今週の礼拝メッセージ
2003.2.9(SUN)
神に愛されている人よ
新城教会 滝元 明 牧師

旧約聖書 ダニエル書 10章19節
言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」

 ハレルヤ!今日はここで礼拝できることを感謝します。皆さんのお祈りに支えられ、二月一日から沖縄を巡回して、名古屋ミッションの決起大会を行い、祝福されて感謝します。今日から愛知県民の森で拡大聖会があり、またその後もスケジュールが入っており、特別、今月は忙しい中にありますので、私のために覚えて祈ってください。拡大聖会には遠く、沖縄からも来られます。主を慕い求めておられるクリスチャンが各地から集まられますので、近いところにいる皆様はぜひ、拡大聖会にご参加ください。
 沖永良部島に行くと、リバイバル聖書神学校で学ばれ、この教会で三年間礼拝を共にした、今栄先生夫妻がおられ、開拓伝道をされております。去年は五名がバプテスマを受けたと言われました。今は十数名で礼拝を持っているようですが、私が行ったときは、二十数名が集まられました。子どもたちも、とても大きくなり立派になっていました。今住んでいるところから、立ち退いてもらいたいということで、土地を探して教会を建てると言われていました。候補地を一緒に見に行きましたが、今栄先生が生まれた実家のすぐ側で、三百坪の良い土地がありました。ご両親が、「この近くに来て、教会をするならば、私たちが土地を買ってあげる」と言ってくださったそうです。三年後に、教会を建てるそうですので、ぜひ、お祈りください。そして今栄先生夫妻は、九月十三日から二十三日までの名古屋ミッション行きたいと目標を持っていました。沖永良部島から、鹿児島まで船で二十時間かかり、車で名古屋に来て日曜日には新城教会に来られる予定をたてているようです。神を愛している兄弟姉妹に会うことができ、感謝しました。皆様によろしくということでしたので、皆様もぜひ覚えてお祈りください。
 これから御言葉を学びます。牧師は牧会する者のことを言います。羊飼いのことを牧者と言います。私たちの仕事は、ある意味で羊飼いや牛飼いのようなところがあります。牛飼いは、牛の乳を搾り美味しいミルクを皆に提供します。牧師の仕事は、神様の前にお祈りして、美味しいミルクを絞って皆さんに与えるようなものです。今日与えられた聖書の御言葉は、私が一月二十八日に早天祈祷会で神様が語ってくださった御言葉です。とても素晴らしい御言葉ですので、皆さんも信仰を持って受け止めてください。

『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』

この御言葉は、神がダニエルに語られた御言葉ですが、この御言葉をダニエルではなく、「私に語りかけてくださる」と信じたら良いと思います。私が開拓伝道に入ったときに、田口の旅館で「我、さらに汝を去らじ、汝を捨てじ。」とイエス様が声をかけてくださったことがあり、それで立ち上がりました。「我、さらに汝を去らじ、汝を捨てじ。」という言葉は、旧約聖書のヨシヤやモーセに語られた言葉です。昔に神様が語られた言葉を、今でも私たちがいただくことができます。またもう一つ、「我、必ず汝を恵み恵まん。増やし増やさん」という言葉が私の心に宝のように入っています。それは神様がアブラハムに語られたことを、私自身が受け取りました。今日は、ダニエルに神様が語られた言葉を、皆さんに与えられていますので、今日これを信じてください。

『「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」』

 この言葉を信じたら力づけられます。また弱さの中にあっても、強く立つことができます。この言葉は、どこで語られてのでしょうか。ペルシャ王クロスの第三年に語られたと書かれています。その場所は、ヒデケル川と書かれています。これはイラク付近にあります。今イラクの情勢が悪く、戦争を起こす問題になっていますが、戦争にならないように祈らなくてはなりません。イラクの人も対立するアメリカも、イエス様に造られた人たちです。戦争するというのは指導者です。戦うのは兵士で、死ぬのは指導者ではありませんので、戦争ほどバカらしいものはありません。だから戦争にならないように、祈らなくてはなりません。
 捕囚になったダニエルに、神様が語られたのは旧約時代の三位一体のキリストが現れたのだと思います。ダニエル書十章五節から六節にこのように書かれています。

『私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。』

ヨハネ黙示録の中でパトモス島で、ヨハネに復活のイエス様が現れたのと同じ姿です。また十一節から十四節に、

『それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」』

と書かれています。捕囚になっていたダニエルが、二十一日間断食をして神様に祈っていました。お祈りした時から、その日に祈りが聞かれていたが、答えが与えられるまでに、二十一日間かかったというのです。ペルシャの君というのは、霊的にサタンが妨げ、そこに天使ミカエルが来て助けたということです。私たちも時々、お祈りするときになかなか答えられないときがあります。しかし、祈ったときは祈りが聞かれている、という信仰を持たなければなりません。ダニエルは、神に愛されており、旧約聖書の中で神の前に義人と呼ばれています。義人にノア、ヨブ、ダニエルの三人があげられています。素晴らしい人でした。彼は捕囚でバビロンに行ったときに、彼を含む四人の青年が王のところに行き、王が飲み食いさせる時に心に定めていたことが書かれています。ダニエル書一章八節、

『ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。』

と書かれています。神様に愛されることは心に決めることです。絶対に飲まない、汚さないと決めて、神様に従ったダニエルを神は祝福されました。私たちも心を決めましょう。イザヤ書二十六章三節に、

『志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。』

と書かれています。私たちは信仰によって救われますが、意志表示が必要です。だから志が必要です。「私はイエスを信じます。」という意志を持つことです。志の堅固な者を主は、守られると書かれています。ダニエルの志がしっかりとしていたので神から愛されていたと思います。
 また、聖書をみると、へりくだって祈ったので祈りが聞かれたとも見ることができます。ダニエルが神の前にへりくだっていたので、神に愛されていたことがありました。「神に愛されている人よ」と書かれています。「神に愛されている人よ」の「人」というところに、自分の名前を入れてみてください。今日、皆さんは神に愛されていると信じますか。信じましょう。時々、あの人は愛されているが、私は駄目だと思う人がいます。また、私はそんなに神様に愛されていない、と考える人がいますが、あの人はどうでも良いけど、「私は愛されている」と信じなければなりません。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」と語られているので、「私は神に愛されている」と確信すべきです。
 聖書の中には、神に愛されている人がたくさん出てきます。一番神に愛されていると信じていたのは、ヨハネだと思います。ヨハネの福音書を調べると、興味深いです。イエス様が十字架につく前に、心騒いで弟子たちと食事をしながら話しました。イエスさまが、「あなた方の中で私を裏切る者がいる」と言いました。その時に弟子たちは暗くなり顔を見回しました。その時ペテロが一人の弟子に合図しました。「誰だか聞いてみろ」と合図しました。その時のことが書かれています。ヨハネの福音書十三章二十三節に、

『弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。』

と書かれています。「イエスの愛している者」と書かれていますが、それが誰とは書かれていません。これを尾山令仁先生の訳された現代訳聖書を見ると、

『イエスが特に愛しておられた弟子の一人がイエスの右側で食事の席についていた。当時食事をするときは体を横にし状態を左肘で支えていたのでこの弟子はイエスに話をするとき、イエスのみ胸に寄りかかるような格好になった。』

と書かれています。イエスの愛している弟子が、イエス様の胸に寄りかかって「イエス様、裏切る人は誰?」と聞いたのです。口語訳聖書には、

『弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。』

と書かれています。イエス様に甘えていたような描写が浮かびます。その時イエス様が、「私と一緒にパンを鉢に浸す者がそれだ」と言いました。それが、イスカリオテのユダでした。そしてイエス様は罪のために十字架にかかられて、復活してから弟子たちに現れました。ペテロに現れて、「あなたはわたしを愛するか」と三度聞き、「ついてきなさい」と言ったときのことが書かれています。ヨハネの福音書二十一章二十節に、

『ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。』

と書かれています。イエス様を愛された弟子が後について来たと書かれています。そしてヨハネの福音書二十一章二十四節に

『これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。』

と書かれています。愛されている弟子が、胸の側に寄り添っていたとか、あとについて来たとか自分の名前を解き明かしてはいませんが、最後に、「それを書いたのがその弟子、私、ヨハネであった」と語っています。私たちも、「神に愛されている人よ」ということを信じてください。
 とにかく「私は、神様に愛されている人だ」という信仰を持つことです。私たちが本当に神に愛されているという信仰を持てば人生が変わります。また、祈りが変えられます。お祈りしても、祈りを聞いてくださるかどうかと考える人もいますし、私の祈りは駄目ではないかと考える人もいます。しかし、確信を持って「私は神に愛されている、だから私の祈りは必ず聞かれる・・」自分が神に愛されているかどうかを、信じるかどうかが一番大切です。
 ヨハネ第一の手紙を見ると、ヨハネの書いた手紙は愛がいっぱいです。第一ヨハネ四章七節から十一節に、

『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』

と書かれています。十節に、

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

「神に愛されている人よ」の根拠は、あなたが神を愛したのではなく、神があなたを愛し、イエス様をなだめの供え物として、ご自分をお与えくださったからです。わかりやすく言うと、罪のない神の御子をこの地上に救い主として与えられ、イエス様が身代わりとなって死んでくださったほどに、愛しているということです。
 聖書の中にある一番大きな愛は、「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」と書かれています。聖書は私たちが罪人であったとき、キリストが私たちの罪のためになだめの供え物として、私の罪のために代わりに死んでくださったと語っています。私たちが罪人であったときに、神がイエス様を送られ、イエス様が罪の身代わりに十字架で死んでくださったほど、愛してくださっていると信じますか、ということです。あなたが愛されている理由は何かというと、あなたのためにイエス様が代わりになって死んでくださるほど、あなたは愛されているのです。私たちはこの事実を素直に、感情でもなく、信仰によって受け取ることです。私を愛して救ってくださっていると信じることです。私の好きな言葉に、『私は反抗するもののために終日愛の手を差し伸べている』という御言葉があります。
 今朝は、ピアノの独奏を聞きましたが、私は時々、クラシック音楽を聞くと、なぜか、自分の故郷を思い出します。あんな山の中で生まれたのに、イエス様を信じることができた、幸せだと思います。私は十九歳まで、イエス様のことを全く知りませんでした。初めてイエス様のことを聞いて信じましたが、それまでは無神論者でした。神なんかいない、宗教はアヘンだ、キリストなんか・・・と悪口を言ったことがあります。しかしこんな私を、神様が愛してくださり、教会に導いてくださり、救われたと思うとき、何と素晴らしい神様の愛だろうかと心から感謝します。ですから、今日ここに来られている方で、神様に愛されていない方は一人もいません。たとえ、自分の行いが悪かったとしても、愛されています。イエス様が代わりに死んでくださったこと、また今日ここにおられる方は、神によって造られたのです。そしてこの教会にいることは、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ」と書かれています。神に選ばれて、ここにあることは、「今日私は愛されている」と信仰を持つべきです。ヨハネは愛されているという、確信があったのです。ヨハネ第一の五章十四節から十五節に、

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

と書かれています。ヨハネは、神様に愛されていたので御心にかなう祈りは、必ず聞いてくださると確信していたのです。ということは、祈ったことは既に聞かれていると信じるのです。まだ家族が救われていない方もここにはおられます。救いを願っていると思います。家族が救われるのは御心だと思いますか?それは御心です。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。』と聖書に書かれています。滅びに向かっている人のために、「あの友だちを救ってください」と祈ることは御心ですので、信仰を持つことが大切です。祈ったことは聞かれる、私は愛されていると信じることです。
 沖縄から沖永良部まで飛行機で行きました。セスナ機という小さな、八人乗りの飛行機です。滑走路に出て離陸するという時になって機長が、「すみません。今沖永良部の空港の滑走路に穴があいて、空港が閉鎖になったという連絡がありました。一度引き戻します」と言いました。それですぐに、携帯電話で今栄先生に電話しました。「いつ行けるかわからないので祈ってください。」また、ミッションにも電話して、祈りを要請しました。そして私も祈りました。祈ったときに、神に愛されている人よ、という御言葉を考えて確信しました。「どうか、今日中に行くことができ、集会ができるように」とお祈りしました。すると、三十分後に機長がひとまず、喜界島まで飛行します。それから空港が直ったら、また飛行します」と言って飛び立ちました。私は疲れて機中で眠っていました。そして目を開くと、島が見えました。与論島でした。そしてしばらくして、飛行機が着陸しました。どこに着いたのだろうかと思うと、沖永良部島でした。本当は朝十時に到着予定が、三十分遅れ十時半でした。今栄兄弟が迎えに来ていないのです。それで電話して、迎えをお願いしました。神に愛されていると信じたら良いのです。ゼパニヤ書三章十四節から十七節に、

『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。』

と書かれています。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。」安らぎです。「強くあれ。強くあれ。」神があなたのただ中にいるから、強く生きなさいということです。リバイバル拡大聖会は来るだけではなく、信仰を持ってください。今年こそリバイバルが日本に来るようにと信じてください。

『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』

信じて受け取りましょう。まだイエス様を信じていない方、あなたも愛されています。神の愛の中に飛び込んでください。お祈りします。
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