イエス様を愛します!
・・・・「神を愛するものに与えられる祝福」・・・・

2003.5.4(SUN) 新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 マルコの福音書 16章1節〜4節
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 ハレルヤ!お早うございます。今日このように皆さんと共に礼拝できることを感謝します。今日は「イエス様を愛します!」というタイトルで学びます。「イエス様を愛します!」と心から告白する時、神は私たちに祝福を与えてくださいます。このメッセージの副題は「神を愛するものに与えられる祝福」と付けました。
 復活祭から三回連続で、「復活の日」から御言葉を語らせていただいています。今日の御言葉も、イエス様がよみがえられた当日に起こった出来事です。マルコの十六章一節から四節に、

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。』

イエス様は十字架で死に葬られました。女性たちはイエス様がまさか、よみがえるとは思わず、三日目の早朝イエス様の体に香油を塗ろうと墓に向かいました。当時のイスラエルの習慣では、死後三日目頃に死体に香油を塗る習慣があったようです。その時、なんと女たちは、よみがえりのイエス様に出会いました。
 ここに登場する三人の女性は、イエス様を心から愛していました。ここはイエス様のよみがえりを記録している箇所ですが、同時に、復活のイエス様にお会いする為にはどうしたらよいのか、また、イエス様と共に歩む秘訣についても教えていると思います。先週は「イエス様と共に歩む」というタイトルで学びました。弟子たちがエマオ途上でイエス様について語っている時に、イエス様が彼らと共に歩かれました。イエス様の事を話題にするときに、イエス様は私たちと共に歩かれます。先週一週間はいかがでしたか?イエス様について話題にされましたか?イエス様が、あなたと共に歩いて下さったと信じます。
 今日は、先週学んだ、イエス様と共に歩む秘訣に加えてもう一つ、「イエス様を愛する」ことを学びます。
 聖書には、神を愛する者に対する祝福が約束されています。第一ペテロ一章八節から九節に、
 
『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

と記されています。教会に来てもイエス様の姿は見えませんが、イエス様を心から愛するようになります。イエス様と顔と顔を合わせてお会いした方は、ほとんどいないと思います。しかし私たちは、イエス様を心から愛しています。また、言葉に尽すことのできない、喜びに満たされています。それは救いの結果です。イエス様は目には見えませんが、共におられるときには、心がわくわくするのです。これは私たちが救われている証拠の一つです。イエス様が共におられる実感として、心に喜びがあるのです。
 また、ローマ人への手紙八章二十八節に、

『 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

と記されています。「神を愛する人々」と記されていますが、私たちがイエス様を愛しているならば、「すべてのことを働かせて益としてくださる」と教えています。私たちは各々、違った背景や環境を持ちながら教会に集まっています。しかし聖書は、私たちがイエス様を愛していくならば、必ず、すべてのことを働かせて「益として下さる」と約束しています。ある方は、「今日は最悪だ」と言われるかも知れません。しかし、イエス様を愛して行くならば、それも益として下さいます。
 体操の試合を見ると、数秒間にすごいことが起こります。体が空中を舞い、一回転、二回転し、ひねったり、また逆さまになったりします。回転して、逆さまになったまま落ちたら大変なことになってしまいますが、体操には着地があります。体操演技は、複雑な回転や宙返りなどがあるほど、高得点になります。時々、私たちの人生も逆さになったり、宙返りしたり、色々なときがありますが、最後の着地はしっかりと決まり、最高得点で人生を終えることができると、聖書は教えています。
 また、第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

と記されています。イエス様を愛するとき、見たことのないもの、聞いたことがないもの、また、心に思い浮かんだことのない、「良いこと」が用意されています。期待しましょう。その条件は、「神を愛する者」です。
 またコリント人への手紙第一の八章三節には、

『しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。』

と記されています。あなたがイエス様を愛するならば、イエス様もあなたを知っておられます。人間社会では「片思い」というのがあり、自分の方では相手について良く知っていても、相手は全く関心を示さない場合があります。そのような寂しい思いを経験されたことがあるかも知れません。しかし、イエス様と私たちの関係はそうではありません。私たちがイエス様を熱く愛するならば、イエス様も私たちを熱く愛して下さいます。相思相愛の関係です。イエス様を愛する思いに満たされていきたいですね。
 二人のマリヤとサロメという女性は、イエス様を愛する思いで「園の墓」に出かけていきました。すると、よみがえりのイエス様がマリヤに声をかけました。ヨハネ二十章十五節から十六節に、

『イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。』

 マリヤが空の墓を見て悲しんで泣いていたときに、一人の男性が「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけました。しかしマリヤにとっては、声をかけてくれた男性が、イエス様であるとはわかりませんでした。そして、大きな勘違いをしました。イエス様を「園の管理人」だと思いました。「勘違い」は人生に益をもたらしません。
 先日ある本に、このようなのがありました。「シベリア寒気団」と聞き、「ロシアのサーカス団」と思っていたとありました。また子どもが「お母さん、何しているの?」と聞くと、お母さんは「パン作っているのよ。」と答えると、子どもは「えっ?お母さん、パンツ食っているの?」と驚きました。
 教会に来ても、時々、勘違いします。「さあ賛美しよう」という賛美があります。「さあ 賛美しよう 救い主イエスに・・・」と歌います。しかしある人がこの歌を聴いて、「さあ、サンビシよ」と聞いたそうです。「これは醤油屋さんのコマーシャルソングか?」と思ったそうです。また、メッセージで「あくまでも、主を信じます」と聞き、「悪魔でも主を信じるのか?」と不思議に思ったそうです。勘違いで全く状況が変わってしまいます。
 この時マリヤは、声をかけたのが園の管理人だと思ったようです。しかし、この方がイエス様でした。
 女性たちが墓に出かけたのは、イエス様の体に香油を塗る為でした。しかし、墓はイエス様が三日目によみがえるかも知れないという噂がすでに流れていたので、ローマ皇帝により封印がなされており、番兵が厳重に警備していました。イエス様の墓を暴いたら殺されるような状況でした。また仮に、墓に番兵がついていなくても、女性の力ではどうにもならないような、大きな石で墓の入り口は塞がれていました。そのような状況でも、女性たちはイエス様を愛する一心で墓に行きました。
 私はこの記事を読むときに、男性にはない女性に与えられている神の賜物を感じます。私ならばすぐに状況を分析し、墓に行ってもカイザルの印があるのでそれを暴くことはできない、また番兵がいて、大きな石があるから行くだけ無駄だとします。しかし女性たちは後先考えずに墓に行きました。このような行動の中に、一途なイエス様に対する愛がありました。
 彼女たちのテーマは、「誰が大きな石を取り除いてくれるか」ということでした。しかし、墓に行くとその大きな石がすでに取り除かれていたのです。
 教会に来られる多くの方は、「石を取り除いて欲しい」という気持ちで来られます。目の前に大きな石があり、何とかその石を取り除いてもらえないか、と願って来られます。現代社会には、家庭や親族の中に石が多いです。しかし、教会に来られると、実際に、目の前に立ちはだかっていた、大きな石が取り除かれる祝福を受けます。イエス様は私たちの目の前の大きな石を、取り除いて下さる方です。よみがえりのイエス様は、大きな石を取り除く力のある方です。
 女性たちは墓の入り口を覆っている、大きな石を取り除いてほしいと願いながら墓に行くと、既にその石が取り除かれていました。中に入るとイエス様の遺体はどこにもありませんでした。そればかりか、女性たちはよみがえりのイエス様に出会うという、見たことも聞いたことも、思ったこともないような出来事に遭遇しました。マルコの十六章八節に、

『女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。』

と記されています。彼女たちは、墓で非常なショックを覚えました。よみがえりのイエス様に出会うという、すごいことが起こったからです。
 ある人は、岩を取り除いてほしてという思いで教会に来るかも知れません。しかし岩が取り除かれて終わりではありません。女たちが墓でよみがえりの主に出会ったように、思ってもいなかった偉大な神の御業を見るのです。神があなたの人生に、素晴らしいことを用意されています。これが、復活のメッセージに隠されている霊的秘密かも知れません。
 イエス様を愛し、イエス様と共に歩んで下さい。素晴らしい神の栄光を見ることができます。

 しかし、「イエス様を愛する」とは頭ではわかりますが、実際にはどうしたら良いのかと思います。人間同士であれば、相手があるのでわかりますが、「イエス様を愛しましょう」と言っても、目に見えるわけではないので、愛するのはとても難しく感じます。しかし聖書は、具体的に「神を愛する」ことについて教えています。
 第一ヨハネ五章三節に、

『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』

と記されています。神を愛するとは具体的には何でしようか。それは「神の命令を守る」ことであると教えています。
 「神の命令」とは、基本的には「十戒」を表しています。「わたしのほかに神があってはならない。偶像を造ってはならない。拝んではならない。わたしの名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えて聖としなさい・・・」など、十の戒めがあります。神を愛するとは、「神の命令を守る」ことであると教えています。私たちが、毎週教会に来て御言葉を聞き、また、家でも聖書を読むのは神の命令を守る為です。
 神の命令を守るとは、神を愛することです。しかし、十戒を見ると、たいへん難しく感じます。これを全部守らなければ、神を愛することにならないと言われると大変だと思います。ユダヤ人たちは、懸命に十戒を守ろうと努力しました。しかし、頑張ったけれども駄目だったという歴史が旧約聖書に記録されています。としたら、神を愛することは難しいです。神を愛するならば、素晴らしい祝福が約束されています。しかし、神の命令を守れない場合には、「祝福がない」と言われると困ってしまいます。
 けれども、神の命令を守るという概念がイエス様によって変えられのです。誰でも、神の命令を守ることができるように変えられました。イエス様により、律法を越える道が用意されたのです。誰も守ることができなかった神の命令を、イエス様は一つにまとめて下さいました。ガラテヤ書五章十四節に、

『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。』

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一言で、「十戒のすべてを全うする」のです。私たちが神を愛することにおいて、具体的にどうすれば良いかという問いの答えがここにあります。私たちがよみがえりのイエス様と共に歩む秘訣は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という御言葉を守ることです。自分自身を愛することはできますが、案外、隣人を愛するのは難しいのです。今週は、どんなことでも良いですから、自分ではなく、隣人を愛するという視点で過ごしてみて下さい。それは、「イエス様を愛する」ことにつながります。そうすれば、よみがえりのイエス様が共に歩んで下さり、目の前の大きな石が取り除かれ、その奧には、見たことも聞いたことも、思いに浮かんだこともない祝福が待ち受けているのです。「隣人を愛する」という御言葉を心に留めて歩んで下さい。

 十年前に「甲子園ミッション」がありました。あのときの準備はとても大変でした。日本中を巡り、また、海外にまで行き、甲子園ミッションの準備をしました。ある時、私は平岡先生と父と共にアメリカ西海岸にある日系人教会に行き、甲子園ミッションへのお誘いと決起大会をしました。その結果、多くの方が海外からも甲子園ミッションに参加して下さいました。ミッションの事務所が私たちにチケットを用意しました。いつも用意されるのはディスカウント・チケットです。空港に行くと「あなたに良いニュースと、悪いニュースがあります。どちらを聞きたいですか。」と言われました。悪いニュースは聞きたくないと思いながらも両方聞きました。「悪いニュースは?」と聞くと、「あなたの席がありません。」と言うのです。しかし良いニュースは、「あなたは喫煙席の予約ですが、もしも喫煙席でも良ければ、ビジネス・クラスのシートをあげます。」と言われました。私たちは、喜んでビジネス・クラスを選択しました。ビジネス・クラスは、食べ物も接待も違います。食べるときにはテーブルに白い布が敷かれ、王様のような気分になります。帰りはハワイを経由しました。私たちがホノルルで決起大会をすると、私たちが帰りに乗る飛行機のスチュワーデスが出席しており、彼女は聖霊に満たされ、恵まれました。帰りも彼女がいたので、素晴らしいサービスを受けました。
 しかし、そのツアーの中で忘れることができない事件がありました。ロサンゼルスからホノルルまで国内線に乗ったときのことでした。飛行機は満席でした。三人で行きましたが、皆バラバラの席でした。席に座ってから入り口を見ると、小錦のように大きな人が搭乗してきました。彼は、私とは違った通路側に行きました。人間は自分のことではないと勝手なことを考えます。「あの人の隣に座る人は可哀想だ。座れるのかなあ。私はここで良かった・・」と思いながら本を読んでいました。
 しばらくすると、私の目の前が急に暗くなりました。「Excuse me?(すみません)」と聞こえました。見上げると、先ほどの小錦のような男が私の横に立っているのです。なんと、私の隣の席が空いていました。私は通路側でした。彼は太い指で指し、「This is my seat.(私の席です)」と言うのです。私は唖然としました。人間はそのようなとき、自分に有利なことを考えます。「私が奧に入り、彼を通路側にしたら良いか」と一瞬思いました。しかし、そうなるとトイレに行くときに困ると思いました。それで、私はすぐに立ち上がり、「どうぞ」と言って中に通しました。彼は自分の座席に座ろうとしましたが、バーの間に体がはまらないのです。バウンドをつけて三回ほど座り直し、やっと入りました。私は彼が横に来たので落ち着きません。バーがギシギシ鳴っていました。彼とはあまり話したくないと思いました。黙って、寝たふりをしていました。しかし、しばらくすると「ウー、ウー」と声が聞こえるのです。見ると彼の額は汗だくになっていました。なぜなら彼は二つのバーの間に挟まって、息絶え絶えなのです。
 すると主が私にこう語られたように感じました。「お前クリスチャンだろ。隣の男に親切にしてあげなさい。」そして、「このバーをあげれば良いではないか・・」
 しかし私は、「どうしようか。このバーをあげるたら大変なことになる」と考えました。「神様。どうしたら良いですか」と祈ると、「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉が心に響いてきました。しばらくして、彼に、「このバーをあげて欲しい?」と聞くと、彼は「yes!」と答えました。しかし、次に起こることを私はあまりよく理解していませんでした。そのバーを上げた瞬間、彼の圧縮されていた体が私に迫り、席を半分以上を奪い取られてしまいました。「しまった!」とも思いましたが、それから彼は私に心を開いて話し始めました。
 彼は私に、「What is your work?(あなたの仕事は何ですか)」と訪ねてきました。その時私は、彼に親切にしてあげて良かったと思いました。親切にしてあげていなかったら、「私はビジネスマンです」と答えていたかもしれません。しかし私は自信を持って「 I'm a Japanese pastor.(日本の牧師です)」と答えました。もしも私が、彼に親切にしていなかったら職業を言うことができません。また、私が牧師であると言ったら、あなたは牧師のくせにと言われるに違いありません。私は良かったと思いました。
 時々、牧師でも交通違反をすることがあります。捕まると職業を聞かれます。以前、私は「会社員です」と偽って失敗したことがあります。すると、「お勤めの場所と会社名を言って下さい」と言われました。そうすると、そこからは嘘が言えません。「新城教会です。」「何をしているのですか」と聞かれ、「職員です」と答えましたが・・・・。どんどん嘘にはまってしまうのです。
 「私は牧師です」と太った男に言いました。すると、彼は、「素晴らしい!!私は、今日、ワシントンDCからロサンゼルスに来て、ハワイに行く途中ですが、ロサンゼルスまでも隣が韓国の牧師で親切にしてくれた。今度は、日本の牧師なんて、今日は牧師づいているなあ」と喜んでいました。彼もクリスチャンでした。「あなたは相撲取りですか」と思わず聞いてしまいました。「みんな私を小錦と言うが相撲取りではない」と言っていました。
 私はあの時、親切にしてあげて良かったと思いました。やがて天国に行くと、すべてが明らかにされます。天国の道を歩いていると、向こうから太った男がやってきます。どこかで見たことがある。そう言えばあの飛行機の中で出会った・・・と認識できるのではないかと思います。もしも、私がバーを上げないで知らない振りをしていたら、「あのときお前は・・」と文句を言われてしまうかも知れません。彼に親切にして良かったと思います。

今週も似たような状況があるのかも知れません。「この人に親切にしてあげるべきか?」と迷う時、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という御言葉を思い出してください。親切にすることは、神の命令を守ることであり、「イエス様を愛すること」です。そうすれば、よみがえりのイエス様と共に歩むことができ、私たちの目の前の大きな石が取り除かれ、また、その奧にはもっと素晴らしい神の栄光ある計画があります。
 今週も私たちがイエス様を愛し、イエス様と共に過ごしていきましょう。そうすれば、必ず、私たちの人生に素晴らしい栄光が現されます。
 今の時代、これからどうなるのかと心配があります。「SARS」という病が海外で流行しています。「日本に入ってきたらどうなるのだろうか」と心配しています。このような時代はイエス様と歩むことが最も重要です。イエス様と共に歩むならば、すべてのことから守られます。またイエス様は、未来を造り出すことができるお方です。あなたに素晴らしい未来を用意し導いて下さいます。今日も「イエス様。愛します」と告白し、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という御言葉を実行する者になりたいと願います。イエス様を愛することができますように。イエス様に対する愛で満たされるようお祈りしましょう。


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