今週の礼拝メッセージ
2003.1.19(SUN)
新しく創造された者
新城教会 上條 実 牧師

新約聖書 コリント人への手紙第二 5章17節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 ハレルヤ!早速御言葉を学んでいきましょう。今日は「新しく創造された者」というタイトルで学んでいきたいと思います。早いもので二〇〇三年も既に十九日が過ぎました。今年の一月一日は、こちらの新年礼拝には出席せずに、日本の主要四都市に行って祈ることができました。丁度北海道の千歳空港にいるとき電話でつないでお祈りするときが与えられて感謝でした。飛行機一日乗り放題で一万円というチケットが手に入り、その日は名古屋から北海道の千歳、そして東京、そこから福岡に行き、また名古屋へ帰ってくるというコースでした。一月一日は多くの人が初詣に出かける時ですので、上空から日本の祝福と、日本の偶像礼拝のためにとりなすことができました。新城を朝五時半に出発し、七時四十分に千歳へ向かいました。千歳空港では飛行機内では気温がマイナス二十度と言われていましたが、到着時ではマイナス十五度とのことでした。空港の外に出た途端、ものすごい寒さでした。また東京から福岡に向かう途中、上空から富士山が見えてとてもきれいに見えました。富士山も偶像礼拝の対象になっていますし、その他山岳信仰等のためにも祈ることができました。また上空から知多半島や遠くに渥美半島が見えましたので今年行われる名古屋ミッションのためにも祈ることができました。最後名古屋に夕方六時半頃到着しましたが、貴重な体験を持つことができました。この二〇〇三年を祈りで始めることができたことは素晴らしい恵みでした。
 
私が今年のために与えられたみことばはエレミヤ書二十三章二十九節です。

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。』

私たちが信じているイエス様は全能の神です。そして聖書は一点一画変わらない言葉です。イエス様を信じ、御言葉を信じていく時、生きていて、必ず成就します。私たちは大きな山のような問題を目の当たりにする時、その問題で駄目だとあきらめてしまいます。しかし御言葉が火のように問題を燃やしてくださいます。また岩のような問題でも、岩を砕く金槌で問題を粉砕して下さいます。今年は御言葉を信じて前進する年であるようにと教えられています。そのような中で今回第二コリント五章十七節の御言葉が与えられました。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

イエス・キリストをを信じた時、私たちに素晴らしい祝福が与えられます。私たちが持っている聖書は新改訳聖書ですが「その人は新しく造られた者です」という御言葉の注訳は、「そこには新しい創造がある」と書かれています。共同訳聖書という聖書では、

『だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』

と訳されています。イエス・キリストを信じる時、私たちは新しく創造されるというのです。皆さんは「創造」と聞くと聖書の一番初めの書き出し「はじめに神が天と地を創造された」という御言葉を思い起こすと思います。小学館の国語辞典を調べると、やはり「神が宇宙、万物を造ること」とあります。またもう一つの意味として、「新しいものを初めて創り出すもの」と書かれています。私たちはイエス・キリストを信じる時、全く新しく創造されるのです。ではイエス・キリストを信じる時人はどのように創造されてるのでしょうか。
第一番目は、神に関しての見方が変わります。創造されます。私たちはイエス・キリストを信じる前は、ある方は無関心であったかも知れませんし、多くの偏見を持っておられたかも知れません。しかしキリスト教の神は唯一の神であり、私たちの罪のために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださった神様です。その神様を信じる前は、何が神なのか、何が奉ってあるのかも考えずに、みんなが拝んでいるから、自分も拝むという人が大勢います。ここに一枚の紙があります。「この紙が神様ですよ」と言っても誰も信じません。しかし、同じ紙で作られた物にも関わらず、神社の名前や印が押されていると、うやうやしくそれを受け取り、自分の家の高きところに置いて、朝夕それに向かって深々と頭を下げて拝むのです。自分の家を救ってくれる、守ってくれる神だと礼拝するのです。もとを正せば同じ紙であす。私の手元にある紙は、破ろうと思えば簡単に破ることができます。その後はゴミ箱に捨てます。それと同じ紙なのに、紙がいつしか神様と変化し、榊や水を変え、頭を深々とさげて礼拝対象となっています。また仏壇を拝んでいらっしゃる方もおられると思いますが、少し前までこの教会のすぐ近くには製材所がありました。私は子どもの頃製材に落ちている木を野球のバット代わりにして遊んだり、薪としてお風呂を沸かしたりしていました。その木で作った位牌となると、人は自分の先祖が住んでいると考え、大切に奉るのです。同じ木なのに、同じ紙なのにどうしてそんな物が神となり、先祖となるのでしょうか?全く悪魔にだまされて、愚かな紙や木などを拝んでいます。使徒の働き十七章二十四節から

『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。しかし私たちの神は、あなたのために身代わりに命をかけてくださった神様です。』

とあります。人が作った物は神ではありません。真の神はあなたのために命をかけてくださり、十字架にかかってくださり、三日目によみがえってくださった神様。イエスキリストです。あなたがそのイエスキリストを信じる時、家の片隅で動けずに、ほこりまみれになるような神ではなく、いつも、何処でも共にいてくださり、願いをかなえ、期間限定のような神ではなく、永遠の命を与えてくださる神様です。イエスキリストを信じると、あなたの中に「新しい創造」が起こります。あなたがイエスキリストを信じると、今まで信じていた神々や先祖が、何と虚しいものを拝んできたのだろうかとハッキリわかります。聖書に

『国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。』

とあります。人が気休めに手で作り、きゅうり畑のかかしのように必要のない所に、あたかもそれに神がいるかのようにだまされています。イエス・キリストを信じる時、新しい目が開かれます。あなたに創造が起こります。今まで信じてきた物がどんなにむなしく、大きな罪であったことがわかります。何を奉っているか分からないような神から離れて、イエス・キリストを信じて下さい。あなたの内に創造がおこります。
 またもう一つ創造は、人は多くの心の傷を持って苦しんでいます。人間関係の中で色々な傷を受け、また傷つけてしまいます。その傷にふれられると、苦しくてたまりません。現に傷ついた心を癒すことために「癒しグッズ」など、今癒しという言葉が多く使われるほど、皆心が疲れ、傷ついています。。しかし、今日私たちはイエス・キリストを信じるときに、あなたの心に創造が始まります。聖書は何と言っているかを覚えてください。エペソ人への手紙一章四節

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

と書かれています。イエス・キリストはあなたの傷を癒すため、あなたのために代わりに傷を負ってくださいました。あなたが心の中で、辛く耐えることのできなかった傷を、イエス・キリストが『傷のない者にされる』と言ってくださっています。イエス・キリストに祈る時、イエスキリストを信じる時癒されます。表面的にみんなの前で明るく振る舞っていても、虫歯の時に冷たいアイスクリームや氷を食べると歯が大変痛むと同じように、私たちの心は痛みます。また傷ばかりを気にして、毎日泣き暮らしたり、喜びがなく、気がふさいで楽しい時間も楽しく感じることさえできない方がいます。しかし今日覚えてください。あなたのためにイエス・キリストは十字架にかからてくださいました。イザヤ書には

『主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。』

とあります。あなたの肉体の病いとともに心の傷も癒してくださる方であることを覚えてください。あなたが「イエス様、私にはこのような傷があります。」と神の前に告白してください。癒されます。
 またもう一つは私たちは色々な夢を抱き、目標に向かって生活します。私の知っているある方は、自分の家を建てることが望みで一生懸命働き、金を貯め、建ててくれる業者を決め、自分の夢に向かって毎日を過ごしていました。とうとう自分の描いていた家が与えられました。しかし自分の家が与えられてしまった後、自分はこれから何のために生きていったら良いのか分からなくなってしまいました。夢を追い求めて、それを手に入れてしまった後、何のために生きていけば良いのだろうかとわからなくなってしまったと言っていました。ある方はそんな夢もなく、生きる目的がわからず、何の目的もないまま、ただ毎日朝が来て、ご飯を食べ、仕事をし、帰ってくる。その繰り返しで人生が終わってします。何のために生きているかわからないまま、生活している人が大勢います。しかし私たちの神であるイエス・キリストはこのように言っています。第二コリント五章十五節に、

『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。』

と語っています。生きる目的をはっきりと聖書が教えています。それは、「自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」と書かれています。イエスキリストを信じる時、イエスキリストのために生きるという望みが与えられます。すべて物を作る時には目的を持って作ります。作る人は、何のために使うかを考え、目的にあった物を作ります。それと同じように、あなたは神様によって作られました。だから神様はあなたにしかできない仕事、目的を持っておられます。イエス様を信じる時、必ず生きる目的を見いだすことができます。一年に三万人以上の方が自殺しています。生きる目的がわからず、生きていても仕方がない、生きる目的と望みを失い、問題の解決を知らずに苦しんで、自分で自分のいのちを絶っていきます。日本中の人がイエス・キリストを自分の神様と信じる事ができるなら、自殺もなくなると信じます。今日生きる目的はイエス・キリストの中にあることをぜひ覚えてください。
また自分の生きている意味と同時に、愛されていることがわかっていません。自分の価値が全くなくなり、人と比べて自分は惨めだと思います。愛されていることを知らず、自分は孤独だと思っていませんか?聖書にはイザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

と書かれています。イエス・キリストはあなたを愛している、高価で尊いと言っています。自分は愛されていない、自分は惨めでで何も価値がないものだと感じているかも知れませんが、神はあなたを高価で尊いと言っています。「国民のいのちの代わりをする」と書かれています。それはあなた一人を助けるために、全世界の人々と引き替えてでもあなたを助ける。イエス・キリストはあなたをそれほど高価で尊く考えている。あなたを愛していると言っています。世界中の人の命と変えてでもあなたを助けると言われているのです。自分は駄目だ。誰にも認められていない、自分は何の価値もないと思っている方、是非イエス・キリストの所に来てください。新しく創造されて愛されているとわかります。イエス・キリストはあなたを愛しています。あなたのためにいのちをかけて救ってくださった方です。イエス・キリストはあなたのために十字架にかかられ、葬られ、三日目によみがえってくださいました。あなたのために命をかけて、あなたを愛されているイエスキリストを覚えてください。
また私たちは罪があります。私の過去を考えてもあんなことをしなければ良かったということがたくさん思い出されます。失敗をしてしまいます。人生やり直すことができるならばあるならば、あれとこれと等々やり直したいと思います。あなたは昔行った罪のことを思い出しませか?罪に対して責められ、あんなことしなければ良かったのにと後悔することありませんか?しかし今日イエス・キリストを覚えてください。イエス・キリストは二度と罪を思い出さないと聖書で言っています。イエス・キリストはあなたが犯した罪のために十字架にかかり、あなたが当然受けなければならない罰を身代わりに受けてくださり、三日目によみがえられ方です。悪魔も生きており、私たちを訴えてきます。色々なことを責めてきます。しかしイエスキリストは

『わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』と言って下さいます。

『悪者は追う者もないのに逃げる。』と聖書の中にありますが、何か罪があると後ろめたくて、泥棒をした店などは前の道を通れなかったりします。しかし、イエス様の十字架によって罪がゆるされます。神様はその罪を許し、二度と思い出さないと言われるのです。
そしてもう一つ、これは素晴らしいことです。死の恐怖から解放されます。新しく創造されます。私も高校時代にオートバイで乗り回していた時がありました。友がたくさんいましたが、「じゃあ、明日」と言って前日分かれたばかりの友が、次の日学校にはいませんでした。学校の全体集会で○○さんが交通事故で亡くなったというのです。オートバイで二人乗りをしていて、山道で曲がりきれず、転んで、二人が飛ばされました。運転していた人は田んぼの水の中に入って助かりましたが、自分の友だちは道路に叩き付けられて即死状態でした。また自分の一つ下の友だちもバイクで車とぶつかって亡くなりました。一年間に私の友だち、知人が四人も亡くなりました。そんな時、自分が死んだらどうなるのだろうかと思いました。怖くてたまりませんでした。そんな時私はしっかりとイエス・キリストを信じる事ができました。滝元明牧師がよくメッセージする話しですが、設楽町に学校の校長先生をされていた人がいました。その人に新城教会に来ていた人がイエスキリストについてお話ししたそうです。しかし彼はあざ笑って、「おい、バカなことを言うな。そんなことをみんなに話したらばかに思われるぞ。三日目によみがえったなんて言ったら信じることができないぞ」と聞く耳を持ちませんでした。しかし、晩年その方が癌になったそうです。そして癌センターに入って治療を受けるようになった時、死について考えました。その時にイエスキリストのことを思い出したのです。あなたのために命をかけてくれた人がいる。「イエスキリストを信じると、クリスチャンは死ぬことが怖くない。死ぬことは永遠の喜びの始まりなんだ。」そのことを思いだし、すぐにそのクリスチャンの友を病院に呼びました。三日目によみがえるとは何事だ。元気な時は拒否していましたが、自分が真っ正面に向きあった時、イエスキリストを受け入れたのです。新しい創造がされました。自分のいのちが終わろうとしたとき、奥さんにたいして「お前、泣くな。俺は先に天国で待っている。」と言い、最後、絶筆で「私は永遠のいのちを持った。そして永遠の命を持った」という意味を文章にして、天国に行かれました。ここにおられる方全て、いつか死ななければなりません。私もイエス・キリストを信じました。するとなんと死ぬことが恐怖ではなくなりました。今は永遠のいのちがあります。天国に入ることができます。死に対しても解決することができた。恐怖から新しく創造されて「希望」に変えられました。今日多くの方がイエス様を信じてその体験をされていると思いますが「見よ、私は新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。」新しく創造されるのです。イエス様によってすべてが新しく変えられるのです。しかし、悪魔は生きていて私たちに誘惑をかけてきます。創世記三章一節から五節に、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』

と書かれています。悪魔は狡猾に私たちの心の中に働いてきます。エバに「あなたがたは決して死にません。それを食べるときにあなたがたの目が開かれて神のようになって善悪を知るようになることを神が知っているのです。」いとも神様のようになれる、目が開かれる、善悪がわかる、もっとすごいことが起こるというように、誘惑をかけました。みことばを疑わせてくるのです。アダムとエバは善悪を知る木の実を食べてしまいました。その時自分が裸であることがわかり、その時から死が入ったとあります。これが人間の罪の始まりです。悪魔は巧妙に私たちに誘惑をしてきます。御言葉で傷が癒されるとか、生きる意味とか、自分の価値、愛されている、罪が赦される。死の恐怖もなくなると聞いても、疑わせるのです。誘惑をしてきます。特に近所付き合いを見て見よ。もし、こんな神を信じたら近所付き合いはどうなるのだ。と誘惑をします。多くの人がイエス様は素晴らしい神様だと言うことはわかっています。クリスチャンになることは素晴らしいとわかっています。しかし目の先だけを見せられ、「おい、今、こんなものを信じたらうまくいかんぞ。村八分にされて白い目で見られ、特別視されて、悪口言われるぞ」と言われ、恐れてしまいます。戦いを恐れさせます。周りのものを見せて、永遠の命を見えなくさせてしまいます。しかし、今日覚えてください。私たちの神はあなたと共に生きておられ、あなたの人生を握ってくださり、あなたを支えてくださる方です。そしてこの地上も祝福してくださると同時に、地上だけではなく永遠に私たちを祝福してくださる神様だと聖書は約束されています。悪魔は色々な関係を付けさせて「もう、お前は俺のものだと握りしめていますが、コロサイ二章十四節に、

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』

と書かれています。私たちは知らないうちに悪魔に握られて、悪魔のものになってしまいました。悪魔の契約を結んでしまいました。しかしあなたがその契約を無効にします。私とこの悪魔とは関係がないことを宣言しますとイエスキリストの権威によって祈る時、勝利を下さいます。イエス様が私のために十字架にかかってくださり、葬られて三日目によみがえってくださったということを信じる時、私たちは新しくされる。新しく創造されることができます。クリスチャンの方でもそのような救いの喜びをいただいているにも関わらず、同じように落ち込み涙して苦しんで自分は惨めだと思うときがあるかも知れません。悪魔はあなたに責め立て、あなたに挑戦してきます。その問題や死の恐怖、また苦しみ、悲しみがあるならば、今日あなたもイエス様を見上げてください。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

あなたのすべてが今までとは違う再創造されてすべてが新しくなると神様が言われます。今日あなたが口で告白するのです。ローマ書十章九節から十三節に、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。』

今日あなたがイエスキリストを心で信じ、口で「イエス様を信じます」と告白するとき救われます。また「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」と書かれています。お金を積み立てるとか善行を積んだらというのではありません。あなたが今古い状況で何も変わらなくても、イエス様を信じ受け入れる時新しい創造。新しくしてくださいます。私はクリスチャンになるためにもっと勉強しなくてはいけないとか、もっと生活が良くなってとか、これが清められなければとか思いますが、そうではなく、そのままで良いのです。神様が新しく創造して下さいます。あなたの口で「イエス様。あなたを信じます。」と祈ってみて下さい。お祈りします。
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