目を上げて畑を見なさい

2003.5.18(SUN)
新城教会 四元雅也副牧師

新約聖書 ヨハネの福音書 4章31節〜36節
そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

 ハレルヤ!この場所に立ち御言葉を語ることができることを心から感謝します。私が副牧師になってから主日礼拝でのメッセージは二回目ですので、私にとってまだまだ緊張が大きく、また特別な意味を持つ時ですが、皆さんにとっても特別な恵みを受ける礼拝となることを祈っています。
 私は四月七日から十八日まで糖尿病の検査入院をしました。去年の今頃は少々太りすぎの体格だったのですが、その時から十五キロ程痩せてしまいました。しかし、皆様のお祈りに支えられ、血糖値も正常に戻り、合併症の心配もなく無事退院することができました。先週木曜日には退院一ヵ月後の検診へ行きましたが、主治医の先生がおっしゃるには「すこぶる順調ですね。血液検査の数値も上々です」ということでした。毎朝薬を一粒飲んでいますが、薬剤師からも「経過が良ければ薬もいらなくなるかも知れない」と言われました。入院前後に兄弟姉妹に祈りと励ましをいただき、一人で病と戦っているのではなく、皆さんが共に戦って下さっていること実感いたしました。その甲斐あって、ここまで回復したことを神様に感謝します。この励ましもクリスチャンであればこそ与えられるものだと教えられています。今日のメッセージについても先週からたくさんの方が「祈ってますからね」とおっしゃってくださり、多少プレッシャーも感じますが、心強い見方が大勢いるような思いがします。御言葉を互いに学び、恵まれる時となることを祈ります。

『そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。』

 私たちはなぜここに集まっているのでしょうか。それは神様が私たちを引き寄せて、私たちを選び出して下さったことを聖書から知ることができます。私たちは偶然にこの場所にいるのではありません。今日初めて来られた方も例外ではなく、神様の時の中で御心によって集められています。私たちが信じている神様は全てを支配され、全てを知っておられます。私たちの人生もその中に形づくられています。それは運命というものではなく、私たちは自由に歩んでいますが、それも神様の御手の中にあるということです。神様は全知全能として聖書に紹介されています。その神様を私たちは信じてこの場所に集っています。では、なぜ私たちが選ばれ、召し出されているのでしょうか。クリスチャンの方に言うならば、なぜ私たちは救われてクリスチャンとして歩んでいるのでしょうか。それは、私たちの人生を通して神の栄光を現すためであると言うことができます。ある方は小さな子どもの頃、ある方は少し年をとってから教会に導かれたかも知れません。しかし、それぞれ神様を信じて毎日生活をしています。ただ神様が私たちを天国に入れよう、救ってあげようとするのであれば、人生の最後、死ぬ間際で救い出しても良いのです。しかし、今この場所におり、イエス様に救われていることは、私たちの人生を通して神様の栄光が現されるためだと言えます。それはマスコミで話題になっている、独裁者がいるような国で、ロボットのように権力者から発信される命令を寸分違わずそのまま実行しなければならない、というようなものではありません。神様と私たちの関係は、私たちが自分の意志で神様の栄光を現したい、また神様に従って歩みたいという願いを持ち、神様のパートナーとして生きる関係です。私たちが自由に歩む中で神の栄光が現されていくことを神様は願っておられます。神様は全てをもっておられる方なので、ご自分でどんなことも成し遂げることができます。しかし、神様はあえて私たちを用いてみわざを現したいのです。私たちが神様と共にひとつのことを行い、神様と達成の喜びを分かち合うことを願われているのだと思います。世の中に天職という言葉があります。ある仕事に生きがいを持っている人があります、幸せなことです。神様が私たちに願っていることもそのようです。私たちが神様と喜びを分かち合うことを神様が願っておられることを聖書から知ることができます。
 今日のテキストとなっているヨハネの福音書四章の前半部分は、サマリヤの女がイエス様を信じた物語について記されています。イエス様はユダヤから伝道の拠点であるガリラヤへ戻られる際、事情があってサマリヤを通らなければならなかったというくだりから始まっています。これはユダヤ人の策略を逃れ、安全に移動するためではなかったかと言われています。スカルという町に来て、イエス様は井戸の傍らに腰を下ろし、弟子たちはお昼ご飯を買いに出かけました。その時に起こったことです。イエス様が休んでいると、一人の女が水を汲みにやって来ました。イエス様は女に「わたしに水を飲ませてください」と声をかけました。普通のユダヤ人ならばしないことです。この女は驚きました。当時、男性から女性に声をかけることは通常なく、ましてやユダヤ人男性がサマリヤ人女性に声をかけ、恵みを求めることは決してないことです。ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していたからです。それで彼女は驚きの中でイエス様に答えました。イエス様はご自分が生ける水を与えると、徐々に女に話し始めました。女の素性を明かし、「わたしが与えるいのちの水を飲みなさい。わたしが来るべきメシヤだ」と示しました。この会話の中で女はイエス様を救い主と信じ、彼女を通して町中の人がイエス様のところに導かれて、サマリヤの町に主を信じるリバイバルが起こされたことが記されています。そして、ヨハネの四章三十一節から三十四節の御言葉が続きます。

『そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』

イエス様は、神様のみわざを行うことが「わたしの食物である」と表現されました。これはどういうことでしょうか。イエス様はこの時、サマリヤの女を救われるに至った情景を思い返し、サマリヤを通過することになったことに始まり、井戸端に座らせ、イエス様一人きりで彼女と出会わせ、彼女と話をする場面を演出された、神様の計画を思い、また、もうすぐ彼女を通して多くの人が集まって来、自分を信じるようになることを聖霊によって教えられ、イエス様は胸がワクワクして、今まさに神様の御心がなされるのだと、心が高揚され、いっぱいになるような状況だったろうと思います。そのためにイエス様は、弟子たちが差し上げたパンを、今は結構です(満腹ではなく胸がいっぱいなので)と受け取らなかったのではないでしょうか。イエス様はある意味で、三度の飯よりも神様の働きをすることに情熱を傾けておられた方だと思います。私たちも主の御心を行うときに喜びが与えられ、素晴らしい祝福をいただくことができます。イエス様のように神様の思いを自分の思いであるかのように、喜びをもって実行することができるように祈っていきたいと教えられました。三十五節から三十六節に、

『あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。』

イエス様は弟子たちに対して目を上げて畑を見てみなさいと言われました。それは現実的に目の前に畑があったというのではなく、霊的な意味で信仰によって「目を上げてみなさい。目の前にある畑は色づいて刈り入れるばかりになっているので刈りなさい」と言われました。もう間もなくサマリヤの人が押しかけてくる状況を、イエス様は信仰の目で捕らえていました。ためらわないで一歩踏み出してかまを入れなさい、弟子たちに対してイエス様はご自分がなさったことを模範に勧められたと思います。ヤコブの手紙二章十七節に、

『それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』

私たちが信仰生活に歩んでいくことは、祈って求めてさえいれば何でも神様がかなえてくださるというものではないと思います。私たちが信仰によって祈ったならば、信仰に伴って行うこと、信仰に基づいた新たな歩みを踏み出していくことが私たちの信仰生活に必要だと思います。この教会では霊的戦いで地域のためや魂の救いのため目に見えない敵である悪魔に立ち向かい、勝利を勝ち取っていく祈りをします。しかし信じて祈っていけば、棚ぼた式に勝利が手に握られるかというとそうではありません。やはり信仰によって祈っていくならば、信仰に基づく祈りに対応した歩みを実践していくことが必要だと思います。それがなくて祈っているだけならば片手落ちです。また私たちは神様に取り扱われ、解放の祈りを受けます。罪の赦しとともに悪霊との契約が断ち切られ、私たちは自由を受けることができます。喜びも受けることができ、解放された実感を受けることもできます。しかしその時に、私たちの生活がその解放によって変えられていかなければなりません。また同じ罪を犯してしまったりしたならば、もう一度悪魔の束縛に陥ってしまうこともあると思います。一つの領域が解放されたならば、解放された者の歩みを始めなければその解放も継続されないと思います。
 私は入院に至り、なぜこのようになってしまったか、何か罪があるのではないか、何か悪魔に責められる部分があるのではないかと考えました。個人的に解放の祈りに導かれたり、教会のスタッフがとりなしの祈りのプランを組んでくださり祈りに繰り出していきました。そのような中で入院しました。入院中に詩篇五十五編二十二節の御言葉をいただきました。

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 入院中、糖尿病についてのセミナーがありました。症状や合併症の怖さを教えられ、今まで知らなかったことで驚かされました。私の家内は入院が決まったときに「足を切らなければいけないかと思った」と言うほど病気に対して無知でした。確かに糖尿病が悪化するとそのような状況になることもあります。講義の中では半ば脅しのような、そんなケースについての話もあり、僕は大丈夫だろうかという思いに苛まれました。そのような中で詩篇五十五編二十二節の御言葉が与えられました。『主は決して、正しい者をゆるがされるようにはなさらない』と記されていますが、私はイエス様を信じている。主が義と認めて下さっている。主が私のことを心配してくださると記されています。他の訳では、『主はあなたを支えて下さる』と書かれていますが、私を救って義と認められ支えて下さる方が、揺るがないようにしてくださると記されています。”倒れないように”ではなく、”揺るがないように”して下さるのです。人生がぐらぐらすることがないようにして下さると記されています。これを読んで平安が与えられ、神様の御手にお任せすることができました。入院を通して祈りの答えを神様からいただいたような気がしています。一つは痩せることができました。以前、お風呂に入りながらいつも「痩せますように」と祈っていました。神様の恵みの中でスリムになり、十年前の服が着られるようになりました。逆に着られなくなった服もありますが・・・(体重の減少は現在止まりました)。もう一つは、よく祈れるようにと常々祈っていましたが、主治医から治療の一環として運動をするようにと言われました。毎食後に二十分から三十分ウォーキングするように言われ、私も入院当時から実行し始めました。昼食後はなかなかできませんが、朝と夜は毎日歩くようにしています。ウォーキングというと滝元順牧師が最初にとりなしウォーキングを始め、教会のスタッフの中でも最近毎日されている方がおられます。そして昨日、教会でとりなしウォーキング週間をしようという企画が突如として奮起しました。今日から二週間行われます。私もウォーキングしながら色々な祈りの課題を祈るように導かれています。朝に夕に歩きながら祈っています。これも祈りの答えです。運動をすることも私自身運動できると良いなあと祈っていたことです。また、主治医から課せられた食事制限も一つ祈りの答えでした。私は食に関して執着が強く、そんなに食べたら体に悪いと言われながらもなかなか辞められず太っており、節制できるように祈っていました。病そのものが良いものだというわけでは決してありません。しかし、神様を信じる者には、病を通しても神様が恵みを与えて下さいます。今は、入院中に与えられた御言葉の通りだと感じざるを得ないのです。そのような恵みを覚えながら食事に、運動にと励んでいます。人生は先がわからず、目の先しか理解できません。問題があるとどうしてだろうかと悩み、落ち込みますが、イエス様が共におられる人生は揺るがされることはないと教えられました。しかし入院を通して一番教えられたことは、信仰に伴う具体的な行動が主の御心を達成するもだということです。祈りの答えが与えられましたが、これは神様が強制的に私を動かして下さったとき実現しました。こうなったら良いという願望も祈っているだけで行動しなければいつまでも実現されないと思います。私も祈っているだけでしたが、実行に移した時に体の切れも良くなり、入院前よりも健康になったと思います。
 そのほかにもウォーキング中にいただいた恵みがあります。私の母の実家が新城市内で石屋を営んでいます。墓石や石塔などを作っています。新城市内の業界では老舗の部類だと思います。墓石は日本においては偶像であり、新城市の神社仏閣にたくさんの石塔や偶像なども納めています。新城で一番大きい神社の、道路沿いの大きな鳥居を作ったのも私の曾祖父です。偶像を作って納めるというのは、クリスチャンの目から見るとありがたくありません。私がクリスチャンになったのは高学生の時でした。中学になるまでは実家によく遊びに行きましたが、クリスチャンになったのでたくさん偶像がある環境の中に自ら進んで入っていくのが嫌になりました。当時は霊的戦いが開かれていなかったので偶像には近寄らない方が良いという考え方があり、私自信もあの家には近寄りたくないと思い、行かなくなってしまいました。母はイエス様の話しをして教会に来て下さいと誘いましたが、「うちにはそういうことを誘わないでくれ」とはっきり言われ、だんだん法事や盆、正月にも顔を出さず、疎遠になってしまいました。そうこうしているうちに、行くことが億劫になってしまい、それから二十年間も私自身は交流がほとんどなくなってしまい、結婚、出産時に挨拶で訪ねたり、年賀状くらいの付き合いになってしまい、ほとんど顔も見ることがないような状況でした。しかし、昨年末からこれは良くない、何とかしなくてはならないと思うようになりました。そんな折、実家のためにとりなす機会が与えられました。偶像礼拝の一つの法則で、神社仏閣がオカルト的な意図を込めて、直線状ラインに建立されていくというシステムがあります。新城のある一つの神社とべつの神社、三河の中心的な神社、また実家の総本山の寺とつながり、そのライン上に母の実家が位置しており、ついでに言えば私の一番上の姉の住んでいるアパートもそのライン上にあるという発見がありました。これは祈った方が良いと言うことで、とりなして祈るように導かれました。退院後ウォーキングを始めてから、丁度良い距離にあったので母の実家付近もコースにしました。それはつい先週から始めました。「イエス様、この実家と私との今ある隔たりが取り除かれるように。そして話す機会が与えられますように。」と祈って歩いていました。すると実家の前に来たとき、ちょうど中から伯母が出て来られて、話をすることができ、次の日にも祈りながら回っていたらちょうど出て来られて話すことができ、「今度私の家に来て下さい」と話しましたら、どこにあるのと聞かれたり、元気ですかと訪ねて、私は実は入院して・・・と話すと、私も同じ病気で薬を飲んでいるというようなことを話したりと、親しく話すことができ、隔たりが取り除かれることができました。これもウォーキングをしたときに与えられた恵みです。今度は教会に誘うことができるように祈っています。私たちが伝道することは罪の中で悪魔の奴隷となって苦しんでいる人々にイエス様を伝え、その人たちを悪魔の手から救い出すことですが、イエス様を信じていない方は自分が悪魔の奴隷であり束縛されていることを知る由もなく自分はまったく自由に生きていると思っています。そして戦う必要を感じることもできない中で過ごしています。私たちが彼らに成り代わって彼らを束縛しているものと戦うことも伝道です。その行為・イエス様を宣べ伝えることそのものがとりなしであり、神様の御心を実行することになります。またクリスチャンが色々な行動をすること、例えば献金もそうです。ある働きのためにささげることは私たちが持っている金銭をささげるという具体的な行為によってその働きをサポートし、神様の前にとりなしをすることになります。そのような意味で献金も私たち自身をささげることであり、一つの神様の御心を行う行為だと思います。そのような行為を通して人のためにとりなし御心を実行していく者でありたいと心から思わされます。今年の初め、詩篇八十一篇十節の御言葉が与えられました。

『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。』

と記されています。「あなたの口を大きくあけよ」と命令形で記されています。これはただ私たちが口を大きく開けることではなく、私たちの領域を広げると言うことです。私たち側で口を広げる、私たち自身の行動を現し、領域を広げていく時、神様がそこに満たしを与えて下さり、実を結ばせて下さり、志を立てて祈り行動を起こしたときにみわざを見ることができると今年与えられました。私たちは互いにそれぞれ主から重荷をいただき、こうありたいとか、この方を救いに導きたいなどと思っています。そのことについて互いに祈るとともに、互いに実行していくことができるようにしたいと思います。信仰の目を上げ畑を見て今刈り入れる時が来ているという信仰をもって、かまを入れる一人一人になっていきたいと思います。すでに刈る者は報酬を受けていると御言葉にありますが、信仰によってかまを入れるときに神様が私たちに報酬を与えて下さることを信じて信仰の歩みを前進していきたいと思います。
 テモテの手紙第一の六章十二節に、

『信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』

と記されています。あなたはこのために召されている、信仰の戦いを勇敢に戦う、そして永遠のいのちを獲得するために、互いに信仰の戦いをしっかり戦うことができるように、また神によって与えられたビジョンを神にあって実現させていただくことができるように祈りましょう。それぞれ主から与えられている重荷、課題があると思います。そのために祈りましょう。私たちの課題について祈るとともに実行して行くことができるように求めていきたいと思います。実行するときにそれが皆さんの人生に平安をもたらし、義の実を結ばせ、究極的には主が来られる時を早めることができます。お祈りしましょう。


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