復活!

2003.4.20(SUN) 新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 使徒の働き 10章35節〜40節
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。

 ハレルヤ!今朝、教会に来られ、「いつもと違う」と感じたと思います。この会堂の正面には、いつも大きな十字架が立っていますが、今日はありません。なぜないかというと、スペースがないと言うこともありますが、復活祭の演出の一つでもあります。イエス様は十字架において亡くなった後、十字架は地面から引き抜かれて倒されたはずです。そして、遺体は十字架からはずされ墓に葬られました。しかし、イエス様は三日目によみがえられたのです。十字架がないのは、イエス様の復活を意味しています。
 今日は復活祭です。復活祭を英語で「イースター」と言います。今年はあえて「イースター」という言葉を使っていません。時々、言葉の語源を調べると、良い意味ではないことがあります。特に「イースター」という言葉の意味は、良い意味ではありません。昔、ローマ帝国に侵入したゲルマン民族は、色々な偶像礼拝をしていました。特にこの季節、人々は「春の女神」を拝んでおり、その女神の名前を「イースター」と言いました。その後、ローマがキリスト教化したことにより、その祭りが復活祭に置き換えられ、復活祭のことを「イースター」と呼ぶようになりました。ポルトガル語では、復活祭のことを「パスクァ」と言います。こちらの言葉は異教背景ではなく、「過ぎ越し」という意味から来ています。日本語には「復活祭」という、イエス様がよみがえられた日を記念する言葉がありますので、「復活祭」と呼ぶ方が良いと思います。
 さて、今日は「復活」について聖書から学びたいと思います。なぜ、イエス様は十字架にかかって死に、三日後によみがえられたのでしょうか。
 復活、それは、人類に対して、神が希望を宣言した瞬間でした。人間は最も高度に創られた動物です。しかし、人間は人生の中で多くの悲しみを体験します。今日、この礼拝が始まる前、九時四十五分から「召天者記念会」がありました。私たちの教会で、かつて一緒に礼拝していた仲間で、すでに一足先に天に帰られた人達がいます。その人達を記念して、記念会を行いました。私たちクリスチャンは死者を拝むことはしません。なぜならば、人は死んだら神の元に引き取られるからです。しかし、私たちは、その方々を忘れず、彼らがこの地上に残していった愛をもう一度思い返すために、毎年、復活祭に合わせて記念会を行います。私も少し記念会を覗きましたが、大勢の方々が集まっていました。それを見て、そこに集まった人々以上の悲しみがあったことを感じました。人間には、つらい別れがあります。特に、愛している者が亡くなるのは悲しいことです。
 先週、私は韓国に行きましたが、韓国ですべての仕事を終え飛行場に戻る途中、携帯電話が鳴りました。それは日本からの電話でした。私の家内が電話に出ました。「えっ!うそーっ」と言って顔色を変えていたので、「これは大変なことが起こった」と思いました。何と、それは我が家の一大事でした。我が家で十五年間も飼っていた犬の「アイシー」がついに死んでしまった、という知らせだったからです。その出来事は、我が家にとって大ショックでした。私を除いてかも知れませんが、我が家は全員、落ち込んでしまいました。その日、夕食を食べようとすると、テーブルに食事がないのです。私は家内に、「腹が減った。食事はどうしたの?」と聞くと、皆がじろっと私を睨むのです。「あんた。冷たいね。」と言われました。私は申し訳ないと思いながらも、食事をしました。若干一名、悲しみながらも食事をした者もいましたが。十五年間、一緒にいた犬が死んでしまったのです。それも、一番死に目に会いたくないと言っていた、息子の目の前で死んでしまったらしいのです。彼は大変なショックを受けていました。犬が亡くなっただけでもショックです。それ以上に、共に過ごした家族や友人が亡くなったら、どんなにか寂しいことでしょう。そして、それが永遠の別れであったら、そんな寂しいことはありません。
 シャボン玉は大きく膨らんで、パチンと壊れて消えます。壊れたシャボン玉は、世界中どこを探しても二度と見つからないのです。同じように、人間も膨らんでパチンと弾けてしまう・・、どこを探してもその人が見つからないとしたら、人生は何と寂しいことでしょう。
 イエス様は、この地上に来られた神です。その方が一度死んで、人の目の前でよみがえられたと聖書に記されています。その出来事は、私たちに希望を投げかけています。
 「この地上においては、悲しみがあるかも知れないけれど、希望を持つんだ。わたしがよみがえったのと同じように、あなたがたもやがて主を信じるなら、同じ条件で、もう一度失ったものを取り戻すことができる、死んでも再び会うことができる・・」
 今日も記念会が行われましたが、そこには悲しみの中にも、再び会えるという希望がありました。
 私も先日まで、東郷中学校一年C組二十三番だと思っていたら、いつの間にか五十二歳になってしまいました。考えるとあと、二十年、三十年生きられるのか・・、最近、時々自信がなくなります。しかし、私たちは、やがて、神の前で永遠に生きる希望があります。今日、ここにおられる皆さんのうち、誰一人として失われる者はいません。イエス様が永遠の希望を与えて下さっています。復活の希望をあなたに与えて下さいます。ですから、復活祭は人類にとって「希望の日」なのです。失われたものをもう一度回復して下さる神がおられます。私たちは復活祭の度に、人は永遠に生きる存在であることを確認するのです。なぜならば、イエス様が私たちのために、復活を実際に示してくださったからです。イエス様は、私たちにとってよみがえりの主です。これが復活の一つの理由です。

 さて、人間は動物の種類から見ると、哺乳類の一種です。人間と猿を比べると、あまり変わらないと言われます。人間の中で一番猿に似た人間を捜して連れてきて、また、猿の中で一番人間に似た猿を立て、どちらが猿で、どちらが人間かと見比べたら、わからないかも知れません。猿には全身に毛があるけど、人間には毛がないと言います。毛がないというのは進化したのではなく、高度に発展した証拠らしいのです。しかし、人によっては猿のように全身毛深い人もいます。猿も人間も食べたものは同じように口から入り、下から老廃物を出し、皮膚を切ると赤い血が流れ出ます。類としてはあまり変わらないのです。
 しかし、イエス様は、この「人類のため」に地上に来て下さり、十字架にかかって死んで、三日目によみがえられました。よく考えると、何と大げさなことでしょうか。なぜ、神がこの地上にまで来られ、人間のために痛い目に遭い、殺され、生き返らなければならなかったのでしょう。詩篇の記者もそのような疑問を持っていました。「神様、人とはいったい何ものなのでしょう?」
 猿と人を比べたらあまり変わらないのに、なぜ、人のためだけに神は地上に来られ、猿の為にではなく、人のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえらなければならなかったのか・・。先に述べた「永遠の希望」と言うだけならば、別にそんな大げさな、神が人となって地上に来て、十字架で死んでよみがえるまでしなくても、他にいくらでも方法があるのではないか、と思います。
 では、あえて、人間のために神が人となられ、十字架にかかり、三日目によみがえって下さったのには、どのような意味があるのでしょう。

 ここには、深い意味があります。ある意味において、これは創造の目的の根源でもあります。天地宇宙が創造された様子について聖書は記しています。聖書を開くと、まず、創世記があります。そのまた最初に記されている言葉は、

『初めに、神が天と地を創造した。』

これは、すごい宣言です。神は自己存在されているお方です。私たちは被造物です。ですから、私たちは神に文句は言えません。神が全てを造られたからです。
 私たち人間は、新しい創造はできません。元々あるものを改良したり、材料があって、そこから他の物を作ることはできますが、無から有を引き出すことは決してできません。これは神にしかできないのです。創世記一章二節から、

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『地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』

と記されています。これが、天地創造直前の状況レポートです。天地宇宙ができる前、「地は形がなく、何もなく、闇が大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」と記されています。この記事について、あなたはどのようにイメージされるでしょうか。
 多分、真っ暗闇の中に、神の霊が降りてきたようなイメージを持つと思います。しかしこれは、「神の霊」と「闇」が対比されているのです。電気を消すと闇が入ります。これと神の霊とは何の関係もありません。全く次元の違うものです。そうしたら、「神の霊」に対する「闇」とは何でしょうか。
 さて、「失楽園」という言葉を聞いて、何を連想されますか。数年前の映画で「失楽園」という不倫物語が話題になりました。その映画を連想するならば、あなたはかなり世俗的な人かもしれません。しかし、もしも、イギリス文学の最高峰と言われるジョン・ミルトンの「失楽園」を連想するなら、かなり教養のある人です。「失楽園」はミルトンが著した長編叙事詩です。表現が難しいので、私は途中で読むのをあきらめてしまいましたが。
 その本は、創世記一章を題材としています。それは天地宇宙ができる前の状況です。天地創造以前、そこには神と共に、神に仕える天使たちがいました。しかしある時、天で何があったのかわかりませんが、天使たちが神の命令に背いたために、その三分の一が神の前から追放され、悪魔・悪霊になってしまったのです。この「神の霊が闇の上を動いていた」という表現は、「闇」とは、「霊的存在」を表しています。天地創造以前に、悪魔・悪霊という霊的存在がいたのです。それは、ヨハネの一章を読むとよくわかります。そこには「光と闇」について記されています。「光」は神のことです。「闇」とは霊的存在です。しかし、神はそのような状況の中で、一つのことを行われました。神は悪魔や悪霊の目前で、天地を創造され、人類を造られたのです。ここには、深い意味があります。人類が造られた目的は、神の栄光の回復でした。
 神様は有史以前、ご自分の栄光を傷つけられていました。なぜならば、ご自分に仕えていた天使たちが反逆し、離れてしまったからです。神はそのような状況を放ってはおかれません。必ず、ご自分の力で、それを修復されるお方です。
 そのため神は、一つの手段をとりました。神の栄光の回復のために、一つの手段を選ばれたのです。それが、「天地創造と人の創造」でした。
 さて、人間は、どのような位置づけで創造されたのでしょうか。詩篇八章四節、五節に、

『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

その位置づけは、「神よりも少し劣る存在」でした。これは、神の次に権威を持つ存在という意味です。これを見た悪魔は恐れました。見えない世界は権威で成り立っています。神が権威ある言葉を発するならば、必ず、それはなります。私たちは神に次ぐ存在です。神から権威ある言葉を受け取り、私たちが神の言葉を忠実に守り、その権威に従い、人間よりも権威のない存在に対して言葉を発するならば、その言葉通りになるのです。権威には上から下に流れるという構造があります。そんな中、神から離れてしまった天使達、すなわち、悪魔・悪霊よりも権威ある「人間」という存在が造られたのです。それには悪魔は驚きました。自分たちを自由に指図できる、権威ある存在が創造されたならば、彼らは落ち着きません。
 今、日本も他国との関係の中、特に、北朝鮮との関係で緊張しています。なぜならば、彼らは核兵器や大量破壊兵器を持っている可能性があるからです。日本よりも軍事的に権威を持ち、行使できる国は容認できないのです。ですから、日本をはじめ国際社会は、それを何とかしようとしています。いわばそれと同じようなものです。神は悪魔・悪霊の目の前で、彼らよりも権威ある存在を創造したのです。それを見て、悪魔は困りました。それで悪魔は何をしたのでしょうか。人間に目を留めました。しかし、人間は悪魔よりも権威ある存在なので、直接攻撃はできません。彼らの用いることの出来る唯一の方法は「誘惑」です。そこで人を誘惑をしました。なぜならば、神が人間に一つの命令を発していたからです。創世記二章十六節、十七節です。

『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

これは、神から人に発せられた、権威ある言葉でした。人間は神の次に権威ある者です。人が神からの権威ある言葉を聞いて、実を食べなければ、委ねられた権威は保たれます。しかし、これに反したら、人の権威は損なわれるのです。悪魔は、自分の存在をキープするために人間を誘惑し、神の言葉に背いて木の実をとって食べるよう仕向けました。すると人間は、悪魔の誘惑の罠にはまり、その実を食べたので、神からの権威のオーダーから外されてしまいました。悪魔の計画は成功し、悪魔は人間から権威を奪い取り、悪魔は人間よりも上のポジションにのし上がってしまったのです。
 聖書において、悪魔の存在は「蛇」として表現されています。蛇は爬虫類に属し、人間に征せられる存在です。悪魔は、そのような格好でしか人前に出ることができなかったのです。なぜならば、悪魔は人間以下の存在だったからです。
 悪魔は人に、「神様は本当に、善悪を知る木の実をとって食べてはいけないと言ったのですか。あれはとって食べても良いですよ。食べても死にませんよ。」と食べるように誘惑したのです。見るとその実は美味しそうでした。それで初めの人間アダムとエバは、善悪を知る木の実をとって食べてしまいました。
 人が食べたとき、悪魔の目が輝きました。その瞬間、自分たちがかつて神の怒りに触れて天から落とされたのと同じように、人間も神から追放され、堕落したのを見たのです。
 その結果、人類は悪魔の支配下に落ちてしまいました。今、世界はどうでしょうか。人間に、悪魔を支配する権威があるようには決して見えません。世界中、どこに行っても、人は悪魔に踏みつけられています。世界中に、悲しみ・苦しみが溢れています。解決できない問題が溢れています。これには一つの理由があります。人間が、自らの権威を放棄し、悪魔に権威を渡してしまったからです。人類は悪魔によって踏みつぶされています。そのような状況が現在の状況です。神は人間を通して、ご自分の栄光を回復しようとしたのにも関わらず、その人類が悪魔の手に渡ってしまったのです。
 しかし神は、悪魔の仕業をそのまま放っておかず、回復しなければなりません。本来、人間の目的は、悪魔・悪霊を打ち破り、神の栄光を回復する役割です。その役割をも回復しなければなりません。そのために、神が人となってこの地上に来たのです。それがイエス様でした。イエス様は何をされたのでしょうか。使徒の働き十章三十七節から、

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

これはイエス様が地上で行われた働きです。イエス様の働き、実は、それが本来人間が行うべき働きでした。神から来た完璧な人間イエス様が、本来人間が行うべき業を、悪魔の手に渡った人類の前で現して下さいました。
 人類が神の言いつけから離れた結果、人類を死が支配するようになりました。聖書の告げる死は、ただ、肉体的な生命の終わりではなく、霊的な死をも意味します。これは悪魔と共に、永遠の滅びに行かなければならないということです。悪魔の手に渡された故に、私たちは永遠の滅びに行かなければなりません。人間は死を受け継いでしまいました。人生の中のテーマはいつも「死」です。案外、家系を見ても、「死」というテーマが溢れています。なぜ、こんなに「死」というテーマが溢れているのでしょうか。それは、初めの人間アダムとエバが罪を犯したために、人類に死が入ったからです。逆に言い換えれば、人間が神の権威に従わなかったからです。人類が受け取った死を取り消すには、誰かが人類の身代わりになって死ななければなりません。しかし、人間には身代わりになれる存在はありません。けれども、神は人間を造られた根源なので、神が人となって人類の罪の身代わりとなって死ぬならば、人類の根源、アダムとエバが犯した罪による「死の呪い」から解放されるはずです。初めの人間アダムとエバが罪を犯したために、全人類が罪人となってしまいましたが、神が人となられ、人間の罪の身代わりとなって死なれたことにより、全人類の罪が赦されたのです。イエス様が十字架にかかられて死なれたことにより、人類が、死という結果を受け取らなくても良いポジションに移されたのです。
 では、その後、イエス様はなぜ、復活したのでしょうか。そこには理由があります。

 死は、すべての活動を停止させるものです。人は死んだ途端、全く活動が停止します。イエス様がこの地上におられた期間、悪魔を制し、病を癒すという奇跡の業をされました。しかし、十字架にかかられて死なれた時に、それらの活動が完全停止してしまいました。けれども、復活は、もう一度、人類の中で活動を再開するサインでした。
 そして、「イエス様を信じ、バプテスマを受ける者は救われる」と聖書に記されていますが、私たちが信じてバプテスマを受けると、イエス様と同じポジションに着くのです。それはよみがえりのポジションです。イエス様がこの地上におられた時と同じ活動を、「あなたがたを通してさせてあげる」ということです。それは、神が天地宇宙ができる前に、「人をこのように使おう、人間をこのような目的のために造ろう」と言われた、創造の目的の回復でした。
 イエス様がよみがえられた真の意味は、私たちがもう一度、神によって与えられた使命を回復することでした。イエス様が復活したとき、「わたしは天においても、地においても、一切の権威を受け取った。」そして、権威をあなたがたにあげると言われました。
 コロサイ人への手紙二章十二節から十五節に、

『 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 イエス様を信じたら、是非とも、バプテスマを受けて下さい。バプテスマはただの儀式ではありません。これは、イエス様がよみがえられたときに受け取った、権威のポジションを共有するものです。すなわち、それは、神が人類に与えた目的を遂行するためのポジションであり、神に次ぐポジションとして位置づけられるものです。今までは悪魔の支配下にあり、悪魔に人生を踏まれていたかも知れません。しかし、イエス様を信じてバプテスマを受けるならば、私たちはイエス様と共によみがえり、もう一度いのちある者として、人としての本来の活動を再開できるのです。何と素晴らしいことでしょう。
 その中身は、「罪が赦され」死の債務証書であり、三代、四代に渡りはびこる「債務証書が無効にされ」、すべての支配と権威、すなわち、悪魔・悪霊の組織の「武装解除」する働きができるのです。
 多くの人々が悪魔の持っている様々な武器によってめった打ちにされ、傷つけられています。ある家は「病」という武器、ある家は「家庭内混乱」、また「離婚」、「不和」など、色々な武器で悪魔は人々を攻めています。しかし、それらの武器を武装解除し、攻め立てている悪魔・悪霊を「捕虜として凱旋の行列に加える」ことができるのです。
 このようにして、本来、人の持っている創造の目的を果たさせていただけるのです。そのために、イエス様はこの地上に来られ、よみがえる必要がありました。ここに回答があります。

 人間本来の目的回復のために、神はそこまでしなければならなかったのです。神の人類創造の目的を悟り、イエス様と同じ働きを再開しましょう。あなたの人生を通して、神は悪魔に勝利を与え、悪魔から武装を解除し、彼らを捕虜とする働きのために用いようとされています。これがイエス様の復活の中心的な意味であると信じます。
 今日すべての人々に、その目的を果たさせて下さいます。そのために必要な聖霊の力も注いでくださいます。人が神に次ぐ存在として、暗闇の力を打ち破る働き、すなわち、「宣教」の業を通して、人々をサタンの支配から神の支配下に勝ち取るのです。これが教会の使命です。
 私たちクリスチャンは「神様、栄光をお返しします」と言いますが、案外その概念がはっきりとしていません。悪魔に持ち去られた神の栄光を取り戻し、神に返すこと、それが「神に栄光をお返しする」真の意味です。日本を見るときに、神の栄光は九十九パーセント以上失われています。それを取り返す働きです。そのためにあなたは神によって創造されました。その目的を回復するために、イエス様は十字架にかかって死なれ、復活されたのです。このことを感謝し、神が人類に嫁せられた目的を回復するために用いて下さるよう、祈りましょう。


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