拝し始めことです。申命記二十八章一節から六節に、

『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。』

と書かれています。このような祝福を受けるためには、イエス様だけに従っていくことです。それが私たちの人生が祝福される秘訣です。なぜ、他の神々に仕えるとのろわれるのでしょうか。それは「他の神々」は神ではなく、「悪霊」です。偶像を拝むと、その背後に潜む悪霊とつながるので、人生が攻め取られ大変になるのです。しかし、悪霊から離れ、本物の神に仕えるならば、「あなたは出るときにも、入るときにも祝福される・・・」祝福を追い求めなくても祝福があなたを追ってくるのです。
 同時にイエス様は、「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という、第二の戒めもそれと同じように大切です」と語られました。
 「神の宮を建てる」為に、神を愛する、すなわち、神の命令を守ることと共に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という御言葉が大切です。
 キリスト教発展に最も寄与した人物はパウロです。使徒の働き二十章三十四節から三十五節において、パウロは語っています。

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

 彼の人生の哲学、それはイエス様から聞いたことで、「受けるよりも与える方が幸いだ」ということでした。この御言葉を実行するために、彼は生きたのです。私たちが幸せに生きるために必要なこと、また、人生の破れが塞がれ回復するために必要なことは、「受けるよりも与える人生」というのです。
 ビジネスの世界は、一円でも多く得ることを前提にします。しかし、この考えだけでビジネスを展開するとビジネスはうまくいかないそうです。皆が祝福されるように、皆が儲かるようにという視点で展開しないと、最終的に仕事はうまくいかないのです。
 その為には、「与える人生」に変えられなければなりません。あなたの人生が、与える人生となりますように。
 イエス様は、この地上に来てくださり、与える人生を送られました。イエス様はすべてを人々に与え、究極的には、ご自分のいのちまでも全人類に与えて下さいました。
 中学校の「ニュー・ホライズン」という英語の教科書に良いお話が書かれていました。これは「シェル・シルヴァスタイン」という人が書いた詩で、「ギビング・ツリー」日本語では、「おおきな木」と訳されています。それを日本語に訳してみました。「木」を「イエス様」に例えて、「少年」を「自分」として読むと、よくわかります。

あるところに、リンゴの木がありました。その木は、一人の少年が大好きでした。毎日のように、少年は来て木の葉を集め、葉っぱで王冠を作り、森の王様ごっこをして遊んでいました。少年は木に登り、枝にぶら下がり、りんごを採っては食べました。少年は木とかくれんぼをしたり、木陰で眠ったりしたのものでした。少年も、その木が大好きでした。そして木も幸せでした。
 しばらくすると、りんごの木は、ひとりぼっちで過ごす日が多くなりました。少年が成長し、木のところにあまり遊びに来なくなったからです。ある日のこと、少年が久しぶりにやって来ました。りんごの木は、少年に「昔のように一緒にあそぼう」と声をかけました。すると少年は答えて、「僕は、木に登るには大きくなり過ぎた」と言いました。そしてりんごの木に、「おもちゃで遊びたいけれど、おもちゃを買うお金がないんだ。君は僕にお金をくれるかい?」と聞きました。すると、木は、「悪いけど、僕はお金を持っていない。あるのはただ葉っぱとりんごだけだ・・」「あっ、そうだ。名案がある。僕からりんごを、採って街で売ってお金にすると良いよ。」それを聞くと、少年はさっそく木に登り、りんごを全部採って街に行きました。それでも木は幸せでした。
 以後少年は、長い間りんごの木に会いに来ることはなく、木は大変寂しく思いました。しかし、ある日少年は戻ってきたのです。りんごの木は幹を震わして喜びました。そして少年に、「木に登って枝を揺すり、昔のように僕を幸せな気分にしてくれないか」と語りかけました。すると少年は、「僕は忙しすぎて木に登る暇はない」と答えました。そして、「僕はある人と結婚したいんだけど、そのためには家が必要だけど・・・。ところで君は僕に家をくれないかい。」と言いました。りんごの木は答えて、「僕には家はない。でも、君は僕の枝を切って、家を建てると良いよ。」少年はすぐさまりんごの木を切り、家を建てました。それを見て木は幸せでした。再び少年は現れませんでした。
 長い年月が過ぎたある日、あの少年が戻ってきたのです。木は喜びのあまり口が利けないほどでした。しかし、木は囁くような声で、少年に「一緒に遊ぼう。僕は寂しいんだ。」と言いました。すると、少年は「いま僕は遠くに行きたいんだ。そのために海を渡るボートがどうしても必要だけど、君は僕にボートを用意できるかい?」と言いました。すると木は、「僕を切り倒し、幹でボートを作ると良いよ。そうしたら君は遠くまで行くことができる」と答えました。すると少年はりんごの木を切り倒し、ボートを作り遠くに行ってしまいました。それでも木は喜びました。でも本心は寂しく思いました。
 それから長い年月が過ぎたある日、少年が再び戻ってきたのです。りんごの木は悲しそうに言いました。「僕には君にあげるものがすっかりなくなってしまった。りんごもなくなってしまったし・・・。」
 少年も言いました。「僕も歯が弱くなってしまって。りんごをかじる力さえなくなってしまった。」
 木は続けて言いました。「枝もなくなってしまったしなあ・・。」
 少年も言いました。「僕は年をとって枝にぶら下がる力なんてないよ。」
 木も言いました。「僕は幹もなくなってしまった。だから君も木に登ることはできないよ。」
 少年も言いました。「もう木登りなんてできっこないよ。」
 しかし木は深いため息をつきながら言いました。「何か君にあげることができたらなあ。でも、すべてなくなってしまった。私はただの古株に過ぎないのだから。」
 少年は答えて言いました。「僕にはもう多くのものは必要ないのだ。ただ座って休む、静かな場所が欲しいだけだ。僕はもう疲れた・・・。」
 「えっ、いま何て言ったんだい。」木は持てる力を振り絞って言いました。「古株は座って休むには最高だよ。すぐに来て座っておくれよ。」少年はその古株に腰をかけました。そしてりんごの木は幸せでした。

 この与え続ける木の姿は、イエス様の姿のようです。しかし、イエス様は、決してりんごの木のように、切り倒されて古株になって休む場所だけではなく、私たちを助けてくださる方です。イエス様は、私たちを回復させて下さる素晴らしい方なのです。
 イエス様が与える人生を私たちに示して下さったことは素晴らしいです。私たちも、イエス様のところで休みを得て、助けていただき、与える側に廻っていくならば、素晴らしい祝福を受けることができます。皆さんの人生がこれから人を愛し、人に仕えていく人生に変わるなら、あなたの人生は決して尾とならず、頭となって歩むことができます。
 イエス様がこの地上に来られ、最後にこう言われました。「わたしがあなたがたに新しい戒めを与えます。それはあなたがたが互いに愛し合うこと、これがわたしのあなたがたに与える戒めです」
 私たちが互いに愛し合い、互いに仕え合うの中で、神の宮は建ち、人生は祝福されたものに変えられます。ハガイ書二章十五節から十八節に、

『さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。』

 今まであなたの人生は、二十の麦の束を抱えたと思ったけど、十束しかなかったではないか。五十おけ汲んだと思ったけれど二十おけ分しかなかったではないですか。穴があいているような人生ではなかったですか。しかしここでは、主の神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えてください、と言うのです。ハガイ書二章十九節に、

『種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」』

と書かれています。ぶどうは種のままで実を結んでいない状況かも知れない。しかし、「あなたが神殿の基礎を築いた日から後のことを考えて下さい。わたしはあなたを祝福する」と言われます。私たちの人生の基礎をイエス・キリストに置き、歩み始めるならば、これから後は、あなたは祝福されると言うのです。
 皆さんの人生はどうでしたか。もし、「私は五十おけ汲んだつもりが、二十おけしかない。二十束刈り入れたと思ったら十束しかない、いや、それ以下だ」という方がおられたら、イエス・キリストを基礎として歩んでみて下さい。そうすれば、これから後、あなたは祝福されるのです。
 私たちは、やがて気づくときが来ます。あの日、あの時、イエス・キリストに人生の基礎を置いた後、変ったではないか、あの時から、私は回復したではないか。やがてそれを知る日が来ます。まずは、人生の中心軸を移すことです。私たちの中心が、自分のためではなく、イエス様中心で、自分のためではなく、与える人生に転換するときに、見えない世界の霊的法則が動き始めます。そして、神様が私たちを祝福の法則へと変えられます。手で造った神々に仕えるのではなく、神に仕える人生、素晴らしい人生に変えられます。
 時々、私たちは色々な苦しみを通して、神ご自身を求め、知ることが出来ます。
 もしかしたら、今朝、色々な問題によって、「これからやっていけるだろうか」と不安な方がいるかも知れません。しかし、この時こそ、神が働かれる一番のチャンスです。
 最後にもう一つの詩をお読みしたいと思います。これはアメリカの、ベトナム退役軍人のリハビリセンターの壁に掛かっていた詩です。

私は偉大なことを成し遂げように、神様に強さを求めた。
すると、弱さが与えられた。謙遜になるように。
私は多くのことができるように、健康を求めた。
すると病弱なからだが与えられた。よりよいことができるように。
私は幸せになるように富を求めた。
すると、貧しさが与えられた。賢くなるように。
私は人の上に立てるように、力を求めた。
すると、謙遜が与えられた。神様だけを求めるように。
私は人生を楽しむことができるよう、多くのことを求めた。
すると、命が与えられた。すべてのことを楽しむように。
私が求めたものは、何一つ与えられなかったけれど、
私が心から望み祈ったことは、すべて叶えられた。
今、私は多くの人生の中で、最も豊かに祝福された者となった。

 私たちの中に、色々な試練が起こることがありますが、そのような試練を通して、神は私たちの心の中を探られます。そして、やがて私たちは、「多くの人生の中で最も豊かに祝福された者となった」という人生に変えられます。そのために、イエス様がこの地上に来られた、と聖書は力強くメッセージを語っています。クリスマスはそのためです。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 今から祈りの時を持ちたいと思います。私たちの人生の中で、破れた部分が全て塞がれ、出て行くにも入るにも、すべての局面において祝福を受けるように祈りたいと思います。

「イエス様を救い主として信じ、受け入れます。私の中心軸をあなたに移します。そして受ける人生ではなく、与える人生に変えてください。あなたを愛する人生に変えてください。私の全ての今ある状況からも脱出の道を与えてください・・。」
バックナンバー

戻る
戻る