今週の礼拝メッセージ
2003.2.16(SUN)
あなたは丈夫ですか?病人ですか?
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 マタイの福音書 9章10節〜13節
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 ハレルヤ!今日は初めて教会に来られた方にも、わかりやすくお話ししたいと思います。「あなたは丈夫ですか?病んでいますか?」という主題で学びます。ここに来られたのは、ある意味、健康な証拠だと思います。しかし、聖書は病んでいることに関して、ただ体の健康だけでなく、「罪人」という意味を持って語っています。

『イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人だ」とイエス様は言われました。医者にかかるのは病人です。直ってしまうと医者はいりません。私も現在、歯医者にかかっています。ある意味で、教会には色々な問題を持って来られます。しかし、直ったら来なくなるのではありません。続けて、イエス様とともに歩む場所が教会です。
 イエス様は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。「マタイの福音書」はマタイが書きました。マタイの福音書九章九節に、

『イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。』

とあります。マタイは自分自身のことを記しているのです。マタイは自分の体験から、この書を記している面もあります。そのような中で、罪人とは、マタイ自身のことでもありました。イエス様がマタイを救ってくださいました。マタイは、「私は救われました」と人々にその事実を告げています。収税人とは、「罪人」と呼ばれていました。
 税務署に勤めている人がいるかも知れません。この時期、税金関係の方々はとても忙しいかも知れません。
 この「収税人」には、時代的背景があります。当時イスラエルは、ローマ帝国の属国でした。ローマは、ユダヤ人の中から収税人を選び、税金を集めさせ、ローマに届けさせていました。それで収税人は憎まれていたのです。彼らは、決められた額よりも多くの金額を徴収し、差額を自分の懐に入れていたからです。マタイが収税所に座っていたとは、彼はガリラヤに住んでいましたが、出入り口に収税所があり、彼は毎日そこに座して、通行税や市場税、持ち込まれるものに関税をかける仕事をしていました。彼はそこで税金をピンハネをして、自分の利益にする悪どい人でした。そんなマタイが救われて、イエス様の弟子となったのです。マタイはそんな経験から、「イエス様は罪人を招くために来てくださった」という記事をのせたのでしょう。
 イエス様は、マタイの家で食事をしていました。そこには収税人が集まっていたと思われます。それはマタイがイエス様に従うようになった後なので、お別れパーティーではないかと思われます。その中にイエス様がおられました。当時の習慣では、宗教家が罪人と共に食事をするようなことは決してありませんでした。しかしイエス様は、そのただ中で食事をしていました。
 当時の宗教家パリサイ人がイエス様を見つけて、弟子たちに、「なぜ、あなたの先生は、罪人と共に食事をするのか」と指摘しました。イエス様はこれを聞いて、

『「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

と言われました。イエス様はこの地上に、罪人を救うために来られました。イエス様は、「正しい行いをしましょう」と吹聴しながら、自分の行動は違うような宗教家とは違いました。
 今日、イエス様はどのような人に目を留めておられるのでしょうか。それは、病気で病んでいる人や、罪人といわれるような人々とともにおられます。今日ここに来て、「場違いのところにきてしまった」、または、「クリスチャンになるためには、生活を改めてから来なくては」と思っていたら、そんなことは心配しないで下さい。教会とは、イエス様がおられるところです。イエス様は罪人のために来られたのです。そして、私たちが救われるための条件は、「自分が罪人である」と認めることです。イエス様を必要とするのは自分が正しいと言っている人ではなく、罪人なのです。イエス様の前に出たら、全員罪人です。正しい人は誰一人いません。神の義と比べたら、私たちは足元にも及びません。そんな私たちのために、イエス様はこの地上に来てくださいました。
 ここで、旧約聖書ホセア書の御言葉が引用されました。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』と言われました。一般的に宗教には、「いけにえをささげる」という性格があります。
 私は一ヶ月ほど前、インドネシアのバリ島に行きましたが、バリ島の宗教儀式は、いけにえをささげることに終始します。食べ物を神にささげるのが、神への奉仕であり、祈りの現れだというのです。日本の宗教も、そのほとんどが儀式です。しかし、イエス様は、人々から、いけにえや犠牲をささげてもらう目的で地上に来られたのではありません。もちろん、イエス様は神様なので、どれだけいけにえや犠牲をささげても足りないです。しかし、イエス様は、「いけにえよりも哀れみを好む」と言われました。イエス様は、私たちに、「いけにえをささげなさい」と言われる方ではありません。逆に、私たちに対して、哀れみ深いお方です。
 当時の宗教家パリサイ人たちは、いけにえを人々に要求していた人たちでした。しかし彼らに欠けていたのは「哀れみの心」でした。しかし、イエス様は哀れみの心を持って地上に来られました。
 私たちを見て、苦しんでいたり困っているならば、哀れみ深いイエス様はそれを解決してくださいます。あなたを助けるために、あなたの目の前におられるお方です。
 イエス様がこの御言葉を語られた後、マタイは、イエス様が起こされた奇跡についてレポートしています。マタイの福音書八章、九章には十の奇蹟がレポートされています。今日のテキストの後、四つの奇蹟が並べてあります。それを見ると、イエス様はただの人ではなく、神の子であるのがわかります。
 イエス様が「哀れみの心」ということで話しているときに、会堂管理者がきてイエス様にお願いしました。

『イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」』

 「私の娘が死んでしまいました。でも、あなたがきてくださって手を置いてくだされば生き返りますから」と言いました。人間は死んでしまったら、どうにもなりません。生きている間には、何とか助かる可能性もありますが、死んでしまうとどうにもなりません。いくら技術が進んでも、医学が進んでも、死人をよみがえらせることはできません。これが出来得るのは、命を与え、命を取り去ることができる方以外にないのです。それは神以外にありません。
 この申し出に対して、イエス様は、「行って生き返らせてあげよう」と死んでしまった娘のところに出かけて行ったのです。
 しかし、その途中、一つの奇跡が起こりました。十二年間、長血を煩っていた女性が、イエス様に近づいてきました。イエス様はどこに行っても大群衆が集まり、近づけないほどでしたが、十二年間長血を患った女は、「衣の裾に触れたら癒される」という信仰を持ち、イエス様のところに潜り込んで衣の裾に触りました。するとたちどころに、病は癒されました。ここから、私たちも癒されるために、信仰が必要であることがわかります。会堂管理者も、十二年間長血を煩った女も、イエス様に期待しました。「イエス様なら、何とかしてくださる」と期待しました。
 今日皆さんも、イエス様に期待してください。イエス様は救い主ですので、私たちの問題を取り扱い、病をも癒してくださるという期待感が必要です。彼らはイエス様に期待して、奇跡が起こりました。一度死んだ少女が生き返り、起き上がるという奇跡が起こりました。

『イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。』

 ただ、寝ていて起き上がったのではありません。死んでいた少女が起きあがったのです。すごい奇蹟です。またイエス様がそこから出ていくと、九章二十七節に、

『イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。』

と書かれています。二人の盲人が、イエス様に期待してついていきました。「ダビデの子イエス様」と叫びました。「ダビデの子」とは、「メシヤ」であり、「救い主」という意味です。「救い主イエス様、私を哀れんでください」といって盲人たちがイエス様に近づいてきました。この時もイエス様は、「わたしにできると思うのか」と聞きました。「そうです主よ」と彼らが信仰を告白した瞬間、目が開きました。これは神以外にはできないことです。イエス様は、ここでもご自分が神であることを示しておられます。
 また、九章三十二節から三十三節に、

『二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。』

と書かれています。この人は悪霊に口が押さえられていて、話すことができませんでした。その時に、イエス様は悪霊を追い出されました。すると、口が解かれて話せるようになったのです。イエス様は、哀れみ深いお方です。このように、周りにいた、苦しんでいた人、病人、わずらいを持っていた人々をことごとく癒されました。九章三十五節から三十六節に、

『イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。』

 イエス様は町や村を残らず回って、ありとあらゆる病気を癒されました。今日もイエス様に期待しましょう。イエス様は、昔も今も変わらないお方です。私たちのわずらいを身に引き受け、問題を取り去ってくださる、哀れみ深いお方です。「自分は健康ではない、病人だ」と言われる方に、イエス様は哀れみの目を注いでくださっているのです。
 当時、イエス様お一人では、廻りきれないほど多くの人が問題を持っていました。それでイエス様は弟子たちに、

『そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」』

 「弟子たち」とは、イエス様が選ばれた「十二人」のことです。「弟子」とは、そもそも何でしょうか。今日は夜、ゴスペル・サパーがあります。今晩は琴の演奏があります。米田祥子姉と、彼女のお師匠さんが来られて演奏してくださいます。祥子さんは弟子です。だから琴を演奏できます。弟子とは、師匠について師匠の技術を習うのです。
 「イエス様の弟子となる」とは、イエス様に弟子入りし、イエス様と同じことができるようになる事、それが、弟子の姿です。そしてイエス様は弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われました。弟子たちが師匠、イエス様のようになるために必要なのは「祈り」だと言われました。そしてマタイ十章一節に、

『イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。』

と記されています。イエス様は、十二弟子を選ばれましたが、それはイエス様の行っている働きを、彼らに授けるためでした。この中には、始めは罪人、病人と呼ばれた収税人、「マタイ」も含まれていました。昔は、悪霊の奴隷となり、罪人と呼ばれていたようなマタイでさえも、十二弟子の一人となり、やがてイエス様から権能をいただき、悪霊を追い出し、あらゆる病気、わずらいを癒すために出ていき、イエス様と同じ仕事をしたのです。
 イエス様はこの地上に、罪人・病人と呼ばれる人々のために来られました。そしてその人々を癒し、解放し、やがて「弟子」となってイエス様と同じ働きにつくのです。
 今日ここにおられるすべての方々、イエス様はあなたの病を癒すだけではなく、問題を解決するだけではなく、罪を赦すだけではなく、イエス様と同じ仕事につかせようと計画されています。それを信じてください。
 さて、先週私は、大阪にある「弟子教会」で奉仕しました。その教会は、全日本の教会の中でも大変有名な教会です。現在、マスコミを賑わしているキリスト教伝道団体に、「ミッション・バラバ」というのがあります。それは、元ヤクザの人々が、イエス様を信じ変えられて、キリスト教の伝道者となり、「親分はイエス様」と叫んでいる集団です。テレビや雑誌などで見たことがあるかも知れません。彼らは昔、__組というようなヤクザの世界で、二十年、三十年と生活していた人ばかりです。その人たちがイエス様と出会い、伝道者になっているのです。彼らの「イエス様しか救うことができない」というメッセージには説得力があります。この教会にも来ていただいたことがありますが、この「弟子教会」の先生は、バラバのメンバーの一人、金沢先生です。先生は、去年中高生集会に来てくださり、素晴らしい奉仕をしてくださいました。その時は、百名ほどの中高生が集まり、七割から八割がクリスチャンではありませんでしたが、最後に金沢先生が、「罪人は皆立ってください。」と言うと、百名近い中高生は全員立ち上がりました。「私の後について祈ってください。イエス様と言いなさい」と言うと、中高生たちは皆、「イエス様」と祈っていました。
 そのとき金沢先生が、「順先生。今度は一度私の教会にきてください」と言われました。「なぜですか」と聞くと、「私の教会は特殊な教会です。」と言いました。メンバーの三分の一ほどが昔は特殊なことをしていた人たちだからです。そこには、元ヤクザや現役という人もいました。薬中毒の人もいました。風俗で働いていた人もいました。そんな教会が日本にあります。そして全国から、覚醒剤中毒で苦しんでいる人や、その親たちが助けを求めてくるのです。また、組から抜け出したいけれど、どうしたら良いかと、金沢先生からアドバイスをもらったり、祈ってもらいに来ています。そして、その多くが更生しているのです。覚醒剤中毒者も多く解放され、喜んでいます。賛美チームは、そのほとんどが元覚醒剤中毒の人々でした。その教会で誰かに挨拶したら、まずは小指を見なければなりません。そうかと思うと、有名なテレビ番組に出演している人も来ています。弟子教会では、誰が元ヤクザか、誰が社会的に地位があるかなどは一切関係がありません。「弟子教会」は素晴らしいと思いました。
 教会は、その人の背景などは関係がないのです。位置づけは全員、「罪人」です。しかしイエス様によって赦された者たちです。
 金沢先生から、「土曜日昼過ぎくらいから、その中でも、特にたいへんな問題を持った人たちを集めますから、一人ひとり面接して祈ってください」と言われました。どういう人たちかと不安に思いながら行きました。一人三十分間隔で、色々な人たちが祈りを求めて来られました。ほとんどが「元」のつく人たちでした。その人たちに解放の祈りをしました。
 ある女性が入ってこられました。金沢先生が、「私はこの女性が教会に来たとき、思わず背筋が伸びました」と言われました。なぜならば、彼女は有名な極道の妻でした。
 そのような方々と話してみてわかることは、だれでも内側は寂しいという事です。そして問題に満ちています。お話ししてみて、人間は誰も変わらないとつくづく思いました。
 イエス様は人々をご覧になり、

『群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。』

 イエス様は人の上辺ではなく、内側を見られました。当時、罪人と呼ばれていた人たちは虚勢を張って生きていました。しかしイエス様は内側を見られて、弱り果てている姿を哀れまれたのです。
 羊は、羊飼いがいなければエサにありつくこともできません。そして、一番怖いのは、羊飼いがいなければ、オオカミなどの敵に食べられてしまいます。イエス様の目には、そのように映ったのです。
 今回、私はそのような方々とお話しして、内側は本当に弱り果て、オオカミに食われている状況であることがわかりました。羊が弱り果てる背景に、イエス様は「敵」を見ておられました。マタイ十章一節に、

『イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。』

と書かれています。イエス様が働かれたときに、必ず行われたのが、「悪霊を追い出す」ことでした。人々の背後に敵がいます。ある元ヤクザの人に、「何か霊的体験がありますか?」と聞くと、「私は毎日のように、脅かされているのです。黒いマントを着た男が私にのしかかって首を絞めるのです。怖くてたまりません。」と言いました。その人の背中には入れ墨があり、強い親分の名前も彫られていると言っていました。そんなに強そうなのにもかかわらず、毎日のように苦しめられているのでした。どのような敵でしょうか。それは、「見えない敵」です。
 ある人は、覚醒剤中毒で、覚醒剤をやめられないというのです。お母さんが息子を連れて来ました。「少しは我慢できるけど、繰り返し覚醒剤におぼれる」というのです。その背後にもサタンの力が隠れています。しかしイエス様は、そのような人々も癒し、解放してくださるのです。
 日曜日の午後の集会では、覚醒剤中毒で苦しんでいる人や、その関係の人の為に祈りました。それらの問題の背後には、必ず、霊的問題があります。特に、偶像礼拝という問題があります。そのことについてわかりやすくセミナーをしました。皆、よく理解して祈りました。特に、仏教とヒンズー教について話している最中、突然頭にターバンを巻いたインド人風の男性が入ってきて驚きました。「薬関係の人は出てきてください」というと、その人はターバンをとって前に出てきました。彼はスリランカ人でした。「あなたの国の宗教は何ですか」と聞くと「ヒンズー」と言いました。「あなたが代表して、ヒンズーからの解放のために真剣に祈って下さい。」と言うと、彼は真剣に祈ってくれました。その後、彼らのために祈ると、聖霊さまが強く働き、皆、床に倒れてしまいました。新しく扉が開かれたと思います。
 私が帰るときに、三人の青年たちが駅まで車で送ってくれました。彼らは全員、元覚醒剤の中毒でした。しかし弟子教会に来て変えられたそうです。今回の集会に出て、背後から引き戻す力があると教えられ、断ち切られたからすごく軽くなったと言われました。私はそれを聞いて、「今度は、あなたがたが、そのような人々の解放のために祈るといいですよ。」提案しました。「あなたたちが、その為のとりなしの祈りをしたら、多くの人が解放されるから」というと、「早速、今からやります」と、私を新大阪の駅に降ろしてから、車の中で祈祷会をしながら帰っていきました。
 今回、その集会の中で、主が、一つのことを私に語ってくださいました。それは、体に彫り物を入れている人たちを前に呼び、解放を祈ることでした。主が語ってくださったと感じたので、勇気を出して語りました。すると四人が前に出てきました。入れ墨の図柄を聞くように主が示されたので、一人ひとりに聞き、ホワイトボードに書きました。するとそれらは、竜や観音など全て「偶像」でした。体に偶像を背負っていて、良いことはありません。だから、その背後の力が完全に破られるようにと祈りました。その時も強く、聖霊様が触れてくださいました。イエス様は今も生きておられます。
 昔は社会の片隅にひっそりとしていた人たちや、虚勢を張っていた人たちなど、一般的に罪人と言われる人たちが救われて、今、喜んで教会に集っているのです。金沢先生は、「これから、そのような人たちがいつ来ても、解放される場所を作りたい」と言われました。また、「普通にリハビリしてもなかなか直らない人たちに、霊的戦いの祈りと共に解放する働きをしたい」と言われました。金沢先生は、「私は悪霊と戦うときに心が燃えます。」と語られていました。元ヤクザの人たちにあるのは、元々、霊的戦いの使命ではないかと思います。神様は素晴らしいお方です。そのような人々を救い出し、弟子として遣わし、捕らわれている人々を解放するために使うのです。イエス様にとって不可能はありません。今日も皆さんのうえに、イエス様の哀れみの目があります。赦し、癒し、自由にして、イエス様と同じ仕事ができる弟子として、送り出してくださるのです。
 自分の罪を認め、イエス様が罪のために十字架にかかって死んでくださったことを信じてください。「私の罪を赦してください。問題からも解放してください。」と祈ってください。今日はイエス様の癒しと解放があると信じます。
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