今週の礼拝メッセージ
2003.2.23(SUN)
「偽りと怒り、そして、憎しみを警戒せよ!」
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 ペテロの手紙第一 3章8節〜12節
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

 ハレルヤ!先週、月曜日、火曜日と瀬戸で「名古屋リバイバルミッション」の為の祈祷会がありました。しかし、そこから帰ると、目が腫れぼったくて、鼻水が出て、喉が痛くて風邪でも引いたかと思いました。しかし、みんなに「あなたは花粉症だ」と言われました。私は絶対に花粉症ではないと信じていましたが、医者に見てもらうと「花粉症」でした。花粉症は一度なると直らないようですので、少しショックでした。
 最近私は、毎朝、早く起きて歩きながら祈っています。しかし花粉症と聞いてから、外に出たくなくなりました。外に出たら相当花粉を吸い込むだろう、ということばかりが気になってしまいました。しかし、「はっ」と気づいたことですが、「これは、私が外に出て祈らせないようにする、悪魔の挑戦ではないか」でした。次の日、家内は私に、外に出ない方が良いと言いましたが、あえて、私は、花粉の山に立ち向かって歩いて行き祈りました。「イエスの名によって、花粉の背後に働く悪霊よ。出て行け。」と祈ってみました。すると、症状が良くなりました。花粉症の方はぜひ、あきらめないで立ち向かって祈って下さい。きっと主が何とかしてくれると信じます。今日は花粉に負けない、強い聖霊さまに満たされて、帰っていただきたいと思います。
 今日は、「偽りと怒り、そして憎しみを警戒せよ!」というタイトルで学びます。

『「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。』

と書かれています。皆さんも幸せで、長生きしたいと願っておられると思います。私もそう思っています。不幸せでは、長生きしても仕方がありません。幸せで長生きが、聖書が語っている祝福です。私はいつも祈っています。教会に来られている皆さんすべてが、長生きして幸せであるようにと祈っています。私の母も八十歳になりますが、とても元気です。八十歳になっても夜の県民の森の祈祷会に出てきたり、山にも登るというので少し心配になります。何れにしても、この教会の高齢者たちはお元気です。幸せで、長生きする秘訣があるのです。その秘訣について記されています。
 聖書は、目に見えない法則を私たちに提供しています。それは、幸せで長生きしたかったら、「舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りと語らず」というところに、大きな秘訣があります。「嘘も方便」という、仏教的な考え方が日本人には入っており、ぺろっと嘘をついたり、人の悪口を言ったり、怒ったり、憎しみを持ったりするのが日常茶飯事かも知れませんが、これが結構、私たちの寿命を縮め、幸せを遠ざけていることを知る必要があります。
 第一列王記十八章に、イスラエルの王、「アハブ」が出てきます。アハブは極悪王であり、彼は幸せではありませんでした。最終的には戦争で矢に当たって死んでしまいました。彼の人生には、偽りや怒り、そして、憎しみが常につきまとっていました。また、その背後には、もう一つの関わりがありました。背後で、そのような力をもたらす存在が関わっていたのです。今朝は彼の人生から、偽りと怒り、そして憎しみが巧みに関わる様子を学びたいと思います。
 アハブ王は偶像礼拝を真剣にしました。実際、イスラエルには良い王様が出ませんでした。皆、偶像礼拝をする王でした。特にアハブは、その中でも、偶像礼拝を真剣にした王でした。彼の奥さんが偶像礼拝が好きでした。背後に奥さんの悪い影響力がありました。その為、国中に多くの偶像が持ち込まれました。それで国は祝福を失いました。
 ある時、神は預言者エリヤに、「この国が偶像礼拝を多くしているので、三年間雨が降らなくなる」と語られました。エリヤは皆の前で、「お前たちがあまりにも偶像礼拝をするから、今後、三年間雨が降らなくなる」と語り、エリヤが祈ると天が閉ざされ三年間、一滴も雨が降らなくなりました。川は干からび、水がないので食物はとれず、国は飲み水にも事欠く状況になりました。
 三年が過ぎたとき、神がエリヤに言いました。「お前はアハブの前に出て行きなさい。」そのとき、アハブはたいへん怒っていました。十八章十七節から、

『アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。』

と書かれています。
 国に祝福が閉ざされる背景に、偶像礼拝があります。現在、日本の祝福が閉ざされています。経済も社会も混乱し、様々な問題があります。それは、偶像礼拝のゆえにイスラエルに雨が降らなくなったように、日本にも祝福の雨が降らなくなったのだと思います。十九節に、

『さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」』

 イスラエルには、悪霊に属する予言者が多くおりました。それで、カルメル山にバアルという偶像に属する予言者四百五十人、アシェラという偶像に属する予言者を四百人集めるよう、エリヤはアハブに告げました。そしてそこに祭壇を築き、牛をささげて祈るのです。まずは偶像に属する予言者たちが祈り、祭壇に火が下ったら、バアルとアシェラがこの国の神であり、エリヤが祈った時に火が下れば、エリヤの神が本物だという対決をしようとエリヤは言いました。エリヤには勇気がありました。八百五十人の霊能者集団に、一人で立ち向かっていきました。彼らは「そのようにして決着つけるのが良い、火をもって答える神を神としよう」と言いました。八章二十四節に、

『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。』

 バアルとアシェラの預言者は、真剣に踊り回って祈りましたが、何の変化もありませんでした。しかしエリヤが祈ったときに、祭壇に火が降ってきて、ささげものを全部なめ尽くしました。その時に民は、「主こそ神です」と叫びました。エリヤの信じていた神、旧約聖書の神は、私たちが今仕えている「イエス様」です。「イエス様は主です!」と叫んだのと同じです。
 日本もさらに煮詰まってきたら、このようなことが起こるのかも知れません。日本中の宗教関係者が集まって祭壇を築き、火が下るように祈るのです。しかし、真剣に拝んでも全く火がつかず、最後にクリスチャンが出ていき、「主よ。天から火を下してください」と祈るような状況です。これは、なかなか出来ないことです。しかしエリヤには信仰がありました。
 民は、手で作った神々を拝んでいましたが、それが本当の神ではないと分かったのです。神はイスラエルを愛されていたので、飢饉や苦しみを通して、神に出会う道を用意されたのです。神は今、本当の神が誰であるのか分かるように、そして、偶像の神は神ではないと日本に教えている期間だと思います。
 さて、アハブは偶像礼拝者であると共に、怒りっぽい性格の人でした。そのことが二十一章三節、四節に書かれています。アハブの住んでいた家の地続きに、ナボテという人が土地を持っていました。アハブはナボテに、「土地を売ってください」と言いましたが、彼は売ろうとはしませんでした。その時に、

『アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。』

と記されているように、彼は性格的に大へん怒りっぽい人でした。
 今まで述べてきたような背景の中、アハブ王についてのストーリーは進んでいきます。「火を持って答える神が本物だ」という戦いを経て、イスラエルに再び雨が降り、国には平和が戻って来ました。バアルの預言者四百五十人は殺され、平和が三年ほど続きました。そして、二十二章四節から六節、

『それから、彼はヨシャパテに言った。「私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」ヨシャパテはイスラエルの王に言った。「私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」ヨシャパテは、イスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってみてください。」そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」彼らは答えた。「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」』

 ある日、アハブ王の所に、ヨシャパテ王が会いに来ました。当時イスラエルは北と南に分かれており、アハブは北の王であり、ヨシャパテは南ユダの王でした。ヨシャパテは、怒りっぽい性格のアハブとは違い、とても性格の良い王でした。ヨシャパテはアハブに歩み寄ったのです。するとアハブはこう言いました。「最近、敵が動いているから、私と一緒に戦いに出てくれ」すると、ヨシャパテは、「私たちは昔から同じ民族だから、一緒に力を合わせて戦いましょう」と答えました。けれども、ヨシャパテは霊的に鋭い目を持っていました。ヨシャパテはアハブに、「しかし、まずは主に伺ってください」と言いました。彼には、すべての行動の前に、まず、主に祈る習慣がありました。
 私たちも、ヨシャパテ王から学ぶべきです。私たちも何か行動する前に、主に伺うことが大切です。
 アハブは、「わかった。うちの国には四百人の予言者がいるから、主の言葉を聞こう」と言いました。すると、四百人の予言者はこぞって、「戦いなさい。そうすれば主は王に勝利を与える」と語りました。
 しかしこの予言を聞いたヨシャパテは、少し不安に感じ、「この予言は本当に神からのものか?」と疑いました。それで、「他に、神の御心を伺える預言者はいないのか?」とアハブに問いかけています。すると、二十二章八節から、

『「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです。」すると、ヨシャパテは言った。「王よ。そういうふうには言わないでください。」』

アハブは、「もう一人いるけれど、彼は良いことを預言しない。私は彼を憎んでいる」と告げました。しかし、ヨシャパテは、ミカヤを連れてくるように言いました。
 ミカヤという預言者は、アハブにあまり良いことを言わなかったらしいのです。だから王は彼を大変憎んでいました。
 アハブの周りにいた四百人の予言者は、主に属する預言者ではなかったと思います。かつてバアルの預言者は、四百五十人でした。そして、アシェラの預言者は四百人でしたが、アシェラの預言者四百人は殺されていません。だから、アハブの側にいた予言者は、アシェラに属する者たちであったのかも知れません。彼らは、「主こそ神」と民が叫び出し、国が変わってしまったので、一応、主の名も呼んではいましたが、時折、アシェラの名もミックスされていたのでしょう。この予言者たちの根底は、悪霊に属する予言者たちでした。けれども、ミカヤは主の御心を求めることができる、真の預言者でした。
 旧約時代には、神のみこころが示されるとき、預言者が用いられました。しかし今の時代は、誰にでも神の御心が知らされます。祈れば御心が現されます。
 でも、キリストのからだの中には、預言的な賜物をもらっている人もいます。特別に神がそのような能力与えておられる人がいます。しかし、それも注意しなければ、時には、与えられている賜物が、足下をすくうようなこともあり得るのです。
 一ヶ月ほど前、ペルーから来ている女性が、「今度結婚するから祈ってください」と言われました。すると、婚約者の男性の家系に、色々な問題があることがわかったので、解放のために祈りました。彼が、家系を支配する悪霊から解放されるようにと祈りました。それから彼は、主を信じ、聖霊に満たされて変えられました。その時、私は全く覚えていませんが、「今度、あなたの妹を連れてきてください。あなたの妹のために祈った方が良い」と言ったそうです。
 そして、先週その方が再び来られ、「順先生、妹を連れてきました」と言うのです。「なんで?」と聞くと、「この間、順先生が妹を連れてきなさい、と言ったではないですか」と言うのです。しかし、もう一つの理由があったのです。
 私たちは彼のために日本で祈りました。すると、ペルーの実家に見知らぬクリスチャンの青年が来たそうです。
 彼が言うのには、「私が祈っていたら、神から一つのことを教えられました。それは、あなたのお兄さんの呪いは断ち切られました。しかし、妹さんにも呪いがあるので、妹さんの呪いを断ち切った方が良い・・」
 新城でお兄さんがそんな祈りをしたことは全く知らないはずなのに、突然そんなことが母国で起こったのです。その事が日本に伝えられ、お兄さんは大へん驚きました。それで、日本に住む妹さんを教会に連れて来たのです(この妹も解放され、救われました)。これは、預言的な神の働きだと思います。このように全く情報のない、だれも知らない中で起こることは、神の働きだと思います。しかし、中には、胡散臭い予言もあるので、気をつけなければなりません。
 アハブの横にいた、四百人の予言者は、王に良いことしか語らない者たちでした。しかし、ミカヤは、いつも神の御心を正しく告げていました。だから王はミカヤが嫌いだったのです。王はいつも偶像礼拝をしていたので、主からの良い預言などあるはずがありません。だから王はミカヤを憎んでいました。
 ミカヤを連れに行った者がミカヤに、「あなたも皆と同じように、予言してください。」と言いました。それでミカヤは、「戦いに出て行きなさい。そうすれば勝利を得ます」と同じことを言いました。
 するとアハブは、「お前は本当のことを言っていない」と怒ったのです。すると、ミカヤは神からの預言をし始めました。二十二章十七節に、

『彼は答えた。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』

 「主人」とは「アハブ」のことです。それは、アハブが戦争に出ていくと、死ぬという預言でした。主人を失い、右往左往している兵士たちを無事に帰らせなければならないという預言です。ミカヤは、四百人の予言者とは違う預言をしました。けれどもアハブは、ミカヤの預言を退けました。また、ミカヤはもう一つのことを語りました。十九節から二十三節、

『すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」』

 預言者ミカヤは、一つの幻を見せられました。それは「天の会議」でした。あまりにもアハブが罪を犯しているので、アハブをどうやって裁くかという会議が天で催されたのです。それを見せられたのです。会議には色々な霊的存在が連なり、各々意見を出し合っていました。一つの霊が神の前に来て提案しました。「私が偽りを言わせる霊となり、彼らの預言者のところに行きます。そして彼らに偽りを語らせ、彼を戦前に引き出し、殺しましょう」
 すると、その案が天で承認されたのです。そして、天での決定が、地に速やかに実行されたのです。
 天でこのような状況が起きていることがあります。私たちに対しても、時々、天にて会議が催されることがあります。「彼のところにわざわいを起こそうとしているのだが、どうしたら良いのか・・」
 天での会議が招集され、悪霊が色々な意見を出します。「そのアイデアは良い・・、でも、もっと良い方法があるのでは?」と討議がなされ、最も効果的な方法が天で決定されると、それが速やかに地上に実行されるのです。考えると恐ろしいことです。
 聖書は、見えない世界で決定づけられたことが、地上に移されることを告げています。見えない世界と、見える世界はつながっているのです。アハブがあまりにも悪く、彼の背景に罪があったので、罪が原因でこの様なことが起こったのです。何の理由もないのに、天の会議は招集されません。
 このとき、アハブを滅ぼすために、「偽りをいう霊」がアハブの側近に遣わされたのです。四百人が口々に偽りを言いました。結局アハブは、偽りの予言を信じたのです。
 けれどもミカヤの預言もあったので、アハブは多少不安もあり、ヨシャパテにこう言いました。「あなたは王服で戦いに出てください。私は変装し、平服で行きますから」
 その時、敵はこのように作戦をたてていました。「普通の戦闘員を狙うな。北の王を狙え。親分を狙い、やっつけたらそれで勝てるから」と言う指示が出ていました。やがてカナンの軍隊とイスラエルの軍隊が相対しました。すると、一人だけ違う服を着ている者がいました。「あれが王だ!」とすぐに敵の軍隊がヨシャパテに近づいてきました。ヨシャパテは主に助けを求めました。歴代誌を見ると、主が彼を守られたと書かれています。敵の隊長がよく見ると、ヨシャパテが北の王ではないとわかりました。それで敵は引き上げました。
 その時に一人の兵隊が、狙ってもいないのに、何気なく弓矢を放ちました。それで、何が起こったと思いますか。二十二章三十四節から三十五節、

『ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中に立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血は戦車のくぼみに流れた。』

 何と一人の兵隊が何気なく射た矢が、多くの兵隊の中で、それも変装していたアハブの胸当てと草摺の間に当たりました。これは全くの偶然のように見えますが、背後に、見えない世界での決定付けがありました。
 全ての事柄が偶然に起こるように思えますが、偶然はあり得ないのかも知れません。背後に、天での決定付けが成されています。アハブの人生に起こった事柄は正に、そうでした。天で決められた通りになりました。最終的にアハブは「死」という形で結果を受け取らなくてはなりませんでした。
 アハブは怒りっぽい性格を持っていました。私たちも時々、ちょっとのことで怒って自分を失うようなときがあります。今日、私たちは、怒りから守られるようにというテーマで学んでいますが、聖書は、怒りの背景に、霊的な力の圧迫があると教えています。今週は怒りに支配されないように、怒りをコントロールできるよう祈りましょう。怒りが来たら、その背後に悪しき力が関わっていることを見抜いて祈らなければなりません。
 私は昔、たいへん怒りっぽかったのです。誰とでもよく喧嘩しました。しかし、聖霊様に触れられてから、怒りをコントロールできるようになりました。
 第二列王記五章に、ナアマンという将軍が出てきます。彼はらい病でした。あるとき、預言者エリシャに祈ってもらうと癒されると聞きました。それで彼は、エリシャのところに行きました。ナアマンはエリシャが出てきて、手を置いて祈ってくれると期待していました。それで、エリシャのところに色々な贈り物を持って訪問しました。
 するとエリシャは、自分は出て行かずにしもべを遣わし、「ヨルダン川へ行って、七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」と言いました。それを聞いたナアマンは十一節、

『しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。』

彼は怒って家に帰ろうとしました。しかし、彼についてきた者が、「エリシャはあなたに、難しいことを言ったのではないから、一度、やってみたらどうですか」となだめました。すると十四節、

『そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。』

と書かれています。体を七回沈めて出たら、らい病が直ってしまいました。
 もしも、ナアマンが怒ったままであったら、どうでしょうか。すぐ目の前に神の奇跡がありましたが、「怒り」によって受け取れませんでした。
 案外私たちも、そのようなところがあると思います。神様が、もう少しのところで奇跡を与えようとしていても、怒りによって奇跡を受け取ることができないのです。ナアマンは幸い、側近のなだめによって神の奇跡を受けました。しかし、奇跡を止めようとしていたのが「怒り」でした。ナアマンもアハブもそうでしたが、怒りっぽい性格は祝福をもたらすものではないのです。怒りから守られるよう、祈りたいと思います。
 それと共に、アハブの心には常に「憎しみ」がありました。ミカヤに対しても憎しみがあったゆえに、神の声が聞こえませんでした。エペソ人への手紙には、「怒っても罪を犯してはならない。悪魔に機会を与えてはいけない」と警告されています。怒りが持続すると、今度は憎しみになります。憎しみになると悪魔が機会を捕らえます。そして、憎しみは神の声を聞こえなくしてしまう策略が背後にあります。だから私たちも怒りを憎しみに発展させることが無いよう、注意しなければなりません。
 また、アハブの周りには、「偽りの預言者」がいました。彼は偽りの預言者によって試されました。そこには「偽り」がありました。
 私たちも時々、その場逃れの嘘を言ってしまうようなことがありますが、偽りはその場を逃れるためのものではなく、「霊的問題」です。私たちの心に、嘘を言おうか、言わまいか迷いがあったら、「偽りを言わせる霊が背後に働いている」と認識しなければなりません。偽りは、単なる小さなことではなく、霊的関連付けがあるのです。だから偽りを言う気持ちが来たら、戦わなければなりません。これは神からではなく、背後に偽りを言わせる悪霊がいることを知り、そこに戦いを向けなければなりません。
 アハブの心には、怒りがあり、憎しみ、偽りがありました。結局のところ、彼は祝福を失いました。
 なぜ、このような性格になってしまったのでしょうか。それはその背後に、強い偶像礼拝があったからです。。ハバクク書二章十八節に、

『彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。』

と書かれています。偶像に頼ったところで、何もならないことは確かです。しかし、偶像の背後には、偽りの「霊」があります。偶像礼拝は偽りをもたらし、怒りをもたらし、憎しみをもたらすものです。決して私たちは、偽りの神々にひざをかがめてはならないのです。偶像礼拝から離れることは、偽り、怒り、憎しみから解放される根源と言えます。
 今週は、心をよく見張り、偽りや怒り、憎しみを警戒しなければなりません。ペテロ第一の手紙三章にあるように、長い命と幸いの日々を過ごしたいと思う方は警戒してください。決して、偽りや怒り、憎しみ捕らえられることなく、聖霊の力によってコントロールされるよう、お祈りします。
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