今週の礼拝メッセージ
2003.1.12(SUN)
私たちは神の宮です!
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 エペソ人への手紙2章14節〜22節
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 ハレルヤ!お早うございます。今朝、多くの方が風邪を引いているかも知れませんが、昨日は教会で風邪をもたらす背後に悪霊が存在したらそれらが砕かれ、風邪をひいている方々が癒されるよう、特別にとりなしの祈りをしました。先週はリバイバル聖書神学校がありましたが、生徒の三分の一くらいが風邪を引いていました。私は、風邪菌に支配されそうな教室で講義をしました。そうしたら、私の娘もインフルエンザにかかり、彼女の部屋も風邪菌に支配されているような感じでした。私は、「これで風邪を引かなかったら、主の助けだ」と思いました。今日、健康が守られていることを感謝します。今年は、お互い、健康に過ごせるように祈っていきたいと思います。
 今日、学びたい主題は、「私たちは神の宮」ということです。私たち自身が神の宮です。今お読みした箇所では、イエス様がこの地上に来た目的について教えています。
 実は、「救い」とは、はじめ、ユダヤ人に与えられました。今でもユダヤ人は、「選民意識」を持っています。ユダヤ教の人たちは、「救われるのは、人類は多くてもユダヤ人だけだ」と信じています。現実に旧約聖書を読むと、救いはユダヤ人だけに、もたらされているものであるかのように感じます。ユダヤ人から見れば、私たちは「異邦人」です。昔、久保田早紀という歌手が「異邦人」という歌を歌い、大ヒットしましたが、彼女は今クリスチャンになっています。
 「異邦人」とは、「救われない人」という意味があります。しかし、異邦人が救われるようになったのは、イエス様のおかげです。私たちが救われたのは、イエス様が地上に来てくださったからです。しかし、イエス様がこの地上に来られたのは、はじめはユダヤ人の中に来られました。
 マタイの十五章を見ると、「イエス様は何と冷たい方であろうか」と、勘違いしてしまうような箇所があります。十五章二十一節からに、

『それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。』

 この記事どう思われますか。イエス様の所にカナン人の女がやって来ました。カナン人はユダヤ人の中に住んでいましたが、「異邦人」でした。ユダヤ人ではありませんでした。彼女は悪霊に苦しめられていました。イエス様が、悪霊から解放して下さる方だと知って、「イエス様、うちの娘が悪霊につかれているのです。助けてください」と言うと、イエス様は、「知らない。」と言われました。何とも冷たい態度です。
 しかし、この箇所は色々な意味を含んでいます。イエス様が、初めに遣わされたのは、「ユダヤ人のため」であったのです。イエス様は、そのような使命を持っていたのです。
 このとき、何とイエス様は、「子どものパンを取り上げて子犬にやるのは良くない」と、異邦人を差別するような言葉を語りました。しかし、このような中にも、神の預言的な意味を含んでいます。
 カナンの女は、ここで「何とひどいことを言うのだ。」とは言わずに、哀れみを求めて食い下がりました。「子犬でも、食卓から落ちるパンくずはいただきます。私を哀れんでください」と食い下がりました。その時にイエス様は感動され、子どもを悪霊から解放されました。
 これは、やがて、異邦人にも福音が宣べ伝えられるようになるという預言的メッセージでした。ユダヤ人は、異邦人をばかにしているが、やがてその救いが、異邦人にも届くようになる。そして、叫び求める者に対して、神様は決して無視されないということを現しているのです。また、神はクリスチャンには手を差し伸べますが、外の人には冷たいのではありません。どのような人でも、イエス様を叫び求める人には、必ず、神は報いてくださるという事柄を示しているのです。
 この箇所だけ読んで終わってしまうと、「何とイエス様は冷たい人なのだろうか」と思います。しかし、聖書には、旧約聖書から新約聖書まで、全体を通して導き出される結論があります。ですから、全体から理解しなければなりません。
 そして、今、皆さんで読んだ、「エペソ二章十四節から二十四節」を見ると、イエス様がユダヤ人たちだけの為に来られたのではないことがわかります。イエス様が十字架にかかられて、死なれたのには、どのような意味があるのでしょうか。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし』

と書かれています。今まで救いは、ユダヤ人のためであり、カナンの女のような異邦人には救いが及ばないという壁があったけど、イエス様が十字架にかかられ、死なれた復活されたことにより、その隔ての壁が打ち砕かれ、ユダヤ人、異邦人という区別は関係がない、国籍も関係がない、神にあって一つになったのです。そこに、結論が行きついています。今日、この中に神から差別される人は一人もいないのです。
 社会には差別があります。「差別は悪い」と言いながら、人間は互いに差別しています。差別は大きな社会問題ですが、イエス様こそ、二つのものを一つにする平和のシンボルです。その真ん中には十字架があります。
 私たちの教会の中心には、大きな十字架が立っています。これには、どのような意味があるのでしょうか。それは、「この教会には差別はない」という意味が含まれています。ある人がこの十字架を見て、「大きな十字架ですね。迫害があったら、牧師がここにかけられるではないですか」と言われました。冗談ではありません。これは、イエス様が隔ての壁を打ち砕いてくださったシンボルです。
 壁が砕かれた最終的な目的は、エペソ人への手紙二章二十一節から二十二節に、

『この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』

と語られています。何と、最終的な神の目的は、壁を崩して、スエスを信じる者たちを一つのキリストのからだに属させ、「神の宮」を建てるためなのです。私たちは、神が共に住まわれる「神の宮」となるために、イエス様はこの地上に来てくださいました。私たちは、「神の宮」になるのです。
 今日は、このことについて、皆さんと共に学んでいきます。さて、イエス様が隔ての壁を崩してくださった事柄の中に、旧約聖書と新約聖書との間にあった壁も含まれます。ゆえに、「旧約聖書に記されている神の宮は、新約聖書の神の宮の概念に重なる」のです。旧約聖書、列王記や歴代誌を見るとソロモン時代に、荘厳な神の宮が建てられた様子が記されています。神の宮が建てられたときに、神は素晴らしい栄光を現わされたことが記されています。しかしそこには、隔ての壁がありました。「あれはユダヤ人の中に起こされたことだ、異邦人には関係ない・・」
 けれども、イエス様が十字架にかかられたことによって、隔ての壁が砕かれ、旧約聖書の栄光は、私たちのための栄光となったのです。
 では、ソロモンが二十年かけて建てた神の宮とは、どのようなものであったのでしょうか。そして、そこに記されていることは、私たちの人生に起こる、という理解です。
 歴代誌第二五章十三節から十四節に、

『ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。』

 これは神殿の奉献式において起ったことです。宮に集まり、人々が賛美したら、神の宮の中に白い煙が満ちたのです。これは、宮に煙が出る仕掛けがあったのではなく、神の強い臨在と栄光が現されたからです。すべてがかすんで見えなくなるほど、主の栄光が宮に満ち溢れたのです。これは、歴史的に実際に起ったことですが、神の宮とは私たちです。今日私たちは、真剣に主を賛美しました。その時に、同じ事が起こっているのです。神の宮の中には、神の臨在と栄光の雲が沸き上がり、主がそこにおられるのです。今朝は、四元雅也先生が賛美リードされましたが、私も、主を心から賛美しました。そして、旧約聖書の神の宮の中で起こったことが、私たちにも起こされているのです。
 そのときソロモン王が国民を代表して祈った祈りは、素晴らしいものです。彼は霊的な目が開かれていた王でした。歴代誌第二六章十八節から二十節に、

『それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。』

という祈りでした。神殿の奉献式に、すごい神の臨在が現れました。そこにいた人たちは、「神様が宮の中に住んでいる!」とだれもが考えました。しかしソロモンは、そのようには考えませんでした。「神がこんな、ちっぽけな宮にすむはずがない」
 これはとても重要な理解です。日本人の考え方は、神社には「神様が社の中に住んでいる」と考えます。昨日、テレビを見ていたら、大勢の人が初詣に行く姿をレポートしていました。先日も、飯田線に乗っていたら、知らないおじさんが、知らない子どもたちに話していました。「あんたたち初詣に行くの?」「うん。行くよ。」「どこに行くの?」「豊川稲荷だよ。」「そうか。豊川稲荷は良い神社だ。」と言っていました。「そこさえ拝んでいたら幸せになれる。」と言って、おじさんは知らない子ども達にお年玉を渡していました。人々は、「神が神社の中に住む」と考えます。しかしそれは間違った考え方です。
 神は、天地宇宙を造られた方なので、社に住まわれるような方ではありません。ソロモンの時代、神の宮に煙がわき立つような臨在がありました。しかし、彼は理解していました。「神様は、こんなちっぽけな所には住まわれない」、そして彼は、六章二十節で、

『そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。』

 なぜ、神の栄光が現されたかというと、ここに理由があります。神がその中に住まわれているのではなく、宮には、「神の名前が置かれている」からなのです。神様は、ちっぽけな方ではないので、宮の中に住んでいるのではなく、そこに神の名が置かれているゆえに、宮での祈りは神のもとに届くのです。
 私たちも、「イエス様が内に住んでおられる」と言いますが、日本的に言うと、私たちの心の中に小型のキリスト像がはまっているかのように考えます。しかしそうではありません。私たちは「イエスという名前が付けられている」「神の宮」なのです。
 悪魔はこの法則をよく知っています。「イエス以外の名前を置く」のが、悪魔の策略です。多くの人が初詣に行きます。一つ一つの神社には、それぞれ祭神があり、神話上の神々が祀ってあります。けれども、神社に行って、「ここの祭神は何か」と気にして拝む人はあまりいません。何が祀ってあるのか知らないけど、ただ、鳥居をくぐって、「二拝二拍手一拝」などと書かれているから、その通りにします。
 ある人は、「日本人が何が祭られているのかわからず神社に行くのは、天地宇宙を造られたヤーウェの神を拝んでいるのだ」と言います。しかし、それは全くの間違いです。そこには大きな悪魔の仕掛けがあります。神社礼拝は恐ろしい偶像礼拝であり、悪霊礼拝です。なぜならば、そこには名前が置かれているからです。それはイエス様の名ではなく、神話上の神の名・悪霊の名が置かれているからです。この辺りの神社も、全部ある名前が置かれています。そこに行き、祭神については何も気にせずに頭を下げます。それは、ソロモンの建てた神の宮に、「主の名が置かれていたゆえに」主の御前に祈りが届いた原理の逆で、「悪霊の名が置かれている」ゆえに、祭神など意識しなくてもその場所で祈るならば、祈りは、「全て悪霊のところに行ってしまう」のです。悪魔は、旧約聖書の原則をよく知っています。日本人は全く祀られている神の名などに関心を持たず神社礼拝をしますが、実はそこには悪霊の名が置かれているゆえに、祈りが悪霊にわたってしまうのです。
 しかし私たちは、本物の神の宮であり、「イエス様の名前が付けられている」のです。今日、イエス・キリストを信じている方は、あなたには「イエス様の名前が付けられて」います。それゆえに、あなたの祈る祈りは、神の元に届くのです。
 日本も、イエス様の名によって祈るようになったら変わります。今週、新城教会ニュースが発行されました。私は毎回、巻頭言を書いていますが、私はそこに一つの策略を持って書いています。それは、教会ニュースの最後に「大きな声で祈りましょう」という部分です。
 今回は、「イエス様。私は二〇〇三年をイエス様と共に始めます。この一年、すべての危険から私をお守りください。イエス様の名前によってこの年を宣言します。アーメン」と書きました。新城市民が、「イエス様の名前」で祈るように、このようにしています。多くの新城市民が、新城教会ニュースを読んでいると思います。その人たちのほとんどが、日頃は悪霊の名前を呼んでいますが、イエス様の名前を呼ぶならば、祈りは本物の神に届きます。
 去年の十二月十五日のゴスペル・コンサートは素晴らしかったです。特に、アンコールの「ジーザス・コール」は素晴らしかったです。そこで私は、困ったことがあったら「ジーザス」と呼んでくださいと語りました。ある会社の従業員が大勢、そのコンサートに来られました。そして最近、仕事中に「ジーザス!」という声が聞こえるそうです。なぜならば、困ったときに彼らがそのように叫んでいるのです。その祈りは神のところに届きます。
 ソロモンが素晴らしい神殿を作ったので、神が祈りを聞いて下さったのではなく、神が「そこに神の名前を置くといわれた」ので、祈ったら祈りは聞かれたのです。
 旧約聖書の時代は、その、神殿が建っていた場所にしか名前が置かれていませんでした。ですから、そこに行かなくてはなりませんでした。しかし今の時代は、一人一人にイエスの名前が付けられている「神の宮」ですから、どこにおいても私たちはイエス様の名を叫び求めることができます。
 ソロモンが祈りを終えたときに、また、すごいことが起こりました。それは祈りに対する神の答えでした。歴代誌第二七章一節から三節に、

『ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。祭司たちは主の宮にはいることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。』

 ソロモンが祈った後に、火が下ったのです。私たちは神の宮です。私たちが祈っている祈りには、聖霊の火が下っています。火が下るのは、旧約聖書の時代だけで終わっていません。隔ての壁が打ち砕かれているので、私たちのところにも起こっているのです。そして、宮で祈る祈りの結果について書かれています。
第二歴代誌七章十一節から十四節に、

『こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 国が乱れてしまったときに、神の名が付けられている宮に来て祈るときに、十四節に、

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 神の宮で祈るならば、「その地」すなわち、「国」をいやしてくださるということです。今、日本には色々な問題があります。しかしそこから回復されるためには、イエスという名が付けられた「神の宮での祈り」が必要です。それは、あなたの祈りです。あなたにはイエス様の名前が付けられています。そしてあなたが、国の罪を悔い改め、祈ることにより、「わたしが親しく天から聞いて、彼ら(日本)の罪を赦し、彼ら(日本)をいやそう」と言われるのです。
 宮でささげる祈り、主の名が置かれている宮の祈りを通して、「国が回復する権威」が与えられているのです。私たちクリスチャンには、大きな責任が課せられています。その責任を果たさなくてはなりません。イエスの名前が付けられているものたちが祈るときに、その地は癒されるのです。神の宮にはそのような使命と機能があるのです。
 新約聖書、第一コリント六章十九節に、

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。』

と書かれています。イエス・キリストを信じている人は神の宮であり、聖霊の支配による神の所有物なのです。
 新約聖書には聖霊の働きについて、たくさんか書かれています。しかし、旧約聖書を見ると、聖霊の働きはあまり記されていません。しかしそのような中でも、記載されているところがあります。それが宮に関することです。歴代誌第一二十八章十一節から十二節に、

『ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、主の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、祭司とレビ人の組分けのこと、主の宮の奉仕のすべての仕事のこと、主の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。』

と書かれています。神の宮に神の栄光が現れたのは、彼らが一致して賛美したことにもありますが、それ以前に一つのことがありました。ソロモンの父、ダビデが神の宮を建てるように神から命令を受けていました。そして、御霊がその宮の設計図、仕様書を授けたと書かれています。その設計図と仕様書に基づき、ソロモンは寸分狂わない神の宮を建てあげました。設計図通り、仕様書通り、間違わないで作りました。それゆえに、神は栄光を現されました。
 神は、神の宮としての私たちにも、設計図と仕様書を持っておられるのです。そして、私たちが神の計画書と仕様書を受け取って行動するときに、神の宮が建てあがり神の栄光が現されるのです。
 今年も神はあなたに計画をお持ちです。あなたに対する設計図をお持ちです。それと同時に「仕様書」をお持ちです。「仕様書」とは何でしょうか。
 私は昔、建設業に携わっていました。私の専門は土木工学でした。設計図は線で現したものですが、工事のときには設計図と共に仕様書があります。設計図は線で表しますが、線で現すことのできない事柄は文字で現される仕様書があります。たとえば、コンクリートにも多くの種類があります。中に入れる石の大きさ、セメント量、水の量など全て違います。それらは言葉で表さなければなりません。その仕様書にしたがい、建物などを作っていくのです。そうでなけれ建物の強度がでません。神はあなたに対して設計図と仕様書をお持ちです。それは、聖霊様が私たちに示してくださるのです。それを受け取らなければなりません。神のみこころをつかんで歩んでいくときに、あなたが神の宮として用いられるのです。
 今年、皆さんが神から設計図と仕様書を受け取り、寸分狂わない神の宮を建てますように。私自身もそのようになれるように祈っています。ソロモンが建てた神殿は、実は、私たち教会を現しています。コリント人への手紙第一十二章十二節から十八節に、

『ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

 私たち一人一人は、キリストのからだの各器官です。建物でいうと、私たちはキリストという建物の各部材です。私たち一人一人に、神から使命が与えられています。教会には、あなたがいるべき場所があるのです。今日ここにこられている皆さんは、偶然、ここに来たというのではなく、全員が神の宮の部材であり、キリストのからだの各器官です。ですから、各器官は各器官の納まる場所にあってこそ機能を果たすのです。胃袋は胃袋の位置に納まっているからこそ、機能を果たします。胃袋が口から出たら、機能は果たされません。目が足の裏に付いていたらどこで見るのでしょうか。同じように、私たちは一人一人が各器官ですので、あなたにはあなたの役割が準備されており、細かな仕様書が添付されているのです。それが皆一つになるときに、キリストのからだが建て上げられ、旧約聖書に記されているような素晴らしい神のわざが教会の中に現されます。
 私たちは、リバイバルが日本に起こるように祈っています。今年、名古屋リバイバルミッションがありますが、私は、この二〇〇三年に期待しています。
 一九九二年に霊的戦いがはじまりました。その当時、色々、不思議なことが起こりました。しかし私には、あまり霊的体験がありません。何も霊的に感じません。「感じる人は良い」と思います。県民の森祈祷会で、賜物を受けましょうと言うと、「手の上にもらったことが分かる」と言われる方がいますが、私ははっきり見えたことがありません。
 しかし、ただ一度だけ、忘れられない体験があります。一九九二年七月三十一日、私は名古屋にいました。そこで私は、空に光り輝く十字架を見ました。私は目の錯覚かと思いましたが、違う場所にも、もう一度十字架を見ました。「名古屋で集会がある年に、リバイバルを起こす」という事を教えてくださったのかも知れません。リバイバルが起こったら、それに対応しなければなりません。そのためには、宮が機能していなければなりません。私たち一人一人が神の宮であり、神が備えてくださっている場所にはまるときに、神の宮は建つのです。神の栄光が現されるのです。
 今年一年間、神の宮としての機能が、私たちを通して果たされるようにお祈りしましょう。それは、成長し続ける建物であるとエペソ人への手紙には述べられています。
 私たちは、神の名、イエス様の名前が付けられた神の宮です。そしてそれは、「動く神の宮」です。ヨハネの福音書一章五節に、

『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』

と書かれています。ソロモンが神殿を建てる前に、神は「わたしは暗闇の中に住んでいる」と言われました。不思議な言葉です。それは、深い暗闇の中に神が住んでおられるという表現です。神の宮とは、暗闇の中で輝くものです。私たち一人一人は神の宮です。そして、私たちは暗闇で、神の宮の機能を果たさなければなりません。
 あなたには、イエスの名が付けられているので、どんな異教の宮の中に入っていっても、あなたが祈る祈りは、すべてイエス様の名を通して神に通じます。クリスチャンでない方々の真ん中に住んでいたとしても、あなたはそこで神の宮として光り輝くことができるのです。今年、神が私たちに語られていることは、一人一人が神の宮としての機能を持って、同時に、新城教会としての機能を合わせて、「暗闇の中に入っていき光を輝かせなさい」ということです。皆さんは神の宮ですので、会社の中で、まだイエス・キリストを信じていない人々の中で輝くのです。そこで神の宮の機能が現されます。神の臨在が現され、神が祈りに答えられ、神のわざが起こっていくのです。
 午後から「路地裏ウォーキング祈祷」というのがありますが、路地裏を歩いて祈ります。最近私はウォーキングにこっています。なぜ歩くようになったかというと、一つの理由があります。それは昨年、十二月十五日のコンサートの翌朝、寝ていると近所に救急車が来ました。私は、起きあがって救急車で運ばれる人が癒されるように、救われるようにと祈りました。それから目がさめてしまいました。朝の四時頃でした。すると聖霊様が、私の心に、「あなたは今から外に出てお祈りしなさい」と語られたように感じました。「この寒いのに・・・」と思いましたが、外に出て歩いていきました。大宮という地域に石座神社という古い神社があります。真っ暗でしたので、気持ちが悪いと思いながら、「主よ。どちらに歩いて行ったら良いですか」と祈ると、「おまえは神の宮だから、岩座神社の方に入って行って祈りなさい」と語られたように感じました。ゾッとしながら、その場所にいき祈りました。その付近を一周して、さらに歩いていくと、一軒の家の前に出ました。実は、その家の奥様はクリスチャンですが、ご主人はずっと教会に来られていませんでした。私はご主人のためには、久しく祈っていませんでした。しかし主は、「ご主人のために祈りなさい」と言われました。
 それで、「イエス様。この家のご主人が救われますように。教会に来ますように。この祈りを聞いてください。」と祈りました。それは朝の六時頃でした。
 その日の夜の十時頃、私の携帯電話が鳴りました。何と、その家の奥様からの電話でした。「もしもし、我が家に来てくれませんか。主人に少し話してくれませんか。」
 私は驚いてすぐにお宅に伺いました。そしてご主人にイエス様のことをお話しました。そしてその方は、今日、ここに来られています。鶴田さんです。
 それから私は、朝早く起きて、色々な家を廻って祈らなくてはいけない、と思いました。私は移動式神の家なので、色々なところに行き祈らなければならないことを教えられました。
 案外、「あの地域には行きたくない」と思うところがありませんか。また、あそこには一人では行きたくないと思う場所があるかも知れません。しかし、案外そのような場所は、入って行って祈らなければならない場所かも知れないのです。
 私もこの近所で、悪いイメージを持っている場所があります。それは、私が中学生の時に、私の友人がテスト中、前日までは何も変わったことはありませんでしたが、次の日、学校に来ませんでした。「どうしたか、風邪でも引いたのだろうか」と思っていると、有線放送で「__君が行方不明なので探してください」という放送がありました。何と、彼は自殺していました。私は中学二年生でしたが、たいへん心が痛みました。なぜ死んだのか全く理由がわかりませんでした。頭が良くて、私がいくら頑張っても彼には追いつけないし、何の問題もないような少年でしたが、突然死んでしまいました。それが、この近くの川のほとり、藪の中でした。私はそれ以来、四十年ほど経っていますが、「あの場所には行きたくない」と思っていました。
 最近、歩きながら祈り出したら、「あの場所に行って祈って来い」と言うような思いが来ました。「お前を、寄せ付けないような所に入って行って祈り、二度とそんな事件がないように祈りなさい」と語られたように感じました。それで、勇気を出してそこに行って祈りました。富士の樹海のように見える所で、気持ちの悪い場所でした。そこで、「イエス様の御名によって、私の友だちを殺した悪霊を打ち砕きます。ここに光を灯してください。この地域の人たちが救われますように。」と祈ってきました。
 皆さんの周りにも、あなたが神の宮として、光りを輝かせなければならない場所がたくさんあると思います。ぜひとも、動く神の宮として、暗闇の中に入って行って祈ってください。特に、行きたくないと思うような場所に行って、祈らなくてはならないのです。その時に、神は不思議なわざを行われます。なぜならば、私たちにはイエスの名前が付いているからです。神の宮の機能が備わっているからです。皆さんの勤めている会社、学校、その他すべてのところにが、光を輝かす現場です。皆さんが神の宮として、光を灯す器となりますように。また、この教会が暗闇の中に光を灯す存在となり、大いなる神の訪れの準備に当たらせていただきたいと願っています。最後に一言祈ります。
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