2003.1.1(SUN)
新年祝福礼拝
すべてのものが生きる
新城教会 滝元 順 牧師

 ハレルヤ 主の年おめでとうございます。今年は主の年であり、主のわざが始まる年であることを宣言します!
 今日は、朝早くから二人の牧師が中心となって、全日本をとりなしの祈りの為に回っています。一チームは北海道から日本縦断のコースで、空の上から祈っています。今、上條先生が札幌にいます。北の端から、日本のリバイバルが拡大するように、また日本が祝福されるように祈りの時を持ちます。

<上條師>
 今北海道の飛行場の外にいます。着いたときには、マイナス十五度でしたが、今は少し暖かく感じます。朝五時半に新城を出て、七時少し前に名古屋に着き、名古屋空港で聖餐式をしました。日の出と重なり、名古屋のために祈りました。一時間二十分で千歳空港に着き、雪の上で祈りました。雪の上で、「この地を祝福してください」と、ぶどうジュースを注ぎましたが、キャンディーのようになってしまいました。

 今年一年間、北の端から南まで祝福されるように、また、新城の祝福のために祈ってくださいますか。

<上條師の祈り>
「主の年が始まっていることを感謝します。今、北海道から祈れることを感謝します。今年、新城が祝福されますように。すべての兄弟姉妹、教会、地域に祝福だけが現されますように。暗闇の権威を打ち砕いてください。今、雪を見ていますが、雪よりも白い聖さの中で、大いなるあなたのわざを見ることができますように。そして、日本全国に福音が伝わりますように。北から新城のために祈ります。新城に働く悪霊のわざを打ち砕いてください。そして勝利を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン!」

 これから11時半にもう一度飛行機に乗り、羽田に一時に着き、羽田から福岡、福岡から名古屋へと戻ります。

 それでは、今日のとりなしの祈りが、祝福されるように新城から祈ります。
「地上で多くの偶像礼拝がなされる中、空からとりなし祈れることを感謝します。北から南まで、あなたの年であることを宣言します。今日のとりなしが祝福され、主の栄光を見る年となりますように。場所、場所において祈るべき祈りを受け取らせてください。この時を感謝します。アーメン。」

 岡本信弘牧師は、「対馬」という小さな島、韓国まで四十キロという島に行き、日本と韓国というつながりの中で、すべての壁が砕かれるように祈っています。対馬は、日本と韓国の真ん中に、壁のように立ちはだかっている島ですが、日本と韓国のあいだにある霊的な壁が砕かれるように祈ります。韓国籍の方、在日の方と日本人というチームで祈りに行っています。祈りとともに、新年の祝福礼拝が持てることを感謝します。
 さて、昨晩は六名の先生方によって御言葉が語られ、何れも、二〇〇三年に向けて語られた、預言的メッセージであったと思います。そこで語られた通りに、主が導いてくださると信じます。
 簡単に紹介させていただきますと、始めに公畑フェルナンド先生が語ったのは、列王記第一、十九章十八節からの御言葉です。

しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」

 日本にはクリスチャンが少ないですが、救われるべき人々は多くいるという視点とともに、「七千人の人々」は主を信じていたが、人の前で言い表さなかった静かなクリスチャンでした。今年はそのようなクリスチャンではなく、口を大きく開きましょう、というメッセージでした。
 その為に、「悪魔に対して静かになってはいけない、声を上げて戦わなければならない」
 「世の中に対して静かにならないで、イエス様のことを多くの人に伝えましょう」
 第三に、「教会の中で賛美の声、恵まれたときには大きな声でアーメン!と言いましょう」と語られました。私たちが大きな声を上げ、主をほめたたえていくようにと、語られました。
 続いて、四元雅也先生は、「準備しなさい」という主題で語りました。彼は近頃の礼拝の中で、主から、「準備しなさい」と突然語られたそうです。それは「リバイバルのために、あなたは準備しなさい」と受け取ったそうです。そのために必要なこととして、「さらに、私たちは低くされる必要がある・・」
 それは一人ひとりが神の器として、へりくだった者になるということでした。そしてもう一つは、リバイバルのために、さらに高められることです。それは、教会全体、一人ひとりが、霊的に底上げされることであり、神との交わり、関係の中でも、リバイバルに向けて、すべての面で高められることが要求されると語りました。そして、アモス書九章十三節の御言葉が語られました。

見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。

 これは素晴らしい御言葉です。耕す者が刈る者に近づくとは、通常、春になると種をまき、秋には収穫します。種蒔きと収穫には一定の時間がかかります。しかし、この御言葉は、種を蒔いたらすぐに収穫されるという意味です。今まで、伝道してもなかなか救われず、一定の時間がかかりましたが、その時間が短くなり、多くの人が主を信じるようになる、というメッセージでした。

 続いて、滝元開先生の語ったメッセージは、創世記十五章五節からでした。

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 不信仰なアブラムに、神は彼が信仰を持つように外に連れ出し、空の星を見せ、「星を見てごらん、数えることができますか。神の祝福は私たちの思いを越えたものです」と告げられました。その時、神は彼をテントから外へ引き出されました。ここから、「囲いから外に出なければならない」というメッセージを語りました。私たちは時に、「信仰とはこういうものだ」とか、「クリスチャン生活とはこのようなものだ」とか、「祈っても答えられる範囲はこんなものだ」というような囲いを持ちますが、その囲いから出て天を見上げ、主に期待しましょう、という預言的なメッセージでした。

 また明牧師はマラキ書三章十二節の御言葉から語りました。

すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

 これは、新城教会に与えられた御言葉だと確信を持って語りました。「あなたがたは幸せ者と呼ばれる」と語りました。素晴らしいです。なぜならば、新城が喜びの地となるからです。

 また上條先生は、「主の山の上に備えがある」と語りました。それは、主に信頼し、主の御言葉を信じて行動するということでした。昨年の子どもクリスマスの時も、直前まで多くの子どもたちが来るのを期待していませんでした。しかし、子どもたちが素直に、「祈った祈りに神は必ず答えてくださる」と力んで祈ったのではなく、自然体で信じ行動し祈ったときに、奇跡が起こりました。同様に、私たちも素直に神の御言葉を受け取り、「主は備えてくださる」という信頼が必要である、というメッセージでした。
 エレミヤ書二十三章二十九節の御言葉から語られました。

わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。・・主の御告げ。・・

 神の言葉に信頼する必要があります。神の言葉は岩を砕く金槌のようで、どのような困難も御言葉によって砕くのです。「神の力である御言葉により頼んで生きていきましょう」と語りました。

 岡本信弘先は、「主が戦われるから、あなたがたは黙っていなさい」というメッセージでした。それは、出エジプト記十四章十節から十八節の御言葉です。十四節から

主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

 今年は、主が、私たちの戦いを戦ってくださるのです。私たちは時々、色々な困難にぶち当たり、「もう駄目だ」という状況に陥りますが、神が先立って二〇〇三年は戦ってくださるので心配しないで行きなさい、と語られました。それと同時に、私たちは黙っているだけで何も行動をとらないのではなく、「イスラエル人に前進するように言え」とあるように、前進するのは私たち自身なので、私たちも声を上げて前進しなくてはならない、というメッセージでした。

 どの御言葉も、二〇〇三年に、主が働かれることを予感させる、預言的な御言葉ばかりでした。この教会に、また兄弟姉妹に、また日本に、今年、素晴らしいことを起こされると信じます。
 「今年あなたは幸せ者と呼ばれます!」

 神は決して人類を不幸にするために創造したのではありません。幸せに生きるために、楽園に創造してくださいました。神は今年、お一人ひとりに素晴らしいみこころを現してくださると信じます。
 私が今年示されている御言葉は、毎週礼拝で語らされていただいていますので、それが今年に対する御言葉でもありますが、もう一つ求めていましたが、なかなかぴんと来ず、皆一生懸命祈って受け取っているのに、私はなかなか今年はこないと思っていました。実は、昨日の朝まで、何もありませんでした。しかし主が語ってくださいました。
 そもそも、この季節から一年が始まるのは、どうして決められたのでしょうか。日本においては明治五年まで、旧暦という太陰太陽暦を使用しており、今のように西暦を使っていませんでした。旧暦では、立春を含む月、立春を含む新月の日が年初だったのです。それが明治五年まで続いていました。しかし、明治五年十二月二日の翌日が、明治六年一月一日として定められ、それ以降、太陽暦に切り替えられました。私たちはこの季節に新年を祝っていますが、それが始まったのはそんな昔ではありません。
 では西暦はどのように始まったのでしょうか。それは、イエス様がお生まれになってからです。紀元元年はイエス様のお生まれと共にあります。二〇〇三年と言われますが、イエス様がお生まれになってから二〇〇三年たったということです。
 私たちは先日、クリスマスをお祝いしました。クリスマスは十二月二十五日ですが、二十五日がクリスマスとは聖書に記されていません。イエス様が十二月にお生まれになった根拠は何一つありません。そもそも、イスラエルの十二月は、大変寒いので羊を外に出しておくことはありません。十二月二十五日がクリスマスと定められたのは、ローマに侵入したゲルマン民族にとって十二月二十五日は特別な祭りの日であったからです。その日は、一年のうち最も日照時間が短くなる、冬至の祭りの日でした。彼らは、二十五日を境に、日照時間が長くなるという、季節の法則を長年の経験の中で読みとっていたのです。それで、十二月二十五日を太陽再生の日として、太陽を拝んできました。
 日本でも多くの人が神社に行っていますが、神社崇拝の根元に太陽礼拝があります。日本の総氏神と呼ばれる神話的存在は「天照」ですが、それは太陽を意味します。世界の偶像礼拝の根底に太陽礼拝があります。科学が進んでいなかった時代、人々が太陽を拝んだのは無理ないかも知れません。空に毎日、ギラギラ光る物体が浮かんでおり、時間の経過と共にそれが動き、やがて東の空から西に消えたかと思うと、また東から出てきます。どこを潜ってくるのか、と考えたと思います。地球が丸いなどとは、まさか思っていないので、真剣に太陽を拝んだのは当然かも知れません。また太陽がよく出るならば作物はとれますが、隠れたら作物はとれないので、太陽を神だと思って拝んだのです。
 ローマの人々は、長年十二月二十五日を、太陽再生の日として拝んで来ました。しかしローマ帝国がキリスト教を国教としたことにより、太陽を創られた神がおられることに人々は気づきました。天地宇宙を造られた神がおられるとわかりました。それで、十二月二十五日を太陽再生の日ではなく、太陽を作られた神を拝まなければならないと変わりました。その神がイエス様だとわかりましたので、十二月二十五日をイエス様の誕生日としたのです。
 そのような経緯で、クリスマスが定められました。それでは一月一日はどのようにして決められたかというと、もともと、日にちは連続しているので、どこで切っても良いはずです。それがこの十二月二十五日から八日後が、一月一日と決められたのは、聖書に基づいています。
 イエス様はお生まれになり、八日後に律法に基づき、「割礼」受けたと記されています。割礼とは、ユダヤ人男性が必ず行う儀式でした。ルカの福音書二章二十一節に、

八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

 八日後、イエス様は割礼を受け、この時から「イエス」という名で呼ばれるようになったとありますが、ユダヤ人の間では名前が付けられても実際に使われるようになるのが、割礼の日からでした。イエス様も「イエス」という名前がすでに与えられていましたが、生まれて八日間は使いませんでした。しかし八日目に割礼を受けた日、人々から、「イエス」と呼ばれるようになりました。
 一月一日はイエス様が生まれてから八日目に当たり、「割礼記念日」という意味合いで新年が制定されました。ヨーロッパに一月一日が定着するまで、何世紀もかかったそうです。私たちが知らずして「一月一日」と呼んでいる背景に、イエス様が「イエス」という名で呼び始められた記念日があるのです。日本人はイエス様のことをほとんど知りませんが、西暦によって一年をスタートしているのは、すなわち、イエス様という名前から一年がスタートしているのです。これは素晴らしいことです。人々は神社に行って拝んでいるかも知れませんが、一月一日は、「イエス」と呼ばれるようになった日なのです。クリスチャンがまず、一月一日が「主の日」であると宣言する必要があります。
 二〇〇三年一月一日はイエスの名前が呼ばれた記念日です。その日に教会に集まるのは素晴らしいことです。
 使徒の働き四章十二節に、

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 これは力強い言葉です。今年の名古屋ミッションのテーマは、「この名の他に救いはない」です。人々は救われるために色々な名前を呼んでいます。日本は八百万の神々で、八百万くらい名前があるようです。多くの人が神社に礼拝に行きますが、神社に行くと一つ一つ背後にある名前がちがいます。日本人の考え方の中に、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」というのがありますが、神の名を呼ぶにはそれではいけません。聖書の中で神に通じる法則は、ただ一つだけです。「イエス様」と呼べば、神の元に祈りが届きます。他の名前を呼んではいけないのです。他の名前を呼ぶと、神には通じず、神のふりをした悪霊が祈りを受け取るのです。だから他の名前を使ってはいけません。今日初めて教会に来られた方がおられるかも知れませが、今年、祈り心がわいてきたら、一つの名前だけを使ってください。それは「イエス・キリスト」です。祈りたいと思うときは、誰にでもあると思います。しかし、誰を呼べば良いかわかりません。しかしその時にこそ、「イエス様」と呼べば、祈は神のところに届きます。ヨハネの福音書十四章十三節から十四節に、

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

0B0j0_0L0_0L0
Uあなたがたが、わたし_」によっ_さかをわたし_あめるなら、わたしはそれをしましょう
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

と書かれています。イエス様の名前で祈ることです。その時に、父なる神様はあなたの祈りを受け取り、答えてくださいます。これが本物の神様に祈りを聞いていただく法則です。
 そしてイエス様を私たちが受け入れるならば、どのような特権が与えられるのでしょうか。ヨハネの福音書一章十二節に、

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

と書かれています。イエス様を信じるならば、あなたは神の子どもです。神の子どもとは、法律的に養子縁組されている関係です。自分の父親が財産を持っていたら、子どもは財産を相続する権利があります。神の子どもは、神の資産を相続する権利があるのです。皆さんは天地宇宙を造った神の子どもであり、その資産を共有する特権があると教えています。イエス様の資産を共有できるという特権をぜひ使ってください。多くのクリリスチャンが、そのような特権がありながらなかなか神の資産を共有していない、悲しい現実があります。
 今年は大変な社会になると思います。経済はかなり悪くなるのではないかと予想されます。今までにないほどの困難が予想されます。日本が大きく混乱するかも知れません。「日本は悪くなったけど、どん底までは行かないだろう」という、へんな安心感があります。しかし、それさえも打ち砕かれるような状況が起こってくるかも知れません。なぜならば、神は日本を愛されているので、日本を神の手に取り戻すために、そのようなことを許されるのかも知れません。
 日本の偶像礼拝は、経済の世界と密接な関わりがあります。したがって、日本において霊的戦いが前進すればするほど、暗闇の力が打ち破られている証拠が現わされるのが、経済界かも知れません。人々が今まで拝んでいた神々には、何の力もなかったと認識し、今まで拝んでいた神々と離れ、真の神を求めるためにはさけては通れない道かも知れません。そんなわけで、もしかしたら、今年はかなり大きな混乱があるかも知れません。
 しかし神は、そのような中でも、神の子ども達を支えられるという、法則を用意されています。それは、神の子は資産を受け継ぐ存在だからです。私たちは、世の支配下ではなく、その権威の上に立ったものです。混乱があるかも知れませんが、必ず、神は皆さんを助けてくださると信じます。ですから、どのような時代が来ようとも、私たちは神の子であり、混乱の中でも神は助けてくださるという、信仰を持つべきです。
 それとともに、私たちは更に、神との関係において、高められなければなりません。雅也先生が語った、「低くされ、高められる」というのは、まさに「準備」です。日本は低くされ、今までの自信を失い、神を見いだし霊的な状況において高められるのです。今年、イエス様に基礎をおいて始めていくときに、私たちは、どのような時代が来ても揺り動かされず、人生を歩むことができると信じます。
 特に、私が今年語っていただいた御言葉は、イエス・キリストを土台としたところから、豊かな水の流れるということです。主題の御言葉は、エゼキエル書四十七章です。昨日、私は皇居にとりなしに行きました。朝、起きて何気なく賛美していました。それは、「すべてが生きる」という賛美でした。その前の日に、二十キロくらい歩いたので「今日は歩けるかなあ」と思いながら、賛美をし、聖書を読んでから一日を始めようと聖書を開きました。「すべてが生きる」と賛美しながら聖書を見ると、手元にはエゼキエル書四十七章が開かれているではありませんか。私は驚きました。そのような中で、主が私の心に強い印象を与えてくださいました。それが九節から十節と十二節です。

この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。

 十節に、「魚は・・・非常に多くなる。」とありますが、今年神が、新城教会に、救われる魂を多く与えてくださると信じました。
 また十二節には、

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 ここから「毎月、新しい実をつける」という言葉が与えられました。この年、毎月、新しい実を実らせてくださるのです。昨年も、救われる魂を与えてくださいましたが、今年はさらに、「毎月」新しい実をつけると主が語ってくださいました。
 「実は食物となり、その葉は薬となる」と書かれています。神が魂を救ってくださることが私たちの食物となり、また「その葉は薬となる」、神はここに癒しのわざや奇跡のわざの実を実らせてくださいます。この御言葉は、主が、私だけではなく、皆さんにも語ってくださっていると信じます。
 「あなた自身」という木が生長し、葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実が実り、その実は食物となり、薬となるという原則は、色々な領域に適応されると思います。一年間の経済的なことにおいても、健康の面においても、霊的にも、精神的にも、あなたは決して枯れることがなく、成長すると主が語ってくださっていると信じます。イエス様に基礎をおいて生活すると、そこから生ける水の川が流れます。
 人々は、色々なところから水を引き出そうとします。しかし、どこからも生ける水を引き出すことはできません。地位、名誉、学歴、友人関係、異性、宗教などに水源を求めても、本当の意味で私たちの乾きをいやすことはできません。しかしイエス様が、私たちに水を与えてくださいます。
 ヨハネの福音書七章三十八節から三十九節に、

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と書かれています。この言葉が語られたのは、イエス様が十字架にかかられる前でした。十字架にかかって復活してからは、「信じる者には生ける水の川・聖霊の水が流れるようになる」という約束でした。私たちはイエス様が十字架にかかられ、三日目によみがえってくださり、救いが完成した時代に住んでいます。ということは、信じる者には、心の奥底から生ける水の川が流れるのです。エゼキエルは幻の中で、後に起こる状況を見せていただいたのです。エゼキエル書四十七章一節に、

彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。

と書かれています。エゼキエルはやがて、イエス・キリストに基礎を置く人々の下から、生ける水の川が流れ出る幻を示されました。それが、イエス様の十字架と復活によって現実となりました。聖霊様の働きは、下流に行けば行くほど深くなります。エゼキエル書四十七章を見ると、エゼキエルは、下流に降りていけば行くほど、くるぶしでもなく、膝まででもなく、腰でもなく、泳げるほどに深く広くなった川を見せられました。そして両岸には、木が茂っており、その実は絶えることなく、葉は枯れることはないという光景を見せられたのです。私たちの中に、既に、聖霊の働きが始まっています。しかし、これは途中でとどまるものではなく、更に広く、深く、早く、流れるようになると主が語ってくださっていると信じます。あなたの中に、すでに御霊の川が流れています。それは、今年、更に深く広くなります。ですから、皆さんは準備してくださいというのが主からのメッセージであると信じます。
 同時に、ここには、もう一つ学ぶことがあります。エゼキエル書四十七章十七節から見ると、これはイスラエルに与えられる領土について書かれている箇所です。

その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る

 ここには、与えられる領土の「境界線」について書かれています。北、南、東、西の境界線は、いずれも海や川という「水」で仕切られています。地理的にも、水で仕切られた区域があなたがたの領土となる、と主は語られたのです。これは「現実の世界」のことです。しかし、神殿から水が流れているのは「霊的世界」について語っています。
 これはある意味で、「見えない世界と、見える世界がつながっている」ことを教えていると思います。神殿の床から水が流れているのは、霊的な流れです。それと共に、領土は水で囲まれているところに位置するのです。
 さて日本においてサタンがもっとも強力に握っている領域はどこでしょうか。それは、「水の領域」かも知れません。水に関する偶像礼拝は至る所にあります。黙示録十二章十五節に、

ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。

とあります。「彼女」とは「クリスチャン」であり「教会」です。蛇が口から、川のように水を流し、「クリスチャンであり、教会を押し流そうとした」のです。
 色々な神社に行くと、手を洗う場所があります。そこでは蛇や竜の口から水が出ています。また、水源地に行くと、ほとんど偶像があります。人間にとって、どうしても必要な水が、蛇の手に握られています。自然界における状況が握られることによって、何が起こるかというと、見えない領域である聖霊の川の流れが止められるのです。
 私たちは今年、更に、地域のとりなしに出て行く必要があります。日本においては水の流れ、川を神体として偶像礼拝しています。天竜川にしても、木曽川、豊川も蛇行していますが、それを蛇と見立てて人々は礼拝をしています。それにより、一番大切な水の源を悪魔に握られているのです。大切な水は、御霊の飲み物ではなく、悪霊の飲み物にされています。ゆえに、霊的な世界においても、御霊の流れの源を握られ、神殿から聖霊の水が流れ出ないような状況があるのです。だから、それを勝ち取るためには、地域のとりなしを強力に進める必要があるのです。とりなしの祈りと共に、水の源が解放され、やがて偉大なリバイバルが起こってくるのです。ぜひ、これから、自分の住んでいる地域のためにとりなして祈ってください。それは見える領域のために祈ることかも知れません。しかしその背後に、見えない霊的な世界が関わっているのです。今年は聖霊の川が勢いよく流れ、毎日、毎月、新しい実を結び、その葉は枯れないという御わざを見ることができるよう祈りましょう。
 そもそも「正月」、「元旦」という用語は宗教用語であり、年神を祭るという意味です。しかし、私たちにとっての新年はそうではなく、イエス様を中心とした土台から、「生ける水が流れ出る日」なのです。

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 あなたがその流れの原点となりますように。今年は、聖霊の流れが更に深く広く流れますように。皆さんは神の子どもです。今年は聖霊の流れが豊かに流れますように。二〇〇三年は イエス様の年であることを宣言します。
 この年に、神のいける水の川が、私たちのただ中から 家庭、地域、教会、全日本に、全世界に流れ出ることをイエス様の御名によって、宣言します。この年は主の年です。ハレルヤ!!
バックナンバー

戻る
戻る