今週の礼拝メッセージ
2002.12.29(SUN)
「その日」「その時」を知る
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 マタイの福音書25章1節〜13節
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 ハレルヤ!早いもので、今年も今日を含めてあと三日になりました。皆さんにとって2002年はいかがでしたか?
 今日は『「その日」「その時」を知る』というタイトルで学びます。
 今、お読みした箇所には、ユダヤの結婚式の情景に合わせて、イエス様がもう一度この地上に帰ってくる、「再臨」について語られています。
 昨日は、松島美香姉が結婚されました。彼女は時任君という青年と出会い、彼がブラジル人教会でクリスチャンになったので、ブラジル人教会で結婚式をしました。私は彼らの証人をさせていただきました。イスラエルの結婚式には、「ブライドメイド」という花嫁に付き添う女性たちがいました。夜、花婿が花嫁の家に花嫁を迎えにいくと、ブライドメードたちが明かりを灯して花婿の家まで彼らを先導する習慣があったようです。そのような結婚式の情景と重ねて、イエス様がやがてこの地上に帰って来られるという話です。
 今の時代は大変です。混沌とした、混乱の多い時代です。しかし、やがて、神がこの地球をリセットし、神の支配に戻す日がくるのです。それが、イエス様がもう一度この地上に帰って来られる「再臨」です。それはいつかわからないのです。二十五章十三節は、

『だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。』

とあります。イエス様は、いつ地上にお帰りになられるのかわかりません。今日かも知れないし、明日かも知れない、また、千年後かも知れない。誰にもわかりません。新約聖書を見ると、イエス様が復活されてから、聖霊が注がれ弟子たちが宣教を開始した動機について書かれています。それは、「神の国がくる」、すなわち、「イエス様がもう一度帰ってくる」という緊迫感の中で伝道しました。彼らは、明日にでもイエス様は再臨されると考えていたようです。
 しかし、それから、もう二千年近く経ってしまいました。けれども、主は必ず、私たちのところに帰って来られます。私たちはイエス様がいつ帰って来られても良いように、準備しなければなりません。そして、そのために必要なのは、油を携えていたら、対応できると言うことです。
 将来はすべて隠されています。明日のことはわかりません。しかし、わからない明日を、結果的に知ることができます。なぜならば、油を携えていた女性たちが、「その日、その時」に対応できたからです。
 明日の何時、何分に何が起こるかわかっていたら、対応できるかも知れません。しかし、実際は、突発的な出来事が多く起こります。それらは、隠されていて、どうすることもできません。しかし、油を携えているならば、突然起こる事柄に対応でき、結果的に、あなたは「その日、その時」を知ったことになるのです。後から振り返って、「あれは、神の時であった。神の日であった」と知ることができるのです。
 私たちはやがて帰って来られる、イエス様に望みにおいて、今日も生き、明日も生きていかなくてはなりません。
 第一テサロニケ四章で、イエス様がもう一度地上に帰って来られる情景を教えています。十六節から十七節に、

『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』

 私たちの歴史の延長線上のある日、突如として天が開けて、イエス様が雲に乗って帰って来られる日があります。その日には、先に天に帰った聖徒たちがよみがえり、最初に引き上げられるのです。
 教会には人生の四季があります。赤ちゃんが産まれることから、結婚式、そして、葬式まであります。先週は、中川達夫兄のお父様が亡くなられました。教会には来られませんでしたが、二ヶ月ほど前にお父さんの病床に行き、初めて伝道しました。まだ、クリスチャンではありませんでした。私は、どのような方にも、必ず実行することがあります。それは、私の後について言うとおりに祈っていただくことです。それの祈りは、「イエス様の名前を口に出す祈り」です。「主の名を呼び求める者は救われる」ので、何にしても、口に出して告白して祈っていただくのです。そうすれば、終わりの日に、神がその人を助けてくれると思うので、そのようにお祈りします。
 お父さんとは、初めてお祈りしました。しかし、いきなり、「私は、イエス様を信じます。」と告白させてしまうと、かえって心を閉じてしまうといけないので、私は初めに祈っておきます。「神様。私は今から、この人のために祈りますが、『信じます』とは祈れないかも知れませんが、『助けてください』とこの人に言わせますので、それは『救ってください』という意味ですので、よろしくお願いします。」と祈っておきます。それでお父さんとも、「イエス様、私を助けてください」と後についてお祈りていただきました。
 最後に、「アーメン」と祈ると、彼も「アーメン」と言いました。すると、私は何も言いませんでしたが、お父さんは自分から、「私はイエス様を信じます!」と自分から、告白されたのです。私たちは、とても驚きました。しかし、とても嬉しかったです。そして、先週は、イエス様を信じられ、天に帰られました。
 そんな、天に帰った聖徒たちが、肉体をもう一度回復して、天に引き上げられることが起こるのです。また、地上にいるクリスチャンも、たちまち天に携え上げられ、二度と死も悲しみも苦しみもない、天国で永遠に過ごすことができるのです。「だから、このことを告白して、互いに慰め合い、励まし合ってください」というのが聖書のメッセージです。
 しかし、イエス様が帰って来られる再臨も、神の世界から見るならば、「一つの神の時」であり、「神の日」であのです
 同時に、聖書は、イエス様がこの地上に帰ってくるという偉大な日とともに、人生のただ中に、「その日、その時」が訪れると教えています。ですから、人生は、神の時をキャッチすることが重要なテーマです。神の時をキャッチすることができたら、すばらしい人生を送ることができます。ですから、私たちは注意深く、主がいつ時を与えてくださっても対応できるようになりたいと願います。ぜひ、皆さんも神の時をつかむことができるように祈ってください。さて、マタイの二十五章の御言葉は、『天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。』と「天の御国」がテーマでストーリーが始まっています。
 「天の御国」とは、「神の国」、「第三の天」と表現されています。そのようなキーワードで聖書を読むと、奥深い真理を知ることが出来ます。この「神の国」は、終末だけではなく、私たちのただ中にも現されるものです。やがて、イエス様が帰って来られるというのも、神の国の現れです。
 しかしそれ以上に、「人生のただ中に、神の国が現される」とイエス様は語られました。マタイの福音書十二章二十八節に、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 「悪霊から解放」されるということは、「神の国の現れ」です。「悪霊を追い出す」ということについて、多くの人たちが特殊なことのように考えますが、そうではありません。悪霊が追い出されるとは、神の国の現れです。なぜならば神の国に、悪霊は入ることができないからです。天国に行っても、まだ、そこに悪霊がいたのでは、天国ではなくなってしまいます。悪霊から解放されることは、そもそも天の御国が現されることによるのです。
 今年も多くの方が、この教会において悪霊の束縛から解放されるという、奇跡を見せていただきました。これは神の国の現れであり、「その日、その時」なのです。素晴らしいです。神の国の現れとともに、悪霊が手を離すのです。神の国の現れは、裏返せば「霊的戦いとともにある」といえます。イエス様の再臨は、この世に対する悪魔の支配に、終止符が打たれる日です。イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかられ、よみがえられ、また聖霊を注がれ、「あなたがたに、すべての権威を授けたので、あなたがた手によって神の国のを現してくれ」と語られて天に帰られました。しかしながら、それがなかなかうまくいかない現実があります。世界はどんどん混乱しています。悪魔は、自由自在に動き回っているのが今日この頃です。世界の情勢をみると、悪魔が我が物顔に歩き回っています。しかしやがて、悪魔の働きに終止符を打たれるのです。悪魔の支配に対して、終止符を打つのです。ということは、神の国は、霊的戦いとともにあるということです。
 「神の国の現れ」、「その日、その時」について良い面だけで捕らえる要素が多いのですが、そうでもありません。エペソ人への手紙六章十節から十三節に、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』

と書かれています。ここには、『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように』と書かれています。神の国の現れは、裏返せば、「邪悪の日に対抗する日」です。私たちの人生の中に、神の国が現されるのは、素晴らしい一時です。しかしそれは、「邪悪な日に対する対抗」でもあるのです。私たちの人生の中に、神の国が現され、神は偉大なわざを行いたいのです。しかし、悪魔はそれを真剣に阻止したいのです。けれども、私たちが油を持っているならば、それに対抗できるというのです。
 私たちが聖霊の油そそぎをいただくことは素晴らしいことです。私たちが聖霊の油注ぎをもらっていると、「その日、その時」はわからないかも知れませんが、それが邪悪の日であっても、私たちは対抗できるのです。だから、賢い五人の娘たちと同じように、油を絶やさないでいる必要があるのです。これが終末の教会に対する、神からのメッセージです。
 旧約聖書のストーリーは、新約時代と今の時代をも指し示しています。そのような中で、イエス様が帰って来られる直前の教会の姿を現している書があります。聖書の中には、女性の名前がタイトルになっている書が二つあります。それが「ルツ記」と「エステル記」です。
 ユダヤ人からクリスチャンになることは、なかなか難しいのです。イスラエルは今でも、キリスト教全面禁止です。イスラエルでは、クリスチャンは皆迫害されます。クリスチャンが逮捕されるような厳しさがあります。しかしそのような中でも、ユダヤ人がクリスチャンに改宗しています。彼らを「メシアニック・ジュー」と呼びます。ユダヤ人でありながら、イエス様を主と信仰告白する人たちです。彼らは、ユダヤ教の背景から救われたので、旧約聖書に関して大へん詳しいのです。彼らは、私たちが気づかない深い解釈をします。特に、「エステル記」については、エステルの姿は、終末における教会の姿であると語っています。
 エステル記のストーリーをご存じですか?この書は、不思議なことに神の名が一度も出てきません。しかし、そこに神のわざを見ます。
 エステル記の時代的背景には、イスラエルがバビロンに補囚され、その後、帰還したのですが、次に到来した、メド・ペルシャの時代にわたってペルシャに残ったユダヤ人たちもいました。エステル記は、ペルシャに残ったユダヤ人の中で起こった事件です。当時、ペルシャにおいては、アハシュエロス王が権力を持っており、自分の権力を皆に見せつけるために、百八十日間連続の宴会をしました。ある日、王は上機嫌で、自分の王妃・ワシュティに王冠をかぶらせ、皆の前に王妃を呼び出そうとしました。なぜならば、彼女はとても美人で、王の自慢の妻だったからです。しかし、ワシュティはそれを拒否しました。王は皆の前で顔をつぶされたので激怒し、国中の美人を集め新しいお后を選びました。
 その中にエステルという孤児がいました。彼女は、叔父モルデカイに引き取られ育てられていました。しかし彼女はとても美しかったのです。自分の身分を隠して、王妃になるために応募しました。そして、国中の美人の中で、彼女が王妃として選ばれたのです。おじさんのモルデカイはある日、不安になりエステルの安否を尋ねに王宮にいきました。すると、その側で二人の男がひそひそ話していました。それは、王の暗殺計画でした。彼は王の暗殺計画を聞いたので、王に知らせると彼らは逮捕され、王は危うきを逃れました。
 王は国の総理大臣を任命しました。それが「ハマン」という男でした。彼は大へん悪賢い男で、権力欲に満ちあふれており、自分が総理大臣になったときに法律を作りました。それは、「私が通ったら、ひれ伏して拝まなければならない」という法律でした。人々はハマンが通ると、ひれ伏して拝んだのです。しかしモルデカイは、王宮の門番でしたが、ハマンが通っても全く見向きもせず、頭も下げず、ひれ伏しもしませんでした。なぜならば、彼はユダヤ人だったので、天の神以外には拝まなかったのです。ハマンはモルデガイを見て、「この野郎、殺してやる」と怒りに燃え、そして一人ではなく、ユダヤ人全体を殺す計画を立てました。それで王に取り入り、その許可をもらいました。彼はユダヤ人虐殺の日をくじで決めました。「アダルの月の十三日にユダヤ人を皆殺しにし、財産没収」のふれを全国に出しました。
 ユダヤ人は、それを見ておそれ、悲しみました。たとえば、日本人として、どこかの国に捕囚され細々と生きている中で、ある時高札がたち、「日本人皆殺し日」と告げられていたとしたら、どんな気持ちでしょうか。
 モルデカイは悲しみ、泣き、叫びました。彼はエステルに、自分の身をあかして、王に何とかしてくれるように頼むように告げました。
 エステル記四章十三節から十六節に、

『モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」エステルはモルデカイに返事を送って言った。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」』

 この事を聞いたエステルは決意したのです。当時の法令においては、いくら王妃でも、勝手に王の前に出ることはできませんでした。勝手に入っていったら、殺されてしまいます。だから直訴することは大変でした。しかしユダヤ人が危機に瀕しているので、彼女は王のところにいき、直訴する決意をしたのです。「あなたが王宮に入ったのは、もしかしたらこの時のためかも知れません」と言われました。
 ある意味でエステルの姿は、私たちクリスチャンの姿と重なります。皆さんの中に、「私は家族の中で、ただ一人のクリスチャンです」と言われるかも知れません。あなたが初めにクリスチャンになったのは、エステルのような存在かもしれません。家族や親族、友人を解放するために、あなたが用いられます。時にそれは大変なことかも知れませんが、祈って進んでいくならば、勝利が与えられます。
 エステルは王の前に出ていきました。すると、王は、喜んで金の酌をのべてエステルを受け入れてくれました。そして王様は、「エステル、おまえは何が欲しいのだ。おまえが望むならば、私の国の半分でもおまえにくれてやるのに」と語りました。この王様は太っ腹です。彼女に心を許していました。しかし彼女はそこで、「王様、私の民族は危機に瀕してます。」とは言いませんでした。神が知恵をくださり、「王様。ハマンと一緒に私が主催する宴会にきてください」と言いました。そこで王様は、総理大臣ハマンと共にエステルの主催する宴会に行きました。それで王は良い気分になり、「おまえ、何が欲しいのか」と聞くと、「今日は、ちょっと言えません。明日、もう一度宴会にきてください。そこで語りますから。」と言いました。次の日、王様はハマンと一緒にエステルの主催する宴会にくることに決まりました。
 一日目の宴会が終わり、王は宮殿に帰りました。しかし王はその夜、眠れなかったのです。そこで彼は、自分の日記を読むことにしました。すると、「暗殺計画発覚、通報者モルデカイ」と記されていました。「私はモルデカイによって助けられたが、モルデカイには何か褒美をやっただろうか」と考えました。調べてみると、やはり褒美をあげてなかったのです。
 ちょうどその頃、ハマンはイライラしていました。なぜならば、宴会場に入るときにも、門番のモルデカイは彼に頭を下げなかったからです。「絶対にモルデガイを殺してやる。明日も、王妃の宴会に招かれているけど、もう、あいつがいるだけで頭にくる。だから、モルデガイを殺してから宴会に行こう」と考えました。そこで庭に十字架を建て、モルデカイを殺してから気分良く、宴会に行こうとしました。「それは名案。早速、王様のところに行き、許可をもらおう」と、寝れない王のところにハマンが出向いたのです。
 すると、王は、「ハマン。丁度良いところに来た。王が栄誉を与えようとするとき、どのようにして与えたら良いだろうか?」と聞きました。
 王はモルデカイのことを考えていました。しかし、ハマンは、「これは俺のことに違いない」と勘違いしました。「王は私に栄誉を与えようとしている・・」
 「王様、あなたが栄誉を与えようとされる人には、王の冠、着物を着せ、王の馬に乗せて広場に出して、『王が栄誉を与える人はこのとおり』と皆に見せたら良いですよ。」と自分のきらびやかな姿を想像しながら、彼は王に進言しました。
 すると、王は、「それは良い案だ。おまえ、早速行ってモルデカイにそれをしてくれ。」と言いました。
 ハマンはモルデカイ殺しの許可を受けるために王のところに行ったのに、何と、一番嫌いなモルデカイに王の衣装を着せ、ハマンが馬を引く屈辱を味わう羽目となりました。ハマンはモルデガイを殺すことはできませんでした。
 翌日、エステルの宴会が始まりました。王は、「エステル、何が欲しいのか。国の半分でもやるぞ」と言いました。その時エステルは、「王様、私と父の家とが死の危機に瀕しています。私たちを皆殺しにしようと計画している者がいるです。」
 すると王は興奮し、「そんな悪い計画を立てているのは誰だ!」と言いました。すると、「それが、ここにいる悪いハマンです!」とエステルは叫びました。ハマンは震え上がり、なんと、ユダヤ人が殺される日が、ユダヤ人解放の日となり、ハマンと一族が皆殺しにされる日となったのです。
 これは大逆転です。モルデカイを殺そうと用意しておいた十字架に、ハマンはかけられ、殺されるという大逆転がありました。これは終末における教会の姿です。
 ハマンは悪魔を表しているとメシアニック・ジューの人々は理解しています。ハマン、すなわち、悪魔と悪霊どもはエステルとその一族、神を信じる者たちを、何とか滅ぼそうとしますが、神は神の民を助けてくださり、回復してくださるのです。
 このエステルのストーリーの中には、神は全くでてきませんが「神の指が見える」と話しました。もしも当時の美的観念で、エステルがブスだったらどうでしょうか。王宮に入ることはできませんでした。エステルが王妃になったことは、神の計画でした。また、モルデカイがエステルの安否を尋ねて、王宮にいかなかったら暗殺計画をキャッチできませんでした。また、ハマンがくじを引きました。「アダルの月の十三日」というくじの結果が出ました。これが十日であったり、九日であったらどうでしたでしょうか。また、それよりも遅かったらどうでしたでしょうか。
 エステルが王のところに決死の思いで出ていきましたが、その時、王がむしゃくしゃしていて、「この無礼者」といって、エステルが殺されたらどうだったでしょうか。
 またエステルが宴会を催したときに、最初の日に自分の思いを王に告げていたらどうでしたでしょうか。彼女は王に告げるのを一日延ばしました。その夜、王は眠れませんでした。王が疲れて、ぐっすり眠ってしまっていたらどうでしたでしょうか。
 また現代のように、テレビがあったらどうでしょうか。多分、王は、テレビを見て日記帳を開きませんでした。日記帳を開いたその時に、ハマンがちょうどモルデカイを暗殺しようと計画し、王のところに来ました。そのタイミングが、少しでもずれたらどうなっていたでしょうか。この中の条件が、一つでも狂っていたら、ユダヤ人は皆殺しにされました。しかし、それらはすべて、良い方に転がっていきました。そして何と、ユダヤ人が全員解放され、敵が完全に打ち破られるという、大逆転につながりました。
 モルデカイにとっても、エステルにとっても、将来のことはなにもわかりませんでした。しかし「その日、その時」に対応出来たのです。神の指が見えると言いましたが、ルカの十一章二十節に、

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

と書かれています。背後には、霊的な戦いがありました。悪魔は真剣に、タイミングをずらそうとします。私たちの人生の中にも、同じことがあります。私たちの中に、「神は時」を与えます。しかし、それは裏返せば、「邪悪な日」とつながります。タイミングを悪魔はずらそうとするのです。神のタイミングがずれると、「その日、その時」は良いものではなく、「邪悪な日」となってしまいます。しかし、聖霊の油注ぎがあれば、それに対応でき、悪い方ではなく、良い方に転がるのです。
 先週一つの番組を見ました。それは悪いタイミングがすべて重なって起きた事件です。一九八八年七月二十三日、午後三時半頃に起こった事件です。それは神奈川県横須賀沖の東京湾で訓練を終えて横須賀基地に戻るために西へ航行中の、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と、釣り船の「第一富士丸」が衝突し、第一富士丸に乗っていた四十八名中、三十名が亡くなり、十二名が重軽傷を負うという大惨事です。どうして広い海原で、そのようなことが起こったのか、それも、潜水艦がいる釣り船がいると、両者が確認していながら大惨事が起きたのはなぜかについて検証していました。条件が一つでも欠ければ、両船はぶつかりませんでした。
 第一富士丸はそれが最後の航海でした。船長は最後の航海の前に、サラリーをもらってから出航することになっていました。しかし、船主がサラリーを払いませんでした。それで船長は怒り、「払ってくれなかったら船は出さない」と言ってもめたのです。船主は後から払うと言い、結局、証書を書くのに手間取り、十五分出航が遅れました。
 また潜水艦も釣り船が来るとわかっていましたが、ちょうどタイミング悪く、ヨットが潜水艦の前を横切っていったので、潜水艦の速度が変化し、最終的には様々な悪い要素が組み合わさり、広い海原で両船はぶつかり、第一富士丸は沈み、三十人が死んだのです。この中の条件が一つでも良い方に転がっていたら、このように悲惨な結果は起こりませんでした。
 私たちの人生にも、そのような側面があります。「あの時に、あんなことをしなければ、あんなことは起こらなかったのに」と思います。後悔の人生があります。
 しかし、神は時を支配し、戦いの中であなたに勝利を与えようというのです。「その日、その時を知る」・・将来のことは私たちにはわかりませんが、賢い娘のように、油を携えているならば、対応できるのです。
 聖書はいつも、「聖霊に満たされることを祈っていなさい」と勧めます。一年が終わろうとしていますが、来る二〇〇三年は、賢い娘のように油の注ぎをいただき、聖霊の油に満たされて過ごしたいと願います。そうすれば、あなたの人生の中に起こってくる「神の時」、言い換えれば、「邪悪な日」かも知れませんが、それに勝利できるのです。使徒の働き十九章一節からに、

『アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』

 私たちは聖霊に満たされたクリスチャンになることが大切です。それは神の時に対応できるクリスチャンです。そのためには、どうすれば良いでしょうか。それは「願って求め」なければならないと聖書は教えています。ルカ十一章十三節に、

『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

 聖霊に満たされ、聖霊の支配の中に生きる為に、祈りの中で、「聖霊様、私を支配してください。油の注ぎを与えてください。賢い娘のように、いつも油を持っていることができますように。その日、その時がわからないかも知れませんが、油注ぎによってすべての局面に勝利できますように。」と祈りましょう。そうすれば、後の日になって、「実に、あの日、あの時、神の指によって助けられた。聖霊の油注ぎがあったからだ」と知ることができます。来年、どのような年になるかはわかりませんが、聖霊の油を求めていきたいと願います。
 信じる者にイエス様は聖霊を与えてくださいます。イエス様がよみがえられたときに、「聖霊を受けなさい。」と言われました。私たちが今日も、聖霊の油をいただき賢い娘のように、主をいつでもお迎えできるクリスチャンとして、人生を送っていきたいと願います。聖霊の油注ぎを求めてお祈りしましょう。
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