思いやり

2003.4.6(SUN) 新城教会 滝元 順牧師

ヘブル人への手紙 13章1節〜8節
兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

 ハレルヤ!皆さんのお祈りに支えられ、二週間前は無事にブラジルを訪問できて感謝します。また、帰ってすぐに犬山の教会での奉仕に行きましたが、すべてが守られ、久しぶりに皆さんとともに礼拝できることを感謝します。
 今日はヘブル書十三章から、「思いやり」というタイトルで学びます。広辞苑では「思いやり」とは、「自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持ちを理解しようとする心」となっていました。
 さて、ヘブル書十三章一節は、「兄弟愛をいつも持っていなさい」と書かれています。また続いて、旅人をもてなること、獄中の者への配慮、結婚生活と性倫理の原理について述べられ、金銭欲について述べられています。これらは、初代教会のクリスチャンたちがいつも心に留めていた事柄です。十三章一節から六節は、神とともに歩む生活の中で、常に心に留めるべき事柄です。七節は、

『神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。』

と記されています。今日は午後から、「サンデー・スクール」があり、聖書の学びがあります。今日は特に、旧約聖書に出てくる指導者たちの一生について学び、その信仰に習うという学びがあります。ぜひ、ご参加下さい。また来週は、小山大三先生が来会されて講義して下さいます。ご期待下さい。
 ヘブル書十三章八節に、

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

と記されています。例えば、「滝元順は、きのうもきょうも、同じです」と言ったら、私がただ単に進歩していないということになります。しかし、「イエス様はいつも同じである」ということとは、昔、イエス様が成されたみ業は、今日でも同じように成されるという意味です。聖書に記されている事柄やイエス様の行いは、今でも私のただ中に現されるのです。
 兄弟愛、旅人をもてなすこと、牢につながれている人々を気遣うことは、一言で表すならば「思いやり」です。思いやり深い人になるということは、小学校の道徳の時間に学ぶことですが、実は聖書の教えです。
 「旅人をもてなすことを忘れないように」とありますが、教会の仕事の一つに、旅人をもてなす働きがあります。私は牧師をしていますが、時々、全国から、また、海外から旅人が来られます。私たちは兄弟愛を持ってその人々をもてなします。それは重要な仕事です。皆さんの周りにも、もてなすべき人、配慮するべき人がいると思います。しかしそのようなことが時々、負担になることがあります。私もお客さんが多いと、自分の時間が削られます。時々不満に思うことがあります。しかし、聖書は、旅人をもてなしなさいと教えています。
 トルストイという有名なロシアの文豪が、『靴屋のマルチン』という小説を著しました。トルストイ自身、この作品が一番気に入っていると言いました。その話は、靴屋をしていたマルチンがある夜夢を見ます。イエス様が現れて、「明日はお前の家を訪問するから、よく外を見ていなさい」と言いました。翌朝、マルチンは目をキョロキョロさせて、イエス様が来るのを待っていました。
 皆さんも、イエス様が家に来て下さると言われたら、喜んでイエス様をお迎えすると思います。
 イエス様がいつ来るのかと外を見ていると、雪かきをしている老人が見えました。彼は老人を見て可哀想に思い、「おじいちゃん、ちょっと家に入り温かいお茶でも飲んで下さい。」と言ってお茶をご馳走しました。
 それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、「奥さん、ちょっとお寄りになって暖まって下さい。ショールがあるからこれでも巻いて行きなさい。」と言ってショールをプレゼントし、暖かいシチューを食べさせて帰しました。
 しかし、なかなかイエス様は来ません。すると今度は一人のおばさんが買い物帰りにりんごを籠に入れて歩いていると、一人の少年が来てりんごを盗って逃げて行きました。やがて少年が捕まえられました。マルチンはその場に出て行って、少年とおばさんの中に入って仲裁し、「私に免じてこの少年を許してあげて下さい」と言って少年を助けてあげました。そんなことをしていたら、夕方になってしまいました。
 「今日は自分の仕事もできないばかりか、イエス様も来なかった。やはりあれは夢だったのか・・」と思っていると、イエス様が現れました。
 「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」「えっ、あなたが来て下さった?そんなバカな・・・。あなたは来られませんでしたよ。」とマルチンは言いました。すると、イエス様の姿が、お茶をご馳走したおじいさんの姿に、赤ちゃんを抱いた女の姿に、そして、りんごを盗った少年とおばさんの姿に変わりました。
 イエス様は神々しい姿でマルチンに近づいてくるかと思っていたら、そうではありませんでした。これは聖書から題材を取ったストーリーです。ヘブル人への手紙には、

『旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。』

と記されています。隣人に愛をかけることは、何の見返りもないように思うかも知れませんが、それがイエス様ご自身に愛をかけることだと聖書は教えています。ぜひ、兄弟愛を持って、周りの方々に愛をかけて下さい。
 私は、二週間前にブラジルに行きました。今、新城教会には多くの外国の方が来られています。土曜日、夜八時半からは「インター・ナショナル礼拝」が行われています。そこには、百名以上のブラジル人、ペルー人の方々が来られ、母国語で賛美をし、メッセージが語られています。フェルナンド先生が導いています。私も二年に一度くらいは南米を訪問し、ここで救われて帰った兄弟姉妹を励ますことにしています。
 このインターナショナルの働きが始まったのは、今から十数年前のことでした。二人の外国人が新城教会に来ました。彼らは南米の方々でした。その頃はまだ、日本に外国人を受け入れる体制が整っていませんでした。彼らが教会に来たことがきっかけで、この地域に南米の人々が多く住んでいることがわかりました。体制が整備されてなかった当時、彼らは日本の右も左もわからず、困難な中で働いていました。それを見て、新城教会の兄弟姉妹が隣人を愛することを実行しました。着るものが足りなかったら、古着をあげたり、いらなくなった電化製品をあげるなどして、一生懸命にお世話をしました。そのような中で、南米からの人々が大勢教会に集まるようになり、一人救われ、二人救われ、多くの方々が救われてバプテスマを受けました。彼らはある期間、日本で働き、自分の国に帰ります。この十数年の中で、新城教会でバプテスマを受けて帰った人は数多くいます。
 もしも、私たちが心を開き、旅人をもてなすことをしなかったら、今のインターナショナル・ミニストリーはなかったと思います。また、私がブラジルに行って奉仕する機会もなかったことでしょう。旅人をもてなすことは重要です。

『牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。』

と記されています。思いやることは、自分の身に比べて人の身について思うこと、相手の立場や気持ちを理解しようとする心です。この言葉が記された理由は、当時多くのクリスチャンが牢に入れられていました。今私たちは、感謝な時代に生きています。なにもとがめられることなく、イエス様を信じることができます。しかしこの時代には、多くの人が捕まえられて牢に入れられました。しかし、牢にいるクリスチャンも、外にいるクリスチャンも、皆一つになっていました。牢にいる人のために真剣に祈り、また、牢の中にいる人たちは外のクリスチャンの守りを祈っていました。
 人は自分については一生懸命思いやりますが、案外、他人のことは思いやらないのです。しかし「思いやり」は神の祝福をもたらす秘訣であると聖書は教えています。今回私は、新城教会として、ブラジルに帰った兄弟姉妹を思いやりの心で、訪問させていただきました。
 日本とブラジルの間には十二時間の時差があります。全く昼夜が逆なので辛かったです。ブラジルで逆転した時間のまま、寸分も休むことなく働き、日本に帰って来てすぐに奉仕がありました。ですから先週一週間、天井が回っているような感じでした。午後からは眠くて、夜は眠れないような生活をしていました。
 二十二日、金曜日の午後に日本を経ち、ブラジルには日曜日の朝六時半に到着しました。こちらでは日曜日の夜の六時半です。朝早い時間なので、誰も迎えに来ていないだろうと思ってロビーに出ました。すると、十数人が私たちを迎えてくれました。皆、私のことも覚えていて、迎えて下さいました。そこで懐かしい再会を果たしました。お互いに覚えているとは嬉しいことです。
 そこで私は、日本人の顔をした牧師に出会いました。私は初めてその先生に出会いました。彼は四十年くらい前にブラジルに渡り、ブラジルの国籍を持っていました。「初めまして」と挨拶すると、「先生とは初めてですが、私の親戚が十年前の甲子園ミッションに参加し、そのときに新城教会に泊めてもらった」と言いました。その時の印象が良かったと言われました。私はもてなした覚がありませんが、よかったと思いました。
 私たちは空港からすぐに、その先生の教会に行き、九時から礼拝が始まりました。三百名程が集まられていました。三十数時間程飛行機に乗った後、すぐに講壇に立ち御言葉を語りましたが、主が助けて下さいました。私たちが国を越え、民族を越え、互いに思いやり、祈り合っていくことが重要だと感じさせられました。
 今回私たちの大きな目的は、ブラジルの国神・アパレシーダの祀ってある所に行って、戦い、とりなしの祈りをすることでした。なぜならば、十年来、ブラジルの方々と接する中で、解放の祈りをすると、いつも偶像礼拝の中に「アパレシーダ礼拝」が出てきます。アパレシーダは黒いマリヤです。いつも断ち切りを祈りますが、私は実物を見たことがありません。ブラジル国中の人々がそれを拝んでいます。
 今回、このとりなしツアーのために、新城教会で救われたフラビアーナ姉が自分の家を開放して下さり、また、彼女の両親も協力し泊めて下さいました。私が、ご両親に「初めまして。お世話になります。」と言うと、お父さんが出てきて、暖かく迎えてくれました。ウルルン滞在記のような感じで、初対面とは思えない暖かさがありました。「初めまして」と言うと、お父さんが「初めてではない」と言われるのです。「私は日本に行き、新城教会の礼拝に二回出た」と言われました。「冬の寒い日に豊川で行われたバプテスマにも出ました。その後で先生は川で泳いでいたでしょう」と言われました。
 そこを拠点としてアパレシーダ寺院に行きました。寺院のあるアバレシーダ市は人口約三万人の町ですが、アバレシーダを祀る会堂は三万五千人程が入る大きさです。祭りの時には人が道にまで溢れて、偶像礼拝をしています。それは高さ五十センチくらいの像ですが、像を拝むために全国から何十万人もの人が来ます。これは悪魔の働きです。こんな小さな像をなぜ拝むのでしょうか。この小さな像の果たす経済効果は絶大です。小さな町にも関わらず巡礼者のためのホテルがたくさんあります。私たちはそこに行き、携帯電話で新城教会とつないで祈りました。日本は夜中の二時、ブラジルは昼間の二時でした。新城教会には、上條実先生が待機して祈ってくれました。インターナショナル・ミニストリーのつながりの中で「アパレシーダは新城教会に絶対に働くことはできない!」と宣言して祈りました。そしてその日は、そのアパレシーダ寺院の目の前にある「ミノル・ホテル」に泊まりました。上條ミノル先生が新城教会で祈った事に何か意味があったのかも知れません。
 また、サンパウロの中心にある、日本人街には大きな鳥居がありました。日本人の移民が多いので日本人は神社を作り、鳥居まで作って拝んでいました。そこで私たちは、日本人として悔い改めて祈りました。
 サンパウロは犯罪が多い所です。その中でも一番犯罪率の高い危険な場所でも集会をしました。ブラジル教会はパワフルです。ここでは日系人の先生が牧会をしていました。明るい先生で、いつもニコニコしているのです。そこでは建物の一階も教会、また二階も別の教会、そして隣も別の教会です。人々は一番恵まれる教会を選ぶことができます。とても素晴らしい集会を持つことができました。皆が聖霊に触れられ、喜びの笑いで満たされました。皆さんのお祈りを感謝します。
 ブラジルでこのような集会や、とりなしをさせていただいたことも、十年数年前に新城教会の兄弟姉妹が隣人を愛し、海外から来られた人たちに愛を示した結果です。
 今回、日本から帰られた方の家も訪問させていただきました。家は「近い」と聞いたので、五分くらいの所かと思っていると、百キロくらい離れたところでした。それがブラジルの「近い」という意味です。
 私は三年程前にブラジルに行ったときに、この言葉で混乱しましたが、今回は戸惑いませんでした。訪問したら、喜んで迎えて下さいました。「夢ではないかしら。ここはどこ?」と言うので、彼女が住んでいた、「日本の豊川だよっ」と冗談を言っていましたが。彼女は涙を流して喜んで、私たちを迎えて下さいました。
 またブラジルで、以前ここで話したイスラム教から改宗した兄弟から私の所に電話がありました。彼はいま療養中です。彼は電話の向こうで、「会いたい・・」と言って涙を流しているのです。彼は、「順先生。私は新城から帰って五年になりますが、一日足りとも夫婦で新城教会のために祈らなかった日はないです。」と言いました。毎日、夫婦で心を合わせて、新城教会の守りと祝福を祈っているというのです。私は感動しました。「私もあなたのために毎日祈ったよ・・」とは、言えませんでした。しかし彼らは、毎日、夫婦で新城教会のために祈っています。私はその言葉を聞いて反省し、また、彼の思いやりに心を打たれました。
 「思いやり」とは心にかけることです。彼は救われて奇跡を体験し、特別な計らいでブラジルに行きました。彼はブラジルに行ってから、イランに残された家族のために一生懸命祈ったそうです。「イエス様。イランの家族が救われますように。」
 イランはイスラム教の国です。イランでは、生まれた家の宗教が一生を左右します。途中で宗教を変えてはいけないのです。キリスト教の家族に生まれたら、それで良いのですが、イスラム教の家族に生まれて、他の宗教に改宗することはできません。もしも改宗したら、イスラム法によって死刑です。何しろ厳しい国です。彼はそのような中でイエス様を信じました。けれども、家族はイスラム教です。ですから、彼は一生懸命祈り、ブラジルから聖書を送ったり、電話や手紙で伝道しました。昨日、私は彼に電話をして確認をしましたが、何と今は、家族の中で八人が救われ、クリスチャンになったというのです。イランではどうすることもできないので、彼らはオランダに移住して洗礼を受け、暮らしています。これは「思いやり」です。私たちもまだ救われていない家族、親族のために思いやることが大切です。
 しかし、思いやりはなかなか難しい面があります。旅人をもてなしたり、実際に行動することはなかなか難しいのです。一度くらいは行動できますが、それを長く続けるのは難しいです。しかし、「思いやり」についてヘブル書十三章十八節、十九節では、次のように教えています。

『私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。』

 十八節は「私たちのために祈って下さい」と記されています。また十九節に、「もっと」「祈って下さい」と記されています。これは祈りの要請の二段構えです。思いやりの中で一番大切なことは、自分のことではなく他の人のために「祈る」ことです。案外、自分のためにはよく祈りますが、他の人のためにはあまり祈ることができません。しかし思いやりは、自分のためよりも、他の人のために祈ることです。これが思いやりです。思いやりの祈りにより「こと」が早められるのです。祈りは事柄を動かします。「もっと祈ってください」という言葉は、「甚だしく」という意味です。力強く祈ることです。他の人のために甚だしく祈ると、その人の抱えている問題の展開が早められ、新しいことが起こります。思いやりの中心は祈りです。今週は思いやりの週であるように願います。新城教会を主が守って下さっていますが、それは、日本に住むものたちの祈りだけではなく、新城から海外に帰った兄弟姉妹が、新城教会のために重荷を持って祈っているゆえに支えられている面があると思います。
 今、国際問題がたくさんあります。国は自国だけでは立ちゆかず、他の国との関連性で位置づけられています。これは霊的にも同じ事が言えます。私たちが日本のことだけ祈ったのでは日本は支えられません。海外のためにも真剣に祈るべきです。私はブラジルに行き、ブラジルのために真剣に祈りました。またブラジルのクリスチャンは、日本のために祈って下さいました。相互の祈りによって、お互いが支えられるのです。私たちは海外のことも祈らなければなりません。今、イラクで大きな戦争がありますが、現地にいる人にとっては深刻です。人間は残酷なもので、戦争の報道を見て、どちらかの味方をします。アメリカ寄りであるなら、「イラク兵千人が死亡」と聞くと、「やった」と思ってしまいます。しかし、実際はとても深刻です。亡くなったイラク兵一人ひとりに家族があり、皆、人間なのです。それぞれの家族に大きな悲しみがあります。私たちは人と人を対立させ、恐怖政治を国に持ち込む悪しき力を見抜き、打ち砕く祈りが必要です。戦争が一番良い形で止められるように祈ることが必要です。
 今週は、新城教会と長岡聖契教会の牧師たちがバリ島に行き、とりなしの祈りをします。私が一月にバケーションでバリ島に行き、そこで戦い祈ったら新城教会に新しいことが起こされました。私はそのとき少し祈っただけです。後から、もっと祈れば良かったと思いました。まだ祈り残したところがたくさんありました。そこで、今回バリ島にとりなしに行くことになりました。今週はぜひ、祈って下さい。バリ島はヒンズー教です。ヒンズー教と仏教には大きなつながりがあります。日本のためにも祈らなくてはなりませんが、バリ島の為にも祈らなければ日本に解放は訪れません。世界にも平和は訪れないと思います。新城教会から、世界の大変な所に入って祈る「とりなし手」が多く起こされると思います。イラクに行って祈り、また、イスラムの国々に入って祈る人も起こされると思います。そのような中で、世界に神の働きが前進し、イスラムの国々にも直接伝道に行ける日が来ると期待します。イエス様は、「福音は全世界に宣べ伝えられて、それから終わりがくる」と語られました。私たちは日本だけではなく、海外についても思いやりを持ち、祈ることが大切です。
 今週は思いやり深い週となることを願います。そして自分のことだけではなく、他の人のためにも祈る一週間にしていただきたいと願います。
 先週は、林秀子姉が亡くなられましたが、残されたご家族のためにも祈らなければなりません。また、病気で苦しんでいる人々のためにも思いやりの心を持って祈りたいと思います。その中で神がわざを進めて下さいます。

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです』

 私たちの祈りによって、イエス様がわざを進めて下さいます。心からイエス様の前に出て祈っていきたいと願っています。自分のことではなく、他の人のために祈って下さい。神が思いやりを与え、祈りを与えて下さいますように。私たちが思ってもいない祈りを与えられるかも知れません。共に祈りましょう。


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