どうしても必要なこと

2003.6.1(SUN)
新城教会 岡本 信弘牧師

新約聖書 ルカの福音書 10章38節〜42節
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 ハレルヤ!主の恵みを心から感謝します。今日はアメリカに二十数名の方が行かれてます。いつも皆さんのお祈りに支えられて健康が守られていることを感謝します。昨日は私たちの愛する前羽繁子姉が天に召されました。このことは私たちにとって寂しいことですが、今、姉妹は天国からこの礼拝を見ておられると思います。この地上での生活において私たちが何をするべきか考え、いつも主に喜ばれる者でありたいと思います。アメリカに私の家内が行っており、皆さんから「先生、寂しくないですか。」と言われますが、そうでもないです。行ってからとても忙しくしており、前の日は葬儀があったり、その前は「レッツプレイズ」があり、あっという間に毎日が過ぎ、火曜日には帰ってくるので寂しさを感じる間もありません。私も妻を愛し、妻に気を使っているところがあり、この何日間の、ある意味であまり気を使わず、食べたいときに食べ、寝たいときに寝るという生活も時には良いかと思います。

今日は、ルカの福音書十章三十八節から学びます。
『「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」』

とイエス様が言われました。この箇所から「どうしても必要なこと」というタイトルでお話します。私たちは毎日沢山のやるべきことがあります。主婦には主婦のやるべきこと、学生には学生のやるべきこと、また仕事をする人、会社を経営している人などそれぞれです。私も毎日忙しい中で一日の中で誰よりも早くプレイズに行き、一日のやるべきことを書き出します。その日のうちに二十個、三十個とやるべきことを書き出します。今週いや、今日やるべきことの優先順位を決め、一つ一つこなしていきます。もし私たちが一日の中でたくさんの仕事をこなしたとしても、どうしても今日やるべきことをやらなかったならば、大きな損害をもたらし、あとで後悔することになります。私たちはよく考え、一日を始める時に主に先立っていただけるように祈ることが大切です。先週学んだように、私たちは預言的に神様の前に行き、神様に喜んでおられることをすること、神様の望んでおられることをしっかりと受け止めて行うことが、一番重要であり喜ばしことだと思います。
 この御言葉の中には、三人の登場人物が書かれています。イエス様とマルタとマリヤです。この二人の姉妹にとってイエス様が自分の家に来られるということは、とても重要なときであったと思います。例えばこの日本において言えば、天皇陛下が来るというようなものかも知れません。天皇陛下が来ると聞いただけで道路が舗装され、家までもが新築されるほどに重要なことです。また、皆さんの家に大切なお客様が来られるとします。あなたは当然のように、事前にわかっていたならば、家を掃除し食糧を買い入れて、丁重にお迎えすると思います。そして喜んでお迎えすると思います。イエス様が来られるということを、イエス様は前々から予告したのではなく、直前に「あなたのところに行くようにしている」と言ったと思います。それを聞き、二人のマルタとマリヤという姉妹は慌てて、マルタはお姉さんなのでイエス様を迎えるために、粗相がないようにと部屋を掃除し、色々なことを考えて買い物に出かけて、イエス様をお迎えしたと思います。そして、イエス様が来られたとき、何を出そうか、何を差し上げてあげようかと考え、最高にイエス様をもてなしたいと思ったことでしょう。マルタが色々なことを考えながらいるとき、ふとなぜ私が一人でこんなことをしているかと思ったとき、マリヤはニコニコしてイエス様のところに座って御言葉に耳を傾けているのを見ました。その時に彼女は爆発してしまい、それも言わなくてもよいことをイエス様に言ってしまいました。

『「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」』

このように言ったことにより、一つの問題が起こりました。そのことに関してイエス様が、

『「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

と言われました。マルタの行動は間違っていたでしょうか。そうではありません。イエス様が来られるということで、当然のようにマルタのもてなしは必要でした。もてなしの準備をすることは重要です。もてなしをして食事を出すことも大切です。では一方、マリヤの行動は間違っていたのでしょうか。そうではありません。マリヤはイエス様の御言葉を聞くことを最優先しました。マリヤはこの時、神様の御言葉を必要としていました。それぞれに置かれている状況も必要も違います。
 時に私たちはどうしても必要なことがあります。例えば、家を建てるのであれば、色々なことを考えますが、まず基礎が大切です。私も八年ほど前に家を建てましたが、元々畑だったので基礎を大きくして建てました。しっかりとした土台の上に家を建てることは重要です。聖書の中には砂の上に家を建てた人と、岩の上に家を建てた人という二つの例話があります。砂の上に家を建てた人は短い時間で立派な家を建てました。しかし岩の上に家を建てた人は時間がかかり、ある意味で、外見上は砂の上に建てた家の方がきれいだったかも知れません。しかし、完成直後に台風が来たと聖書に書かれています。すると砂が土台になっていた家は、どんどん水が入り、土台にある砂が削られて、最後には倒壊したことが書かれています。一方、岩の上に建てられた家は、建てるのに手間がかかったかも知れませんが、しっかりとした土台の上にあったことにより雨が降っても風が吹いても動かず壊れませんでした。それほど、私たちが家を建てるときにまず基礎が必要なことが分かります。
 私たちの人生にとってどのような基礎が必要でしょうか。私たちの人生にとって絶対に外せないものがあると思います。私たちは同じように肉体を持ち、毎日生活をしています。毎日の生活には、目には見えませんが空気が必要です。私たちは皮膚呼吸もしているので、空気がなければ数分のうちに死んでしまいます。また空気があっても私たちは水がなくては生きられません。また水分だけ補給しても、何ヶ月、何週間とエネルギーも補充しなければ生きることができません。よくアフリカ難民についてテレビで見ますが、大変だと思います。近くにいたら少なくても食べ物をあげたいと思います。一日に何万人もの人が餓死していく状態を、いつも私たちは報道で聞いています。かわいそうだと思い、そのような人たちのためにも祈らなくてはなりません。私たちが体を維持するためだけでも必要なものが沢山あります。人が成長していくためには何が必要かということを、テレビでやっていました。小さな子どもはお母さんが乳を与え、離乳食を与え、だんだん自分で食事を摂取することができるようになって成長していきます。しかし私たちが成長するためにどうしても必要なことは、誰かに必要とされ、誰かに愛され、誰かに存在価値を認めてもらうことだと、テレビでやっていました。私が皆によく「呼ばれているうちが花だ」と言います。あなたが誰かに必要とされることは幸せだと思います。私たちは誰かに必要とされています。若いときには将来があり、希望があります。
 話しは変わりますが、先週金曜日、「レッツプレイズ(中高生の伝道会)」がありました。会場を見ると百数十名が座れる椅子があり、こんなに人が来るだろうかと思ってしまいました。私はメッセージを頼まれていました。大丈夫かなあと思い、天候も心配していました。しかし、天候も守られ外でバーベキューをしました。今日は何人集めるのが目標かと聞くと、聖書の御言葉の中でペテロが一五三匹の魚を捕った所から、一五三名以上の人が来るように願っていると言いました。私は不信仰な者で、そんなに来るかなあと思いました。「そんなに来たらやばい。私はメッセージだから・・・」と思っていました。しかし、私の期待を裏切り、実際は、百六十名が来たそうです。そして百名以上の中高生の新しい方が来られ、素晴しい集会でした。その集会で私はつくづく年をとったと思いました。大勢の若者を目の前にしたときに、自分が用意した御言葉を考え、こんなことが理解できるかなあと考えました。しかし、若者は若者なりに将来に夢があり考えています。私もその時に、ふと自分が中高生の時にどんな生活をしていたかと思い出し、いくつかのエピソードを思い出しお話ししました。私は、中高生時代のことをほとんど忘れていますが、忘れることができない思い出があります。それは中学二年の社会のテストでした。私はテスト勉強をして、学校で答案用紙を開いたとき、すごく簡単なテストに驚き喜びました。私が簡単だと思うことは当然皆にとっても簡単だったはずです。ちゃんと見直せば良いのですが、百点を取ろうなど到底考えていなかった私は、答案用紙を裏返して友だちと話していました。ある人は腰掛けを後ろに向けて話し、みんなで騒いでいました。それまで先生はいなかったのですが、突然悲劇が襲い、先生が入って来たのです。私はやばいと思いましたが時すでに遅しでした。先生が「お前たちの中で話したものは外に出ろ」と言いました。皆話していたではないかと思いましたが、私は立ち外に出ました。すると男ばかり八人が外に出ました。女はどうして出ないのだと思いましたが、私は「大丈夫だ。テストは九十点以上取れるし・・・」と思っていました。しかし、その後更なる悲劇が起こったのです。一発くらい殴られても良いと思っていましたが、私の予想を裏切り、事もあろうに八人の答案用紙を持ってきて私の目の前でその答案用紙を破ってしまったのです。私の生涯で最初で最後でしたが、テストで〇点と付いた成績表を受け取ったことを今でも思い出します。親に何と言い訳しようと考えましたが、その時ほど成績が悪かったこともありませんでした。しかし、今となっては楽しい思い出であり、人生では時々に色々な出来事がありますし、成長するときにどうやって人生を生きていけば良いかと悩むこともあると思います。

「レッツプレイズ」で中高生に話した御言葉は、マタイ十六章二十六節の御言葉です。

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』

私たちが真のいのちを見出すことができなければ、他の何を得ても何もならないと話しました。私たちの人生にとって本当に必要なのは、すべてを知っておられ、皆さんを愛し、皆さんを生かされる唯一の神様を知ること、これが私たちの基礎になかったら、その上にどのようなものを積み上げても何もならず、すべてが無意味です。一日の中のどのような仕事をしても、今日やらなくてはならない仕事をできていないとしたら無意味のように、人生の七十年、八十年、九十年の中でどうしてもやらなければならないことをやらなかったならば、どんなたくさんの量の仕事をこなしてもどのように楽しい生活をしても意味のないことです。

第一テモテ六章十九節には、
『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

と書かれています。「未来に備えて」とはいつでしょうか。長くて十年後、二十年後と言われる方がいるかも知れません。今から未来というのは十年後、二十年後も未来ですが、百年後も三百年後も未来です。私たちがそれに備えてどのような基礎を今築くかが重要だと聖書は教えています。 昨日、前羽姉が天に召されましたが、前羽姉は大きな病気をして、苦労の連続だったと思います。そんな中でも姉妹は喜んで天に凱旋していきました。昨日もここで葬式がありましたが、その時に清子先生が「故人の思い出」を話して下さいました。そんな時に誰もが「あの姉妹はよく祈っておられた」と言われました。私たちが姉妹を訪問し、色々な交わりをしていざ帰ろうとしてお祈りし、私が「アーメン」と小さな声で祈り終えると、その後で彼女が祈り始めます。私はぎりぎりまで話して、一分、二分の祈りをして帰ろうとしていましたが、そこから五分、十分の祈りが蕩々と続きます。「やばい」と思い、ある時は「姉妹もう時間がないから・・」と切ってしまったことがありますが、その祈りを聞くととても恵まれます。祈りを聞いていると、姉妹がなぜこんなことまで知っているの?と言うくらい多くのことを週報の隅々まで、教会ニュースを隅々まで見て、祈って下さっていました。いつもとりなして祈って下さっている姿を思い出します。ある人から見たら、姉妹は幸せでなかったと思う人がいるかも知れませんが、姉妹の中でイエス様に出会い、イエス様とともに歩む中で、しっかりとした基礎の上に祈りが積まれ、天に凱旋して行ったことを覚えます。あなたが天に召されたときに、人はあなたのことをどのように評価すると思いますか?姉妹が祈りの人として素晴らしいものを私たちに残して下さったことを覚え、私たちもそのことを受け継いでいく者となりたいと思います。しっかりとした基礎の上に積み上げていくことは、特に重要なことです。
 世の中の人に大切なものは何ですかと聞くと、ある人はお金、名誉、この世の幸せを多くの人が求めます。そして悩む人に言われるのは、「死んだらおしまい、生きていたら良いことがあるかも知れない。生きていたら必ず良いことがある」と慰められますが、本当かなあと疑問に思います。聖書の御言葉は、そのようには書かれていません。私たちの人生において必要なこと、知るべき重要なことは何でしょうか。ローマ人への手紙三章十節から十二節に、

『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』

すべての人が迷い出た生活をしている、迷路のようなゴールのわからないような生活をしていると聖書は教えています。そして、このままいくと私たちはゴールが見えないままこの地上での生活を終えなければなりません。しかし、私たちの魂の未来は百年後、三百年後もあります。それに向けて、私たちはこの地上においてしっかりとした土台を築く必要があります。人生はこの地上だけで終わってしまうとは聖書は教えていません。

ローマ三章二十三節、二十四節に、
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』

人間は罪を犯し、罪を持ったまま死ねば永遠の滅び地獄が決まっていて、それが私たち迷い出たすべての人の摂理でした。しかし、その摂理を覆したのが真の神・イエス・キリストです。イエス・キリストはすべての人のために、すべての罪を背負って十字架にかかられて死んで下さいました。あなたの悪い思い、考え、人を妬み、人に嘘をつくというような積み重ねてきたすべての罪を背負って、十字架にかかられて死んで下さいました。私たちがそれを信じるならば、神の恵みによりイエス・キリストによるあがないのゆえに、私たちは義とされ罪のないものとされる、これを得るためであったらどのようなものを差し置いても欲しいと考えるでしょう。また、ここにおられる多くのクリスチャンが、それを勝ち得て永遠のいのちを歩み始めています。亡くなった前羽姉も、昨日から永遠の人生をスタートしたのではなく、すでにイエス・キリストを信じ、心にイエス様を受け入れて生まれ変わった時から、永遠のいのちが始まっているのです。
 肉体を持った人間は、どんなに健康管理をしていてもいつか滅びが来て終止符を打たなくては成らない時が来ます。前羽姉の死亡診断書には「老衰」と書かれていましたが、どんなに元気であった人間でも老衰でいつか死ぬときが来ます。人の寿命はそれぞれ違いますが、いつかそのような時があなたにも来ます。今私たちに必要なことは、神様との和解です。人には、死んでからの未来に二つに一つの選択しかないと聖書は教えています。そしてその選択は死んでからではなく、この地上にいる間、七十年、八十年、九十年・・・ある人は四十年かも知れませんが、この短い期間でその選択をしなければなりません。天国に行けるか地獄に行くかは、この地上で決めなければなりません。まるで犯罪者の執行猶予期間のようです。私たちがこの執行猶予期間中に罪を悔い改め、導かれる神様のもとに返り、真の神様と手をつなぐかどうかによって私たちの永遠、未来が決まっていくのです。
 そのことを覚え、すでに永遠のいのちに歩み出しているクリスチャンの一人一人においても、この地上で行うべきことがあるのです。どれだけ基礎ができ、それにどれだけのものを積み上げてきたかが問われますが、まだ柱が立ったばかりかも知れません。私たちが天国に行ったときに「これがあなたの家だよ」と見せてくれると思います。それは、天国で神様が作っているというだけでなく、私たちがそれだけの材料を送らなければ神様は家を作ることができません。私たちがこの地上でどれだけの基礎を神様に提供し、どれだけの材料を神様の前に送るか。私たちが天国に行ったときにあなたの家だよと言われても、まだ柱しか立っていない雨漏りのするような家だったらどうしましょう。私たち一人一人は、今これからの残された期間にどれだけのものを築き上げられるかが問われるのです。私たちがイエス様と手をつなぎ、救われるとは、サタンの支配下にあった者が神の支配下に移されることです。神の支配下に移された者がしっかりとサタンと手を切ってイエス様とともに歩むとき、素晴らしい喜びの人生が続いていきます。キリスト教は死んでからのことばかり言うけど・・・と言うのは間違いです。いつの日か、この地上でイエス様に出会って良かったと皆が思うと思います。私たちは、サタンと手を切り、これからの人生においてしっかりとした基礎の上に多くのものを積み上げて、イエス様に出会ったときに「良くやった、忠実なしもべだ」と言われるように、また今日初めて来られた方も、皆さんをイエス様が愛されていることを知って下さい。今日どうしても必要なこと、イエス様があなたを愛し、あなたを導かれ、あなたを造り、あなたを生かしておられる神だということを知っていただきたいと思います。お祈りします。


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