今週の礼拝メッセージ
2003.3.2(SUN)
天の法廷で勝訴せよ!
新城教会 滝元 順 牧師

旧約聖書 詩篇94篇20節〜23節
おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷が、あなたを仲間に加えるでしょうか。
彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。
しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。
主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。

 ハレルヤ!今日このように皆さんと共に礼拝できることを感謝します。
 先週私は、「花粉症が癒された」と証しましたが、本当に現在まで癒されています。ですから、今日は最後に花粉症の方の癒しのために祈りたいと思います。
 さて、今日は「天の法廷で勝訴せよ!」というタイトルで学びます。「勝訴」とは、訴訟に勝つことです。時々、裁判があり、原告が勝訴した時、記者が走ってきて、「勝訴です!!」と息を切らせながら報道します。勝利した時はすごく大きな喜びです。今日語る御言葉は、先週の御言葉と関連があります。
 先週は「偽りと怒り、そして憎しみを警戒せよ!」という御言葉でした。一週間を振り返っていかがでしょうか?皆さんの中に起こってきた、怒りや憎しみに勝利できましたか?また偽りから守られましたか?
 そう言われると、「・・・怒ってしまった。喧嘩をしてしまった」など、心に引っかかることがあるかも知れません。しかし教会に来ると、毎週、自分の心を点検し、リセットしてから一週間を始めることができます。ですから、決して失敗したからと言って、落ち込むことはありません。一般ではなかなかできませが、教会では自分を見つめ直すことができるのです。
 先週の御言葉は、第一列王記二十二章からの御言葉でした。アハブ王が偶像礼拝ばかりしていたので、神が彼を王位から退けるために、天において会議を催されたのです。そして、その様子をミカヤという預言者に見せられました。同じ記事が第二歴代誌にも書かれています。内容はほとんど同じですが、第二歴代誌は霊的視点が加わえられています。それが、十八章十八節から二十二節に記されています。

『すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、イスラエルの王アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、ある者は一つの案を述べ、他の者は別の案を述べました。それから、ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」』

 天でアハブを滅ぼす会議がなされ、一つの悪霊が進み出て、「私が偽りを言わせる霊となり、彼の側近の預言者たちに偽りを言わせ、アハブを戦場に誘き出しましょう」と言いました。その意見が天でまとまり、地に速やかに実行されたのです。アハブ王はこの預言をミカヤから聞きましたが、信用しませんでした。「他の預言者たちは、戦いに行き勝利せよ、と語っている」と、偽りの預言者たちを信じました。けれども、多少不安があったので、一緒に戦争に行ったヨシャパテ王に、「あなたが王服を着て行って下さい。私は平服で行きます」と、アハブは普通の兵隊の服装で戦争に出かけました。そのとき、敵は一つの作戦を立てていました。それは、「普通の将校や兵隊ではなく、北の王様を狙え」という作戦でした。しかし、北の王アハブは、王の格好をしていなかったので敵にはわかりませんでした。そんな中、王の格好をしていたのがヨシャパテでした。彼は人が良いので、アハブの言うことを聞き、出て行きました。すると敵はヨシャパテを北の王と間違えて殺そうとしました。その時のことが歴代誌第二十八章三十一節から三十四節に書かれています。

戦車隊長たちはヨシャパテを見たとき、「あれはイスラエルの王に違いない。」と思ったので、彼を取り囲んで戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。

 アハブ王は変装していたので、狙われませんでした。しかし、偶然一人の兵隊が狙いを定めたわけではなく、矢を射ました。すると数ある兵隊の中で、よりにもよって変装して混ざっていたアハブの胸当てと草摺の中間の隙間に矢が当たり、アハブは死んでしまいました。一般的に言えば、これは偶然なことで運が悪く仕方がなかった、と言われるかもしれません。
 私たちの生活の中にも、偶然と思われるようなことがたくさんあります。しかし、聖書には偶然はなく、天で決定づけられていたことが地に速やかに成さるというのです。
 また、ここには、ヨシャパテ王が守られたという記述もあります。私たちの人生にも、このようなことが起こっている場合があります。教会に来ると、普段では全く考えないような視点を聖書から受けることができます。私たちのことが天において話題となり、そこで敗訴すると、アハブのようにもなりかねません。偶然に起こってくるような悪いことが、実は、天で決まった結果というような事があるのです。私たちも今までの人生の中で、「災難だった」ということがありますが、その中のいくつかは、このような事柄があったのかも知れません。こういう世界があることを知るのは大切です。私たちが勝利の人生を送るために必要なことは、詩篇の御言葉にあるように、

『しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。』

 イエス様を避け所とし、とりでとすることが最も大切です。見えない世界での決定付けが、この世界に現されるとしたら、常にイエス様を避け所にし、イエス様を岩としてそこに隠れて人生を送らないと大変です。今日、イエス様を信じている人は、とりでとし、避け所としているのです。もしも、悪しき決定が天で成されていたとしても、守られるのがクリスチャンの素晴らしいところです。
 それと共に、私たちは日曜日に教会に来て、聖書の基準に従って生活することを学びます。それが私たちの守りです。教会に来て「良かった」と思うときもありますし、また、「今日は心が痛かった」というような時もあります。それは、聖書の基準に自分を照らし合わせ、「私は罪人だ、私は罪を犯している」と気付くときです。しかし私たちが聖書の基準に従って歩むことは、天における法廷で勝利する秘訣です。
 同時に私たちは、御言葉を聞いたら、気づくだけでなく、決断して、行動しなければなりません。ローマ人への手紙十二章二節には、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

と書かれています。私たちには、「心の一新」が必要です。神の前に心を決めて、「今週一週間は正しく歩む。絶対に、嘘を言わない。」などと、決断の伴う「心の一新」が大切です。
 それと共に、ただ私たちが闇雲に心を一新して、神の御言葉に従うだけではなく、そのメカニズムを知ることが大切です。見えない世界のメカニズム・構造を知ることが大切です。
 私が毎回のメッセージで心がけているのは、「こうしなさい、ああしなさい」と指摘するのではなく、「メカニズムを知っていただき、心の一新を持って戦うように促す」ことです。目に見えない世界では、天における法廷で決められたことが地になされるという、メカニズムがあります。それを知り、心の一新をもって主に仕えるならば、どのような局面においても勝利することができます。
 見えない世界での決定が、この地上の色々な状況を左右するのです。私たちは、見えない世界のただ中にあります。クリスチャンでも、クリスチャンでなくても、人間ならば、皆そのような世界のただ中に住んでいるのです。
 私たちの人生も、自分の決断において事が起こります。同様に、見えない世界の決定が、この地上に成されるのです。
 先週私の家で、十年間使っていた電気釜が壊れました。私の家内がご飯を出してくれたので一口食べると、「まずい!これは食べれない。食べてみてくれ」と返しました。今まで私は電気釜のことなど、一切考えていませんでしたが、これも私の人生の中で大切な物だと思いました。それで家内と一緒に、電気釜を買いに行きました。電気釜が並んでいるコーナーの前で、夫婦会議を開催しました。「どの釜が一番良いか」と、家内と討論しました。結構、家内もこだわりがあり、色々討論しましたがなかなか決まりません。私は、「やはり今はIT時代だ。科学も進んでいるので、最先端の釜が良い。」と言いました。家内は、「あんたはいつもそういうことを言う。それで成功した試しがない。」と言うのです。そう言われると何も言えません。私はいつも、最先端を狙いますが、それが結構、失敗しています。私の家内はそれをよく知っているので、「あんたの意見は聞かない」と言いました。それでもよく話し合って、最後には、私の意見が通りました。最先端の電気釜を買いました。それは炊きあがってから、二十四時間保温ができるというものです。家内はそれを買ってもまだ信用しておらず、買って来るとすぐに釜をテストしました。すると、それが結構美味しいのです。評価が良かったのです。私も安心しました。しかし、続けて二十四時間テストするというのです。「これはまずいかも?」と思いました。しかし、二十四時間後に食べると、同じ味のようで大丈夫でした。家内は「美味しいね。あんた初めて当たったね」とほめてくれました。数ある電気釜の前で、私の決定が良い結果を生み出しました。どれを選ぶか、それは私たちの決定に関わります。
 同様に、天における決定と選択が何であるのかによって、地上の要素を決定づけるのです。
 エズラ記五章一節から五節に、

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか。」と尋ねた。しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

と記されています。イスラエルは北イスラエルと南ユダの二つに分裂し、最終的には北イスラエルは消え、南イスラエルはバビロンに捕囚され、苦しみに遭いました。そして、南ユダは七十年後に解放され、自分の国に帰ってきました。彼らはそれまで偶像礼拝ばかりを繰り返していました。しかしバビロンに捕囚にされ、神に立ち返らなくてはいけないと悔い改めたのです。それで、捕集から解放され、すぐに、主の神殿・祈りの場所を再建しました。
 人生に時々試練があります。そんなとき、もう一度神に立ち返ろうという気持ちになります。「どんな罪があったのでしょうか」と、自分を省みることができます。イスラエルもそうでした。バビロンに七十年捕集されたために彼らは偶像礼拝から離れました。そして、帰還後すぐに神の宮を建て直し始めました。その時、どのようなことが起こったのでしょうか。
 川向こうの総督、タテナイとシェタル・ボズナイが来て、「だれに断ってこんな工事を始めたのか」と妨害され、宮の工事はストップしてしまいました。四章二十四節に、

『こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。』

 彼らは一生懸命、宮を建て直そうと工事に取りかかりましたが、中断されてしまいまったのです。しかしその後、もう一度、勇気を振り絞って工事を始めました。けれども、工事を始めるとまた、同じことが起こりました。再び、川向こうから敵が来て、「だれに断ってこんなことをしようとするのか」と妨害されました。

『しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

 敵は、第二回目の工事を妨害したものの、やめさせることはできませんでした。そして、やがて神殿が再建されました。
 第一回目は敵に妨害されて中止されましたが、二回目はうまくいきました。この差は何でしょうか。普通ならば、第二回目は、「運が良かった」ということになるのかも知れません。しかし、聖書を立体的に読んでいくと、これはただ単に、偶然に、うまく行ったのではないことがわかります。
 エズラ記の記述に、イドの子「ゼカリヤ」と、エホツァダクの子「ヨシュア」という人物が出てきます。この「ゼカリヤ」が預言した書があります。それが、「ゼカリヤ書」です。ゼカリヤは神殿を建て直すときに、一緒に働いた人物であり、神からもらった言葉を語り人々を励ましたのです。エズラ記と、ゼカリヤ書は、書簡の間隔がかなり離れている為に、互いに関係ないかのように思ってしまいますが、密接な関連性があります。この二つの書を照らし合わせてみると、ある事実が浮かび上がってきます。ゼカリヤはいつ、この預言をしたのでしょうか。ゼカリヤ書一章一節に、

『ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。』

と記録されています。エルサレムの神の宮の工事は、ペルシャの王「ダリヨスの治世の第二年」まで中止された、とエズラ記に記されているので、ゼカリヤが預言をもらったのは、エズラ記五章の二回目の工事の「工事現場」でもらったことが分かります。聖書も、平たく読むのではなく、立体的に読むと色々な事実がわかってきます。
 そして、ゼカリヤ書三章に、ヨシュアのことが書かれています。ヨシュアも工事現場でゼカリヤと共に頑張っていました。彼は霊的な現場監督のような役割でした。しかし、ゼカリヤ書三章一節から五節に、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 ヨシュアは確かに、工事現場にいたはずです。しかしゼカリヤは、ヨシュアが現場ではなく、主の前に立ってるのを見せられたのです。するとその横に、ヨシュアを訴えている存在がありました。ゼカリヤ書は、「大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。」と記しています。ヨシュアの横で、サタンが神の前でヨシュアを訴えていたのです。その同時刻、工事現場では、川向こうから敵がやって来て、ヨシュアやゼカリヤたちが訴えられていました。
 「工事をやめてしまえ。誰からお前らはこの工事の許可を得たのだ」と妨害されていました。ヨシュアは、サタンによって責められていたのですが、地上では、「実際的な妨害」と形で現れていたのです。
 時々私たちも信仰生活という枠組みの中で、色々な妨害を体験します。「教会に行くのをやめてしまえ!」とか、「偶像を拝め!」とか、「罪を犯せ」と誘惑を受ける時に、それは現実だけの訴えだと思います。しかし違うのです。見えない世界で、あなたの側にサタンが立ち、あなたを訴えているのです。天での訴えは、地上においては色々な問題として繁栄されるから、気をつけてください、と聖書は告げているのです。

 それでは、サタンは大祭司ヨシュアの何を訴えていたのでしょうか。それは、彼が着ていた「服が汚い」と訴えていたのです。彼は汚れた服を着て、神の前に出ていたのです。大祭司ヨシュアは、イスラエルを代表して神の前に出る存在でした。そのとき、彼の服が汚れていたのです。汚れとは、イスラエルが今まで犯してきた罪でした。サタンが見えない世界で私たちを法廷に引いていく理由、訴える理由は、私たち自身というよりも、私たちの犯した「罪」です。「この人にはこんな罪がある、衣が汚くなっている!」と訴えるのです。イエス・キリストを信じると罪赦され、白い衣が着せられるのですが、日頃の生活の中で罪にまみれてしまうと、その衣が汚くなります。それを悪魔は訴えていたのです。私たちも常に、御言葉に従って白い衣を着るように、主の前に十字架の血潮を仰ぎ、悔い改めて出る必要があるのです。
 しかし、大祭司ヨシュアが汚い服を着て立っていたら、横から「それを白い着物に変えてください」という助けが入り、また「頭にも白いターバンを着けてください」と、汚かったのがきれいになり、ついには悪魔がヨシュアを訴えることができなくなってしまいました。
 さて、何が起こったのでしょうか。現実の世界で「仕事を止めてしまえ」と言っていた敵は、工事を止めさせることができなくなり、やがて神殿が再建されたのです。
 第二回目の工事が、なぜうまくいったのでしょうか。それは、第一回目の天でのサタンの訴えは通りましたが、第二回目の訴えは天で通らなかったからです。その理由は、第二回目は、「汚い衣がきれいになった」からです。
 この理由に関して、年代を調査するとわかります。偶像礼拝は三代、四代の呪いをもたらします。自分が偶像礼拝をしていなくても、三代、四代の中で偶像礼拝がなされていると、影響を受けます。
 人生に問題が起こると、日本人は占い師の所に行きます。そこで言われることは大体同じです。「あなたの先祖の中で、まだ成仏していない人がいて、あなたたちが拝んであげないので祟っている」と言われます。そして、「だから先祖を拝みなさい」と言うのです。それで心当たりもあるので、一生懸命拝むようになります。
 しかし考えてみるとおかしなものです。祖先が自分に対して祟るのはおかしいと思います。私がもしも、先祖だったら、絶対に祟らないと思います。祟るとしたら、悪魔・悪霊です。偶像礼拝の罪があると、悪魔は私たちに関わることができるのです。先祖のようなふりをしますが、先祖ではなく、悪魔・悪霊が私たちに関わるのです。
 詩篇九十四篇二十節に、「おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷」と書かれています。天で開かれる法廷の内、最も多いのが、「偶像礼拝」を中心に開かれる法廷だと思います。
 「偶像礼拝をすると、三代、四代の呪いがもたらされる」・・・これは神の決定事項です。それに従って、悪の法廷は開かれるのです。その結果、三代、四代に渡り訴え続けられるのです。
 日本人の問題の根本は家系にあります。家系の中で偶像礼拝がなされていると、色々な障害が出てきます。これは先祖が祟っているのではありません。偶像礼拝という罪を犯したので、「おきてに従って悪しき法廷が開かれ、訴えられている」のにすぎません。しかし、イエス様を信じると、そこから解放されます。
 エズラ記五章ではなぜ、神殿建設がうまく行ったのでしょうか。第二回目の神殿建設が始まったのはバビロンから帰還して「約十八年後」のことです。合計して、バビロン捕囚から数えて約八十八年経った時点で、ヨシュアは天で訴えられなくなったのです。それには、どういう意味があるのでしょう。
 昔の人の寿命はあまり長くありませんでした。縄文人の平均寿命は三十歳位だったそうです。聖書の時代のユダヤ人の平均寿命ははっきりとはわかりませんが、もう少し長くして四十歳くらいだとすると、二十歳で結婚して新しい世代が生まれたとすれば、四代とは「百年」、三代で「八十年」です。八十八年後に訴えられなくなったとは、「三代、四代が満ちた」ということです。
 「おきてによって開かれる法廷」はとてもシビアです。大祭司ヨシュアが天の法廷で訴えられなかったのは、他でもなく、三代、四代の期間が満ちたからであると推測されます。それで、悪魔の訴えが通じなくなったのではないでしょうか。
 私たちは古いおきてによって、イエス・キリストを信じないときは訴え続けられました。しかし、イエス様を信じて新しくされるならば、悪しき法廷に引き出されて訴えがなくなるのが、聖書の素晴らしい約束です。エレミヤ書二十九章十節から十二節に、

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 まさに七十年が経ち、それから十八年後の事でした。大祭司ヨシュアが神の前に立った時、もう訴えがなくなりました。エレミヤ書三十一章二十九節には、

『その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 今までは古い契約の中で、「父が酔ぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」という、家系の中に呪いが入った中で、天の法廷で敗訴していたかも知れません。しかし今度は、新しい契約が結ばれるのです。その「新しい契約」とは何でしょう。それはイエス様の十字架と復活です。私たちは今、素晴らしい十字架と復活の時代に住んでいます。十字架の救いが完成された中に住んでおり、私たちは新しい契約の中にあるのです。私たちのポジションは、コロサイ人への手紙二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

と書かれています。今までの人生は、見えない世界で敗訴する人生でしたが、イエス様がこの地上に来て下さり、十字架にかかられ死んでくださり、復活されたことにより、古い契約ではなく、新しい契約が打ち立てられ、「わたしは天においても地においても一切の権威を取った」という、よみがえりのポジションを与えてくださったのです。それゆえ、私たちのすべての罪が赦されるとともに、十四節に、「私たちを責めた立てている債務証書を無効にされたからです。」と書かれています。それは、「おきてに従って悪をたくらむ破滅の法廷」が無効になるのを意味します。そして、神は、その証書を取りのけ、十字架に釘付けされました。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の(悪魔と悪霊の組織)武装解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」と書かれています。
 これは、「問題解決」です。悪魔や悪霊は色々な武器を持って、私たちを責め立てていますが、「武装解除する」と約束されています。
 今、国際社会がイラクに対して武装解除を求めています。イラクは大量破壊兵器を持っているので、「それを廃棄せよ。それまでは絶対に引かない。」と戦っています。武器を持っている軍隊は恐ろしい存在です。それが、武装解除される。すなわち、悪魔・悪霊が武装解除されて、「凱旋の行列に加えられる」・・今まで私たちを天の法廷で訴え続けていた悪魔・悪霊が捕虜となるのです。素晴らしいことです。イエス・キリストを信じるとはすごいです。これが私たちに与えられている立場です。
 それは、どのようにして与えられるのでしょうか。イエス・キリストを信じて「バプテスマを受ける」ところにポイントがあります。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

 まだ、バプテスマを受けていない方は、ぜひとも早めにバプテスマを受けられることをお勧めします。なぜならば、イエス様のよみがえりのポジションを共有出来るからです。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」
 ・・バプテスマを受けると、イエス様と同じ立場とされ、罪が赦され、悪しき法廷で訴えられなくなり、武装解除がなされ、悪霊が捕虜となるという、悪魔に対する完全勝利にあなたを導くのです。
 私たちが天の法廷で勝訴するためには、いつもよみがえりのポジションに立つことです。既にバプテスマを受けられていたら、あなたはよみがえりのポジションです。ですから、よみがえりのポジションに立ち、悪魔に立ち向かって行かなくてはなりません。まだ、バプテスマを受けられていない方は、早めにバプテスマを受けてください。でも心配しないでください。教会に来られていたら、自動車学校で仮免許が発行されるのと同じように、仮免許を発行してくださり守ってくださると信じます。バプテスマを受けると、天の法廷で訴えることはできなくなります。今まで私たちは、父が酔いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くというような中で、常に過去の罪と過去の人々が犯した偶像礼拝の束縛によって苦しめられていたかも知れませんが、そのようなことがなくなるのです。そして、

『人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。』

 「自分の罪は自分で悔い改めてください。しかし、百年間も続くような呪いからは断ち切られる」というのです。でも、自分のことは、自分でイエス様の十字架の血潮を仰いで聖く歩んでやっていくようにと教えています。これが新しい契約の中身です。
 今日私たちは主の前にあります。ときには悪魔も何らかの理由を見つけて、私たちを天で訴えるかも知れませんが、決して私たちはそれに負けません。私たちはそれに勝利するのです。
 今週、天の法廷で常に勝訴しますように。敗北しませんように。常に勝利を得て、現実の世界でも勝利ある生活ができるよう、祈り合っていきたいと願います。
 明日は、二〇〇三年三月三日です。偶像礼拝の日です。これは女性に対して天で訴えがなされる日です。汚れを雛人形に転化し、身代わりになってもらうというのです。私たちの身代わりはイエス様です。雛人形は身代わりにはなれません。その背後には、悪魔・悪霊がいるのです。しかし私たちはよみがえりの権威に立っているので守られます。この国において、悪しき習俗や習慣の中で訴えられることがあっても、決して私たちは敗北しない素晴らしい立場にあることを確認したいと思います。
 明日は世界規模で一つの祈りが成されます。世界が戦争から守られるように祈る日です。今世界で起こっている状況も、霊的戦いです。だから私たちは祈らなければなりません。世界各地から「ぜひ祈ってください」というe-mailが届いています。明日はぜひお祈りください。私たちが天の法廷で勝利することができるように。もし、今まで訴えられていたらそのような訴えが、完全に消え去り、勝利できますように。自分自身が犯した罪は神様の前に悔い改め、常に白い衣を着て主の前に出ることができますように・・!

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