岐阜純福音教会牧師 小山大三 先生 特別講演記録
「聖霊の5つの努め」

2003.4.13(SUN)
岐阜純福音教会牧師 小山大三 先生

新約聖書 ヨハネの福音書 16章7節〜14節
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

 お早うございます。今日お招きいただき感謝します。滝元明先生は、私が岐阜純福音教会の牧師になる前から、度々教会に来て下さりご奉仕下さいました。また順先生や上條先生も色々な折りにご奉仕下さり、大変素晴らしい御言葉の努めを下さり、私たちの教会はこの新城教会によって、ずいぶん励まされてきました。快く先生方を送り出して下さる皆さんを素晴らしく思い、改めてこの機会に感謝させていただきます。今後ともよろしくお願いします。この六月には滝元明先生が来て下さり、私たちの教会で決起大会をすることになっています。大変楽しみにしています。この燃えている教会にお招きいただき、心から感謝しています。この教会が燃えている一つのしるしは、前の席が埋まっていることです。これは日本の教会では珍しいです。前は黄金の席ですが、皆、遠慮して後ろの方に座ってしまいます。さすが新城教会だと思い感心しました。そして将来と希望を掲げる教会だけに、子どもたちが前に座っていることに感動しました。子どもたちが一番前に座っている教会を見たことがありません。素晴らしい教育がされ、勇気と信仰で満ちた子どもたちでいっぱいで、将来を感じさせられます。私は子どもたちに感動したので教会に帰ってから、教会の子どもたちにもチャレンジを与えたいと思っています。この教会の特徴をも言えるのでしょうか。賛美が素晴らしいです。プレイズ・タイムはとても感動しました。また、特別賛美もとても恵まれました。私は残念ながら音痴です。関西聖書学院で音痴三人トリオと言われていました。私と町田教会の出身の兄弟と、裾野純福音教会の横山先生と三人は音痴トリオで有名でした。関西聖書学院では二人部屋で、私と横山先生と同じ部屋でした。週に一度ルーム・メイトとの祈祷会があり、私たちは賛美する時、ハモルことはできませんが一緒に歌おうとすると、時々ハモっています。不思議な現象です。残念ながら私は上手に歌うことができません。また、私は大変方向音痴です。今日ここに来るときも時間に遅れないように心配しながら来ました。早めに七時に家を出ました。十時頃着く予定でしたが、スムーズに新城に来ることができました。一つの理由はこちらのホーム・ページに交通手段がしっかり書かれていたので、間違うことがありませんでした。また、私は機械音痴です。横須賀で開拓伝道していた時に、二台目の車を十万円で買いました。私の教会のメンバーが、「先生、十万円で車が出ている。日産のバンです」と言われ、私は十万円という値段にひかれて買いましたが、買ったらパンクしていることに気付き、すぐに修理に出したり、板金塗装や車検交渉をする必要があり、結局高くつきました。それは二月くらいのことでした。そして季節が五月になり、少々暑くなりました。ところがエアコンが全く利かないのです。これはフロンガスが抜けていると思い、ガソリンスタンドに持っていき、フロンガスを注入して下さいと言い、その間に買い物に行きました。そしてガソリンスタンドに戻りました。すると、スタンドの人が申し訳なさそうな顔で、「・・・すみません。これエアコンが付いていないのですが・・・。」と言われました。あの時は本当に恥ずかしい思いをしました。こんな者をこのようにお招き下さったことを感謝します。
 今朝は「聖霊の五つの努め」というタイトルでヨハネの福音書から学びます。ヨハネの福音書十六章七節から八節に、

『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』

と記されています。イエス様がしばしば弟子たちに、「わたしは十字架にかかるよ。エルサレムで律法学者や長老、祭司長たちに偽りの証言を受け十字架にかけられる」と語っておられましたが、弟子たちはそれをなかなか理解できませんでした。そして十字架にかかる日が近づき、直前になってイエス様が再び心から弟子たちにこれから起ころうとしていることについて話されました。「わたしはもうすぐ、あなたがたのところから去って行く。天のお父様のところに帰っていく」と語られました。しかし、弟子たちはなかなかそれを理解できませんでした。そして弟子たちは動揺しました。「イエス様は何を言っておられるのだろうか。イエス様は牢屋に入れられるだろうか。殺されるのだろうか・・・。」霊の耳が開かれていなかったので、なかなか理解することができませんでした。イエス様はその動揺を見て、一つの希望を与えられました。それはもう一人の助け主が来るという事でした。「わたしはあなたがたのところから去っていき、あなたがたはわたしを見なくなる。しかし、わたしはもう一人の助け主を送る」とイエス様が言われました。それは霊様についてです。この「助け主」という言葉は、ギリシア語で「パラクレートス」と言います。傍らに立つ者という意味です。また、傍らに立ってとりなしをする者という意味です。他にも色々な意味があり、一つの日本語では表すことができません。助け主、弁護者、慰め主、援助者、友など色々な意味があります。イエス・キリストを信じる者に宿っている御霊は、私たちの傍らに立ち、私たちのためにとりなしておられる方です。私たちのために助けを与えて下さり、慰めを与えて下さる方です。今日この方が私たちのただ中におられることを、心から感謝したいと思います。この御霊様が五つの努めを持っておられます。実はもっとたくさんの努めがありますが、今日は五つの努めについて学びます。
 聖書の中の「五」という数字は、弱い人間性に対する神の恵みを象徴している数ですので、「五」という数字を選びました。十六章八節に、

『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』

と記されています。聖霊のまず第一の働きは、私たちの心に働いて罪というものがどのようなものかについて教えて下さるのです。そしてイエス・キリストの十字架が私たちにとって、なぜ救いであるかについて啓示を与えます。聖霊の働きなくして、人が救われることは不可能です。どんなに私たちが言葉巧みな説教をしても、どんなに私たちが熱心に語ったとしても、聖霊の働きがないならば私たちが救われることは不可能です。ヨナ書二章九節に、

『しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」』

と記されています。聖霊の働きがあってこそ、人は救われることが可能です。このためには私たちに祈りが必要であると教えています。「主よ。あなたがこの集会において働いて下さい。あなたが魂のうちに働いて下さい。」という祈りなくして人は救われないということを覚えてください。
 私は一九七二年十二月二十三日にクリスチャンになり、もう三十年が経ちました。私のクリスチャン人生の初期に、「この人だけは救われないだろう」と思った人が二人ありました。私はイエス様を信じていましたが、自分でこの人たちは長い間祈っているけれど救われる希望がない、もう祈るのをやめようかと思ったほどでした。一人は関西聖書学院の四階に下宿していた、関西学院大学の学生の土屋さんでした。彼は下宿料が安いという理由で下宿していました。聖書学校の四階は、創始者のビジョンに従い、関西学院大学の寮として使われていました。土屋さんはそのうちの一人でした。彼の同級生の下宿している人は次から次へと救われていきました。しかし、土屋さんだけは、卒業しても救われませんでした。本田弘慈先生、有賀喜一先生、滝元明先生のメッセージを聞いても救われませんでした。またそこに下宿するためには、西宮福音教会の礼拝に参加しなければならないという約束がありました。彼は礼拝にずっと出ていても救われませんでした。その彼が、東京の日本赤十字社に勤めるようになり、毎週土曜日に横浜に来て私を救いに導いて下さった、アメリカ人の先生の所に一泊し、次の日は横須賀にあるアメリカ海軍の中にあるチャペルの中で、日本人向けのバイブル・クラスに通うようになりました。四月から始まり、七月に私が聖書学校の休みで帰ってきた時に、彼は教会に来ていましたが、まだイエス様を信じていませんでした。彼の目の前で私の先輩がイエス様を信じる告白をして救われました。しかし、彼だけは救いの決心をしませんでした。私は夏休みが終わった時、この人はもう見込みがないと思いながら帰りました。私の聖書学校の机には、救われて欲しい人の名前を書いて貼ってありましたが、土屋さんの名前を消そうかと思っていました。すると、彼から手紙が来ました。「小山兄、私はイエス様を信じて洗礼を受ける決心がつきました。」と書かれていました。私は驚きました。彼が言うには、使徒行伝を読んでいる中で二章八節の、「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうしたら賜物として聖霊を受けるでしょう。」という御言葉が心に飛び込んできたというのです。それで彼はイエス様を信じる決心をしました。これは御霊の働きです。私は彼が救われても誇ることができませんでした。心の中でこの人のために祈るのはやめようかと思っていた程でした。
 またもう一人難しいと思っていた人は、私の父方の祖母でした。私は田舎に帰る度に証をし、教会に連れて行っていました。しかし、私の出身は広島の田舎で、新城が都会に見えるような所です。私が村の第一のクリスチャンで、難しい地域だと感じていました。そんな中で祖母がクリスチャンになることも難しいように思いました。ところが郷里の近くで開拓伝道をし始めたアメリカ人の宣教師が足繁く通って下さり、私が聖書学校を卒業し、横須賀で宣教師と共に伝道の働きをしていたときに、手紙が来ました。「あなたのおばあちゃんがイエス様を信じました。今度洗礼を受けます。励ましのため、帰ってきて下さい。」という手紙でした。私はそれを読み、嬉しいと思いましたが、半分以上「本当かなあ」と思いました。「あのおばあちゃんが本当に信じたのだろうか。どれくらい信じたのだろうか」と心配になりました。それで電話をして確かめ、洗礼に合わせて田舎に帰りました。しかし、おばあちゃんは本当にイエス様を信じていました。私の不信仰が取り扱われたときでした。この二つのことがあってから、どんなに救われるのが難しいと思う人でも救われることが可能である、祈り続けなくてはならないと感じるようになりました。救いは主のものです。聖霊が働かれるときに、難しいと思われる人も救われることが可能です。
 また第二番目の聖霊の努めは、ヨハネの福音書十四章二十節に記されています。

『その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。』

神様の昔からの願いは、私たちのただ中に住むということでした。モーセの時代に、「神は聖所を作りなさい、幕屋を作りなさい。わたしはあなたがたのただ中に住む」と言われました。イスラエルの人が荒野を旅していたときに、彼らの宿営の中心に幕屋が置かれ、その至聖所に神の臨在が現れていました。幕屋は神殿であり、神殿は私たちのからだを象徴するものでした。神様は人が手で作った建物以上に、私たちの心、私たちの霊の中に住みたいと願われておられました。私たちの中に住まわれ、私たちの人生を導くこと、私たちと共に歩むこと、私たちが人生の中で神の栄光を現すことは神のみこころです。今日イエス・キリストを信じている者のうちに、神の御霊が宿っておられることを感謝しましょう。
 今日、皆さんの中で一千万円位する高価な指輪を持っておられる方はいますか?もしも、持っておられたら気になると思います。忘れたらいけないと心配になり、気を配ります。外国に行ったらパスポートが盗まれないかと気を配ります。皆さんのイエス様に対する価値はいかがでしょうか。十円、百円、その存在さえも忘れるような価値でしょうか。イエス・キリストは最高の宝です。一千万円のダイヤモンドに優る価値あるお方です。この方を私たちが意識して生きることを願っておられます。神の御霊が私たちのうちに宿られることが可能となったのは、イエス・キリストの十字架の恵みによります。イエス様がなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪をあがなって下さること、私たちの身代わりに十字架で刑罰を受けて下さることがなかったら、私たちの心が聖められることはありません。聖霊は聖なる御霊です。聖い方は罪ある者の中に宿ることはできません。罪の聖めが成されなければなりませんでした。イエス様がこの地上に約二千年前に人として来て下さいました。そして、私たちがこの地上で経験する、すべての痛み苦しみを経験して下さいました。イエス様は肉体においても苦しみを受けられました。十字架にかかられました。イエス様の直接の死因は、心臓破裂だと言われています。十字架にかけられた時に、イエス様の手と足には大きな釘が当てられ血が流れてきました。自分の体重を自分で支えなければなりませんでした。すごい負担が心臓に来ました。心臓の周りには心のうという袋があります。その壁にリンパ液が出てたまっていきました。そしてイエス様の心臓が破裂したときに水のごとく、たくさんのリンパ液が心のうにありました。また心臓が破裂した時、血液もたくさん流れてきました。イエス様が息を引き取られた後、ローマの兵士がイエス様の脇腹を槍で刺したときに、血と水がほとばしり出ました。イエス様は十字架の上で、朝九時から午後三時まで私たちの罪の身代わりに苦しんで下さいました。またイエス様は精神的にも感情的にも、情緒的にも苦しみを受けられました。偽りの証言を受けられました。皆さんの中で自分に関する嘘、偽りを言われたという方があると思います。ある人はプライドが傷つけられて、自殺にまで追い込まれる人がいます。辛いことです。また、ばかにされるという経験、目隠しされ、平手打ちされ、「お前がキリストなら誰がやったか当てて見ろ。」とイエス様はののしられ、ばかにされました。そして弟子たちから見捨てられました。人々から見捨てられました。何も悪いことをしていないのに、イエス様は人々にばかにされ、ののしられ、あざけられたのです。これは私たちが人生で経験する屈辱です。今あなたがどんな苦しいところを通られているかわかりません。しかし、一つはっきりしています。イエス様はあなたの苦しみをよくご存じです。イエス様は人となってご自身が試みられて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることが出来る方です。そしてイエス様は私たちのために、十字架で霊の死を経験して下さいました。イエス様が十字架にかかられても、ある時点まで天のお父様と親しい交わりを持たれていました。しかし、その交わりが霊的に切られるときが来ました。本当に私たちの身代わりにのろわれた者となられ、イエス様は十字架で罪人の立場をとって下さいました。父なる神との交わりが断たれました。イエス様は叫ばれました。「我が神、我が神。どうして私をお見捨てになったのですか。」真の神様から離れ、真の神を知らずに生きている人間の心の痛み、地獄に向かうその大きな痛み、それをイエス様ご自身が経験して下さいました。
 私は十九歳で大学一年生の時にイエス様を信じました。イエス様を信じたときに私は自分の小学生の時の罪を思い出しました。私が今も覚えている小学校の時の三つの罪です。一つは小学校一年生の時に黒板にチョークで書きました。しかしチョークではなくクレヨンでした。私はそこに誰もいなかったので、知らない振りをしました。そして掃除の時に係の子が消そうとすると消えませんでした。ホームルームで先生が「誰がこれを書いたか」と聞くと、友だちが「小山君だと思います。」と言うのです。私は「嘘付け!見たのか。」と言いました。また、小学校四年生の時に、私に嫌なことを言った同級生がおり、帰りに「何であんな事を言ったのか」と訴え、腕を持ち上げました。その子の腕を骨折させてしまいました。手紙が学校から来ると母親は驚き、果物を持って謝りに行きました。またもう一つも四年生くらいの時でした。私は漫画が大好きでした。私は父を四歳で亡くしたので、私の家は貧しかったのです。そこで私は我慢ができず、バスに乗って四キロ程先の本屋さんで盗みをしました。運良くも捕まってしまいました。これで警察行きかと思いましたが、その本屋さんは私の担任の先生を知っていたので、今日は帰って良いと言われました。次の日に学校に行くのが苦痛でした。私は学校大好き人間でした。学校に行くとみんなとソフトボールをするのが楽しみでした。また、給食を食べるのも楽しみでした。ところが、その朝は学校に行くのが辛かったです。行くとすぐに先生が、「小山。ちょっと来なさい。」と言われました。そして先生が手紙を書いて、それをもって家に帰るように言いました。しかし、その手紙をすぐには親に渡しませんでした。すると電話がかかってきて、「小山君は手紙を渡されましたか。」と言われました。そこで私は母親に手紙を渡しました。母は涙を流して悲しみました。祖母も涙を流して悲しみました。兄が中学から帰ってきて、涙を流して悲しみました。その本屋さんには兄の同級生がいたのでした。私はその家族の姿を見て、こんなこと二度とするまいと思いました。しかしイエス様を信じたときに、本を盗みに入ったときのことを思い出しました。あの罪もイエス様が十字架によって赦して下さったとわかりました。私は大きな心の許しをいただきました。
 第三の聖霊の働きについてヨハネの福音書十六章十三節に、

『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』

と記されています。イエス様の御霊が私たちの心に住まわれると、霊的な理性が与えられます。詩篇十六章八節でダビデはこう歌っています。

『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』

また、ローマ書七章二十五節でパウロはこう語っています。

『私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』

パウロが言っている「心」とは、ギリシア語で「ヌース」という言葉です。これは霊的な理性を意味しています。聖霊様が私たちに宿られるようになると、霊的な理性を持ちます。そして私たちに語って下さいます。また私たちに教えて下さいます。
 私は時々に誰かに対して言い過ぎることがあります。随分前のことでしたが、ある牧師について言い過ぎたことがありました。横須賀から岐阜に移動するときに、色々な引継をしなければならないことがありました。そのことに関わって下さる先生についてある宣教師に、「あの先生は本当の意味で親身に心配してくださらないと思います」と言ってしまいました。宣教師の家から、自分の家に帰る途中で聖霊様がすごく憂いているのを感じました。私の心は重くなりました。家内に、「ちょっと言い過ぎたみたい。主が戒めているのを感じる。」そして家に着くと、すぐに宣教師に電話をして、「あんなふうに言いましたが、あの先生はきっとよく世話をして下さると思います。私が間違っていたことを主に示されましたので、電話させていただきました。」と謝りました。イエス・キリストの御霊が私たちのうちに宿っておられるので、この方が私たちを教えて下さいます。私たちを真理に導いて下さるのです。
 第四にヨハネの福音書十六章十四節に、

『御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。』

と記されています。御霊の四つ目の努めは、イエス・キリストの栄光を現すことです。私たちがイエス・キリストの名前によって祈る時、イエス様の名前によって語り、イエス様の名前によって行動するときに、聖霊様は喜んで働いて下さいます。そしてイエス様の栄光が現わされます。またもう一つ、御霊がイエス・キリストの栄光を現される方法があります。それは私たちのクリスチャン人生の中で、私たちをイエス・キリストの十字架経験へと導くことです。この新城教会がどんなに燃えている教会でリバイバルの教会であったとしても、メンバーの一人一人の人生には試練があると思います。私たちはそれを恐れる必要はありません。しかし私たちの人生において何がしかの試練、問題困難が時々やってきます。今も問題を抱えているかも知れません。私は牧師であっても、様々な問題に直面します。パウロが感じていた、とげの経験が私たちクリスチャン生活にあります。私たちに宿られた御霊は、私たちをイエス様の十字架に現される経験へと導きました。イエス様の十字架は、二千年前です。今の私たちとは関係ないように見えます。しかしそれがどんなに深い関係にあったかということを、御霊は私たちが人生の直面する問題を通して弱さの中に導かれます。イエス様もバプテスマのヨハネから洗礼を受けて水上がられると、聖霊が鳩のようにイエス様のところに降りました。聖霊に満たされました。しかし、その次に聖霊がイエス様に対してされたことは、イエス様を荒野に導くことでした。そしてイエス様はそこで四十日間の断食をされました。そこで悪魔の試みを受けられました。イエス様でさえも悪魔の試みを受けられたのですから、当然、私たちも悪魔の試みを受けます。弱さの経験があります。死は弱さの極限です。私たちの問題はなかなか自分が死なないというものです。私たちの自我、肉の働きが絶えず目を覚ましていて、イエス様に頼っていると言いながらも、どこかで自分で解決しようというところがあります。これが私たちの問題です。それを主が取り扱われるのです。御霊は、それを取り扱うお方です。
 ワシの子育てはユニークです。ワシは高い岩場に住処をもうけます。ワシの巣は少し変わっており、柔らかい藁や鳥の羽根だけで作られるように思いますが、違うようです。とげのある木の枝を集めて土台を作り、その上に動物の毛や鳥の羽根などの柔らかいものを敷きます。そして卵がふ化し、小ワシが生まれ、空を飛ぶ訓練する時期になると、小ワシを背中に乗せて空中に飛び出します。そして空中で小ワシを無理矢理飛ばせるのです。ところが小ワシは親の背中に乗ることを怖がります。すると親ワシは巣にある柔らかいものをはね除け、巣を痛く感じるようにします。すると小ワシは痛くて、そこにいることができず、否応なく親の背中に乗ります。そして訓練をするのです。私たちのクリスチャン人生の中にも、そのような訓練が来ます。その弱さの経験、それをなぜ主が通されるか、その先には復活の経験があります。主は私たちが弱さの経験の中で、イエス・キリストの復活の力を味あうことを願っておられるのです。
 第五に、ヨハネの十四章十二節です。

『わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。』

イエス様が父の元に帰って行かれ、御霊が私たちに送られたならば、「わたしの行うわざを行い、またそれよりも更に大きなわざを行う」と書かれています。イエス様の行うわざを行うというのはわかります。また、「それよりも更に大きなわざを行う」と記されています。どういう意味でしょうか。私たちがイエス様よりも大きなわざをすることができるのでしょうか。
 私は今までに三つの解釈を聞いたことがあります。その第一は文字通りの解釈です。イエス様が言われたので、何の注釈も必要がない、この通りだというのです。そのような視点から現代における聖霊の働きを見るときに、確かにそうだとも言えます。この教会にも来られたアナコンディア先生は、一九八二年以来何百万人という人をイエス様の救いに導かれました。アフリカで働かれているボンケ先生も、また各地に起こるリバイバルにおいてもそうです。イエス様が地上におられた時になされた御業以上と言っても良いような業が成されています。ですから、文字通りに解釈するのもアーメンです。
 第二番目の解釈は、イエス様が人として地上におられたときに、時間と空間において制限されていました。肉体をとっておられたからです。イエス様はご自分の行かれるところにしか働くことができませんでした。しかし、イエス様が父なる神の右の座につかれた時、天のお父様の元に帰って行かれ、聖霊を私たち信じる者に注がれ、また教会に注がれたとき、世界中で同時にイエス・キリストを信じる人たちを通して聖霊が働かれることが可能になります。その上、希望において成されることの内容についても、クリスチャン一人一人を通して成される御業は、イエス様ご自身が肉体をとってお一人で成されたものよりも、遥かに優るという解決です。これもアーメンです。私たちイエス・キリストを信じる者を通して、イエス様程でないにしても、私たちがイエス様を信じて手を置くときに病人は癒され、奇跡がなされる、キリスト教会トータルで見るときに、イエス様以上の御業になっているというのです。私も、このイエス様の御業に参加していることを感謝しています。御言葉を語り、イエス様の御名によって祈るときに、御業を見ることができることを感謝します。
 横須賀にいたときに私は神様の癒し・奇跡を顕著に見たいと思い、毎週水曜日の昼は断食をしていました。そんなある水曜日の夜の集会に、高校二年生の娘さんがやってきました。私たちのメンバーになっていた学校の英語の先生を通して紹介されてやってきました。彼女は水泳を中学生の時に一生懸命やっていましたが、半月盤損傷になり、片足が四〜五センチ短くなっていたのです。そして痛みを感じており、体育の授業は見学、そして修学旅行にも行ってはいけないと医者に言われておりました。その夜に私は彼女に、「今度日曜日においで。あなたの足の癒しのためにお祈りするから。」と言いました。アメリカにいた時に、南米からの色々なニュースを聞いていました。虫歯の人の歯が集会中に治療する音が聞こえて、集会中に歯の治療が神様によって成されたとか、新しい歯が生えてきたなどと色々な奇跡を聞いていました。足が伸びたという奇跡も聞いたことがありました。この日本においても、私もとても若かったので、自分で経験したことはありませんでしたが、神様は癒しと奇跡をなされると確信に満ちて彼女に言いました。そして、彼女が日曜日に来ました。しかし、私のメッセージがほとんど終わったときに来ました。それを見て私は、今日は祈るのをやめようと決めました。私のメッセージを聞いていたら信仰が湧いてきて、あるいは癒されるかも知れないけれど、メッセージが終わってから来ているので無理だと判断しました。ところが私の家内は手をあげ、「あなた、この子のために祈って下さい。夕べ足が痛くて夜中二時頃まで眠れなかったそうなので祈って下さい。」家内にそう言われると引けなくなり、どうぞ前に来て下さいと椅子を置いて、「この短い足よ伸びて来い」と一生懸命祈りました。すると伸びてきているような気がしました。足を合わせてみると、同じ長さになっていました。それで弱々しい声ではありましたが、「ハレルヤ。癒されました。」と言いました。癒されたと半分思いましたが、半分は来週まで癒されているだろうか、と心配もありました。それで弱々しい声でしたが「ハレルヤ。癒されました」と言ったのです。それで次に来たときに、私は非常に心配でした。「足はどうですか?」と聞くと、「大丈夫です。でも、一つ問題が起こったのです。」何が問題かと聞くと、「今まで上げ底の靴を履いていたけど、あれが使えなくなったので、普通の靴にしなくてはならなくなったのです」と言うのです。それを聞いて私は、「ハレルヤ」と思いました。その集会の終わってから、リビングスペースに行き、飛び上がって「ハレルヤ!」と喜びました。その時から私は癒しのために積極的に祈るようになりました。
 最近、私たちの教会で、真光教の信者のご家族三人が救われました。奥さんの妹さんたちがアッセンブリーの信者で、一人は埼玉におられ、もう一人はアメリカのロサンゼルスにおられました。そのお姉さんに対して、妹さんが一生懸命祈っていました。なかなか信じようとされませんでした。岐阜県の高山市に来ると、大きな真光教の本部があります。そこに行っている家族でした。息子は岐阜県の真光教の青年団の副隊長をしている方でした。ところがお母さんがロサンゼルスのアッセンブリーの教会に行き、メッセージは英語だったので何もわかりませんでしたが、牧師先生が最後に「祈って欲しい方」と招かれたときに、彼女は前に進み出ました。そして手を置いて祈られると、彼女はばたんと倒れました。宗教に関わっている人はとても単純なところがあります。そして彼女は、「イエス・キリストはすごい」と思い、信じる決意をしました。そして日本に帰ってきて、私の教会に来られ、イエス様を信じられました。そして次には息子さんとご主人が来るように祈っていました。息子さんが仕事中に手にけがを負いました。しかし、息子さんが来るように祈っていましたが、なかなか教会に来ません。手がだいぶ治り、抜糸が終わり病院の帰りに牧師が祈ってくれていると聞いていたので、お礼に来たかったと言って教会にやって来ました。そして手を見せてもらいました。良くなられていましたが、まだ少し痛みがあると言われるので手を握って祈り出しました。すると電気が走るように震えだし、彼は「これは何でしょうか」と言い始めました。「それは、イエス様の御霊が今働かれています。心配しなくても良いですよ。神様があなたを癒し、あなたを愛しておられることを現しておられるのだから。」と言いました。「すごいですね。これは・・・。」と言っておられました。それから、彼は教会に来るようになりました。そして去年のクリスマスの時期に洗礼を受けられました。そして彼は青年団の隊長も教会に連れてくるようになりました。今、隊長が救われることを祈っています。そして難しかったのはご主人です。ご主人は奥さんに内緒で、ギャンブルに溺れ、すごい借金を作っていました。そして自営業をやっていましたが、その商売もうまく行かず二千万円以上の借金があって大変な状況でした。しかし奥さんが一生懸命そのために祈っていると、親戚のある人が「返さなくて良い、差し上げます」と言うのでご主人は驚き、家内の祈りは本当に聞かれると言って教会に来られるようになりました。そしてお父さんはまだまだたくさんの借金が判明し、奥さんは苦しまれましたが、ついに全部言い表し、悔い改めて今年二月に洗礼を受けられました。イエス・キリストは今も生きて働かれています。私たち土の器を通して人々を救いへと導き、聖霊の管として私たちを用いることが可能です。
 第三番目の御言葉の解釈はアメリカで癒しのために用いられた、キャサリン・クールマンという女性の解釈です。彼女はこう言いました。「イエス様には私たちができてもできないことが一つあった。それは何か。イエス様はあまりにも聖いお方であるので、私たちはかつてこんな罪人でしたが今こんなに変えられましたと、神の恵みを証することができなかった」というのです。これもアーメンです。私たちの場合は過去に色々な罪がありましたが、罪を赦して下さいました。そして私を今こんなに変えて下さいましたと、人を変える神の恵みを証する証人となることができるのです。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

と使徒の働き一章八節に記されています。イエス様が言われました。人を変える神の恵みを証する証人として私たちは召されています。お祈りしましょう。


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