今週の礼拝メッセージ
2003.3.23(SUN)
主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで
新城教会 滝元 開 副牧師

旧約聖書 歴代誌 第二 20章12節〜23節
私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。今日御言葉を取り次がせていただけることを心から感謝します。一昨日にざわめきの新しいCD「Zawameki Worship Shout Live Vol.1◎Praise The Lord」が発売されました。心から感謝します。賛美する中で日本のリバイバルを求めていきたいと思います。神様がこのような賛美を与えて下さり、賛美の中で日本のリバイバルのための御業を現して下さることを信じて感謝しています。皆さんのお祈りを心から感謝します。
 前回私が礼拝で御言葉を取り次がせていただいたのは、一昨年の七月でした。その時には「生活のただ中に賛美を」というタイトルで使徒の働き十六章の御言葉を学びました。パウロとシラスが獄中で賛美したときに神様が大きな業をなさって下さったことから学びました。祈りつつ賛美の歌を歌っていると大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち全部の扉が開き、その後、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」という御言葉に導かれます。私たちの生活のただ中に賛美を置くときに神様の御名があがめられ、神様が賛美をもって様々な問題の土台を打ち砕いて下さいます。そして、私たちの家族が救われるような御業が現されます。賛美を捧げる時に現される主の御力について学びました。

 二〇〇三年に私に与えられている御言葉は、創世記十五章五節から六節の御言葉です。

『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

アブラハムがまだアブラムの時代に、神様がアブラムに大きな祝福を与えるという約束をされました。その約束の言葉に対してアブラムは「私はそんな祝福をいただける者ではない、私には無理だ」と神様の前に何度も訴え出ました。すると、それに見かねた神様がアブラムを天幕から外に連れ出し、「空の星を見てみなさい。私が与える祝福はこのような大きな祝福だ」と語られました。天幕の中で私には与えられないと思っていたアブラムが天幕から一歩外に出たときに、神様が下さる恵みはこんなに大きいものだと感じ、そして、神様を信じて前進しました。私たちも天幕という囲いの中から一歩外に出た歩みをしていきたいと願っています。
 さて、今回も「賛美」について学んでいきます。この年、アブラハムのように私たちももう一歩外に出て神様をほめたたえ、神様が下さる大きな数え切れない星のような恵みを受け取っていきたいと願っています。

御言葉は歴代誌の二十章です。歴代誌第二二十章十二節に、

『私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」』

このことを語ったのはユダヤの王ヨシャパテです。彼のところにアモン人、モアブ人、セイル山の人々が攻め上ってきました。あまりにもおびただしい群衆のゆえに勝ち目がないと思ったヨシャパテ王は、「私たちはどうすることもできません。神様、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」と言いました。私たちは色々な問題があるときに、神様だけに目を注げば良いのですが、時々、「こんな問題があった。この問題は○○さんに相談して解決してもらおう」とか、「この問題はあの人に相談してあの人に力になってもらおう」と人に頼ってしまうことがたくさんあります。しかし、ヨシャパテ王の素晴らしいところは人に頼らずに神様に頼り、神様だけに目を向けました。これが問題解決ための一つの大きな勝利の秘訣だと思います。ヨシャパテ王の父親アサ王も北イスラエルが攻め上ってきた時、神を求めずにアラムの王に助けを求めました。アラムは神様に属さない民族でした。すると神様が「あなたはわたしに頼らずに他のものを求めた。」と言われました。第二歴代誌十六章九節に、

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」』

と記されています。神様はご自分と同じ心の者に御力を現されます。しかし、アサ王はアラムの王と契約を結び、神様を求めませんでした。それゆえ、神様が厳しい言葉を語られました。「わたしはわたしと心一つの者に力を注ぐが、あなたはわたしを求めなかったので今から数々の戦いに巻き込まれる。」と言われ、数々の戦いに彼は巻き込まれていきました。また、その子ヨシャパテ王も結んではならないところと手を結んだことが第二歴代誌十八章に書かれています。これは三月二日に順牧師を通して語られた御言葉とも関連があります。ヨシャパテ王はサマリヤの王アハブと縁を結びました。その結果、第二の天においてサタンの会議で決定づけられたことがサマリヤの王アハブの上に現されました。また、ヨシャパテ王も悪い戦いに巻き込まれました。戦うべきではないところで戦い、無駄骨を折りました。私たちも、第二の天での決定事項が打ち破られるように祈りましたが、私たちの歩みの中でも結んではならないところで手を結ぶことのないように祈り続けることが必要です。

第二歴代誌十九章二節に、
『 すると、先見者ハナニの子エフーが彼の前に出向いて来て、ヨシャパテ王に言った。「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。』

と記されています。「悪者を助けること、悪者と手を結ぶのは良くない。それによってあなたに主からの怒りが下る」と述べられています。この言葉を神様からいただき、ヨシャパテはへりくだって「神様、私はあなたを求めるので助けて下さい」と祈ったと思います。そして次に起こったことは、二十章の御言葉です。モアブ人、アモン人、セイル山の人々が彼の所に攻め上ってきて戦いが始まりました。そのような中でヨシャパテが最初にしたことは、ひたすら主だけを求めて主にだけに目を注ぎました。十五節から十七節に、

『 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」』

ヨシャパテ王に立ちはだかった問題のゆえに恐れました。しかし神様は、「あなたはこの大軍のゆえに恐れたり気落ちしてはいけない。この戦いはあなたの戦いではなく、わたしの戦いだから。」と語られました。私たちの日々の生活の中にも様々な戦いがあります。あってはならないような戦い、また、起こるはずのないような戦いが起きることがあります。小さな戦い、大きな戦い、日常の戦い、そして、今起こっているイラク対アメリカの世界中を恐怖に巻き込むような大きな戦いもあります。そのような中で私たちがするべきことについて二十一節に記されています。

『それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」』

戦いの最中でヨシャパテ王は、「この戦いはあなたの戦いではなく、わたしの戦いであるからあなたはしっかり立って動かずにいなさい」と神様に語られました。そこでヨシャパテは、何もしなくても良いか考えました。しかし、敵の軍隊は剣や槍を持ってヨシャパテとその軍隊を打ち滅ぼそうと攻め上ってきます。そのような中で彼は戦いの最前列に聖なる飾り物をつけて歌う者たちを前に出しました。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と、ただ神様を見上げ、神様に完全なる信頼を置き、賛美をささげて前進してきました。二十二節から二十三節に、

『彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。』

神様の前に「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と賛美した時に、神様が伏兵をもうけられたと記されています。天の軍勢を遣わしてその敵国を打ち砕いて下さり、大きな勝利を神様が与えられました。私たちの生活の中にも様々な戦いがありますが、この御言葉を信じ切ってもっと賛美をして行くべきだと思います。賛美は礼拝の助走の部分で神様に会うためのウォーミングアップというのではなく、神様に心から礼拝し、賛美をささげる時です。その時、神様ご自身の御心である「この戦いはわたしの戦い」と言われる戦いにおいて、神様の大きな勝利が現されます。このことを信じて賛美をささげていきましょう。
 「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」という歌は、最初にダビデ王が歌いました。ダビデ王は連日連夜の戦いのような生活をしていました。彼は旧約聖書の中で誰よりも多く神様に賛美した人であったと思います。第一歴代誌十六書三十四節に、

『主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』

と記されています。これはダビデ自身が歌った歌です。ダビデの王のところに契約の箱が持ち運ばれた時、ダビデは大喜びで神を賛美しました。その時に溢れてきた歌です。ダビデの日々の歩みの勝利の秘訣は、賛美の中にありました。詩篇の六十篇の表題に、

『 指揮者のために。「さとしは、ゆりの花。」の調べに合わせて。教えのためのダビデのミクタム。ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに』

と記されています。アラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていた時、ヨアブが塩の谷でエドムを一万二千人撃ち殺した時、そのような戦いの最中で彼は賛美をささげました。詩篇は文章で記されていますが、それにメロディーがついていて神様への賛美の歌でした。戦いの中で神様は「偉大な方」と歌っています。詩篇六十篇十二節に、

『神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。』

と記されています。私たちの信仰の告白を神様の前に賛美としてささげています。ダビデは神様が私を助けて下さる、その敵をも踏み砕いて下さる、そのような勝利の宣言をしました。当時のイスラエルでの戦いは、神対神との戦いであったと言われています。これは正に「霊的戦い」です。ダビデは万軍の主の御名によって戦っていましたが、相手国は自分たちの神々を戦場に持ってきてそれに祈りをささげながら戦いをしていました。
第二サムエル記五章二十一節に、

『彼らが自分たちの偶像を置き去りにして行ったので、ダビデとその部下はそれらを運んで捨てた。』

と記されています。戦場に自分たちの神を持ってきました。ですから、相手国は偶像の名によってイスラエルを滅ぼそうとしていますが、ダビデは「神様は賛美の中にご臨在される」と信じ、賛美をもって戦いました。第二サムエル記八章六節に、

『ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。』

また十四節に、

『彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。』

と記されています。神様を賛美し戦い続けたダビデに、神様は行く先々で勝利を与えられました。ダビデの日々の歩みは、神様への賛美で満ちていました。詩篇二十二篇三節に、

『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』

賛美の中に神様がおられるので、どんな戦いの中でも私はあなたを歌います。ほめたたえます。そうすれば、神様が私たちに勝利を与えて下さると彼は知っていました。また、詩篇一〇九篇三十節から三十一節は、

『 私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。』

と記されています。真の神は私たちに大きな祝福を与えて下さいます。しかし、神と呼ばれながら、実は神ではないものの背後に働く悪魔・悪霊は私たちに対して「死」という力を持ってきます。その死の力をも打ち破る力が真の神にあることをダビデは知っていました。詩篇十八章二節から三節に、

『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。』

と記されています。どのような戦いの中でも神様は助けて下さると教えています。これは、ダビデがサウル王から追われて荒野から荒野を逃げ回っている中で歌った歌です。「神様こそ私たちの巌、とりで、救いの岩、身を避ける岩であり、盾であり、救いの角、そしてやぐら。私はこの主を心からほめたたえる」と歌いました。詩篇十六篇八節から九節に、

『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。』

と記されています。ダビデはいつも自分の前に神様を置き、神様を見ていました。そして、賛美をいつもささげていました。ダビデはどんなに激しい戦いの中でも神様をほめたたえる歩みをしていました。私たちもこのような歩みができたら素晴らしいです。たえず私たちの目の前に神様がおられ、生活の中に問題がある時には「神様!」と助けを求めます。そして、問題が過ぎ去って平穏無事な生活になると自分のペースになろうとしますが、そのようなただ中にも神様をいつも私たちの目の前に置き、神様と共に歩むことが大切です。その中で私たちが神様を賛美する時、神様は御力を現して下さいます。またもう一人、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と歌った王がいます。それはダビデの次の王ソロモンでした。第二歴代誌五章十三節から十四節に、

『 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。』

と記されています。ソロモン王は神殿を建て上げました。ダビデ時代には神様の契約の箱が天幕にありましたが、神殿が建ち上がると契約の箱を持ち運び、喜びの賛美をささげました。歌った歌は「主に感謝せよ。その主の恵みはとこえまで。」でした。その時に素晴らしいことが起こされました。

『主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。』

祭司たちが立って仕えることができないほどの主の深い臨在が宮に満たされました。それは神様をほめたたえる賛美の中でなされました。私たちの日々の生活の中でも、主の深い臨在に包まれるような賛美をしていきたいと思います。私たちの賛美を持って神様ご自身の勝利がなされることを祈っていきましょう。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美が天幕の中や神殿の中でささげられていましたが、この賛美がヨシャパテの時代には戦いの最前線に出ていきました。今までは天幕の中、あるいは神殿の中で歌っていたのが、外に一歩出て戦いのただ中で神への賛美がなされました。私たちの生活のただ中で、更に私たちが行く先々で神様への賛美を心からささげていく時にこのような御業が現されることを心から信じていきたいと思います。この終わりの時代に私たちは益々主に心からの賛美をささげていきたいと思います。エペソ人への手紙五章十六節から十九節に、

『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』

と記されています。この終わりにあって主の御心を悟ってあなたがたは何をするようにと神様は語っておられるでしょうか。まず一つは、「御霊に満たされなさい」、そして、それと共に「賛美しなさい。」と語られています。賛美をしていくときに神様の大きな勝利がされていくことを信じましょう。黙示録三章七節から八節に、

『また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。』

と記されています。神様が私たちの前に祝福の扉を開かれます。それは、私たちの祈りによって、また賛美によってその扉が開かれることを教えています。「ダビデの鍵」と記されていますが、それが何であるかは述べられていません。これは賛美の鍵ではないかと思います。最も賛美をささげたダビデ王が持って開いたいったのは、賛美の鍵だと思います。私たちの日々の歩みの中でどうしても開かれない扉が開かれるために必要なのは、私たちが神様への賛美をささげることであると信じます。私たちは日々の歩みの中で主と共に歩み、主が共におられるゆえの喜びを神様に賛美して行くべきだと思います。「ここは大変だ。」「この問題は私にとってどうしようもない」ということが、人生の中で訪れることがあると思います。そんな時にこそ神様だけに目を向け、神様にのみ賛美をささげてみてください。そこに大きな勝利が現されると信じます。
 私たちが日本人として最も多く歌ってきた歌は、「君が代」だと思います。私たちはクリスチャンとして「君が代」の歌を通して働く暗闇の力が打ち砕かれるように祈らなくてはならないと思います。「君が代」は基をたどると天皇制につながります。天皇の名が代々にほめたたえられるようにという歌です。これは日本を治める悪しき霊に対する礼拝です。私たちクリスチャンはこの唇を持って神様を賛美しなけばなりません。今までは日本人として歌った歌がどこに届いているのでしょうか。その歌を受け取っていたのは、日本を治める悪しき霊であり、自分への礼拝としてその歌を受け取っていたのです。主によってあがなわた私たちはそこで結ばれる契約を打ち砕き、断ち切って祈る必要があります。私たちの祈りと賛美によって日本を治める暗闇の力、また主権的なものが打ち破られることを信じて賛美しましょう。
 聖書の中に「ハレルヤ」という言葉がありますが、これは神様があがめられますようにということです。私たちはクリスチャン同士の挨拶としても使っています。「ハレルヤ」という言葉は詩篇にたくさん記されていますが、新約聖書には黙示録にのみ「ハレルヤ」という言葉が記されています。黙示録十九章一節から八節に、

『この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」』

と記されています。王の王である神を賛美することが黙示録で述べられています。これは、サタンが縛られて打ち砕かれ、最後のさばきが行われた時に「ハレルヤ」と賛美されました。私たちは「ハレルヤ」と何気なく歌っていますが、これはこの世の終わりにサタンが打ち砕かれた時にささげる大きな勝利の宣言です。ですから、私たちの日々の歩みの中で、また戦いの最前線で主に向かって「ハレルヤ」とささげる賛美がサタンの陣営を打ち砕くものであることを信じて賛美していきたいと思います。その時、神様の大きな勝利が現されます。今日礼拝を通して神様を賛美し、神様をほめたたえました。賛美がここだけに止まらず、私たちの生活のただ中で賛美をする時に暗闇の力が打ち滅ぼされ、天が開かれ、神様のご臨在が現され、賛美を通して私たちの問題の背後に働く悪しき力が打ち砕かれることを信じます。何気なくBGMをかけるだけでも神様の御業が現されることをお祈りしていきたいと思います。
 今回ざわめきのCDを制作した一番の願いは、このCDが流される場所の暗闇が打ち破られることです。東京と新城でレコーディングをしましたが、それぞれの会場でもこのCDの流れるところの暗闇が打ち破られるように祈りました。私たちがささげる賛美を通して暗闇が打ち破られるということを信じて賛美していきたいと思います。神様ご自身の勝利が私たちの中に様々な戦いを通して現されていますが、この終わりの時代に神様が私たちに求めていることは、「聖霊に満たされなさい。」そして、「賛美しなさい」ということです。このことを信じて神様への賛美がもう一度私たちの中に溢れることを心から願います。
 昨年「床の上賛美」をしました。朝起きて最初に巡っていた賛美は神様が下さった歌であり、それを皆で賛美しました。その後はどうでしょうか。賛美が巡っていますか。違う歌が巡っていたり、起きた途端、「あ〜、問題を何とかしなくては・・・」と思いになることも多いかも知れません。しかし、もう一度神様が下さる賛美の油注ぎをいただき、神様の御前に賛美をしていきたいと思います。
 昨年十月から私と家内で豊橋駅前での賛美を始めました。月に一度行っています。ギターとキーボードで伝道的な歌を歌います。その地域の暗闇が打ち砕かれることを願い、また誰かがイエス様に出会えるようにという願いを持って十月から始めました。神様が毎回祝福して下さっています。何十人もの人が来て聞いてくれるわけではありませんが、寒空の下で色々な人が足を止めて聞いてくださいます。手袋をした手で拍手して下さったり、歌と歌の間におじさんやおばさんが語りかけて下さるのです。
「良い歌ですね。どこから来たのですか?」、「ああ、良い歌ですね。私は今電車を三回遅らせて聞いていました」、「寒い中よく歌ってくれてありがとう。暖かい物を飲んで下さい。」、「たい焼きを食べなさい。」などと声をかけてくださいます。今の時代神様への賛美をささげる中で神様に飢え乾いている人が多くいることを毎回見せられています。ちょっとした賛美をささげるだけですが、ギターを弾いている手がかじかんで引けなくなるくらい寒い中で歌っています。しかし、そのような中でずっと足を止めて聞いて下さっている方がいます。小さな投げかけを通しても神様が働いて下さっていることを感じています。PAをセットして歌って終わり、人の目から見たら、「何だあの人たちは二人であんな大きな荷物を持って来てこんな所で歌って・・・」と思われるかも知れませんが、神様がともにいて下さると感じます。そしてそこに引き寄せられて来られる方がたくさんいます。「来月も来ます」と言ってくださる方がおられます。一部と二部でやっていますが、ある時一人のおじさんが一部でじっと聞いていました。そして二部で歌っていると、またそのおじさんが来られました。するとおじさんは何を思ったか色紙を二枚持ってきて「サインして下さい」と言われるのです。「サイン?冗談ではない。色紙がもったいないからやめて下さい。」と言いました。すると彼は「私は感動しました」と泣き出しました。「どうしてサインをして欲しいのですか?」と訪ねると、「うちの娘二人にサインをもって行きたい。何しろ感動したから。」と言われました。そこで彼とともにお祈りをしました。祝福のためにお祈りしますと言うと、とても喜んで祈りを受けて下さいました。また先月は一人のホームレスの人が寝ていました。私たちが歌っている横で爆睡しているのです。歌い終わったら起きてしましました。以前に一度挑戦があったのでまた来るかなあ?と思ってしまいました。しかし、彼は「お兄ちゃんたち、寒いだろう、コーヒー買ってきてやる。」と言うのです。立場が逆ではないかと思いましたが、ホームレスの方が暖かい物を差し出そうとするほど神様が働いて下さいました。賛美の中に神様がともにおられ、働いて下さると強く感じています。一人の十七才の少年が私たちの歌っている一、五メートルほど前に立ち、ギターを弾くのです。覗きに来て「ギターうまいですね」と言い近づいてきました。それで彼とも色々な話をしました。彼は「僕もギターをやっていて、僕もギターで日本中を廻りたい。」と色々な話をされたので、イエス様の話をしました。すると、彼は今月も再び来ました。「良いですね。ところでどこから来ているのですか」と言うので「新城教会」と言うと、昔行ったことがあると言われました。「教育館の扉を直しに行き、その時流れていた曲がすごかった。また来ます。」と言って帰っていきました。また、おばさんたちも集まってきて話してくれます。一曲終わると「あら、良いわねえ。どこで歌っているの。」「私たちは新城がホームグランドで・・・」と言うと、「どうやって生計立てているの?」と、そんな心配までしてくれるのです。「教会の副牧師をしています」と言うと、「あっ、神様に仕えている方なのですね」と会話がはずみます。小さなことかも知れませんが、一歩外に出て神様をほめたたえる時、また、賛美を通して神様の福音を宣べ伝える時、確かに神様がともにおられ、神様は大きく働いてくださいます。ダビデがいつも神様とともにいたように、神様がここにおられるという瞬間を体験します。
 神様が私たちのためにひとり子イエス様をお送り下さり、イエス様によって私たちが救われました。私たちはイエス様のあがないのゆえに今があります。私たちはそれゆえにイエス様を心から愛してますが、賛美すればするほど益々心にわき上がってくることは、イエス様は素晴らしい方、そしてイエス様はなぜこんなに私を愛して下さるのだろうと強く感じます。私たちの生活のただ中からもう一歩外に出て神様の祝福のもとで神様に賛美をささげていく時、神様が大いなる臨在を現して下さり、その賛美の中で神様が暗闇の力を打ち破られることを信じて更に進んでいきたいと思います。一言お祈りします。

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