策略に立ち向かえ

2003.5.11(SUN) 新城教会 上條 実牧師

新約聖書 ローマ人への手紙8章5節〜6節
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

 ハレルヤ!今日は「策略に立ち向かえ」というタイトルで御言葉を学びます。本日は滝元明牧師は北海道に出かけて名古屋リバイバルミッションの決起大会を行っており、滝元順牧師夫妻は青森県において決起大会を行っています。名古屋リバイバルミッションは今年の九月にあります。ぜひ覚えてお祈り下さい。さてローマ人の手紙八章のばじめには

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』

とあります。私たちは過去、多くの罪を犯してしまいました。しかし感謝な事に、その罪をイエス・キリストの十字架によって赦されると教えています。イエス・キリストによって救われることはこの上もない最高の喜びであり、祝福です。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかって下さり、葬られ、そして三日目によみがえって下さいました。ただ信じるだけで、私たちは永遠の命をいただく事ができ、天国に入ることができると聖書は教えています。何にも変えることができない素晴らしい恵みです。しかし今日お読みした御言葉、ローマ人への手紙八章六節の初めに「肉の思いは死であり・・」と記されています。私たちクリスチャンはイエス・キリストによって罪が赦されたと記されていますが、私たちは毎日「肉」の事ばかりを考えていないでしょうか。子どもたちに「肉」と言うと、牛肉?豚肉?と言うかも知れません。しかし「肉」とは聖書では罪を表す言葉です。私も多くの「肉」罪を犯してしまいます。クリスチャンでありまた牧師にもかかわらず「こんなところで怒らなければ良かった。」とか、嘘を言ってしまい、訂正しなくてはと思いつつ、時を失い「まあ良いか」とそのままにしてしまう事もあります。「肉の思いは死である」という御言葉をわかりやすく言うと、罪を犯すと地獄であるということです。毎週土曜日に行われる子どもの集会などで、子どもが何か悪いことをしていると、「そんなことしていて本当に天国に行けるかな?」と聞いたりしています。しかし今日、あなた自身に問いかけてみて下さい。あなたはハッキリと「行けます」と答える事ができでしょうか。本日のメッセージタイトルを「策略に立ち向かえ」と付けました。悪魔は生きています。そして私たちクリスチャンやこれからクリスチャンになろうとしている人たち、またすべての人々に策略をめぐらせてきます。第二コリント二章十一節に、

『これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

と記されています。私たちの信仰生活の中で悪魔は策略を巡らせて来ます。クリスチャン生活には喜びがあり、感謝に満ち溢れ、神からの最高の祝福を頂けます。しかし知らないうちに、心から喜びの中にあった救いの喜びがなくなっています。天国に行けるというハッキリとした望みをいただいていたにも関わらず、徐々に疑い、あげくの果てに、自分は天国に入る事ができないのではと思ってしまう策略に引っかかっていることがあります。エペソ人への手紙六章十一節から十七節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

と記されています。私たちは悪魔の攻撃から守るため神の武具で身を固めなさいと書かれています。

『腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

この御言葉はよく知り,神の武具を身につける祈りをします。守りの祈りを良く祈ります。その祈りで私たちはいつも守りを頂いています。しかし知らないうちに悪魔の策略にやられてしまっています。わずかなすき間から策略をめぐらし、戦ってくるのです。あなたは天国に行けるいう確信をお持ちでしょうか。あなたは神の聖さをいただいているでしょうか?マタイ二十八章十八節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』

と記されています。私たちはイエス様より、いっさいの権威をいただいています。しかし、悪魔の策略の一つは、その権威をあなたがもっていることをわからないようにすることです。戦えなくさせます。戦いを恐れさせます。またイエスキリストがまるで生きていない神のように見せてくるのです。先日私はある方とバプテスマについて話しました。するとその方は「私は地域や仕事の役を持っていて、毎週礼拝に出られません。聖書の中に『安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ』と書かれてるので、私はクリスチャンになることはできません。クリスチャンの規定にあわせることができません。」と言われました。またある方は、「私はまだ酒がやめれません。また仕事のお付き合いがあって飲むときがあるのでクリスチャンになれません。」とか「私はたばこがやめられないのでクリスチャンになれない・・・」と、言われます。「イエス様の事はわかって来ましたが、偶像関係のことで、葬式などで拝んだり、祭りの寄付金を出すことができないと言うことは親せきつき合いや近所つき合いができなくなる。」と思っている方もいるかもしれません。イエス様が神であり、最高の祝福を下さる素晴らしい方であるとわかっています。しかし、いざクリスチャンとしてやって行こうと思うときに、悪魔は色々な障害を見せつけてきます。自分はクリスチャンとしてやって行くのは無理だと思わせます。またクリスチャンにおいても、「クリスチャンなのに、なぜ同じような失敗ばかりなのだろうか。」「何回も祈ったのに悪習間を止めることができない。」祈ってもまた同じことを繰り返してしまう。「また罪をしてしまった」というとき「なんて弱いのだろうか」と私たちに訴えてきます。また、神様は祈ったら赦してくださると聖書に書かれてある。しかし「神様はある程度は、愛なる神様だから赦してくれるけれど限度があるのではないか。」「毎回罪を犯してしまう。私はこのままで天国に入ることができるだろうか」と、クリスチャン生活をしていながらビクビクしていませんか?友だちや家族などには自分の口では「イエス様を信じるとき、永遠のいのちが与えられて天国に行けますよ」と証していますが、自分の心の奥底をライトで照らして見ると、自分は本当に天国に行けるのかと心配になることがあるかも知れません。また悪魔は私たちにこう訴えます。「お前は本当にイエス様を愛しているか?お前の生活を考えて見ろ。お前の第一は何だ?お前の第一は異性、家庭、仕事、お金ではないか。お前、本当にイエス様を第一にして愛しているか?」と訴え、質問してきます。そうすると私たちは、神様に愛されているという信仰が消え、「大丈夫かなあ」と不信仰になってしまいます。またよく聖書を読みましょうと言いますが、「昨日も今日も聖書を読んでいないから、何か悪いことがあるのではないか」「聖書を読まないなんてクリスチャンじゃないゾ」と思わされる方がいるかも知れません。また今朝、忙しくて祈る暇もなく出勤してしまった。「守りを祈らなかったから、なんか悪いことが起きるかも知れない」と恐れることもあるかも知れません。私たちの教会ではほとんど毎週礼拝時に聖餐式がありますが、礼拝に出席できず、聖餐式を受けていないと、罪が赦されていないのではないかというような不安を持つことがあります。また過去犯した罪を思い出すと、十字架によってすべての罪が赦されているにも関わらず、「本当に赦されているかなあ。聖書には二度と罪を思い出さないと書かれているけれど・・・」、私たちは過去犯した罪を結構覚えていて、罪を思い出させられて苦しんだりしていませんか。また、お題目のように朝「行って参ります。イエス様守って下さい。」と祈り、夜寝る前に、「イエス様ありがとうございます。守られて感謝します。」と飾りだけのような祈りだけで後は、いっさいイエス様のことを考えないし祈らない信仰。そんないいかげんな信仰と祈りで神様を愛していると言えるのかと訴えてきます。悪魔の策略が私たちの生活の中に入り込んできます。悪魔は策略を巡らせて、私たちに大きな声で問いかけてきます。「本当にお前はクリスチャンなのか」と問われ、苦しんでいませんか。またざわめきの賛美の中に『救いの喜びに輝け』という歌がありますが、いつも救いの喜びに満たされ、輝いて生活できるのかというと、そんなときは一度もなく、問題に勝利するように祈ってもなかなか祈りが答えられず、祈っていながら、続けて再度大きな問題が来ると、「私はイエス様を信じているのになぜこんなに問題ばかりがあるのだろうか。私は本当に救われているのだろうか」と、救いを疑うようになってしまいます。悪魔は私たちに策略を巡らしてきます。『肉の思いは死である』と書かれていますが、こんな肉(罪)を行ったり、思っているので私は救われているだろうかと思う時に、悪魔は大きな声で「そうだ。お前は駄目だ。救われていない。地獄に行ってしまうゾ」と訴えられてきます。しかし今日勘違いしないで下さい。ローマ書八章一節に、

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』

とあります。この御言葉をよく覚えて下さい。あなたはもう罪に定められることは決してないと宣言しています。罪に定められることは決してありません。また第一ヨハネ二章十二節には、

『子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。』

と記されています。「これから赦されます」というのではなく、過去形で「赦されました」と宣言されています。また使徒の働き二十六章十七節から十八節では、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

と記しています。二千年ほど前に神の子であるイエス・キリストが、この地上に来て下さり、あなたのために救いを完成して下さいました。しかし悪魔は策略をもたらし、イエス様の十字架や、イエスの権威を疑わせ、地獄に行くと訴えてきます。悪魔は策略を巡らせてきます。今日はこの策略に立ち向かいましょう。聖書に『神の武具を身につけなさい』と書かれています。しっかりと武具をつけましょう。そして今日は信仰の大きな盾を持つ祈りをささげようではありませんか。信仰の大盾は、悪魔が放つ火矢をみな消すことができるものです。悪魔は私たちの弱いところを見つけて矢を射ます。先ほどから言っているように「お前、救われていないではないか。」等を訴え、クリスチャンではない方には、「お前、クリスチャンになると大変だぞ」などと訴えてきます。神の武具を身につけていますが、信仰の大盾を持つ事を忘れてしまい、火矢を受けてしまいます。しかし、今日信仰の大盾を持って下さい。では信仰とは何でしょうか。第一コリント十五章一節から四節に、

『兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、』

と記されています。『最も大切なこととして』と記されています。この御言葉を単純に信じる事、受け入れる事が信仰です。聖書は六十六巻ありますが、この御言葉だけあれば私たちはイエス・キリストによって救われ、平安に過ごすことができます。『私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと』既にイエス・キリストはあなたの罪のために死んで下さいました。私たちは今の時点までのことしかわかりません。将来のことはわかりません。ですから、今までの罪は赦されたと間違えて考えてしまいます。しかしそこに悪魔が策略があります。「こんなことをやって大丈夫か。」と訴えてきます。策略を巡らせます。そして私たちはその言葉を受け入れてしまい、「肉なる者は死だと書かれている。自分はもしかして地獄に行くのではないか。」という恐れを悪魔は与えて来ます。しかし、今日覚えて下さい。あなたが今まで犯した罪はもちろん、全ての罪をイエス・キリストは十字架によって赦してくださいました。私たちは過去は取り消す事はできません。また先ほど言ったように私たちは今しかわからず、将来は全くわかりません。しかし私たちの神は私たちの全ての罪を赦してくださっているのです。聖書には

『しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。』

と言っています。一日は千年のようであり、千年は一日のようだと書かれています。神様は時を超越される方です。ですから、あなたがイエスキリストを信じた時すべての罪は赦されるのです。悪魔は策略を巡らせます。そして今までの罪、特にバプテスマまでは赦されているが、その後犯した罪を責めてきます。しかしイエス・キリストによってあなたのすべての罪、過去、現在、未来の罪が赦されたというのです。イエス・キリストは既にあなたの罪のために全部の罪を受けとってくださり、代わりに罰を受けてくださり、三日目によみがえってくださいました。イエスキリストの十字架はあなたの全生涯のためです。今日までの十字架ではなく、あなたの一生涯全部に有効なのです。使徒の働き四章十二節に、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』

と記されています。あなたがイエス様を信じ受け入れるならばあなたは救われていることをもう一度覚え直して下さい。悪魔の策略から目を開いてください。悪魔の訴えに対して、「私には十字架がある、十字架によってすべての罪は赦された。私はイエス・キリストを信じている!」と高らかに宣言してください。また酒・たばこ、付き合いなどと足踏みしている方がおられるかも知れませんが、悪魔は酒やたばこなどの障害物を大きく見せ、十字架と罪の赦し、永遠の命を見せなくします。今日覚えて下さい。イエス・キリスト以外に救いはありません。あなたの障害になっている事柄を解決させて下さるのはイエス・キリストです。だれも完璧な人になってからクリスチャンになった人は誰もいません。クリスチャンにふさわしい生活ができるようになってからバプテスマを受けた人はありません。「聖書を全部読んだこともないけど、イエス様を信じています。」それで大丈夫なのです。「信じて救われる」のです。イエス様はあなたの罪のために十字架にかかって下さいました。問題ばかりを見せて、「近所付き合いできないぞ、また酒が飲めないぞ、たばこも飲めないぞ・・」と訴えてきます。そして自分はクリスチャンになれないと立ち止まってしまいます。すべての罪はイエス様が赦して下さいます。悪魔は問題や悪習慣を訴えてきます。しかしあなたはイエス様を救い主として受け入れることです。イエス様を受け入れたときに聖霊様が私たちに働かれ、私たちができないところを助けて下さいます。私たちは弱くできないからこそイエス様に頼るのです。イエス様以外に救いはありません。私たちは肉なるものです。弱い者です。罪を犯してしまいます。その時に私たちは祈ることができます。「イエス様、赦して下さい。」と祈る事ができます。

 ではローマ書八章に『肉なる思いは死』と記されていますが、『肉なる思い』とは何でしょうか。まず肉とは、肉体を表します。またもう一つは、人間的な生き方・自己中心的な生き方をすることです。例えて言うならば、ローマ書四章一節に、

『それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。』

と書かれています。私たちと同じ肉を持った人間について言っています。しかしこのローマ書八章六節の御言葉の『肉の思い』は、ギリシア語では「神を全くその生活から除外し、計算に入れない生活」という意味があるそうです。神様のことを生活から除外してしまうことが肉、肉なる思いだというのです。自分の生活から全くイエス・キリストを除外してしまう。イエス様を無視した自己中心的な思いの中にあることが肉の思いです。しかしあなたがイエスキリストを心で信じるならば救われるのです。悪魔は策略を巡らし「お前は罪を犯した。」と責め立ててきます。「このままでは地獄だ」と脅してきます。しかし十字架を見上げてください。あなたのすべての罪は赦されたことを覚えてください。これは約束です。誰にも命の書に記されている名前を消すことができません。聖書は「天のいのちの書に名が記されている」と書かれています。何回失敗したとしても「わたしはあなたを愛している。あなたを愛している」とイエス様が語って下さることを覚えて下さい。私は決して罪を犯しても良いと言っているのではありません。罪は罪で悔い改めるべきです。聖さを追い求めなくてはいけません。しかし、人間は負けてしまいます。しかしそのところに働いて下さるのは、目には見えませんがここにおられる聖霊様です。聖霊様があなたのできないと思うところに働いて下さいます。あなたは悪魔の支配からイエス様の支配に握られており、今まで悪魔に握られていた債務証書を無効とされたとあるようにあなたの罪は全部赦されました。今日ここにおられる方全員は死後天国か滅びの場所どちらかに行かなくてはなりません。今日すべてを赦す神、あなたを愛される神を信じてください。イエス様を信じて下さい。自分ではなく、イエス・キリスト中心で生きる時、私たちは神の子どもになります。
 私にも三人の子どもがあります。悪いことは悪いと叱ります。しかし、決して私の心の中に、子どもを自分の子どもではないと考えた事はありません。自分の子どもだからこそ怒って、正すのです。イエスキリストは私たちの親です。私たちは神の子どもです。イエス様はすべての罪を赦して下さるだけではなく、永遠のいのちを与えて下さいます。あなたのために十字架にかかって下さいました。それはあなたのすべての罪を赦して、あなたの行かなければならなかった地獄に行って下さり、三日目によみがえって下さった方です。神様の赦しを今日だけとして考えないで下さい。すべての罪を赦し、千代に至る祝福を下さるというのです。永遠のいのちがあることをしっかりと確信して下さい。「神を全くその生活から除外し、計算に入れない生活」ではなく、全ての罪を赦してくださるイエス様に目を向けて生活してください。今日罪があったら自分で「罪を赦して下さい」と祈ることです。神は真実で正しい方ですから、すべての罪を赦して下さいます。またバプテスマを受けていない方は是非一日も早く受けて下さい。今日バプテスマを受ける決心をして下さい。お祈りします。


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