あなたの賜物は何ですか?

2003.5.25(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 コリント人への手紙第一 12章1節〜7節
さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。

ハレルヤ!久しぶりに新城教会にて御言葉を取り次ぐことができ感謝します。二週間前は、青森県と岩手県で五日間連続の「霊的解放セミナー」を行いました。また先週は、大阪の開拓間もない教会に行き、名古屋リバイバルミッションの決起大会を行いました。お祈りを感謝します。
大阪の教会は、日頃、十数名程が集まっているところに、二十名程が集まられました。私はその教会の先生を昔からよく知っています。先生は一般の仕事をしながら牧会をされています。私の家内が以前その先生に、「どんな仕事をされていますか?」と聞くと、先生は「飛行機の操縦をしています。」と答えました。家内が「すごいですね」と言うと、先生は、「何がすごいのですか?」と聞き返しました。それでよく聞いてみると、飛行機の「そうじゅう」ではなく、飛行機の「そうじ」でした。言葉の聞き方は難しいものです。今日の御言葉も、良い耳を持って聞いていただきたいと願います。

教会に来ると神様からの特別なプレゼントがあります。それが「御霊の賜物」です。「賜物」という言葉が教会の中でよく使われますが、これは「天からのプレゼント」を意味します。それは神が与える「特別な能力」であり、全ての人に与えられるものです。
元々人間は、神の目的のために、暗闇の力を打ち破るために造られた存在なので、そのような能力が備わっています。「私には、そんな能力はありません」と言われますが、それは間違いです。あなたが猿ではなく、人間として生まれているならば、「御霊の賜物」が必ず与えられています。そのことを意識して生活するならば生活が変わります。今日はあなたに、特別な能力があることを知ってください。

日本において、聖書を土台とした教育がなされたら、素晴らしいと思います。日本の教育界や社会には色々な問題がありますが、それは進化論を基礎に成り立っているところに問題があります。なぜならば、進化論は「強い者が勝つ」という考え方であり、同時に「弱い者は淘汰されていく」という考え方だからです。私たちは知らないうちに「強い者だけが生き残る」という教育を受けています。何をするにも「強くなければならない」という意識が働き、過度な競争社会が生まれていると思います。神は人間に「競争する」本能を与えていますが、それが行き過ぎてしまうと問題が起こります。聖書は個人を、次のように位置づけています。第一コリント十二章二十七節、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

教会とは、社会の組織とは違い、イエス様がかしらで私たちはその体の「各器官」です。体は多くの器官によって構成されています。見える部分も、見えない部分もあります。体が器官が寄せ集められできているのと同じように、教会に何気なく来たかも知れませんが、イエス様をかしらとして各器官に収まっていくのです。そして、それぞれに与えられた器官がイエス様のからだの中で、与えられた機能を発揮します。その「託されている機能」が「御霊の賜物」です。
このように、一人ひとりが「各器官である」という考え方を教育の中で教わったら素晴らしいです。第一コリント十二章二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

体の中で、どうしてもなくてはならない器官はどこにあるかというと、見えるところにではなく、見えないところにあります。しかし人間は、見えるところだけに関心があり、見えないところにはあまり関心がありません。ミス・ユニバースのコンテストで優勝する女性は、とびきりの美しい人です。それは外観が問題になります。「この人は世界で一番胃腸が強いです」という理由でミス・ユニバースになった話は聞いたことがありません。その人が、少しくらい胃腸薬を飲んでいても、あまり問題はありません。しかし生きていく上では、見かけはどちらでも良いのです。鼻が高かろうと低かろうと、あまり関係はありません。胃腸が強い方がバリバリと生き抜くことができます。
新城教会のお年寄りは皆元気です。先週、九十二歳のおばあちゃんを訪問しましたが、そんなに年をとっているのに私のことをしっかり、わかってくれました。私は「自分は、その年まで生きることができるだろうか・・」と思いました。こんな生活をしていては無理かも知れない、と思います。長生きしている方は、外観はともかく、胃腸や内蔵が強いのです。見えないところが強いのです。だから生き抜くことができます。一般的にもてはやされるのは、見えるところですが、本当に大切なところは「見えないところ」です。

「キリストのからだ」とは、最終的に「教会」を現しています。さて、教会の中で一番大切なところは何処でしょうか。それは目立つところではなく「目立たないところ」にあると教えています。新城教会の中で一番目立つのは、もしかしたら牧師の私かも知れません。しかし、私のように目立つ存在ではなく、見えないところが大切です。
ある方が私のところに相談に来ました。「先生。私は最近、あまり祈れないのです。祈れるように祈ってください。」と言われました。私はちょっと威張って、「では、祈れるように祈ってあげます。」と言いました。そして、「ところで、あなたは一日にどのくらい祈っておられますか。」と聞きました。すると、「私は今まで五〜六時間祈っていたのですが、最近は三〜四時間になってしまったのです。もう一度、祈りの力が回復するように祈ってください。」と言われました。
私は「あなたは、すでに十分に祈っている・・」と思いました。その人は祈りの人で、子どもたちが学校に行ったあと、ずっと祈るのです。週報に記載されている事柄など、隅々まで祈って下さいます。そのような方々によって、新城教会は支えられているのだと思います。教会の中で大切なところは、あまり目立たないところにあるのです。そのような場所に、重要な神の賜物が隠されています。

新約聖書の「弱い」を意味する存在は、一つは「子どもたち」のことです。当時のイスラエルでは、子どもたちの評価は低く、弱いとか役に立たないものの代名詞でした。当時の子どもたちは、ある意味で虐げられていました。イエス様のところに子どもたちが来たときに、弟子たちの態度はとても悪く、子どもたちを追い払いました。しかしイエス様は、子どもたちを連れてくるようにと言いました。
新城教会には、多くの子どもたちがいますが、「子どもたちが持っている御霊の賜物」は重要です。特に、霊的戦いは、子どもたちの祈りや賛美によって前進します。ですから、お子さんがおられたら、親は、子どもたちの祈りや賛美を励まさなくてはなりません。そこには、大切な賜物が託されています。
時々、土曜日の午後、牧師室で礼拝で語る御言葉を準備していると、「ホサナ・クラブ」の子どもたちが私の部屋に来て祈ってくれます。昨日も、私の部屋に子ども達が祈りに来て、私に手をおいて祝福を祈ってくれました。彼らは、霊的な目が開かれており、私に霊的なアドバイスをしてくれます。昨日は、「順先生。色々なところに行って奉仕したから、傷ついています。癒しのために祈りましょう。」と言ってみんなで祈ってくれました。また、一人の少年が、「先生、ちょっと心が汚れています。心がきれいになりますように」と祈ってくれました。前回は私の部屋に来て、「部屋の中にくもの巣がたくさんありますよ。」と言いました。「くもの巣なんかないよ。」というと、「悪魔のくもの巣がたくさんあるからとらなくちゃ。」と言って部屋のために祈ってくれました。「頭の上に剣が刺さっているから、抜いた方が良い」などと言われた事もあります。
昨日も、私のために色々と祈ってくれました。だから私は今日、満たされてここに立っています。子どもたちの内には、パワフルな賜物が隠されています。
皆さんも時々、「弱い」と思うかも知れませんが、案外、弱さを覚えるところに「御霊の賜物」があるのかも知れません。なぜならば、悪魔は私たちに与えられた特殊な能力を狙っているからです。その能力が使われると自分たちがやられてしまうので、賜物を中心軸に戦いを挑んできます。私も色々なところで霊的解放という働きをさせていただきますが、いつも感じるのは、悪魔は神が私たちに与えた霊的能力をつかんでいると言うことです。それを取り戻すのが、教会の役割であり、私の働きの使命だと感じています。

二週間前、青森県に行きました。そこは偶像礼拝の強いところです。ほとんどの家庭が、恐山のイタコに関わっています。それは死者の霊を呼び出し、死者から人生のための指針を受けるというものです。「恐山大祭」があるときには、イタコのテントがテーマ・パークのように並ぶそうです。そこに降霊術を行うイタコがおり、先祖の霊を下ろして声を聞くようです。しかし、そこで話すのは先祖の霊ではなく、先祖のふりをした「死の霊」です。その声を聞いて従うならば、何かが起こり、守らなければ問題が起こります。そのようなわけで、イタコに関わって苦しんでいる人々が多くおられます。
そこで、私は一つのことに気付きました。東北地方の人々は何らかの、目に見えない領域で発せられる声や、霊的情報をキャッチする受信機を持っている人たちだと思いました。受信機を本物の神様に合わせると、イエス様の声が聞こえます。しかし波長を悪霊に合わせると、悪霊の声を聞いてしまいます。その結果、受信機を持っているがゆえに、人々に悪霊の声を伝達するために用いられてしまうのです。そのように、悪魔は、神が私たちに与えた賜物を狙うのです。
もし皆さんの人生で、弱さを覚えたとしたら、その背後に、御霊の賜物が隠されていると思います。それが悪魔の手から取り戻されなければなりません。『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』と記されています。今日すべての方に聖霊が臨んでいます。
しかし、「私は、聖霊に触れられたことはない」と言われる人がいます。それは間違いです。教会に来るのは、聖霊の働きなくしてあり得ないことです。今日ここに初めて来られた方がおられるとしたら、神の霊があなたをこの場所に導いたのです。神の霊があなたを導かれなければ、教会に来ることはできません。そして教会に来ているうちに、イエス様が神であることがわかります。そしてやがて、「イエス様は神様です」と告白できたならば、それは聖霊の働きです。

『神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』

と記されています。今日心から「イエスは主です!」と告白することができるのならば、あなたには神の霊が注がれており、御霊の賜物がある証拠です。「イエスは主です!」と告白しましょう。聖霊様が私たちと共にいてくださると確信してください。
御霊は個人にも注がれますが、本来はどこに注がれるべきでしょうか。「御霊の賜物」について多く論じているのは、第一コリントの十二章と、ローマ人への手紙十二章です。それらはコリント教会とローマの教会に当てた手紙です。そこでは、イエス様をかしらとした、体について論じています。ということは、「御霊の賜物」は個人にとどまるのではなく、「教会」に対して語られている事柄です。教会が聖霊に満たされるときに、一人ひとりに与えられた、御霊の賜物が生きてきます。各器官の賜物が発揮されるということです。そのためには、教会に聖霊が注がれるように祈らなければなりません。教会にさらに聖霊が注がれるようにと、今週、祈ってください。新城教会に聖霊が注がれ、教会全体が聖霊に満たされると、そこに属している器官は全て生き始めるのです。

一九九二年二月に、聖霊が注がれました。その時、私をはじめ八人の小グループに聖霊が注がれました。しかし、そこから聖霊の働きが広がり、一九九二年七月には、教会全体に聖霊が注がれました。ということは、新城教会にはすでに、教会に聖霊が注がれており、すべての人に御霊の賜物が用意されているのは間違いありません。教会に聖霊が注がれると、各器官が力を発揮し始めます。九二年に聖霊が注がれたとき、当時からおられる方はよくわかるかも知れませんが、不思議な霊的賜物が、雨後の竹の子のように芽生えてきました。第一コリント十二章八節から十二節に、

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』

教会の中には、色々な御霊の賜物があります。コリントの教会には、「知恵の言葉、知識のことば、御霊による信仰、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力」と、普通の社会にはおよそない「霊的賜物」が教会が聖霊を受けたときに機能し始めたのです。
ここにも、そのような器官と機能を持った方がおられるはずです。自分の賜物が何かわからなくても、その機能が動くと結果が教会に現れます。
通常、人間の各機能には存在感がありません。胃の存在がわかるときは、胃が痛いときです。また、心臓が右か左か普段は意識しません。どちらかわかっている人は、知識がある人か、自覚症状のある人です。同じように、賜物は案外、自分では気付きません。誰に、知恵、奇跡、信仰、癒しがあるかわかりませんが、それが教会の中で現実の結果となって現れます。ですから、私たちは、器官としての役割を果せるように祈ることが大切です。
しかしただ、目立たないだけではなく、それをピックアップして使ってくださることもあります。ですから、「自分にはどのような賜物があるだろうか?」と祈り、考える必要もあります。案外、主は、薄々、「あなたの賜物はこのようなものだ・・」と教えてくださいます。
ローマ書十二章五節から八節に、

『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。』

と記されています。ローマ教会は、一般社会にもある機能に聖霊が注がれ、強められ主のために機能していました。コリント教会は目に見えない「霊的な世界」の賜物でしたが、ローマ教会は「奉仕、教える、勧める、分け与える、指導する、慈善を行う」など、主に「行動する賜物」が与えられていました。
各教会には色々な性格があり、それぞれ、その教会にしかできない能力が備えられており、全体で一つの働きをします。コリント教会は、「目に見えない世界」で行動するように建て上げられた教会であり、ローマ教会は、「現実の世界」で行動する能力を与えられた教会でした。

さて、ある人には「知恵の言葉」の賜物があります。誰かと話すときに、聖霊によって知恵の言葉を話すので、アドバイスを受ける人は知らないうちに癒され、回復します。私も、多くの人と話す機会があります。そんなとき、いつも祈っていることがあります。話しをするときには必ず話をしながら祈ります。「主よ、私に知恵の言葉を語らせてください。また、知識の言葉を語り、神の霊が聞き手に注がれますように」と祈ります。
つづいて、「御霊による信仰」と書かれています。「御霊による信仰」の賜物がある人は、大きな信仰を持って、目的に向かって歩くことができます。
私の父は少しそのような賜物があるように思います。時々、無謀な信仰ではないかと思いますが、後から御霊による信仰だったとわかります。私が甲子園ミッションについて聞いたときに、すぐに「やめた方が良い」と思いました。それで、「一度は甲子園球場を見に行った方が良い」と言うと、父は「もう見た」というのです。それも「テレビで見た」というのです。私は一度現地に行った方が良いと言って、甲子園球場を見に行きました。しかし、その大きさを見て一歩引きました。私はその姿を見て嬉しかったです。その時私は、甲子園球場でとりなしの祈りをしました。「主よ、二度とこの地を足で踏まないように・・・」と祈りました。しかし最終的には、甲子園ミッションを行うことになりました。それは無謀な信仰ではなく、御霊の信仰によるものであったと今ではわかります。年をとっても、御霊による信仰が衰えないことを祈っています。
「奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力」と書かれています。預言的な賜物を持っている人がいます。新城教会が大変なときに、アメリカからシンディ・ジェイコブス先生が来られ、励ましの預言をされました。「主はこの教会に、このように語っている・・」と言われました。それを聞いて、「本当かな」と思いましたが、実現したことがいくつかあります。その時、「あなたの教会に印刷所ができる」と言われました。当時、小さな機械で印刷をしていたので、それが印刷所かと思っていましたが、今では「プレイズ出版」という、大きな印刷所ができました。
また「学校ができる」と言われましたが、神学校ができました。今年は、神学校の校舎を建てようと信仰を持って歩み出していますので、ぜひ祈ってください。
また、「霊を見分ける力」と書かれています。私はある意味で、霊を見分ける力が与えられていると思います。神の知恵によって、偶像礼拝の背後に働く暗闇の力を見抜き、霊的解放の奉仕しています。
また「異言の賜物」と書かれています。この教会にも、異言で祈ることができる人が多くおられますが、その賜物を、祈りの中で使われると良いと思います。異言の賜物は奇妙ですが、あれは御霊による「とりなしの祈り」です。
昨日おもしろいことがありました。昨日は丁度、滝元開夫妻が名古屋のざわめきに出かけていました。開夫妻の次女が「腹減った!」と言って我が家に来たので、私と家内は、彼女と一緒に食事に行きました。帰ってくる途中で、ウォーキング祈祷をしました。私は祈りながら歩いていました。私は、異言で祈っていました。すると彼女は、横で私の異言を解き明かしていました。
「順先生が異言で何を祈っているのかわかるよ。こんなことを祈っているよ・・」と言うのです。「わかる!」と言って、異言の解き明かしを始めました。私は異言で「悪霊の力が打ち破られるように、ヒンズーの悪霊が打ち破られるように。明日の礼拝では、子どもたちが静かに礼拝に出られるように」と祈っていたようです。どうりで、聖霊による祈りがあったから、今、子どもたちが静かにメッセージを聞いています。
祈るときに、どうやって表現したら良いかわからない事柄があります。自分の問題を的確に表現して祈りたいのですが、言葉がうまく見つからないのです。そんな時、異言で祈ると良いです。そうしたら、聖霊様が完璧な言葉で、その事柄に対して祈ってくださるのです。完璧な祈りが神の前に届きます。だから異言の賜物を求めると良いのです。しかし、異言の賜物がなくても、聖霊が「うめきを持ってとりなしてくださる」と聖書に約束されているので、異言の表れがないとしても祈るときに、「私の言葉は貧弱かも知れませんが、聖霊様、私が今祈っているテーマを完璧な祈りにして、父なる神の元に届けてください」と祈ると良いです。そうすれば、聖霊ご自身が、その祈りを父なる神の元に届けてくださいます。

このように、私たちには霊の機能があり、賜物は自分でも興味があります。霊的戦いの賜物がある人は、霊的戦いに興味があります。祈りの賜物がある人は、祈りに興味があります。また教える賜物がある人は、教えることに積極的であり上手です。興味のあるところに賜物があるという側面もあります。ローマ書八章十三節から十五節に、

『もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』

私たちには御霊の賜物があります。神から与えられた機能があります。それを聖霊によって支配していただくことです。自分の計画や、自分の能力でやるとうまくいきません。ここには「死」という、究極的な表現がありますが、人間の能力や計画は最終的には「死」です。しかし、御霊によるものは「生きる」のです。毎日の生活の中で、聖霊の支配で一日を送ることができるように祈ることが必要です。神から与えられた機能を聖霊によって果たすことができるようにと、導きを求めて一日を始めるならば「生きる」のです。
私は毎朝、必ず祈る祈りがあります。それは、「今から一日が始まりますが、私が歩む一歩一歩、一瞬一瞬のすべてに、聖霊の導きがありますように」と祈っています。今週ぜひ、あなたも同じように祈ってください。「御霊に導かれて生きることができるように」と祈ってください。聖霊様があなたに導きを与えてくださいます。一瞬一瞬すべてに聖霊の支配がある、これが御霊の賜物によって生きる人生です。その時「生きる」のです。
このように、生きた器官が寄せ集まり、一つのからだとなる時に、教会を通して不思議なわざが起こります。教会全体は神の御霊に支配された方向に進んで行きます。年間の計画をわざわざ立てなくても、主が教会を導かれます。「主が私の牧者であれば、乏しいことはありません。緑の牧場に導いてくださる」のです。
聖霊の導きを求めて、預言的に生きていただきたいと願います。私は毎日が預言的でありたいと願っています。

先週の雅也先生が語られた御言葉は、素晴らしかったですね。そこでは深い真理が語られていました。先週開かれたヨハネの福音書四章三節、四節に、

『主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。』

と記されてます。イエス様の一日の行動は聖霊に導かれた、預言的な行動でした。イエス様がユダヤからガリラヤに行かれるときに、サマリヤを通ると遠回りになったり道が険しくなったりしましたが、なぜかサマリヤ廻りで行こうと決めました。そしてその道を行ったところ、サマリヤの女に出会い、最終的にはサマリヤのリバイバルにつながりました。イエス様の行動は預言的なものでした。ゆえに、神の時に、神の場所におり、神のわざがそこに現されました。私たちの人生も、そのようであるべきです。神の時に、神の場所におり、神のわざを見るような人生を歩みたいですね。
ヨハネの福音書四章三十二節から三十四節に、

『しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』

イエス様が食事をされなかったのは、神が導かれた神のわざを見て、「神のみわざに感動して食事が喉に通らなかった」と四元雅也先生のメッセージの中で語られていましたが、正にそうだと思います。私たちも神の時に、神の定めた場所にあり、神のわざを見ると感動します。これこそ、「私の食物だ!」と思います。今週神の御霊により、与えられた賜物を通して、御霊の導きによって生きていくならば、神の時に神の場所にあり、神のわざを見ることができます。「御霊によって預言的な一週間を過ごすことができますように」と祈ってください。イエス様は預言的な人生を歩まれ、そのように歩むよう私たちに、手本を見せてくださったのです。

旧約聖書の中に「エリシャ」という預言者が登場します。彼も預言的な賜物により生きた人です。第二列王記六章八節から十二節に、

『アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

アラムの王は、イスラエルの敵でした。王がイスラエルを攻めるための作戦を王宮で立てていました。「何月何日何時何分、あの道を通りイスラエルに攻め入ろう。兵を用意せよ。」
しかし、その時イスラエルにいるエリシャは、そのことを神から教えてもらい、「あそこを警備しておくように。アラムの王が下ってくるから」とイスラエルの王に言いました。すると、エリシャが言った通りに、アラムの軍隊が攻めて来ました。しかし、未然に迎え撃ったので、イスラエルには被害がありませんでした。それが一度や二度ではありませんでした。
アラムの王は、「この中に、スパイがいるに決まっている。スパイは誰だ?」と怒りました。すると、「王様。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語る言葉までも、イスラエルの王に告げているのです」と言いました。エリシャは聖霊に導かれていました。だから敵がどの道筋から下ってくるのか神から教えられました。まさに預言的な人生です。
皆さんも今週、御霊によって導かれて生きるのならば、神はあなたに敵の道筋を教えてくださいます。「悪魔がここから攻めてくるから、守っておくように」
すると、そこから攻撃があっても防備されているので、被害に遭いません。時々「悪魔の攻撃を受けて負けました。」と言われますが、初めからとりなして祈っておけば、そんな攻撃は受けなかったのに、と思います。
将来起こりえることを、事前に教えてくださることがあります。その時は、すぐに、祈りによって守りを置かなければなりません。今週は、エリシャと同じように、神の霊によって導かれますように。預言的な守りが最初から置かれていますようにと祈ってください。
 時々神は預言的に、私たちにとりなしの祈りを要求されることがあります。そのようなときは、しっかりと祈った方が良いです。先日、ある人と話したら、次のように話されました。しかし、今から話す話で、同じような境遇の方がおられても、同じようには捕らえないでください。

その方は、二年ほど前に息子さんを亡くされました。亡くす前に、三度声を聞いたそうです。それは「息子が死ぬ・・」という声だったそうです。はじめは「そんなばかな・・」と思っていましたが、三回目に聞いた後に自分の奥さんに話しました。「息子が死ぬと聞こえたけど・・・」
その後、本当にそのことが起こったのです。その方は、「神が息子が亡くなるときのために、事前に準備をしてくれた」と言われましたが、私はそうではないと思いました。それが、アラムが攻めてくる道筋だったかも知れないと感じました。
一九九二年七月、霊的戦いが起こったときに、家内が朝早く祈っていると、幻を見ました。それは、息子が川でカヌーに乗って遊んでいると悪霊が来て、カヌーをひっくり返し、息子が水中から出られなくなっている幻であったそうです。カヌーの色もはっきり見えたそうです。だから祈ったのです。「主よ。息子を守ってください。」私も祈りました。そのようなことが起こらないようにと祈りました。
当時私の息子は中学生でしたが、夕方帰ってきて、ソファーに寝ころんで「今日は疲れた」と言うのです。「どうした?」と聞くと、「今日、豊川でカヌーをしてたら、転覆して死にそうになった」というのです。それを聞いて驚きました。
朝、主から教えられたことを祈ったことによって、息子は助かったのかも知れません。もしもあの時、「気のせいだ」と言っていたら、私の息子は今いないかも知れません。主が助けてくださったことを覚えました。
預言的な祈りは、危険を回避することができます。そのためには、一人一人がイエス様のからだに属して、器官が働いていることが大切です。教会が、聖霊に満たされていなければ方向付けされないので、教会全体に聖霊が注がれてすべての機能が生かされることを祈っていきたいと願います。

最後に、人生が聖霊によって導かれているならば、たとえ過去に悪いことが起こったとしても、最終的には神が益としてくださいます。ローマ書八章二十八節には、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

例えば、祈りがなくて事件が起こってしまったとしても、御霊による導きは必ず死ではなく、「いのち」をもたらすのです。全てが益とされます。息子さんを亡くされた方も、そのことから霊的な世界が開かれて戦っておられます。今回、その方とともに祈りました。家系におかれている呪いが完全に打ち破られるようにと祈りました。どのようなことがあっても、結果的にはすべてのことを働かせて益としてくださいます。ですから、過去起こったことは、御霊によって導かれているならば、どんなに失敗があったとしても、益となると信じてください。
今日からは、決して御霊の声を聞き逃さずに御霊によって生きていくこと、預言的に生かされていきたいと願います。教会全体に聖霊の油が注がれ、一人一人に与えられた器官が生きていくときに、素晴らしい神の栄光がこの地に広がっていきます。そのために、新城教会を用いていただきたいと願います。預言的に生きることができますように。アラムの攻撃をまともに食らってから立ち上がるのではなく、事前に察知することができるような、預言的な賜物をいただくことができるようにお祈りしましょう。与えられた賜物を用いて、生きることができますように、また、聖霊によって導かれた人生を歩むことができますよう、お祈りしましょう。


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