イエス様と共に歩む

2003.4.27(SUN) 新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書24章13節〜15節
ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 ハレルヤ!
 「ハレルヤ」という意味は、「神様をほめたたえます」というヘブル語で、教会ではよく使う言葉です。今日は「レビ」という若い賛美チームが演奏して下さいました。彼らが歌った歌詞を聞いていたら、九十九パーセント以上が問題提起の歌でした。「何のために生きるのか・・。何のために歌うのか・・。何のために愛するのか・・」と。私は、いつになったら結論が出るのかと心配していましたが、最後に「イエスのために歌う」という落ちがありました。
 人生は、彼らの歌と同じように、九十九パーセント以上が問題提起かも知れません。内外を見ても、問題が多い今日この頃です。
 こんな小話があります。ある男が高層ビルから落ちました。落下の途中、窓拭きのおばさんと顔を合わせました。おばさんは心配そうに、「大丈夫ですか?」と男に声をかけました。すると男は、「今のところ大丈夫です・・」と答えたそうです。
 ある意味で、今の日本の現状は、「今のところ大丈夫」なのかも知れません。しかしこのままでは、やがて日本は地面に叩きつけられて、命を失うのかも知れません。不確定な時代にあって、私たちはどのように生きるべきか。毎週、教会では、聖書の中からその秘訣を学びます。
 先週は復活祭を祝いました。イエス様は私たちのためによみがえられました。聖書は、人間は死では終わらない、永遠の世界があると教えています。そして、今日学ぶ箇所は、イエス様がよみがえられた「当日」に起こった出来事から学びます。タイトルは、「イエス様と共に歩む」です。
 イエス様がよみがえられた日、二人のイエス様の弟子が故郷と思われる、エマオに帰る途中に起こった出来事です。二十四章十三節に、
『ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。』
「ちょうどこの日」とは、イエス様が復活された日です。「いっさいの出来事」とは、近頃エルサレムで起こった大事件、イエス様の十字架でした。同時に、日曜日の朝、ビッグ・ニュースが飛び込んできました。それは、「イエス様がよみがえられた」というニュースでした。なんと、女たちが墓に行くとイエス様の遺体はなく、イエス様に出会ったというニュースでした。そのようなうわさを聞いた弟子たちは、そのことについて色々と話し合っていました。二人が話し合っていると、よみがえられたイエス様が彼らに話しかけられました。十七節から十八節に、
『イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」』

イエス様が彼らに近づいて、「あなたがたは何を話しているのですか。」と話しかけられたのです。
 今、新城で、道を歩きながら話している人たちに近づいて、「何を話し合っているのですか?」と聞くならば、何と答えるでしょうか。
 きっと、「あなたは、新城に住んでいながら、近頃、この町で起こった事件について知らないのですか。」と言われるでしょう。
 先週、私たちは素晴らしい、復活祭の礼拝を持ちましたが、すべてが終わり片づけをしている最中、ビッグ・ニュースが飛び込んできました。そのニュースが今、日本中、世界中に報道され、新城が有名になっています。アメリカからも、「インターネットの画面を開くと、新城が出ていました。一体、何が起こったのですか」とメールが来ました。世界中に「新城」が有名になりました。しかしこれは悲しい事件によってです。このような悪いニュースで町が有名になるのではなく、良いことで有名になって欲しいものです。私たちは、新城のためにもっと祈らなければならないと思います。
 しかしこのような出来事の中にも、神の御手があると信じます。神はこの町に何かをなされようと計画されていると信じます。今週の木曜日(5月1日)には、特別、この事件に関して、とりなし、祈る時間を持ちます。この町のために祈ります。この町に起こった悲しい出来事の背後に働く悪しき力が打ち砕かれ、この町に平和が訪れ、関係者が皆、癒されるように祈ります。また、この問題が、悪い方向に転ぶのではなく、町が建て直されるようにと、祈らなければならないと思います。
 近頃は、多くの殺人事件が起こり、私たちは殺人事件に慣れてしまっている部分があります。新城に起こった「誘拐殺人事件」が全日本に報道されていますが、殺人事件だけでこれほどまで有名になることは難しいです。しかし、このようになった背景に、悲しい出来事でしたが、何らかの神の計画があると思います。今、新城のために、全国のクリスチャンが祈って下さっていると思います。今まで新城は「教会」で有名でした。しかし今は、犯罪で有名になってしまいました。全国のクリスチャンは、新城教会が守られるように祈っているはずです。私たちも、この町の癒しのために、心から祈らなければなりません。
 二人の弟子たちがイエス様について話していました。そこに、イエス様が割り込んで話しかけられました。しかし、二人はイエス様が話しかけてこられたのに、イエス様について話しているのにも関わらず、本人だとは気づきませんでした。ルカ二十四章十六節に、
『しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。』

と記されています。彼らはイエス様と話していましたが、それがイエス様であるとわかりませんでした。
 これは、ただ、歴史的に起こった記録だけではなく、私たちの生活のただ中に、よみがえりのイエス様がどのように関わって下さるのか、また、イエス様が、どのように私たちと共に歩まれるのかについても教えている箇所だと思います。
 時々、私たちは、神様が実際に見えたら素晴らしいと考えます。そうすれば、もっと人生は楽しいと思います。しかし聖書は、見えるものは一時的であり、見えるものは滅びてしまうと教えています。そして、見えないものに真実があると教えています。
 目に見えるものは、やがて滅びてしまうものばかりです。しかし、見えないものの中に永遠に続くものがあります。目に見える神々は、神ではないと聖書は教えています。本当の神は目に見えません。私たちはイエス様の姿を見ることができませんが、目に見えないイエス様が人生をともに歩んで下さるのです。そして私たちが、見えないイエス様を意識して歩むときに、人生が変えられるのです。
 私たちの目で、神様が見えないことは、ある意味で幸いだと思います。「百聞は一見に如かず」と言いますが、見ることは瞬間的にたくさんの情報を取り入れます。コンピューターにおいても、画像情報はデータ量が大きいのです。
 見ることは、瞬間的に多くの情報を受け取ります。例えば、朝起きてご主人が奥さんの顔を見て瞬時に、「今朝は、家内にあまり話しかけてはいけない」とわかります。見ただけで瞬間的に、多くの情報を取り入れるのです。同様に、人間に神様の顔が始終見えたら、「今日は神様は怒っている。今日は悲しい顔をされている」など、常に神様の顔色を見て、一喜一憂しなければなりません。ですから目に見えないことも、感謝なのかも知れません。
 
 この二人もイエス様と一緒に歩いていましたが、共に歩いていることがわかりませんでした。しかし後から、「あの方はイエス様であった」とわかりました。
 私たちが信仰生活を歩んでいるただ中では、イエス様がともにおられるのを、あまり気付かないかも知れません。また、「私の祈りに聞いて下さい」と祈っているただ中では、イエス様が祈りを聞いておられる実感がないかも知れません。しかし、後から「あの時、イエス様が共にいて下さった」とわかります。
 「フット・プリンツ」という詩があります。一人の男がある晩、夢を見たそうです。それは自分の人生の夢でした。彼の人生を示す砂浜に、二組の足跡がついていました。よく見ると、それは、自分の足跡とイエス様の足跡でした。それを見て、男は、イエス様が自分と共に歩いておられるのがよくわかったそうです。しかし、あるところを見ると、一人の足跡しかありませんでした。それは彼の人生の中で、一番つらく苦しい時期であったそうです。それを見た男は、イエス様に文句を言いました。
 「イエス様。いままであなたが、私とともに歩んで下さったことはわかりますが、私が一番苦しいときに、なぜ、あなたは私から離れてしまったのですか。」と訴えました。
 するとイエス様は、「その足跡をよく見なさい」と言われました。そこで彼は、もう一度足跡を見ました。すると、それは自分の足跡ではなく、イエス様の足跡でした。
 イエス様は言われました。「この足跡はあなたの足跡ではなく、わたしの足跡です。あなたが人生で最も苦しいときに、わたしはあなたを背負って、困難から助け出したのですよ。」
 今日も、目には見えませんが、イエス様は私たちと共におられ、助けて下さいます。そして困難な時、あなたを背負い、困難から引き出して下さいます。それが、イエス様です。私たちには見えませんが、イエス様はそばにいて下さいます。聖書は次のように約束しています。マタイの福音書十八章二十節に、
『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』

今日ここに多くの方が集まっています。この中に、目には見えませんが、よみがえりのイエス様がおられます。
 弟子たちも、イエス様が共に歩いておられるとは、思ってもみませんでした。しかしイエス様はともにおられました。どのような時、彼らはイエス様と共に歩んでいたのでしょうか。それは、「イエス様のことを、話題にしていた時」でした。彼らは、イエス様がよみがえられたことなどを聞き、大変混乱していました。しかし、イエス様のことを話題にしていたとき、イエス様が近づいて来られました。
 ここから、私たちが「イエス様と歩む秘訣」について学ぶことができます。毎日の生活の中で、イエス様のことを考え、また、話題にすることです。イエス様のことを話題にするときに、イエス様がともにおられるのです。
 今週は、家庭でイエス様のことを話題にして下さい。近頃のニュースではなく、イエス様のことを話題にして下さい。そのときに、イエス様が私たちのところに来て、御言葉を解説して下さいます。渦中においてはわからないかも知れませんが、後から、イエス様であったとわかります。
 私は三月に、ブラジルに行きました。新城教会でクリスチャンになり、ブラジルに帰られた兄弟姉妹を励ますために行きました。また、ブラジルには偶像礼拝があります。偶像礼拝は目に見える手で造った神々を拝むことです。ブラジルでは、黒い顔のマリヤ像、アパレシーダを拝んでいます。皆、一生懸命に拝んでいます。拝むなら、多少の御利益があるのかも知れませんが、結局は、人生に悲惨な事件が起こります。偶像礼拝は、必ず、人生に悲惨な事件を巻き起こします。私はその偶像礼拝の背後に働く、悪しき業が砕かれるように、日々祈っています。私はそのためにもブラジルに行きました。
 アパレシーダを祀っているアパレシーダ市に行き、「ブラジルを縛っている、アパレシーダの背後に働く、悪霊が打ち砕かれますように」と祈りました。しかし、このように祈ったとき、その場では何の変化も感じられませんでした。一緒に行った人の中には、霊的に鋭い人がいて、何かを感じていたようです。しかし、私には、何の感覚もありませんでした。けれども、後からイエス様が共に戦って下さったことがわかりました。
 ブラジルは広いので、一人ひとりを訪問することは難しいです。そのため、電話などで励ましました。以前、この礼拝で話した、イラン人のご主人とブラジル人の奥さんの家にも電話をしました。奥さんが電話に出ました。私が、「お元気ですか?」と声をかけると、彼女は、「元気ではない」と言って泣いていました。なぜなら、「お母さん病気」というのです。彼女は、日本語はあまりできず、また、私もポルトガル語ができません。しかしお母さんが病気だ、ということはわかったので私は電話を通して祈りました。
 「イエス様、私たちはブラジルにおいて、悪魔を打ち砕く祈りをしました。その勝利をお母さんの上に置いて下さい。」と祈りました。その後、何が起こったのか、わかりませんでした。しかし、その後、彼らの家に実際に行き、彼らと出会った人がいます。その方に話を聞いてみたいと思います。それは、田中イレーネさんです。彼女は私たちよりも長くブラジルに滞在し、彼らの住んでいる町にも行きました。彼女に出ここに来て、話をしてもらいます。
_田中イレーネさんの証
 「ハレルヤ!いつもお祈りありがとうござします。今回、私を含んで十人の方とともに、ブラジルに行って来ました。順先生が、私がイエス様を信じたブラジルの教会で御言葉を語って下さいました。みんなは、順先生をリバイバルの先生とは思っておらず、ハレルヤ!と元気よく言われるのを聞いて驚きました。しかし、とても恵まれました。どこにおいても、聖霊の満たしを受けることができました。
 私は、ヨシノさんとイオネさん夫妻の家にも行きました。サンパウロから、バスで十六時間かかりました。到着すると、『お母さんが癒されました』と言われました。何が起こったのかと考えました。なぜならば、私は、順先生がお母さんのために、電話で祈ったことを知らなかったからです。イオネさんが、『お母さんが、順先生の祈りを通して癒されました。』と言われました。そして、『お母さんの心臓が若い人の心臓になった』と言いました。本当は心臓の手術を受けなければならなかったそうですが、祈った後に病院に行くと医者が驚いて、『何が起こったのですか』と言ったそうです。また、糖尿病もあったそうですが、それもどこかに行ってしまった、と言われました。感謝します。」
 私は、イオネさんのお母さんが、心臓の手術を控えているとは知りませんでした。しかし、イエス様は彼女の心臓をいやし、若い心臓とし、糖尿病も消えてしまったそうです。今朝も、そのような病がある方は、神の癒しを信じて下さい。後から、イエス様が、私たちとともに働いて下さったことがわかりました。
 私たちは、ブラジルにおいて、新城教会のインターナショナルの働きに勝利がくるようにと祈って来ました。
 しかし、先々週、私たちの教会に来られているペルー人のノエルさんという方が、仕事の帰りに居眠り運転をして事故を起こしました。彼は重傷を負って入院しました。私は知りませんでしたが、フェルナンド先生や、兄弟姉妹がすぐに病院に足を運び、皆で彼のいやしのために祈ったようです。腕の骨折のために、緊急手術がなされました。また、鎖骨とあばら骨二本も折れていました。まずは腕の骨をつなぎ、少し良くなったところで他の骨の手術をする、と言われたようです。フェルナンド先生は病院での通訳も行ったので、レントゲン写真も見ました。そんなに大きな事故にもかかわらず、神の助けがあり命は守られました。
 手術の二日後、もう一度チェックしてから次の手術をする予定でした。その間、皆がノエルさんのいやしのために祈りました。そして再びレントゲン写真をとると、二日前には折れていた骨が、全ていやされていたのです。フェルナンド先生は、二枚の写真を見せられて家族に通訳をました。すっかり直っていました。ノエルさんは、「Senor es tu maravillosa!(主は素晴らしい)」と喜んでいました。私たちが南米において祈っているときは、「本当に勝利がおとずれるだろうか」と思いましたが、勝利のあることが、後からわかりました。「主は、あの日の祈りの中におられた!」
 色々な問題を抱えて祈っても、祈っている最中は何の感動も、何の変化もないかも知れません。また、本当に主がともにおられるかどうか、わからないときもあるかも知れません。しかし、目に見えませんが必ず、イエス様が共にいて下さいます。
 二人の弟子が、イエス様のことを話題にしていたとき、イエス様は何を話されたのでしょうか。ルカの二十四章二十七節に、
『それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。』

イエス様は二人の弟子に近づいて、「聖書全体」の中から、「ご自分について」書いてあることがらを、彼らに説明されました。この「聖書」とは「旧約聖書」のことです。旧約聖書は、イエス様がお生まれになる前に記された書物です。イエス様のことは新約聖書中の「福音書」に記されています。そして、イエス様が天に帰られてからの記録は、「使徒の働き」、「パウロ書簡」などの中にあります。しかし、イエス様がお生まれになっていない時代に書かれた旧約聖書の中にも、「自分のことが書かれている」と、イエス様は聖書全体から解き明かされました。
 続いて、イエス様と歩む秘訣は、「神の御言葉である聖書を読むときに、イエス様が私たちのただ中に歩んで下さる」ということです。聖書を読んでいる内に、知らないうちにイエス様が近づかれ、御言葉の真理を解き明かして下さいます。
同時にここには、私たちが聖書を読むときのコツのようなものが記されています。旧約聖書にはイスラエルの歴史が記されていて、なかなかわかりにくいものです。しかし旧約聖書を読んでも、その中にイエス様の姿を見て読むことです。
 「イエス様は旧約聖書のどこにおられるのですか?」と言われるかも知れません。旧約の中におられる神は、イエス様ご自身です。イエス様を意識しながら聖書を読むことが大切です。そのとき、イエス様がともに歩んで下さいます。
 今日は午後から、「サンデー・スクール」があります。今日は、「新約聖書」を学びます。聖書を学ぶことは素晴らしいです。聖書全体の中にイエス様の姿を見ながら、聖書を読むことはイエス様ととも歩む秘訣です。例えば創世記一章一節に、
『初めに、神が天と地を創造した。』
と記されています。神様は大きなスケールの持ち主です。しかし、この神とは、イエス様のことです。新約聖書コロサイ人への手紙一章十五節から十七節に、
『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』
と記されています。この二つの箇所を読み比べると、イエス様によって天地が造られたことと、創世記の中にもイエス様がおられたことがわかります。
 また、「イザヤ書」はイエス様が生まれる七百年ほど前の書物ですが、イエス様のことが多く預言されています。預言者イザヤは、ウジヤ王が死んだ年に幻を見ました。イザヤ書六章一節から四節に、

『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。』
イザヤは「主を見た」と記しました。しかしそれは、イエス様が生まれる約七百年前の出来事です。イザヤは、「私は主を見たから死ななければならない」と言ったほどでした。けれども、この記述について、ヨハネは「ヨハネ十二章四十一節」において、

『イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。』

と記しています。旧約聖書の中に登場している神とは、「イエス様」であることがわかります。聖書全体を、「イエス様」という中心軸で読んでいくときに、「イエス様が私たちと共に歩んで下さる」ことがわかります。今週、ぜひ聖書をよくお読み下さい。イエス様を意識して、御言葉を読んでいくときに、知らないうちにイエス様が私たちと共に歩んで下さっていることが後にわかります。「私にあの御言葉を語って下さったのは、イエス様であった」とわかります。
 二人の弟子は、道の途中で割り込んで来た男の話を聞いていたら夕方になりました。「日も傾いたので、今日は一緒に泊まって下さい」と二人は言いました。彼らは、強いて一緒に泊まってもらうことにしました。三人が宿屋に入りました。その時のことが書かれています。ルカの福音書二十四章三十節に、
『彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。』

二人がイエス様と共に食卓につき、イエス様がパンを裂いて祝福して二人に渡された瞬間、今までともに歩いておられたのが「イエス様だ!」とわかったのです。
 これは、私たちが日曜日に行う「聖餐式の重要性」についても教えています。イエス様がパンを祝福し裂いて、彼らに渡されたと記されています。
 さて、イエス様がご自分の人生の中で、最も、支持者を失った出来事がありました。それはイエス様の一つの発言によりました。ヨハネの福音書六章五十三節から五十五節に、

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。』
イエス様が弟子たちに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」と言われました。もしも、私が、この発言を現場で聞いたとしたら、きっとイエス様に対して、「この人は、大丈夫か・・」と思ったでしょう。
 ヨハネ六章六十節に、

『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」』

と記されています。私もそこにいたら、このように言うと思います。また、六十六節には、
『こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。』
と記されています。多くの弟子が、「こんなひどいことを言う人とは一緒に歩きたくない」と言って去りました。しかし、イエス様のこの発言には、深い真の意味がありました。それが後に明らかにされました。それが「聖餐式の真理」でした。コリント第一の十章十六節から二十節に、
『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』
日本の宗教は、キリスト教のように教理をあまり強調しません。「教典をよく勉強しなさい」とは言いません。しかし、必ず行われることがあります。それが、「食物を神と呼ばれる存在に供え、それを食べる」ことです。たとえば、仏前に、食物を供え祈祷をしてからみんなで食べます。神道の祭りも同様です。教理は強調しませんが、「食べさせることを強調」します。なぜ、そのようなことをするのでしょうか。
 この世界には、神様もおられますが悪魔もいます。悪魔は、霊的世界の法則をよく知っています。聖餐式は、イエス様の名により、御言葉によって、神の霊によって食するとき、「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」とあります。
 食べるパンはイエス様の肉、ぶどうのジュースはイエス様の血です。結果的には、それが「イエス様がともにいて下さる」という神秘につながるのです。御言葉により、聖霊によって聖餐式を行うことは、実は、イエス様が最も支持者を失った、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、わたしがとともにいる」といわれた真の意味なのです。本物の神にささげて食するときに、本物の神が私たちとともに住んで下さいます。これは目に見えない霊的法則です。しかし悪魔も、このことをよく知っているので、この法則を逆利用します。
 食物を悪魔にささげさせ、それを食べさせることにより「悪霊と交わる」ことになるのです。偶像にささげた食品を食べると、悪霊が共に歩むことになります。日本では、ほとんどの人が、偶像に供えた食品を食べているので、悪霊と一緒に歩んでいます。いつも悪霊がつきまといます。人生を歩んでいると、横には悪霊がついてきます。イエス様とともに歩けば、素晴らしい人生です。いつもイエス様がともにおられ、守られます。今日、私たちは、イエス様の名によって祝福されたパンを食べ、ぶどうのジュースを飲む聖餐にあずかり、イエス様とともに歩むことができるのです。これは霊的法則です。このように、聖餐式は、イエス様とともに歩むために重要です。私は以前、何の意味も考えずに、聖餐式を行っていました。しかし、聖餐式は重要なことであることに目が開かれました。
 二人の弟子がイエス様によって祝福されたパンを受け取ったときに、イエス様だとわかりました。今日、イエス様を信じて聖餐式を受けて下さい。聖餐式の中で、主がともにおられることを体験しましょう。
 そして、彼らはこう言いました。ルカの福音書二十四章三十二節に、

『そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」』

今日、皆さんの心は燃えていますか。目には見えませんが、イエス様がともにおられると心が燃えるのです。「心が燃える」とは、「わくわくする」という意味です。
 あなたは恋愛したことがありますか。私はあります。家内に会う日には、いつも、心がわくわくしました。「今日は、享子ちゃんに会える!!」
 私たちは教会に来ると心がわくわくします。それはイエス様が共におられる証拠です。今日、イエス様が共におられる証拠として、心がわくわくしますように。信仰の基準も、心に希望があり、わくわくしているときはイエス様がともにおられ、恵まれているときです。「私は、落ち込んでいますが、恵まれている」という人はいません。教会に来て、「わくわくしている」とは、イエス様がともにおられる証拠です。
 弟子たちは自分の故郷に帰るところでした。しかし、イエス様と出会ったときに、彼らに何が起こったのでしょうか。ルカの福音書二十四章から三十四節に、
『すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。』
彼らがイエス様と出会ったときに、向きが変わりました。エマオではなく、向きを変えて、エルサレムに向かいました。イエス様と出会うと、人生の向きが変わります。「私は失望の道を歩んでいる」という方は、イエス様に出会うと「希望の道」に変わります。イエス様があなたともに歩み、素晴らしい人生が与えられますように。


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