今週の礼拝メッセージ
2003.1.5(SUN)
しあわせの中に住もう
新城教会 滝元 順 牧師

旧約聖書 詩篇25章12節〜15節
主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

 ハレルヤ!新年、あけましておめでとうございます。こうして皆さんとともに、今年も、御言葉を学ぶことができ感謝します。暮れから今日に至るまで、教会は忙しく、多くのプログラムがありましたが、皆さんのご協力により、大変素晴らしい集会を持つことができて感謝します。特に、24時間PPHは、多くの方が集まられ、共に、二十四時間連続で主を賛美することができました。今年、主が何らかのことをしてくださると期待します。今年は、「名古屋リバイバルミッション」がある年ですので、期待しています。年の始めにあたり、神の前に出て、御言葉をつかんで進んでいくことは大切です。
 私が今年、与えられている言葉は、「すべてのものが生きる」という、エゼキエル書四十七章の御言葉です。聖霊の川の畔に植えられているものすべてが生きていく、今まで生かされていなかったところにも聖霊の水が流れ込み、生かされるということです。
 それとともに、今日は、皆さんと、「幸せの中に住もう!」というタイトルで学びたいと思います。誰でも、幸せになりたいと願っています。時々、「幸せ村」と名付けられた場所がありますが、名前は幸せ村と言っても、なかなか幸せは来ないのです。しかし、聖書は、どのようにしたら幸せの中に住み続けることができるかについて教えています。聖書の御言葉は、神の言葉ですので、それに従ったら幸せに過ごすことができるのです。

『主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。』

 この御言葉の中に、幸せの中に住む秘訣が記されています。特に、そのキーワードは「主を恐れる人」です。主を恐れる人になるならば、幸せの中に住むことができるのです。
 最近はコンピュータが普及し、聖書の御言葉も一つのキーワードを入力すると、それに関連する言葉がすべて出てきます。「主を恐れる」というキーワードを入れると、素晴らしい御言葉が次から次へと出てきます。その一部を紹介しますと、詩篇三十四篇七節に、

『主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』

 皆さん、「主の使い」が私たちとともに行動していることをご存じですか。案外、多くの人が悪霊を恐れますが、主の使い、天の軍勢が私たちの周りに陣を張っていることを意識していません。霊的戦いが始まってから、悪霊についてよりも「更に強く」教えられたのが、「天の軍勢の働き」です。主の軍勢が、私たちと共に働いています。主を恐れる者たちの周りには、陣を張って守ります。VIPの周りをSPがガードして守っているように、主を恐れる者には、天の軍勢が派遣されて守ります。今年、主が、皆さんに、天の軍勢を派遣して守ります。私は、「祈ってください」と言われるときには、必ず、忘れずに祈ることがあります。それが、「天の軍勢を割り当ててください」という祈りです。最強の天の軍勢が割り当てられるようにと祈ります。悪魔は、天の軍勢のイメージを弱めて、悪くしています。天使を蝶々の親戚のようにして、イメージを弱めています。しかし実際は違います。主の使いは、戦いの勇士であり、強い軍隊です。それがあなたの周りに派遣されるのです。「主を恐れる者」の周りに、派遣されるのです。また、詩篇三十四篇九節には、

『主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。』

と書かれています。今年、「経済的に大丈夫かなあ」と心配されている方もおられるかも知れませんが、主を恐れていれば「乏しいことはない」と約束されています。
 また詩篇一一一編十節に、

『主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。』

と書かれています。間もなく受験シーズンが来ますが、主を恐れる者には「神が知恵を授けて」くださるのです。主を恐れる人生であれば、神はその時、その時に、必要な知恵を与えてくださいます。学生にとってテストは、勉強も必要ですが、ある意味で時の運です。神が知恵を与えてくださらなければ、受かりません。
 私は大学生の時に、この御言葉の祝福をいただいたことがあります。ある時、教会の奉仕で迷っていました。神を第一にしようか、明日は試験だから勉強すべきか、と選択を迫れられたことがありました。翌日は、物理の試験があったのです。その試験はとても難しい試験で、受からないと卒業できないし、最初の試験で通る人はほとんどいないというのです。物理の先生は、「追試料金で家を建てた」といういような噂が立つほどの人でした。はじめから、受かる見込みは、ほとんどありませんでした。だから、私もあきらめていました。しかし単位を取らないと卒業できません。私はその時、主の働きを選び、そして、祈りました。「主よ。私はあなたを第一にしましたので、知恵を与えてください。知恵と言っても、いまさら難しいので、一つだけでいいので、出題される問題を教えてください・・・。」
 私は、一時間程かけて、一つの問題だけを暗記して、翌日、テストに臨みました。答案用紙が配られたとたん、「ハレルヤ!」と飛び上がりたくなるような心境でした。なぜなら、テストの問題は、私が覚えた問題ただ一問だけでした。その試験は、二百人中、三名しか受かりませんでした。もちろん、その一人が私でした。主を恐れ、主の知恵を求めてみてください。
 また、箴言十九章二十三節に、

『主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。』

と書かれています。主を恐れていれば、わざわいに遭わないと約束されています。「去年はわざわいに多く出会った」と言われる方は、ぜひ、主を恐れる生活をしていただきたいと願います。
 そして、主を恐れる人とは誰か、主はその人に「選べき道を教える」と告げています。「どちらにしようか?」と人生の中で、なかなか決断できないときがあります。しかし主を恐れる時に、「これが道だ!これに歩め」という、選択を主が与えてくださいます。そして、「幸せの中に住み」、「子孫は地を受け継ぐ」。また、主ご自身、主を恐れるものと「親しくされ」「ご自分の契約を、彼らにお知らせになる」足が網に掛からないように、「罠から守ってくださる」と約束されています。良いことづくめです。

 さて、「主を恐れる」とは何でしょうか。主を「恐い」、「おそろしゃ!」と怖がることではありません。「主を恐れる」とは、まず第一に、イエス・キリストを信じることです。それと共に、主を恐れるとは、「神との関係」なのです。
 聖書を解くと、神から祝福を受けた人、御言葉が人生に実現した人には、一つのキーワードが付いています。それは「主のしもべ」、「神のしもべ」というキーワードです。主のしもべアブラハム、モーセ、主のしもべヨシュア、イザヤ、エレミヤ、ダビデ、そして、パウロなど、皆、同じタイトルが付いています。しあわせの中に住む、神のとの関係の秘訣は、私たちが、「主のしもべ」となることです。
 「しもべ」とは、どのような意味でしょうか。「しもべ」を辞書で調べると、「雇われて雑用する者」とありました。私たちが神の雇われ人となり、神の手となり、足となり働く者とさせていただきたいと願います。今年も、一年間、神があなたに、「このようにしなさい」と言われることがあれば、「はい」と言って従い歩むのが、主のしもべの姿です。
 「しもべ」と言っても、日本ではなかなかわかりませんが、インドネシアに行くと、お金持ちの家は必ず使用人、「しもべ」を雇っています。しもべは主人に忠実に仕えます。しもべが仕えるゆえに、主人も、しもべの面倒をよく見ます。
 私は一度、インドネシアの中国人の造船会社の御曹司のところに泊まったことがあります。その人の家に行くと、博物館かと思うような立派な家でした。そこには大勢の召使いがいて、入るときに「よくいらっしゃいました」と挨拶され、朝、昼、晩の食事は、すべて、しもべたちが作ります。その家には、三人の可愛い女の子たちがいて、朝昼晩、三回お召し替えがあります。それもお揃いの服で出てきます。また洗濯など、主人や奥様は決してやりません。私が、「すみません。洗濯機を貸してください」と言うと、「あなたはやらないでください。しもべたちがやりますから」と言われました。「下着もあるのですが」と言うと、「自由に出してください。」と言われ、出したら翌日、ユニーで買ってきた安物のパンツまできれいにのり付けされ、アイロンがピシッとかけられて戻って来ました。「バナナが食べたい」と言うと、インドネシアで一番おいしいバナナは、「ラジャ・バナナ」と言いますが、二、三本来るのではなく、次の日、しもべたちにバナナが枝ごと担がれてきました。しもべたちがいると、何でもやってもらえるという、素晴らしい生活を味わったことがあります。
 けれども、主人は、そのようなしもべたちの為に、家をつくって住まわせ、食事を与え、すべての必要を供給します。だから彼らは主人に真剣に仕えます。
 神と人間という関係は、基本的には、創造者対被造物という関係です。人間が物を造るときに、「人間のため」に造るのと同じように、神が人間を造ったのは、「神のために造った」わけで、神の前に人は、「しもべ」という関係にあるのです。そうするならば、神は全てのものをあなたに供給します。究極的には、あなたの人生は神のためであり、神のために生きるのです。「私の人生は私のため」と言わないでください。「私の人生は、主よ。あなたのためです」という生き方をすれば、幸せの中に住むことができます。
 同時に、しもべは、主人の嫌がることを、避けなければなりません。
 箴言八章十三節に、

『主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。』

と書かれています。神は「善なる方」です。「善」の反対は「悪」です。善なる方は悪を憎まれます。私たちしもべも、善なる方が嫌がる「悪を憎む」ものにならなくてはなりません。悪を憎む者になりましょう。悪は好き、と言われる方はいないと思います。世界中で、「悪が好きですか」と聞かれて、「悪が好き」言う人はいないでしょう。皆、善を求めていながら、人生に起こってくる出来事は、悪に関する領域が多いのです。主人が最も嫌われる悪について、聖書は教えています。エゼキエル書二十三章二十八節から三十節に、

『神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたが憎む者の手、あなたの心が離れ去った者の手に、あなたを渡す。彼らは憎しみをもってあなたを罰し、あなたの勤労の実をことごとく奪い取り、あなたをまる裸にして捨て去ろう。あなたの淫行と淫乱と売淫の恥はあばかれる。これらのことがなされるのは、あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである。』

 ここに、幸せの中に住むことができない理由が、二つ記されています。

『あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである。』

 多くの人が幸せに生きられないのは、基本的には、「性的な罪」と「偶像礼拝」のゆえです。日本は、「偶像礼拝」と「性的な罪」に満ちあふれています。これが神から捨て去られる、幸せに生きることができない大きな理由です。マスコミが何と言おうと、雑誌が何と言おうと、そのような罪に陥らないよう注意し、戦っていくべきです。なぜなら、悪魔は真剣に、性的な汚れを持ってこようとします。それを餌にして、人を幸せの中から引きずり出し、人生の中に不幸を持ち込む入り口にするからです。だからその手口に、絶対に引っかかってはいけません。どんなに誘惑されても、不品行の罪に誘惑されてはいけません。「結婚前に肉体関係は普通だ」と言われても、「ノー」と言わなければなりません。また「不倫や浮気も、普通のことだ」と言われても、「ノー」と言わなければなりません。なぜならば、それが幸せの中に住めない大きな理由だからです。
 それと共に、偶像礼拝も同じです。偶像礼拝と不品行の罪は、同じ土台です。なぜならそれらは同様に、「契約書が生じる罪」だからです。これは、神に対する罪だけではなく、悪霊との契約ができるからです。それらの罪に手を出すことは、悪魔に、「人生に関わって良い」という契約書を発行するものだからです。
 だから不品行、姦淫、偶像礼拝から離れなければなりません。神を恐れることは、悪を憎むこと、悪を憎むことは、神との関係、しもべという条件を満たすことであり、それが、幸せに生きる条件です。今年、この事柄を心に留め、悪を憎み、偶像礼拝と性的な罪に真っ向から戦って行きましょう。そうすれば、必ず、皆さんは幸せな人生を歩むことができます。その結果、何のわざわいもなく、乏しいこともなく、選ぶ道が与えられるという祝福を得ることができます。

 さて、神との関係は、ただ、「主人対しもべ」という関係だけで終始していません。旧約聖書は、主人対しもべという関係が中心に記されています。しかしそれが、イエス様によって、関係が前進しています。それがどの様に前進したのでしょうか。イエス様が行われたことに着目するならば、「弟子たちを選ばれた」ことです。マルコの福音書三章十六節から十九節に、

『こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。』

と書かれています。「十二弟子の歌」があります。みんなで歌いましょう。

「ペテロとアンデレヤコブとヨハネ、ピリポとトマスとマタイたち
ヤコブとタダイ、シモンとユダ バルトロマイが12弟子
弟子たちはイエス様のお手伝いをしたのです 僕たちもイエス様のお手伝いを致しましょう」
 
 私たちは、ただのしもべではなく、イエス様との関係の中で、「弟子となる」のです。イエス様の弟子という関係に入るならば、人生は祝福されるのです。
 そもそも、弟子とは何でしょう。「弟子」とは、ラテン語で「学ぶ者」という意味があります。辞書を調べると、「師匠・先生について、その専門の手ほどきを受け、修行につとめる人」となっています。イエス様という師匠につき、私たちはあることについて、専門的な手ほどきを受けるのです。イエス様が十二弟子を選び、彼らに専門的な訓練を施しました。どのような訓練を施したかご存じですか。
 マルコの福音書三章十三節から十五節に理由が書かれています。

『 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

また、マタイの十章一節に、

『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』

と書かれています。イエス様の弟子となるとは、どのような専門的な手ほどきを受けるのでしょうか。それは、「福音を宣べ伝え、悪霊を追い出す権威」についてです。
 私たちが幸せの中に生きるためには、イエス様の弟子となることです。イエス様から、何を訓練されるべきでしょうか。その中心は、「悪霊を追い出す」手ほどきです。そもそも、私たちに不幸をもたらす根本的な原因は、「悪魔、悪霊たち」にあるのです。これに対抗できる術をイエス様から手ほどきしていただかないと、人生は惨めです。イエス様の弟子として弟子入りすると、悪霊を追い出す権威を与えてくださるのです。
 今年、イエス様の弟子となり、悪霊を追い出す権威を受け取ってください。これは、誰にでも与えられるものです。イエス様は、天に帰られる時、弟子たちに、一つのことを託されました。マタイ二十八章十九節から二十節に、

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 イエス様は、十二人を訓練しました。その後で、「あなたがたが行って、他の人たちを弟子にするように」と言われました。イエス様から訓練を受けた弟子たちは、悪霊に対抗する権威を授かりました。そして、今度は、「受けた者は他の人に与えなさい。」それも、「全世界の人に与えなさい」と語られました。私たちが、イエス様の弟子という関係に入ると、悪霊を追い出す権威を授かります。そうしたら、敵と戦う力があるので、「あなたは決して負けることはない」ということです。イエス様の弟子として、権威をいただき、押し寄せるすべての敵を征することができるように祈りましょう。
 また教会が、すべての敵の力を征する権威に満たされる教会となるよう、全員がイエス様に弟子入りしましょう。
 通常、弟子は師匠と同じくらいになれれば良いのです。しかし、イエス様はこのように言われました。ヨハネの福音書十四章十二節に、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。』

 なんと、弟子たちが、「師匠以上のことができる」のです。「弟子となれば、イエス様よりもすごい権威を与えますから、弟子入りしてください」ということです。「しもべ」であれば主人に百パーセント仕える奴隷のような感じですが、弟子は違います。師匠から、その技術を伝授されるのです。

 しかし、「主を恐れる最大の意義」が、まだ聖書の中に隠されています。それは何でしょうか。
 詩篇二十五章十四節に、

『主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。』

 師匠が来たら、弟子は、「恐ろしい」という感じですが、神様とあなたが親しい関係に入ることができるというのです。あなたに、お友だちがいると思いますが、親しい友だちがいたら、恐いということはありません。正月は地方に出て行った友だちが帰ってきて、お互いに会うことがとても嬉しく、楽しいのです。若い人たちはとてもそれを楽しみにしています。
 同様に、「神を恐れる」とは、イエス様が十字架にかかられ、復活された以降は、「神との親しい間柄」にまで発展させてくださったのです。親しい者には、ご自身の契約を彼らにお知らせになるというのです。これを新共同訳聖書で見ると、詩篇二十五章十四節は、

『主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。』

 「契約の奥義を悟らせてくださる」と約束されています。私たちが、神との関係の中で目指すべきゴールがここにあります。ただ、しもべとしての姿ではなく、弟子というのではなく、「神との親しい間柄」になれるのです。
 イエス様は十字架にかかられる前に、最も重要なことについて教えられました。ヨハネの福音書十五章十四節から十五節に、

『わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』

 イエス様は、弟子たちを、師匠と弟子という関係ではなく、「友」と呼んでくださったのです。あなたにとって、イエス様はどのような存在ですか。「私の友だちです」と言えるならば、素晴らしいです。「イエス様は、私の一番親しい友人だ」という関係に入れたら素晴らしいです。そのとき、「契約の奥義」、「すべてをあなたに知らせる」というのです。
 主が告げられる、「すべて」の中に、「良きもの」が含まれています。このように、「主を恐れる」という中に、「神があなたと友人関係を築く」という、計画がありました。
 ヨハネ十五章十三節から十七節に、

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』

と語られています。最終的に、「主を恐れる」条件を、イエス様が一つにまとめられました。それが、「互いに愛し合う」ということです。互いに愛し合うことは、何かのついでにくらいにしか考えない場合がありますが、「互いに愛し合うこと」、「誰かに憎しみを持たないこと」、「愛を持って接していくこと」、それは、「主を恐れる」ことに集約され、イエス様があなたの「友だち」になってくださるのです。
 今年一年間、イエス様との友だち関係に入ることができるならば、幸せに生きることができます。そこで必要なのが、「互いに愛し合う」ことです。互いに愛し合うときに、イエス様とも、愛し合う関係に入ることができる、友となることができる、結果として、「あなたは幸せの中に住む」ことができるのです。
 アモス書三章七節に、

『まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。』

とあります。「友人には、すべてのことを告げる」とイエス様は語られました。今の時代は不確定要素が多い時代です。しかし私たちが、イエス様と友人関係になれば、イエス様はあなたに何も言わずに事を行われることはない、将来についてあなたは知ることができないかも知れませんが、「あなたにすべてのことを教える」と言われました。
 「突然、あなたに悪いことが起こることは決してありません。あなたに逃れる道も教えてあげるし、どんな不確定な道でも、その中で選ぶべき道を示してあげる、だからあなたは私と親しい関係になりませんか」とイエス様は語られます。
 今日、私たちはもう一度、「主を恐れる」ことに関して、「神との関係」について考え、「今、神と私は、どのような関係にあるのだろうか」と考えていきたいと願います。
 私は、神のしもべだろうか、弟子であろうか、いや、友だちであろうか・・、よく考える必要があります。今日は午後から、県民の森祈祷会があります。これは個人的に時間をとって祈る時間です。昨日も、県民の森に祈りに行きました。二時間くらい独りでイエス様の前に祈ります。ぜひ祈りに行ってください。まず、「イエス様が私のお友だちです」という立場でお交わりをしてみてください。そうしたら、あなたを、「幸せの中に生きる者」としてくださいます。毎日の祈りの中でも、イエス様を友だちと呼び、神との親しい関係の中で祈りができたら素晴らしいです。そのためには、「互いに愛し合いなさい」と言われます。互いに愛し合い、素晴らしい幸せの中に生きる者となることを願います。一言祈ります。
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