今週の礼拝メッセージ
2003.3.9(SUN)
だれも閉じることのできない門
新城教会 滝元 順 牧師

新約聖書 黙示録 3章7節〜8節
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

 ハレルヤ!世界中でイエス・キリストの御名がほめたたえられています。イエス様は不思議なお方です。イエス・キリストがただの人間ならば、このようなことはあり得ません。私たちが毎週日曜日に集い、神が人となられた方、イエス様を心から礼拝できる恵みを感謝します。
 毎週、私たちは聖書の中から、どのように生きるべきかを学びます。聖書は人間が生きるためのマニュアルのようなものです。色々な製品を買った時は使い方のマニュアルが付いていますが、人間ほど複雑なものはありません。しかし、どのように複雑な人生を歩むべきか、神がマニュアルを用意して下さいました。それが聖書です。私たちは聖書を通して、色々な角度から学びます。
 今日は神が私たちのために「だれも閉じることのない門を開いて下さる」ことについて学びたいと思います。この時代にあって、だれも閉じることのできない門をを開いていただき、前進していきたいものです。
 現代は、経済の門が開かれた、平和の門も開いてきたかと思っても、またすぐに閉じてしまいます。だれも閉じることのできない門など、どこにも見出すことはできません。しかし、イエス様は、私たちに、だれも閉じることのできない門を開いて下さるのです。黙示録三章八節に、

『「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。』

と書かれています。今日本の改革のために、大きな力を必要としています。日本がどのようにして変えられるのか。様々な政治家が立っても、なかなか改革は進みません。権力や力を背景にしても、国はなかなか変わりません。一つの物事を変えるためには、「大きな力」が必要であると私たちは理解します。しかし聖書は、私たちが変えられるために、また、門が開かれるためには大きな力は必要ではない、と語っています。
 ここでは、「あなたに少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」と書かれています。人生が変化するためには、大きな力は必要ではなく、「少しばかりの力」があれば変えられると言うのです。
 ある方は、教会に来て「私の人生が改革される為には、相当の力がいる」と考えているかも知れません。しかし、それは違います。聖書は、「少しばかりの力」で十分だと教えています。
 イエス様は弟子たちを集められました。初めは十二人の弟子でした。弟子たちは、どのような思惑でイエス様に関わったのでしょうか。イエス様は当時のヒーローでした。イエス様によって、病人は癒され、死人はよみがえり、五千人に五つのパンと二匹の魚だけで食事を分け与えてしまうのです。イエス様には、未だかつて見た事のないような力と奇跡が伴っていました。弟子たちには、「この人物はやがて王様になるだろう。そうしたら、自分も良いポジションを受け取ることができる」という野心があり、イエス様に従ったような面もありました。しかしイエス様と共に歩んでいくと内に、イエス様に対する評価は変わってきました。
 人間は近づけば近づくほど、あらが見えてくるものです。人とのつきあいには、適当な距離感が必要です。「この人物は素晴らしい、この人に従っていったらきっと幸せになれるだろう・・・」しかし、近づけば近づく程、「何って、ひどい人だ」というようになります。しかし弟子たちは、イエス様に近づけば近づく程、イエス様の素晴らしさを見出していきました。そんな中でイエス様が弟子たちに一つの質問をしました。それが、マタイの福音書十六章十五節に書かれています。

『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」』

 弟子たちは、色々な思惑でイエス様に関わっていましたが、あるときわかりました。ペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。
 「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白できるのは、どうしてでしょうか。それは決して自分で理解したことではないのです。マタイの福音書十六章十七節に、

『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』

 今日皆さんは、イエス様をどのように評価されていますか。イエス様について、「生ける神の御子キリストです」と告白できたならば、これは自分ではなく、「天の父なる神」がそのような理解を与えて下さった結果なのです。今日、イエス様について、「神の御子キリスト、救い主です」と告白できれば、すでに、天の父なる神が、あなたに真理を示して下さったのです。
 ある方は、「まだ私は、イエス様が救い主であり、神というような理解には至っていない」と言われるかも知れません。しかし、心配しないで下さい。弟子たちも初めは、色々な思惑でイエス様に関わっていましたが、徐々にイエス様が救い主である、キリストであるとわかってきました。教会に来て、「イエス様は本当に神様だろうか。日本には八百万の神様がいるから、どれが本物かわからない。イエス様もその中の一つか」と思っているかも知れませんが、続けて来ているうちに、「イエス様は神の御子、救い主である」と告白できるようになります。ですから、きらめないでください。教会に来ている間に、必ず理解できる日が来ます。それも自分で理解するのではなく、天の父なる神様が教えて下さるのです。知らないうちに、父なる神様の方から、私たちに近づいて理解を与えて下さるのです。
 人生が変えられる、新しい扉が開かれには、大きな力は必要はないのです。必要なのは、「小さな力」です。しかしそれは小さいですが、大きなことです。ローマ書十章十節に、

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

と書かれています。私たちが「イエス様を信じます。イエス様が救い主です」と告白することは、小さく思えるかも知れませんが、人生が百八十度変えられる鍵となるのです。私たちが神と出会う方法は、「口の告白」です。「口で告白して救われる」とあるように、「イエス様は救い主です」と告白するところから、神は私たちに関わって下さるのです。初めは深く理解できないかも知れませんが、父なる神があなたに教えて下さるのです。だれも閉じることができない扉が開かれるためには、「告白」が必要です。
 「イエス様は救い主です!」と告白しましょう。これはあなたに、誰も閉じることができない扉を開くための鍵となります。
 イエス様とともに十字架につけられた男たちがいました。彼らは強盗でした。イエス様は何の罪もないのに十字架につけられましたが、イエス様の右と左にかけられた彼らは、十分に十字架刑に値する人物たちでした。彼らは初め、イエス様のことを罵っていました。「お前がキリストならば、俺たちも救ってくれ。」と言っていました。しかし、右側の強盗が、イエス様の態度を見て、「これは神の御子キリストだ」という理解を得ました。そしてイエス様にお願いしました。「イエス様。あなたがパラダイスに行くときには、私も覚えて下さい」
 その時、イエス様は何と言われたのでしょうか。たとえば、私にイエス様のような権威があり、私が十字架にかかっていて、隣の強盗が私をさんざんののしった後に、「私を覚えて下さい」と言ったとしたら、「お前、さっきまで私の悪口を言って・・・地獄のどん底にまで落としてやる!」と言うかも知れません。しかしイエス様は、そのようには言われませんでした。「あなたは私とともに、パラダイスにあります」と言われました。イエス様とともに、十字架につけられた強盗は、その時、何の努力もしませんでした。ただイエス様の名前を呼びました。
 「イエス様、私は数時間後には死ぬけれど、パラダイスに連れて行って下さい」と頼んだのです。すると、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる」と言われました。彼は口でイエス様を否みませんでした。イエス様を救い主として認めました。そのことによって、彼には「だれも閉じることのできない門」が開かれたのです。
 あなたが今日、教会に来たのも偶然ではありません。父なる神様が、あなたを導いて下さり、あなたの前に永遠に変わることのない、閉じることのない扉を開こうとされているのです。それには、大きな力は必要ありません。小さな口の告白で変えられます。
 始めこの告白をしたのはペテロでした。ペテロは、三年半イエス様と寝食をともにした人物でした。しかし、イエス様は十字架にかかられ、三日目によみがえられ、天に帰られました。その後、地には聖霊が注がれ、急速に世界中にキリスト教は広がっていきました。ペテロもイエス様を実際に見た生き証人として、多くの人にイエス様が救い主であることを伝え、多くの人がクリスチャンになりました。その中で、彼は感動したことがありました。その感動がペテロの手紙に書かれています。ペテロの手紙は、紀元六十年から六十五年ごろに記されたと言われます。ということは、この時代の人々は、実際にイエス様に出会ったことはありませんでした。ペテロはそんな彼らを見て、感動しました。ペテロ第一の一章八節から九節、

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

 この会衆の中でも、イエス様と実際に出会った人はいないと思います。それができたら、誰でもイエス様を信じることができると思います。私たちは一度もイエス様を見たことはありませんが、イエス様を信じ、イエス様に対する愛が溢れています。信仰が溢れています。心からイエス様に対する、真実な思いがわき上がり涙が出てきます。これは、「信仰の結果である、魂の救いを得ている結果」なのです。ペテロは実際にイエス様に出会いました。だから、ある意味で簡単に信じることができました。しかしその後の人たちは、イエス様を見たことも出会ったこともないのです。しかし彼らがイエス様を信じ、喜んでいる姿を見てペテロは感動して語ったのです。「栄えに満ちた喜びに踊っているとはどういうことか・・・。これは信仰の結果である、たましいの救いを得ていることに他ならない。」
 今日、あなたに、イエス様に対する愛が溢れていたら、「あなたは救いを得ており、すでに、閉じることのない扉があなたの前に開かれている」のです。今日、救いを確信して下さい。「まだまだ、私は救いを得ているかわからない」と言う方もプロセス上にあります。必ずあなたに、イエス様と出会ったと同じ、またそれ以上の、感動を与えて下さいます。
 ペテロがこの告白をイエス様に語ったときに、イエス様は喜んで下さいました。そして、マタイの十六章十八節から十九節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 扉とは、ある意味、「鍵」によって支配されると言っても過言ではありません。皆さんの家にもドアがあり、鍵が付いていると思います。最近は物騒で、ピッキング被害などがあり、誰も開くことのできない鍵をつけないと泥棒に入られるような時代です。鍵によって扉は開いたり、閉じられたりします。私たちの人生も、開く扉もあり、開かない扉もあります。しかし、イエス・キリストを信じると、あなたにイエス様が持っておられる「鍵をあげる」と言われます。その鍵で、今までの人生で、どうにも開かないような扉を開ける事が出来るのです。イエス・キリストを信じるときに、永遠の扉が開きます。同時に、人生の中で、なかなか開かない扉をも開く鍵をあなたにあげると語られているのです。
 しかし、この御言葉の理解には、色々と論争がありました。時々、新城教会に来られて、「この教会はどのような宗派ですか」と聞かれる方がいます。「教会にはステンドグラスやパイプオルガンがあるものだと思っていましたが、ここにはないですね」と言う人もいます。教会のイメージは、静かで厳かなイメージがあるようです。「この教会はにぎやかですね」と言う人もいます。「祈ったときに牧師さんはなぜ十字を切らないのですか」と言う人もいます。そのとき、「私たちは、プロテスタント教会に属しているからです。」と答えます。
 教会には大きく二つの流れがあり、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会です。プロテスタント教会には自由があります。それぞれの教会が神を求め、御言葉から真理を引き出して使うことができると理解する立場にあるのがプロテスタント教会です。しかし元を正せば、教会の源流は一つです。なぜプロテスタント教会ができたのでしょうか。それには一つの理由があります。
 イエス様が十字架にかけられ、復活されてから全世界に福音が宣べ伝えられました。ローマにおいては大迫害がありましたが、それにもめげずに福音は前進し、紀元四世紀頃には当時人が住んでいると知られている国々のほとんどがキリスト教化しました。当時ローマが中心でしたので、日本はほとんど知られていませんでした。しかし、当時の大国ローマ周辺はすべてキリスト教化した時代がありました。
 人間は案外、試練があるときには神を一生懸命求めますが、試練がないと求めなくなります。教会も長い間試練に遭いました。もしもクリスチャンであることがわかったとしたら、捕まえられてライオンと決闘させられたり、殺されたり、むち打たれたりと大変な迫害が三百年近く続きました。今私たちが持っているのと同じ信仰で人々は迫害されました。ローマに行くと地下墓所があります。当時、クリスチャンは皆、地下に隠れて生活していました。けれども、紀元三一三年、コンスタンティヌス王がキリスト教寛容令を出したことにより、キリスト教を自由に信じる許可が公におり、やがて、キリスト教が国教となり、教会とクリスチャンに特権が与えられるようになりました。今までのクリスチャンは、命がけで信仰を守っていたのに、今度は命をかけなくても良くなりました。しかし悲しいことに、重荷がとられたので安心したのか、教会は、徐々に聖書の真理から遠ざかるようになってしまいました。
 紀元四四〇年から六一年まで在位したレオ一世の時代、レオ一世は教皇権を確立しました。そのとき彼は、「私こそペテロの後継者として、天国における鍵を委託された者だ」と宣言しました。そして自らを、全世界の最高審判者であるとし、「自分が使徒たちのかしらであり、キリストの代理人だ。私を通してでなければ、誰も救われない」と言いました。彼は時の権力者でしたが、その人物が教会の土台になってしまったのです。それは悲しい出来事の始まりでした。古代の相続法においては、後継者が遺言者の人格の同一性を主張できました。レオ一世がローマ教会を引き受けた事により、ローマ教会を設立したペテロと同一である、「私はペテロだ。私がすべての権限を持った」と宣言したのです。その時引用した聖書の言葉が、マタイの十六章十八節、十九節の御言葉でした。

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 「私がペテロだから、私の手の中にすべての鍵がある」というのです。今でも、ローマのサンピエトロ寺院に行くと、入口に鍵をもった男の像があります。それがペテロの像です。ペテロだけに、イエス様が鍵をくれたというのです。そして現在も、ペテロの唯一の後継者「ローマ教皇」だけが鍵を持っているとカトリック教会は主張しているのです。この理解が、聖書から見て正しいのか、正しくないかを知るべきです。マタイの十八章一節には、

『そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」』

という論争について記録されています。もしも、十六章でイエス様がペテロだけに「鍵をあげます」と言われたならば、弟子たちの中で一番偉いのはペテロということになります。ということは、後でこのような議論は起こらなかったはずです。彼らがその後、「この中で誰が偉いのか」と論議したということは、イエス様がペテロを教会の唯一のリーダーとして選び、鍵を与えたのではないということです。そして、十八章十八節には、

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』

ここで「あなたがた」と複数になっています。十六章では個人的な側面もありますが、ここでは、弟子たち全員に鍵を与えるとイエス様は言われました。ということは、ペテロ一人に鍵を与えたのではありません。鍵は弟子たち全員に与えられたのです。
 やがて、イエス様が天に帰られる前、「あなたがたは出ていき、全世界の人々を弟子としなさい」と語られました。クリスチャンはすべて、「イエス様の弟子」です。ということは、すべてのクリスチャンに御国の扉を開く鍵が与えられているということです。教会は皇帝により、民衆支配の手段として利用されたのです。それがローマ・カトリックの姿です。宗教と政治がくっつくとおかしくなります。
 そんな中、「この教えは聖書とは違う、聖書の正しい理解に帰ろう」とい運動がマルチン・ルターなどが中心となり始まりました。それが「宗教改革」です。私たちはプロテスタント教会に属する者たちです。だから私たちは、ローマ法王を土台として、すべてのことが成り立っているとは考えていません。「クリスチャン一人ひとりに、神が素晴らしい鍵を与えて下さっている」という理解に立っています。なぜならば、イエス様がそう語っておられるからです。
 クリスチャンは、牧師であるからとか、長い間教会に来ているからとか、どのような立場にあるからなどは関係ありません。クリスチャンすべてに、御国の扉を開く鍵を与えて下さるのです。「あなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」とイエス様は語られました。
 「地上と天」について、天とは「上空」と思いますが、天とは、「見えない世界、霊の世界」のことです。私たちは見える世界に存在していますが、同時に、見えない世界があります。そこには、見えない世界を支配している神以外の存在がいるのです。先週、お話ししましたが、天における敗北が、地上の敗北になるという法則があります。天で勝利しないと、地上で勝利できないのです。しかし、天で勝利をとったら、地上においても勝利をとることができると学びました。「霊的戦い」があるのです。
 「つなぐ」とは、「縛り上げる、鎖をかける、働きを禁じる」という意味があります。また、「解く」という言葉は、「束縛を解く、解放する」という意味があります。イエス様を信じる者には、見えない世界で働き、私たちを攻撃してくる悪魔の力を「縛り上げる、鎖をかける、働きを禁じる」鍵と権威を与えてあげるというのです。また、この地上で束縛を受けて苦しんでいる人々を解く権威、解放する権威を与えます、ということです。イエス・キリストを信じることは素晴らしいです。イエス様を信じる前は、そのような鍵がなかったので、束縛を受けたらずっと束縛を受け続けるのです。しかしイエス様を信じると、今度はつなぎ、解く権威が与えられ、見えない世界で働いて私たちを苦しめる、悪魔の働きを禁じる鍵が与えられるのです。今日それが、等しく、すべての人に与えられていると信じて下さい。
 そのことを証明する一つの出来事が続けて記されています。マタイ十七章十四節から十六節に、

『彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」』

と書かれています。一人の子どもが「てんかん」で苦しんでいました。「てんかん」という普通の病気もありますが、この人は霊的な力で縛られていて、「こんな所で発作を起こしたら死んでしまう」というような場所で、悪いタイミングで発作を起こし、火の中に落ちたり、水の中に落ちたりしていたのです。時々そのような人がいます。それは普通の病気のようですが、病気ではないという人がいます。もちろん、そこには医学的な原因もありますが、背後に悪霊が病気を後押しし、もっと悲惨にし、普通なら直るものを、直らないようにしている場合があるのです。
 まずは弟子たちの所にこの子どもは連れられてきました。弟子たちは鍵をもらったので、「直せる」と思っていたはずです。しかし、残念ながら直すことができませんでした。それで、弟子が駄目なら師匠の所に、と言うようにイエス様の所に子どもは連れられて来ました。すると、イエス様は一発で子どもから悪霊を追いだし、てんかんを直して下さいました。
 昨日、私は素晴らしい証を聞きました。一月に、私は名古屋リバイバルミッション決起大会で名古屋の「クリスチャン・ライフ」という教会に行きました。そこに行くと、皆が暗い顔をしていました。なぜなら、その教会に来ている若いご夫妻の、十一ヶ月の赤ちゃんが病気にかかり、集中治療室に入って人工心肺をつけている状況にあったからです。それで教会は断食をして赤ちゃんのために祈っていました。そんな中、私は奉仕に行きました。聞くと、心臓が二十パーセントから三十パーセントしか動いていないので、まずは助からないであろう、無理だというのです。私もそれを聞いて、「あまり断食などをして根を詰めて祈ると、いやされなかった場合、祈った人たちがあとからショックを受け不信仰になるのではないか・・」と心配しました。
 しかし、そのとき、私はなぜか大胆にメッセージの中で、「このような病の背後に、悪霊の働きがあるので戦って祈りましょう」と語りました。そして、「十一ヶ月で死ぬなど、神様が設定された事ではない」と語ってしまいました。まさか、赤ちゃんのご両親がそこにいるとは思わず、私は、大胆に会衆に語りました。
 そして、メッセージが終わると、なんと、入院している赤ちゃんのご夫妻が前に出て来られて、「祈って下さい」と言うのです。私は、ちょっと大胆に語りすぎたので不安になりました。しかし、イエス様に頼って祈りました。そして色々な問題が、家系とのつながりによって起こる場合があると話し、共にお祈りをしました。午後の集会では、特に、その赤ちゃんの背後に働く死の力が打ち砕かれるよう、皆で心を合わせて祈りました。その時、聖霊様が素晴らしく働かれました。内心私は、こんなに聖霊の訪れがあっても、赤ちゃんが亡くなったら、恥ずかしいと思いました。それと、もう一つは「名古屋リバイバルミッション」のための集会だから、ある意味において、これは挑戦であり、勝負だとも思いました。だから真剣に祈りました。その後、どうなるのだろうかと心配しながら帰ってきました。さて、どうなったでしょうか?
 何とその子が、奇跡的に良くなったというのです。人工心肺がとれ、一般病棟に移り、先週は、ついに退院して家に帰ったというのです。今までこの病気が直った事例がないので、新聞にも載ったそうです。いやしの背後に、クリスチャンの熱心な祈りがあったのです。皆で戦って祈りました。それで主が助けて下さったと信じます。クリスチャンが真剣に戦って祈るときに、神は奇跡を起こして下さいます。今日、皆さんの中で、「この問題は絶対に解くことができない」と考えておられる方がおられたら、戦って祈りましょう。なぜならば、つなぎ、解く権威が皆に与えられているからです。
 赤ちゃんのためにも、皆に権威が与えられているので祈りました。そのとき、幼いいのちを奪おうとしていた力が縛り上げられ、病という束縛が解かれ、神が奇跡のわざを起こして下さいました。イエス様はそのような力を与えて下さるお方です。
 さて、イエス様の所にてんかんをもった子どもが運ばれてきましたが、弟子たちにはできませんでした。それで弟子たちは、少しショックでした。「イエス様から鍵をもらったのに、私たちにはなぜできなかったのだろうか」と疑問に思いました。それでイエス様に聞きました。すると、マタイ十七章二十節から二十一節に、

『イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」』

と言われました。
 この時イエス様が弟子たちに、できなかった理由を教えています。それは、「あなたがたの信仰が薄かったから」と言われました。「信仰が薄い」というのは、「あまりにも信頼がない」という意味です。弟子たちには、「イエス様に対する、信頼がなかった」のです。私たちの「勝利の秘訣」は、「イエス様に対する信頼」です。
 イエス様に対する信頼がないならば、悪魔は、「だから俺は出ていかない」と言って出ていきません。イエス様に信頼して祈るときに、「あなたがたにできないことはない」というのです。その信頼は、大きくはなくてもいい、「からし種の信仰」があったら、「あの山に向かって移れと言ったら移る」というのです。私たちが、イエス様に信頼をおいて、「つなぎ、解く」権威を使うならば、「できないことはない」のです。
 何年か前に、二人の牧師が私に会いに来ました。本当に悪霊がいるか、いないかを聞きたいというのです。彼らは、私の書いた本を読んでいました。彼らは、今までは霊的なことを考えていませんでしたが、私の本を読んだときに、悪霊の働きは今でもあるということを意識したそうです。「悪霊については、聖書に書かれているけれど、現代はどこかに行ったかと思ったけれど、今でも存在する」ということに心が留まったそうです。
 そしてある日、ある人のために祈ったそうです。その人は、色々な問題で束縛されていました。そして、「イエス様、この人の問題を解放して下さい。この人が、もしも悪霊に苦しめられていたら、悪霊をやっつけて下さい」と祈ったそうです。するとその途端、祈られた人は震えだし、悪霊がしゃべり出したのです。そしてその先生に襲いかかったそうです。先生は驚いて、真っ青になりました。そこで、「そう言えば、滝元順が書いた本に、イエス様の名によって対決したら悪霊を追いだす事が出来ると書いてあった・・」と思い出し、はじめてやってみたそうです。
 「イエス様の名によって、悪霊よ出て行け!」と命じると、彼は、むくっと起きあがり、「お前は、イエスの名で俺に命じているが、お前は心底信じていないだろう。だから俺は出ていかない」と言い、再び襲いかかってきたのです。
 その牧師は「出て行け!」と言いながらも、実際は、「私がこんなことをやっても、駄目に決まっている」と思いながら、命じていたそうです。すると、悪霊にはすべて見抜かれ、敗北したそうです。
 しかし、それから、霊的な世界があるとわかり、一生懸命主を求め始めたのです。そして、聖書に記されているような権威が欲しいと、祈りを求め訪ねて来られたのです。それで、一緒に祈り合い、素晴らしい時を持つ事ができました。
 私たちも、信仰を持ち、問題の背後に働く悪魔に立ち向かって行くならば、問題を解くことができるのです。
 しかし御言葉には、「あなたがたの信仰が薄いからです。」と書かれていました。それとともに、十七章二十一節に但し書きがあります。

『〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」』

 ここを読むと、「やはり、悪霊は、そうとう祈り込んで、断食しないと出て行かない」と思います。
 私は霊的戦いをしているので、よく質問されます。「順先生は、悪霊と対決するときに、どのくらい断食され祈るのですか?」と聞かれると、「ドキッ」とします。なぜならば、私は断食したことがないからです。いつもたっぷりと食べて、たっぷり寝るからです。
 私の尊敬する伝道者にカルロス・アナコンディア先生がいます。先生が祈り始めると、悪霊が姿を現し、悪霊から解放されます。私は、先生に一度聞いてみました。「悪霊を追い出す秘訣を教えてください。先生はどのくらい、その為に断食をされますか?」と聞きました。すると、「えっ?断食はあまりしたことがないよ。」と言われました。「断食なんかしたら、おなかが空いて、悪霊を追い出すことはできないよ」と言われました。「聖書には、断食しなければ悪霊が出ていかない、と但し書きがあるのに、しなくても良いのか?」と思いました。
 そしてもう少し、聖書を一生懸命に勉強しました。この二十一節は、括弧書きになっています。そしてその箇所に*印が付いて、その注解が添えられています。「古い写本の多くは、この節を欠く」と書かれています。
 この括弧の文章は、オリジナルの記録にはなかったのです。ということは、この箇所は、後から付け加えたようです。私は、この括弧の中の記述は、「後世の人の信仰のなさの現れ」ではないかと思っています。後世の人たちが、悪霊を追いだそうとしたしたけれど、やはりうまくいかずに、「断食して、相当祈り込まないと悪霊は出ていかない」と付け加えたのではないかと思います。信仰のなさの現れが暴露されている箇所のように私は思います。
 私は、悪霊を追いだすには、「イエス様に対する信頼があれば十分だ」と思います。イエス様に信頼していたら、できないことはないのです。これが私たちに与えられた立場です。
 今日私たちが、この真理をつかみ、鍵をいただいて人生を歩むならば、「あなたにできないことはなく、開かない扉はない」のです。イエス様を信じるとこんな素晴らしい鍵が与えらえます。
 最後にその秘訣について、マタイの十八章十八節から十九節に、

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。』

と書かれています。鍵を使うための条件は、「二人が心を一つにして祈ったら良い」と書かれています。まず、夫婦の方にお勧めします。夫婦が心を一つにして祈るならば、鍵が使えるのです。
 案外、夫婦がうまく行かない人が多くいます。なぜなら、夫婦が一つになって祈ると鍵が使われてしまうので、悪魔は夫婦を喧嘩させて離れさせるのです。また、夫婦以外でも、兄弟姉妹や友人関係の中で、心を一つにして祈ると鍵が動くのです。悪魔はそのことをよく知っているので、皆を争わせ、分裂させ、鍵が使えないように働きます。私たちが、心を一つにして祈ると「だれも閉じることのできない門が開かれる」のです。
 イエス様からその権威と鍵があなたに渡されます。今週、何か困難なことがあったら、だれかと心一つにして祈って下さい。その時に、「今まで動かなかった扉が開き、もう二度と閉まりません」というのが聖書の約束です。この素晴らしい約束を手にしたいと願います。イエス様に信頼して生きて行きましょう。お祈りします。

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