今週の礼拝メッセージ
2003.1.26(SUN)
主の守り
新城教会 滝元 明 牧師

詩篇127篇 1節〜2節
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

 ハレルヤ!いつも皆さんにお折りいただき、今日まで健康であることを感謝します。今年になり、二十四時間の賛美集会があり、その後は北海道や九州でリバイバル聖会があり、先週は名古屋の決起大会があり、今日は久しぶりに新城教会の礼拝に出ることができることを感謝します。北海道のリバイバル聖会は、日本リバイバルクルセード時代から行っており、今年で二十三回目になります。日本のリバイバルを求めて、集会をしましょうということで行われています。今年の北海道の聖会は、非常に恵まれました。登別にあるホテルを借りて集会をしました。朝五時半頃に起きて、いつも、地獄谷という公園で祈り、昼間に集会を持ちました。この度の講師は、アーサー先生と、田中先生と私の三人でした。田中政男先生のメッセージがとても良かったです。
 今から三年前に、先生が福島県いわき市の教会のクリスマス集会に招かれたそうです。その時、その教会の先生が、「先生、今日は初めての夫婦が来ますのでお願いします。」と言いました。どういう方かと聞くと、その夫婦は結婚してから赤ちゃんができず、どうしても赤ちゃんが欲しいので、東京の病院に通い、百万円かけて治療しましたが、どうしても赤ちゃんができなかったそうです。しかし、あきらめきれずに、筑波大学の病院に行き六十万円かけて治療をしましたが、結論は、「あなたたちは赤ちゃんができる体ではない」と宣告されたそうです。しかし田中先生が、そこに来るということで先生が宣伝したそうです。「田中先生は、子授け牧師ですので、赤ちゃんがない方は来てください」と宣伝したそうです。
 なぜ、田中先生は子授け牧師と言われるかというと、田中先生は、結婚してから五年間ほど赤ちゃんがなく、ある時、田中先生の奥さんが近くの奥さんと話しました。「イエス様は、何でも祈りを聞いてくれるから、教会にいらっしゃい」というと、その奥さんが、「田中先生の家に赤ちゃんが与えられたら、信じるわ」と言ったそうです。それですごくショックを受け、イエス様の前に泣いて祈ったそうです。「イエス様、赤ちゃんがなかったら、信じないというので、どうしても赤ちゃんを与えてください。お願いします。四人でも、五人でも、六人でも良いのでお願いします。」と祈ったそうです。
 すると、次の年に赤ちゃんが与えられました。そして次々に、六人与えられました。田中先生はある意味で、信仰があります。「祈ったら与えられる。」だから、日本中で多くの人が田中先生に祈ってもらい、赤ちゃんが与えられています。だから、子授け牧師が来るということで、あるご夫婦が来られたそうです。そのご夫婦は三十代の方ですが、「赤ちゃんを与えてください」と祈ったそうです。それで、田中先生は「言った覚えがない」というのですが、祈った後でこう言ったそうです。「これから生まれたときの為に、産着を買って準備しておきなさい」と言ったそうです。感謝なことに、絶対にできないと言われていたのに、子どもができたそうです。
 次の年のクリスマスに行くと、そのご夫婦と親族が、喜びのあまり皆集まってきてイエス様の話を聞いたそうです。その時医者は、「これは奇跡だ。しかし、これ以上は絶対にできない。」と言ったそうです。しかし、昨年行くと、二人目ができており、今年六月に赤ちゃんが生まれると言いました。信仰を持って祈ったら良いのです。
 アーサー先生が、アメリカから日本に宣教師として来るときに、喘息で咳が止まらなかったそうです。彼はスポーツマンで、レスリング大会でチャンピョンになったような方で体には自信があるのですが、どんなにしても直らないのです。アメリカでは、朝から晩までキリスト教の番組をしています。そしてテレビを見ていると、黒人の女性の先生が、癒しの話をされていました。「皆さん、神様は生きています。そして、癒し主です。」その時テレビの中で、「今日この中で喘息で苦しんでいる人がいます。その方は今日癒されるので、テレビの前で手を出しなさい」と言われたので、アーサー先生は手を出しました。そして黒人の牧師先生が、「病が癒されますように」と祈ったときに、病が癒されたそうです。だから私は今日元気だと言われました。
 昨年の暮れ、「わたしは主であってあなたを癒す者である」という御言葉を語りましたが、神様は素晴らしい奇跡をあちらこちらでしてくださることは感謝です。実は、私は、北海道にいく前に、少し風邪を引き咳をしていました。私も北海道に行って考えました。北海道に行き、雪の中で祈るのをどうしようかと考えました。しかし、立ち向かって祈ろうと思い、朝、山の中に入り込み真剣にお祈りしました。すると、北海道に私の娘から電話が来ました。「お父さん、私は風邪を引いていて、一歳になる息子もかかりそうだから祈って。」と言うのです。次の日に医者に行ったら、「インフルエンザ」と診断されたそうです。「息子が泣いて、抱いていないと眠れないので祈って」と言うのです。北海道から帰ってきて、娘に電話すると、「熱が高くて眠らない、苦しんでいる」と言いました。私も丁度、家に帰って寝たのは十二時頃でした。そして寝たら、一時頃、咳が出て苦しみました。その時、ふっと考えました。「きっと孫も熱が出て苦しんでいるかもしれない、これは祈れということで、起こしてくださったに違いない」と思い、この教会に来て、真剣に祈りました。一時間以上、叫んで祈りました。そして息子たちの家族も、インフルエンザになっていたので真剣に祈りました。私も立ち向かってイエスの御名によって「菌よ、出て行け。流感の霊よ出て行け!」と祈りました。しかし、考えたら、「出て行け」と祈ったら、誰か他の人に入るので、「流感の霊よ、出て行くのではなく、死ね。」と祈りました。私はむかむかして、悪魔に立ち向かって祈りました。菌なので、薬で殺すこともできますが、イエス様の御名によって殺すことができると信じて祈りました。もし誰かがいたら、何事かと思ったと思います。そしてに三時頃にベットに入りました。
 すると、次の日、娘から電話があり、「不思議だけど、昨晩、一時頃まで抱かないと眠らなかったけど、三時頃目を覚まして、遊び出して良くなった」というのです。丁度、寝た時間は三時頃でした。また、次男の息子も病んでいましたが、三時半頃に熱が引いたというのです。癒されるのはイエス様ですが、聖書に、「サタンに立ち向かいなさい。そうすれば、逃げ去ります」と書かれています。病気になり、時々、「もう駄目」となりますが、真剣に立ち向かって祈ってください。私はサタンに対して、むかついていました。そこで、私は聖書を調べました。ヨハネの福音書十一章三十三節から三十五節に、

『そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。』

と書かれています。この御言葉は尾山令仁先生が訳された現代訳聖書では、

『イエスは彼女が泣き、彼女が一緒に来た指導者たちも泣いているのをご覧になると、一方ではこの悲惨な死に追いやる悪魔に対して憤りを覚え、もう一方では彼らの悲しみに深く心を動かされた。』

と書かれています。「この悲惨な死に追いやる悪魔に対して憤りを感じた」と書かれています。聖書は、死の力を持つ者は悪魔だと書かれています。イエス様は、悪魔に対して憤ったと書かれています。そして、イエス様が「ラザロよ出てこい」と言ったときに、ラザロが復活したと書かれています。私も時々悪魔に対して、怒鳴ることも必要です。祈る必要があります。
 さて、詩篇一二七篇一節に、

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。』

と書かれています。
 今年の二十四時間PPHに多くの方が来られました。私はジャムを作るのが好きで、りんごジャムを作って、みんなに出しました。また、白菜の漬け物を漬けて出し、沖縄に行ったときに、ちんすこうを買ってきたので、それも出しました。その時、皆さんが非常に喜んでくださったので、マルイチの店長さんに「りんごの腐りかかったのがあったら、ください」と言いましたす。すると大きな箱に、たくさんのりんごをくれました。箱いっぱいあったので、二つの鍋でジャムづくりをし、一時間ほど煮、焦げつかないように見ていました。一方の方が火力が強いので、早くジャムができました。そして、もう一方を作っていたら、火を止めたジャムが沸々しているのです。どうしてかと不思議に思い、家内に聞くと、「それはあんた、こんなに長い間、火にかけていたから熱くなっているんじゃあないの」と言うのです。もう一方のジャムも作りました。しばらくして、また沸々言っているので、また家内に聞くと、「やっぱりあんたが、長く火にかけていたからよ。」と言われ、「そうか」と納得していました。
 そして、夜寝る頃になり、家内が、「ほこりが入らないように、蓋をした方が良いよ」と言いました。そして家内が、新聞紙を鍋にかけました。その前の晩に、私は疲れていたせいか、いびきをかいていて、家内がよく眠れなかったというので悪かったと思い、次の日は家内がゆっくり眠れるように、私は後から休みました。家内が眠ってから、テレビを少し見ていました。そろそろ寝ようかと思い、十二時頃ジャムを見に行きました。するとその部屋がずいぶん暖かいのです。見ると、新聞紙が茶色く焦げているのです。「あれっ」と思うと、私は火力を上げるために、中央の魚焼き器のスイッチを押してあって、切るのを忘れていたのです。それで、真ん中が熱くなっていたのです。
 私は感謝しました。もしその日、早く寝ていたら、部屋が燃えていたと思いました。十二時半まで起きていたことも、その前の日にいびきをかいた事も、イエス様の恵みだと思いました。その時にこの御言葉を思いました。一節に、

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。』

 私たちの日常生活の中で、些細なことに感じますが、神様の守りがなくては何もならないのです。詩篇に、「主は眠ることもまどろむこともない」と書かれていますが、神様が私を長く起こして、事故にならないように守ってくださったと思います。ですから、私たちの人生は、神様の守りが必要です。イエス様の中で、イエス様に頼って生きていくことが大切です。マタイの五章から七章は山上の垂訓が語られていますが、その後で、賢い人と愚かな人について話されました。「賢い人はわたしのことばを聞いてそれを守る人」、「岩の上に家を建てた人」です。しかし「愚かな人は、砂の上に家を建てる人」です。ある時に洪水が来ると、岩の上に家を建てた家は大丈夫ですが、砂の上に建てた家は倒れてしまうと語られました。賢い人と愚かな人があると書かれています。人生はある意味で、家を建てるようなものです。人生が三十年、六十年と過ぎるとき、どういう人生を建てあげるかは大切です。賢い人は岩の上に家を建てることです。神様の御言葉の上に立てる人は賢い人だと書かれています。ヘブル人への手紙八章五節に、

『その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」

と書かれています。聖書を見ると、モーセはシナイ山に上がり、神の幕屋を建てたときにモーセは神の言われた通りに家を建てたと書かれています。素晴らしい人生にすることができるのは、自分の知識や経験ではなく、神様に信頼を置いて生きるかということが大切です。「主が家を建てるのでなければ」ということは、国もそうです。国家が何に土台を置いているかが大切です。日本のボスが、靖国神社を参拝したというのです。指導者のために祈らなくてはなりません。日本人の土台は八百万の神々に土台を置いています。靖国神社や、伊勢神社というものに土台を置いています。しかしアメリカの国は、ある意味で素晴らしいことに、聖書に土台をおいています。一七七六年七月四日が独立記念日ですが、その時は聖書に土台を置いたのです。ですから、大統領が就任するときには、必ず聖書に手を置いて「神様、四年間憲法を忠実に守ることができるように」と宣誓します。アメリカが独立して、今年で二二七年です。世界で一番大きく強い国です。清教徒がアメリカに渡る前、アメリカには豊かな富がありながら、人々は貧しい生活をしていました。しかし、聖書を土台にしてから、アメリカは栄えました。アメリカという国家が聖書の土台の上に立てられたことは素晴らしいです。しかし、旧ソビエト、今のロシアは一九一七年にレーニンが共産革命を起こしました。「人間は人間の知恵によってユートピアを築くことができる。人間の力、人間の英知、人間の考えで、神はいらん、神はない」と言っていました。そしてずいぶん力を持ちましたが、一九九一年にソビエト連邦は崩壊しました。昨日、少しテレビを見ると、ロシアのプーチン大統領が正直に話していました。「今私たちの国は、世界で経済力は十五位だ」と言いました。「核兵器についても、アメリカとは比べることができない。」
 やはり土台が違うのです。北朝鮮もそうです。共産主義です。創造者の代わりに人間が偶像視されていますが、独裁政治は最後には崩壊します。人生において、何を土台にするかが大切です。私たちも聖書をしっかりとした土台にすることです。聖書は神の御言葉ですので、聖書をしっかり読み、聖書を土台として人生を歩いたら必ず素晴らしい人生を送ることができます。アブラハム・リンカーンは、「人間にとって望ましい全てのものは聖書の中に含まれている」と言いました。彼のお母さんは、召される前に、リンカーンを側に呼び聖書を手渡しました。彼は奴隷解放をした人ですが、彼は聖書をよく読んだ人です。ワシントンDCに行ったことがありますが、そこに記念館があります。リンカーンの演説文が書かれていました。一緒に行った人に読んでもらいました。そこには、たくさん聖書の御言葉が書かれています。リンカーンは、神様の上に人生を据えていました。だから奴隷は解放しなければならない、と言って素晴らしい事業をしました。
 ゲーテは、「私が牢獄につながれただ一冊の本を持ち込むことが許されるとしたら、私は聖書を選びます」と言っています。人生の土台を神の御言葉に据えて、イエス様を信じていくことは素晴らしいことですので、聖書をよく読んでください。そうしたら、必ず、素晴らしい人生を持つことができます。
 先日私は、自分の実家のあるところに行きました。私の生まれたところです。そして兄の家で、色々なことを話し、小学生時代の同級生のことを聞きました。一番頭の良かった人もなくなり、多くの人が亡くなっています。私は、今年で七十四歳ですが、ここまで来れたことは、十九歳の時にイエス様にお会いし、聖書に土台を置き人生を築いたことにあります。また、毎週礼拝を守って、聖書の御言葉をいただいたこと、これが私の人生において、今日まで神様のために働くことができた秘訣です。御言葉に従って生きることは大切なことです。私たちも御言葉に従っていきましょう。詩篇一二七篇一節に、

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。』

と書かれています。「家とは何か」というと、それは国家、家庭でもあります。良い家庭を作ることは、良い国家を作ることです。家庭が崩壊すると、国家も崩壊すると言われていますが、私たちに大切なことは、良い家庭を作ることです。今日私が言えることは、イエス様の恵みとあわれみによってなされた、五十三年の夫婦生活です。私の家内は、今年で、八十歳になります。私は家内を見て、若いと思います。五十三年間、イエス様を信じてここまできました。結婚するときに私の親が、「東京の婆に騙されて、お前の結婚は駄目になる」と言われましたが、五十三年間守られたことは、イエス様を恐れ、イエス様を信じた賜物でしかありません。今の日本の離婚率はすごいです。六十〜七十万組が結婚し、二十四万組が離婚しています。結婚式の時には、「君を愛する。骨まで愛する。幸せにする」と言いますが、二、三年経つと崩れてしまいます。土台がないからです。土台を据えることは大切です。
 先日新聞を見ていて、西部百貨店について書かれていました。五千億円の負債があると書かれていました。ダイエー、西部が、今銀行で二千万円くらい帳消しにして欲しいと訴えていますが、人間の人生はわかりません。神なしでも、素晴らしいことができますが、長くは続きません。聖書に結婚について書かれています。コロサイ人への手紙三章十八節から二十一節に、

『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』

と書かれています。聖書には、家庭を作る設計図があります。これが秘訣です。私を導いてくださった穐近先生は、私たちが結婚する前に、私の家内を呼び、「斉藤清子姉、あなたは滝元さんよりも年上ですが、聖書には、妻たちよ、夫に従いなさいと書かれているので、兄弟に従うのだよ。」と言われました。私の家内は、それを受け入れました。私も呼ばれて、「兄弟、聖書には、キリストは教会を愛してご自分の命を捨てられたように、命懸けで妻を愛しなさい、と書かれているので、命懸けで妻を愛するのだよ。」と言われました。これは聖書の教えです。良い家庭を作るには、どんなに奥さんが頭が良くても、ご主人に従うこと、そして、ご主人はキリストに従うことです。神様を信じなければ、土台がありません。まず、ご主人が神様に従って、奥さんが夫に従うこと、これは聖書の法則ですので、奥さんはご主人に従ってください。聖書の中に、「主にあって」と書かれていますので、奥さんだけ教会に来ていて、ご主人が、「教会に行くな」と言ったら「はい。従います。」というのはいけません。「泥棒してきなさい」と言われたら、「はい」というのはいけません。「主にあって」夫に従うことです。
 サラは主人であるアブラハムを主と呼んだと書かれてます。心から主と呼んだと書かれています。「私の夫です」と従うことが大切です。また、聖書を見ると、

『夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。』

と書かれています。この教会に来られている方々は、皆愛していると思います。愛してください。愛することはどういうことでしょうか。色々なことがあります。口で愛の告白をすることもあります。しかし、やはり、大切にすることです。私はあまり料理はできませんが洗濯はできます。家にいるときは、洗濯は私がします。それは、少しでも家内に楽をさせてあげたいと思うからです。物を大切に使ったら、長く持ちますが、私も家内を大切にしています。だから妻を愛することは大切です。どこに行っても、五十何年間、夫婦喧嘩をしたこともなく、愛し合っていることは感謝です。良い家庭を与えてくださったことは何かというと、私と家内が結婚するときに、一つの提携を結びました。生涯、結婚生活の中にあって、私は私の家内を愛するけれど、イエス様以上には愛しません。また私の家内も、イエス様以上に私を愛さないと言いました。まず、神の国とその義を第一にし、イエス様を愛して、家内を次に愛する。私の家内も、イエス様が第一で私を愛する。神様を第一にしたら、素晴らしい家庭を持つことができますので、良い家庭を作りましょう。もし社会で、「新城教会に来ている人は皆仲が良い」と言われたら、新城教会は魅力的です。みんなが愛し合っており、「あんなに愛し合っているならば教会に行きたい」と思います。「新城教会に行っている人は、喧嘩をしています」と言ったら、人々は教会に来ないと思います。ですから、互いに愛し合うことが大切です。
 また、「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです」と書かれています。子どもたちはお父さんとお母さんの言うことを聞かなくてはなりません。中学生、高校生になると、お父さん、お母さんに教会に行こうと言われても、「いや」といって来なくなる人がいます。だいたい自分勝手に子どもが歩き、離れていくといつかは破局が来ます。神様抜きで、子どもを育てたら子どもたちは良い子に育ちません。子どもたちは、お父さん、お母さんに従いなさいと書かれています。また、お父さんたちにはこう書かれています。

『父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』

と書かれています。「怒らせない」ということは、「いらだたせてはいけない」と言うことです。時々、怒っても、子どもが泣くまで怒らないと気が済まない親がいます。そういう親ではいけません。よく教えなくてはいけません。子どもたちも、主を恐れることができるようになれば、幸せに生きられますので、これから私たちは良い家を建てましょう。詩篇一二一篇一節から八節に、

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』

と書かれています。主の守りは、イエス様に信頼したら「主はあなたを守る方」です。そして、主はあなたをすべてのわざわいから守る、いのちを守ります。主は、あなたが行くにも帰るにも守られる、主の守りがあったら、素晴らしい家庭を築くことができますので、主にあって良い家を建てましょう。主にあって、守られた人生を過ごしていくことを、心からお勧めします。一言お祈りします。
。一言お祈りします。
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