今週の礼拝メッセージ
2003.2.2(SUN)
神の与える志に答えよう
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 ピリピ人への手紙2章13節〜16節
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に、主を、礼拝できることを感謝します。今日の午後からは、世界の一流プレイヤーが加わった「ざわめきワーシップシャウト」が行われます。ぜひ期待して、賛美にお出かけください。
 さて、今日は、「神の与える志に答えよう」というタイトルで学びます。神様はあなたに志を与え、答えるよう願っておられます。そこには大きな祝福があるのです。聖書は、神と私たちの関係は遠くはなく、近い関係にあると教えています。
 ルカの福音書十九章に、ザアカイがイエス様に名指しで呼び出され、ザアカイの家にイエス様が泊まったというストーリーがあります。ザアカイとイエス様は、それまで、面識がなかったと思います。しかし、イエス様はザアカイに、

『「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』

と語られました。イエス様は、私たちを「名指しで」呼ばれるお方です。今日、ここにおられる皆さんの中で、神に知られていない人はいません。神は一人ひとりを、名前で呼んでくださるお方です。
 ある人は、「私の名前は姓名判断で付けられた」といわれるかも知れません。しかし、あなたの名は、神があなたを救い出すために使って下さった名前なのです。日々主は、あなたを呼び出してくださるのです。
 しかし、聖書は、それだけで止まらず、概念が更に深められているところに素晴らしさがあります。神は私たちの名を知っているだけでなく、イザヤ書四十六章三節には、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

と記されています。「胎内にいるときから担われており、生まれる前から運ばれていた」と記されています。あなたが、お母さんのおなかの中に宿っていたときから、神はあなたを知っていたというのです。
 赤ちゃんが産まれる前には、男の子か、女の子なのかと楽しみにします。最近は事前にどちらかわかってしまう時代ですが、わからない方が楽しみもあると思います。しかし、男として生まれるのも、女として生まれるも、神の計画の中にあるのです。お母さんのおなかの中に、何も知らずに宿っていたその時から、「あなたのことを知っていましたよ」と言うのです。更に、エレミヤ書一章五節には、

『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」』

と記されています。これは、エレミヤに語られた言葉ですが、私たちにも語られている言葉です。神様は、あなたが「母親の胎に形造られる前」から、知っておられたのです。
 時々、「私は望まれないで生まれてきました」とか、「私は間違って生まれてきた」と言われる人がいますが、神にとっては間違いはないです。私たちひとりひとりは、母の胎内に形造られる前から、神の計画の中に導かれていたのです。何か、気が遠くなるような話です。ただ、名前を知っておられるだけではなく、胎内に形造られる前から、知っておられたのです。そんな神の深い計画を知るならば、私たちは、力強く生きることができます。あなたのことを神は確実にご存じです。
 更に、エペソ書一章四節には、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

と記されています。
 宇宙が始まった起源はわかりませんが、ある時、突然始まったというのが定説です。それから生命が地球に誕生した、というストーリーを日本では教えますが、本当は違います。神は天地宇宙を造る前から、人類を、「あなた」を計画されていたのです。ということは、地球ができる前から、私たちが生まれ出る計画があったのです。決して、間違いで生まれたのではなく、偶然に生まれたのではなく、天地宇宙が創造される前から、生まれることが決まっていたのです。この御言葉を読むときに、私たちは励まされます。
 今日、ここにおられる方は、皆、神に忘れられていません。神の素晴らしい計画があることを知ってください。
「あなたには、素晴らしい神様の計画があります!」と宣言し合いましょう。なぜならば、私たちは神の作品だからです。エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 私たちは、神の作品です。神の作品の中で、悪いものはないのです。「良い」というのは、「質の良い」という意味です。私たちは質の良い、神の作品です。しかし私たちは、ただの美術品のように造られたのではなく、神の明確の意志によって造られたのです。
 ピリピ人への手紙からも、私たちがみこころのままに、神の計画の中、神の明確な意志によって創造されたと知ることができます。神は私たちを、ただの置物のように、美術品のように、工芸品のように造ったのではなく、「明確な意志によって」創造されたのです。
 エペソ人への手紙一章三節から六節に、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。』

と書かれています。私たちは天における、「全ての霊的な祝福」をいただいて、この地上に創造されたのです。私たちが造られた目的は、「神のみこころを実行するため」に、神の志を実行するために創造されました。ピリピ人への手紙二章十三節には、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』

と書かれています。神は、私たちに「志」を立てさせ、事を行わされるのです。「みこころ」と「志」は、原文においては同じ言葉です。「神様の志」は、すなわち、「みこころ」です。そして、神のみこころの中で、私たちの思いの中に与えられる「志」は神のみこころの反映です。「あなたがたの内に働いて」とは、「あなたがたのうちに力が働いて」とも訳すことができます。神の力が、あなたに働き、志が与えられ、それを実行するのです。そこにこそ、人生の意義があり、同時に、勝利の秘訣があるのです。そのような中、ピリピ人への手紙はこう語っています。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』

 ある面では、神のみこころを実行する時、「つぶやきや疑いが伴う」と告げています。神は、みこころを志として、私たちに与えられます。しかし、それを実行しようとするときに、志を実行できないよう引き止める力が働くのです。あなたが、志を実行しようとすると、つぶやきや疑いが伴い、「本当にこれで良いのだろうか」とブレーキがかかるかも知れません。しかし、その思いに負けないで、「志を実行しなさい」というのです。
 皆さんがイエス様を信じる直前、どのような思いでしたか?「イエス様を信じようか、信じまいか」と迷い、疑いがあったと思います。また、色々なつぶやきもあったと思います。「クリスチャンになったら、この田舎では生きることができないかも知れない・・・」
 しかし、そんな葛藤を押し切って、イエス様を信じたときに、素晴らしい人生が始まりました。神様のみこころを実行する上においては、そんな障害は付き物かも知れません。しかしそれを突き破り実行するときに、神の祝福があると聖書は教えています。
 神は志を、「実行せよ!」と言い放ち、「つぶやきや疑いがあっても、何しろ頑張ってやれ!」と我々を突き放しているわけではありません。それを助ける存在がおられるのです。イエス様が天に帰られる前に、次のように語られました。ヨハネの福音書十六章七節、

『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。』

 イエス様は十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられ、そして、天に帰られました。しかし、その代わりに、助け主・聖霊が来てくださったのです。神から与えられた志を実行するときに、つぶやきや疑いがあるかも知れません。しかし、そこに神の力が注がれるときに、力を得て、志を実行できるのです。今日、あなたを助けてくださる神の霊、聖霊ご自身が、共に働かれているのです。このことを知るときに、私たちはさらに力強く、困難の中にあっても、勝利することができます。エペソ五章十五節から十九節に、

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』

と書かれています。私たちが神様のみこころを悟り、それに従っていくためには、どうしても「御霊に満たされる」ことが必要です。なぜならば、つぶやきや恐れという、みこころを止める力が働くからです。それを突き破り、神のみこころを行うためには、どうしても聖霊の力が必要なのです。
 『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい』と書かれています。ここには、興味深いことに、聖霊に満たされる人と、酒飲みが対比されています。酔っぱらいには、普段とは違った力が働いていて、悪い意味で大胆になります。会社で上司に一言も文句を言えないような小心者が、酒を飲んだとたんに人が変わり、「部長がなんだ。課長がなんだ・・・」と、文句を言い出します。普段では言えない、心に積もった不満を吐き出します。しかし、酔いから覚めると、またもとの小心者になってしまうのです。あの時の大胆さはどこに行ったのかと思います。
 時々、酔っぱらいのおじさんが寒空の下、道路で寝ている時があります。それを見て、「おじさん、こんなところで寝ていると風邪引くよ。家に帰らなくちゃ」と親切に言うと、「うるさい、俺が心地よく羽布団の上で寝ているのに、何てことをいうのだ。」と怒られてしまいます。そこは羽布団どころか、道路の上であっても、酒を飲んだことで心地よい羽布団のように勘違いしてしまうのです。また、どぶの中に落ちて、どぶ水を体に浴びながら歌っているおじさんを見ることもあります。「おじさん、こんな汚い所にいると病気になっちゃうよ」と言うと、「うるさい、俺が今せっかく温泉に入っていい気分なのに。」と大きな勘違いをしています。酔っぱらいは、最悪の環境でも、そこが最高の場所と感じてしまうのです。
 それとは同じではありませんが、私たちが聖霊に満たされると、どのような環境も、羽布団の上になるし、どぶ水のような環境でも、温泉のような気分で、喜んで神のみこころを遂行できるのです。だから、「聖霊によって満たされていなさい」と言うのです。
 聖霊に満たされるための秘訣として、

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』

 「賛美」は、ただの歌ではありません。カラオケとは違います。賛美は聖霊に満たされるために必要な条件です。賛美するときに、私たちは聖霊の力を受けることができます。気が付くと、今まではつぶやきや恐れなどでみこころが実行できなかったのが、力強く聖霊に満たされて、与えられた志を実行できるのです。
 さて、神が与えてくださった志を実行するときに、どのようなことが起こるのでしょうか。そのことについて、エペソ人への手紙一章三節から四節に書かれています。

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

 またピリピ人への手紙二章十四節からには、

『すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり・・・』

と書かれています。今の世界を見ると、人々は傷を受けて苦しんでいます。心も、体も、自然界さえも傷を受けています。しかし、神は、人間を傷のないものにしようと計画し、創造されたと告げています。傷ついている現代社会は、決して神のみこころではなく、また、あなたが傷ついたままで一生を過ごすことは、決して神のみこころではないのです。神のみこころの原点は、「あなたを傷のないものにしよう」とされているのです。あなたを回復し、傷のない神の子どもとして、御前に立たせてくださるのが神の計画です。
 傷のないものになるため、癒しのためには、どうしたら良いのか?ピリピ人への手紙とエペソ人への手紙を総合して理解できる事は、「神のみこころを実行して行くならば、みこころを実行する過程の中で、傷が癒される」ということです。神が私たちに与えてくださる志を実行するときに、色々な困難があるかも知れません。しかし、聖霊の助けによって、神のみこころを実行して行くと、傷が癒されていくのです。癒しに関連しても、神のみこころを実行することは重要です。私たちが、神からの志に答えることは、結果として傷が癒されることにつながります。そして後になって、それが神が与えられた志であり、みこころであったことを理解できるのです。
 あなたにも神は志を与えてくださいます。「あの人に伝道し、イエス様のことを話しなさい」、また、「あの人にこうしてあげなさい」「あの人と和解しなさい」「あの人の祝福を祈りなさい」など、色々な志を与えてくださいます。そんな中で、色々な困難が伴うかも知れませんが、聖霊の助けによって、神のみこころを実行していくと、その過程で癒しが伴うのです。そして、傷のないものとして、私たちは神の前に出るのです。
 今朝、私がこのことをお話するのは、ごく最近、私に一つのことが起こったからです。去年の暮れに、一つの志が与えられました。一月に私に与えられる、四日間のお休み期間中に、ある所に出かけて行って祈るという志でした。
 私は新城教会で牧師として働かせていただいていますが、特に、「霊的戦い」という分野で働かせていただいています。見えない敵と戦っていくときに、主は、素晴らしい癒しや解放という勝利を見せてくださいます。今年になって、すでに、主が敵の力を打ち破ってくださっているのを、何度も見せていただきました。
 しかし、私にはいつも葛藤があります。神の力が注がれて、色々な問題が解決されていくのを見る一方、全く問題が動かず、解決しないという側面もあるからです。もちろん神様の働きなので、私たちがどうあがいても、どうするともできない領域があるのも確かです。
 しかし一方では、悪魔がどうしても離さない部分があることも分かります。依然として、悪しき秘密の力が働いているのです。これまで、多くの領域で戦わせてもらっているけれど、今までに開かれた部分だけでは十分ではない、もっと深いところに祈りを置かなくてはならないのを感じます。そして主が、「更にわたしを求めなさい。求めたら与えてあげる」「あなたが求めたら、深い部分で戦う秘訣を教えるから」と語られておられるような気がしています。だから私は、常に、「動かない領域があるのはなぜでしょうか?どうか教えてください」と祈っていました。
 そんな祈りの中で、私に一つの志が与えられました。しかし、それはあまり行きたくないような、やりたくないような分野でした。簡単に出来る事なら良いけれど、行きたくない所や、やりたくないことが伴うのです。しかしもしも、それが神のみこころならば、やらなければなりません。
 日本人のほとんどは仏教徒であり、神道です。しかし、それらは偶像礼拝です。そして、諸悪の根元は、「偶像礼拝」にあります。この偶像礼拝により、身に呪いがもたらされるのです。偶像礼拝から離れると、祝福を受けることができます。皆さんも、偶像礼拝から離れたことにより、多くの祝福を受けました。日本の主な偶像礼拝は、「仏教と神道」といいますが、さらに深いところに根があることがわかります。
 日本人は「私は仏教徒です」言います。しかし本当は仏教ではありません。仏教を調べると、実は、仏教はヒンズー教の一派であることが分かります。「私はヒンズーには関係ないです。仏教です」といわれるかも知れませんが、東大のインド哲学のある教授も指摘しています。「日本人は仏教徒だと言っているけれど、本当はヒンズー教徒だ」と。ヒンズー教はカースト制度など、強い民族性を持っています。しかし、このヒンズーを、海外に輸出するために作られたのが、「輸出用のヒンズー教」すなわち、「仏教」だというのです。仏教は、そもそも哲学なので、仏像などはありません。しかし今はどうでしょうか。仏教にまつわる、多くの偶像があります。それらはのほとんどが、ヒンズー教関連の神々から来ています。
 案外、知られていないのですが、日本にはヒンズー神をそのまま受け入れ、拝んでいるものもたくさんあります。この付近に、豊川稲荷がありますが、それは「ダキニ」という「ヒンズー神」です。また「七福神」というのがありますが、それらもすべて、ヒンズーの神々です。皆、知らないでヒンズーの神々を拝んでいます。ということは、私たちクリスチャンは、イエス様の十字架と復活で勝ち取られたの勝利の旗印を、ヒンズー教の世界にも宣言する必要があるのです。日本にヒンズー教の領域から悪魔は働くことはできないと、新しい契約を宣言する必要があるのです。主は、このことを教えてくださいました。その為に、ヒンズー教の拠点に行って、戦って祈らなければならないと、神からの促しを受けたのです。
 皆さんも、まさかヒンズーの霊的環境とつながりがあるとは、考えたこともなかったかも知れません。日本は中国の影響を大きく受けていますが、更に、ヒンズー文化の影響を強く受けているのです。インド、ヒンズー文化を除外したら日本文化はあり得ないと論じている学者もいます。
 日本人はカレーライスが好きです。カレーを食べないと一週間が始まらないという人が私の仲間にもいます。それも、新城教会のカレーが良いというのです。しかし、カレーはどこから来ていますか?インドから来ています。カレーは別名、「黄色魔王」と言います。黄色魔王は仏教の守護神、「マッサーラ」と言うものです。そしてカレー・ライスに一番の付け合わせは何でしょうか。福神漬けです。あれは七福神を現しています。仏教の神、黄色魔王に、七福神を配備して完璧な食品となると言うのです。新城教会の昼食はカレーですが、礼拝で、「ハレルヤ!感謝します」と言っても、その後、黄色魔王と七福神を食べて、元も子もなくなってしまったら大へんです。今日から、よく祈ってカレーを食べていただきたいです。
 特に、ヒンズー教が地域全体に浸透している場所があります。それはインドネシアのバリ島です。そこに行くと、島民の九十パーセント以上が、熱心なヒンズー教徒です。主が、昨年の暮れに、「バリ島のヒンズーの拠点の寺院に行き、イエス・キリストの名によって悪霊の力を打ち破り、日本とのつながりが完全に打ち破られるよう、祈ってきなさい」と志を与えてくださいました。しかし、その志を受け取ったとき、「私は行きたくない」と思いました。
 バリに行くツアーはとても安いです。現在、バリに行く人があまりいないからです。なぜならば、去年十月にバリなおいて大きなテロが起こり、一瞬にして多くの人が死んだからです。日本人も亡くなりました。大惨事でした。以来、観光客が激減したのです。しかし主が、「テロの現場にも行き、世界がテロで苦しめられることがないように祈る」という、志も下さいました。しかし私はあまり気が進みませんでしたが、それが神からのみこころだと思い、家内に話しました。家内に、「今度休みに、自分たちの費用で、そこに行って祈らないか?」と言うと、「私もそう思うから行きましょう。」と言いました。それで、二週間前、私たちはバリに行きました。そしてまずは、クタというところにある、テロによる爆発現場に行き、回復を祈って来ました。
 今回、私はバリに行き、「日本は偶像が少ない、良い国だ」と思いました。バリは、日本の家から、神棚や仏壇、札などをすべて出して玄関先に陳列したような場所でした。ですから、通りには、二メートルおきに偶像があるような感じです。初日から、「こんなところに来るんじゃあなかった!」と思いました。
 また、もう一カ所、バリ、ヒンズーの総本山「ブサキ寺院」に行き、戦い、祈ってくるよう、志が与えられました。それは、アグン山という標高三千メートルの霊山の中腹にあり、三十程の寺が密集した場所です。
 私はブサキ寺院について事前に調べましたが、調べれば調べるほど、そこに行くのが嫌になりました。なぜならば、そこは単独で行くのには危険な場所で、ツアーに入って出かけて下さい、と書かれていました。しかし、ツアー・ガイドがいると、なかなか熱心に祈れないので、自力で行かなくてはいけないと思いました。だから、バリに行ってみて、行けそうならば行こうと思っていました。
 到着後、ツアー会社の人に、「ブサキ寺院まで行くのに、どのくらい費用がかかるか?」と聞くと、「一人七千円だ」というのです。二人では倍かかります。私は、もっと安く行きたいと思っていたので、調べてみると、白タクと交渉して行けばタクシー一台を、一日、四千円くらいでチャーターできるのです。でもそれにも、危険が伴うというのです。また寺院に入った途端、お金をせびられたり、怖い人たちに囲まれるようなことがホーム・ページに掲示されていました。私は、そんなところに行きたくないという思いもありましたが、勇気を出して聖霊様の油注ぎをもらい、出かける事にしました。「良い運転手が与えられますように、私よりも弱そうな運転手が見つかりますように」と祈っていたら、私よりも背が低くて、大へん人の良さそうな運転手が見つかりました。四千円程支払い、彼を雇うことにしました。彼は私のことを「ボス」と呼び、どこにでも連れて行ってくれました。ついに、その山の上まで登っていきました。
 ブサキ寺院に着き、運転手は駐車場から外には出ませんでした。私は家内と共に、ブサキ寺院への道に徒歩で入って行きました。すると途端に、若い男たちが十人くらい来て、私たちを取り囲み、「俺たちはお前たちを守ってやるから、金をよこせ!」と言うのです。私は、「お前らなんかには守ってもらう必要はない!」と強く断りました。しかし、なかなか、しつこいのです。家内は、「もうこの辺で祈って帰ろうよ」と言いましたが、私は何か、勇気が沸いてきて、「ここまで来たのですから、一番奥まで行かせてください」と祈って、彼らと話をつけて中に入って行きました。さらに奥に入って行くと、次の連中が来て、「ここからは俺たちのテリトリーだ。俺たちが守ってやる」とうるさいのです。しかし、それでもめげずに、一番奥まで入っていきました。ついには、寺院を一周して、ヒンズーの根元に座して、日本にまで悪い影響を与えている、ヒンズーの悪霊が打ち破られるようにと祈りました。
 すべてを終え、山から下りてホテルに帰ってきました。往復八時間ぐらいかかり、少し疲れました。でも、行けて良かったと思いました。
 しかし、ふっと思いました。「こんな事をしていて、少しくらい効果があるのか?これが神のみこころではなかったら、バカみたいだ」と疑いが出てきました。「今回私は、休暇のために、お金を使ってここまで来たのに、何ってこった。」「危険をおしてまで祈ってきたものの、日本で何の変化もないとしたら、何もならない」と思いました。それで、少々ふてくされて寝てしまいました。
 夜中三時頃、私の家内は聖霊様によって起こされ、祈ったそうです。その寺院の最高神と呼ばれる悪霊が、挑戦してきたような感じがして、「イエスの名によって、打ち破ります!」と夜中に戦って祈ったそうです。しかし私は霊的に鈍感なのです。全くそんなことはなく、ぐっすりと寝ていました。
 翌朝、家内は起きるとすぐに、「あの、サンヒャン・ウィディ(ヒンズーの最高神)め!!」と怒っているのです。私は家内に、「あんた、何言っているの?」と言いました。
 私は世界のどこにでも、コンピューターを持っていき、どこからでも、電子メールを受け取る術を知っています。私はバリからもメール・チェックをしました。すると、私の娘からメールが届いていました。どんなメールが来ていたと思いますか?実物のメールを、皆さんに映像でお見せしましょう。

題名: Re:Re:
日時: 03/01/24 3:49:49 東京 (標準時)
From:
To:
電話ちょうだい!何時でもいい!はやく!!

 海外で、娘からこういうメールをもらったら、どんな気分になると思いますか。日時を見ると、一月二十四日の早朝、「三時四十九分四十九秒」です。そんな時間にこういうメールを送信した娘に対して、「うちの娘はよほど、私の声が聞きたいんだ」と考える人はまずいないでしょう。
 私も、家内も、このメールを受け取り心が騒ぎました。家で何か、かなり悪いことがあったと思い、覚悟して電話をしました。
 ブサキ寺院に祈りに行った夜、家内は夜中の三時頃(日本時間)に起こされて、祈っていました。私の娘はその晩、丁度、テスト勉強をしていて、起きていたそうです。すると突然、彼女は首が締め付けられ、押さえつけられて、そこにヒンズーの悪霊が現れたそうです。そして、耳元で機械音のような男の声で、「キイロイ・カミサマガ・オリテキタ!」とはっきりと聞こえたそうです。娘はびっくりして、すぐに「イエス様!」と叫ぼうとしましたが、押さえつけられて声が出なかったそうです。でも、まずは真剣に心の中で祈り、やっと声が出て、イエスの名によって「悪霊よ、退け!」と祈ることができたそうです。その途端、「バリに行っている両親が危ない!」と思い、真剣に私たちのために祈ったそうです。そして、はっと気付いたら、恐ろしくなり、夜中に別棟に住んでいる兄ちゃんの所に行って、一緒に祈ってから、そこで寝袋で寝たそうです。だから、こういうメールを送って来たのです。
 まさか、バリの山の上で祈って、日本でそんな動きがあるとは思いもよりませんでした。私はただ、「行って祈ってきなさい!」と志を与えられ、実行しただけでした。しかし、みこころに沿って志を実行した時に、霊的世界では、大きな動きがあることを主が私に教えてくださいました。
 「日本は、仏教というけれど、根底にヒンズー教の悪霊も共に働いているから、それらを打ち破る祈りをしないと、なかなか教会もうまく行かないし、問題も解決しない。だからあなたバリに送ったのですよ・・・」と。
 そして、私が神のみこころによって遣わされたことがわかるように、娘にも不思議なことが起きたのだと思います。以来、私の娘も変えられました。一緒に祈ったり、県民の森祈祷会にも出たりと、熱心に主に仕えるようになったのです。この事を通して、主は、私の家族にも触れてくださいました。
 私は今、期待しています。これから、新城教会では、今まで動かなかったような領域が動き出すと期待しています。今まで、癒されなかった病も、癒されると信じます。きっと主が、何かをしてくださると期待しています。
 これはごく最近、私に起きたことですが、それは、ちょっとした「志」から始まりました。初めは、行こうか行くまいかと迷いました。しかし、神のみこころに従ったときに、それが、無駄なことではないと分かりました。

『自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。』

 キリストの日とは、やがてイエス様と出会う日です。この地上においては、神の計画の全容を知ることはできないかも知れません。ある意味、断片的にしか、知らされないのかも知れません。しかし、やがて全貌を知る日が来るのです。
 皆さんにも神は、みこころを持っておられます。そしてそれを、あなたに「志」という形で示してくださいます。決して、つぶやかず、疑わずに行ってください。そして、神から与えられた「志」を行うためには、十分な力を授けてあげます、と約束されているのです。その時に、あなたの傷も癒され、神の偉大なわざを見ることができるのです。今はわからないかも知れませんが、後になって神様のみこころに沿った行動であったことがわかると聖書は語っています。
 それぞれの立場の中で、主は、それぞれの計画を持っておられます。そして、各人に志を立てさせ、実行するように促されます。それを実行するとき、神の国は力強く前進するのです。
 これが今回、御言葉を通し、業を通して、私の心に主が教えてくださったように感じます。神のみこころを実行し、神の志に答えるものにさせていただきたいと心から願います。
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