聖霊の油そそぎを受けよ!

2003.6.8(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 イザヤ書61章1節〜3節
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

 ハレルヤ!皆さんお早うございます。このように、御言葉を語ることのできる特権を感謝します。今日は教会にとっての記念日、「ペンテコステの日」です。それは教会の誕生日です。聖霊が注がれて、教会が始まった記念日です。ですから、「聖霊の油そそぎを受けよ!」というタイトルで学びます。

 先週、私は、この教会のゴスペル・クワイヤー「ヘブンリー・キングダム」の皆さんとともに、ロサンゼルスに行きました。皆さんのお祈りを心から感謝します。その先々週、「あなたの賜物は何ですか?」というタイトルで学びました。キリストのからだの器官の中にはそれぞれ役割があり、色々な情報を互いに伝えてくれるという話しをしました。
 私がアメリカに出かける前に、うちの教会のスタッフの一人が来て、こう言いました。「順先生。変な夢を見ました。」
「何の夢を見たの。あなたの夢に構っていられない・・・」とも思いましたが、時々、神様が夢の中でも語って下さるので、そのような時にはしっかりと聞かなくてはなりません。その時こう言いました。「ゴスペル・クワイヤーのツアーが事故に遭った、という夢を見たから祈った方が良いのでは・・」と言うのです。「これは私に関係がある」と思い、祈ることにしました。スタッフたちに、特に、交通関係をとりなすように伝え、祈りました。でも私は内心、「そんなことはあるかなあ?」と思っていました。
 さて、ロサンゼルスには、名古屋から出掛けて行きました。飛行機は満席でした。やがて、着陸の二時間ほど前に朝食が出て、後は着陸するだけでした。なにげなくテレビを見ていると、突然、テレビと室内の明かりが消えました。すると、今度は、非常灯が付き、脱出口のランプが付きました。続けて、機内が焦げ臭くなって、うっすら煙が出てきました。乗務員達がちょうど朝食の片づけをしていた最中でした。日本人の乗務員は、何とか無理に平静を保とうとしていましたが、ブラジル人の乗務員達の表情は、明らかに焦っていました。しかし、エンジンはまだ動いていました。
 私はドキドキして、「主よ。私の人生はこれで終わりですか・・・」と祈りました。通路の脱出誘導ランプまで点灯し、後方は煙っていました。皆、急に無口になりました。
 しかし、しばらくして、アナウンスが入りました。「この飛行機に小さな問題が起こりました。」と言うのです。「これで、どこが小さな問題か」と思いましたが、やがて、「すべての問題が解決しました。」というアナウンスが入り、電気が回復し、ほっとしました。
 もしも、事前に祈っていなかったら、私たちの飛行機は落ちていたのかも知れないと思いました。
 着陸寸前、またもや、すべての電気が消えました。しかし守られて、結果的には、素晴らしい旅行ができて感謝します。やはり、キリストの体の各器官の中に、主は色々な能力を与えておられます。今回の旅行のために、交通機関のために祈ったときに、主が守って下さったと思います。
 今週も一週間、一人ひとりに神が与えて下さる役割がありますので、主とよく交わり、聖霊によって生きることが大切です。

 今日は、「聖霊の油注ぎを受けよ!」というタイトルで学びますが、「ペンテコステ」とはどのような日でしょうか。
 イエス様が十字架にかかり、三日目によみがえり、四十日間人々に現れた後、天に帰られました。その前に、イエス様はこのように語られました。
 使徒の働き一章八節に、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

そして、イエス様は、「聖霊を求めて祈っていなさい」と言われ、天に帰られました。弟子たちは二階座敷に登り、百二十人の人たちと共に祈っていました。すると突然、天が開かれ、神の霊が注がれました。その様子が使徒の働き二章一節から六節に記述されています。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。』

弟子たちが祈っていると聖霊が注がれ、炎のような舌が現れて弟子たちの上にとどまりました。イエス様の弟子たちは、ほとんどがガリラヤ出身者で、他国語など話せないような人たちでした。そんな彼らが、別に勉強もしていないのに、他国の言葉を流ちょうに話し始めたのです。彼らは、色々な国の言葉で、イエス様の十字架と復活、そして、イエス様が救い主であることを力強く語りました。
 そのころ、エルサレムには多くの国の人が集まっていました。その騒ぎで外国人も集まってきました。すると彼らは、自分の国の言葉で、福音を聞いたのです。それで人々は驚きました。「あの人たちは他国語を勉強しているような人ではないのに、なぜ外国の言葉で話しているのだろうか」そして、そのメッセージは完璧なものでした。その後、ペテロが立ち上がって、ヘブル語でメッセージしたことにより三千人が救われました。
 なぜこのようなことが起こったのでしょうか。神が教会の中に現された最初の奇跡は、他国語が同時に放たれるという事から始まりました。

 さて、世界には多くの国々とともに、多くの言語があります。先週、アメリカに行くと、日本語は通用せず英語でした。日本語しかしゃべれない者にとっては、言語の違いはたいへん不自由です。そして、日本語は不便な言語だと思います。英語は世界中の公用語です。また、スペイン語は、世界で一番多くの人が話しています。ブラジル人とペルー人は良いです。語源が同じなので、お互いの言語が似ていて通じます。しかし、日本語は少しでも外に出ると、全く通じません。
 先日私は青森に行きましたが、青森弁を聞いてそれは異言の世界でした。道を聞けば聞くほど、混乱して迷うようなもので、私の使っている三河弁は、限られた地域のものだと思いました。考えてみると、なぜこんなことが起こったのだろうかと考えます。しかし言語がこのように多種多様になったのには、一つの原因がありました。創世記十一章一節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。』

と記されています。全世界が一つの言葉であったら、たいへん都合が良いです。

 余談ですが、日本語を聞くときは、あまり動詞は関係ありません。動詞はどちらでも良いのです。日本語は目的語を聞けば、何とかなります。しかし、英語は動詞が先に来るので、英会話では動詞をよく聞かなければいけません。
 けれども、日本語には、便利な面もあります。たとえば英語で「私は教会に行きます」は「I go to church.」と言います。「私」、「行く」、「教会へ」という順番で言葉が並んでいます。英語では、最初に「私は行く」と結論を相手に伝えます。しかし日本語は、「私は」、「教会へ」、「行きます」と言います。この語順は都合が良いのです。「私は教会へ・・・」まで相手に告げて、相手の顔色を伺い、様子を見て「行きます」、「行きません」のどちらかを決定できるからです。なにしろ、日本語は都合の良い言葉です。

 昔は一つの言葉でした。しかし、一つの事件が起こりました。どんな事件が起こったのでしょうか。創世記十一章一節から九節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

 ある時、人々が話し合いました。「さあ町を建てよう、一つの塔を建てよう・・」それが有名な「バベルの塔」でした。人間は塔を高く築き、神の住まいにまで侵入しようと本気で考えたのでしょうか。まさか人々は天まで届く塔が築けるとは、考えていたわけはないでしょう。
 さて、考古学者は、世界中で古代の町に塔があるのを発見しています。それを「ジッグラト(Ziggurat)」と呼び、「高きところ」を意味します。この塔の目的は、神と交わる場所でした。それも良い意味で神と交わるのではく、自分勝手な偶像礼拝のための塔でした。バビロンの空中楼閣もその一つです。
 出雲大社に行くと本殿の前で、現在発掘が行われており、太い柱が出土しています。昔、出雲大社には高い塔が立っており、本殿は塔の上にありました。これもジッグラトの一つといわれます。
 人々が真の神を礼拝することを忘れ、偶像礼拝を始めたのです。本物の神ではなく、自分たちが勝手に作った神々と、その霊を呼ぶという「降霊術」を始めたのです。それは神の前に大きな罪でした。そのことを通して、神は人々を混乱させました。言葉をバラバラにし、人々を全地に散らしました。現在、人々が世界に散らされて住んでいますが、その根源に人間の罪、偶像礼拝があったのです。初めの人類はアダムとエバの二人でしたが、世界中に散らされた原因は、人間が神から離れ、偶像礼拝を行ったことにありました。

 さて人間には「人種」があり、大別して三つに分かれます。それが白人、黒人、黄色人種です。私たち日本人は、黄色人種に分類されます。十九世紀初頭に、ドイツの人類学者、ヨハン・ブルーメンバッハが白人を「コーカソイド」と呼びました。コーカサス地方の人々の頭蓋骨が、最も白人らしい頭蓋骨と考えたからだそうです。また、黒人は「ニグロイド」、黄色人種を「モンゴロイド」と呼びました。それはモンゴルを中心とする、アジア系の人の総称です。今日、ここにおられる九十パーセント以上が「モンゴロイド」です。
 北アメリカは白人社会です。南米もヨーロッパ系の人々が多く住んでいます。しかし、このような人種の構図になったのは、そんなに昔ではありません。今のような分布になったのは、十六世紀以降のことです。それ以前はモンゴロイドが北アメリカ大陸にも、南米大陸にも住んでいました。南米のチリの先端にフェゴ島があります。そこにはヤーガン族という、モンゴロイドが住んでいます。一六世紀以前の人種の世界分布を見ると、世界の三分の二をアジア人が占めていました。
 そして、もっとも遠くまで追いやられ、散らされた民族が「モンゴロイド」すなわち、アジアの人々でした。アジアからシベリアを経由し、ベーリング海峡を渡り、北アメリカに達し、さらに南下し続けて、チリの最先端フェゴ島にまで達しました。今は遺伝子工学が発達し、それがわかってきました。アメリカのインディアンや、南米のインディオのルーツはアジアです。モンゴロイドがなぜ、そんな長距離を移動したのか、理由がわからないと人類学者は言います。
 しかし、宗教学者はその理由について「降霊術」があったと言います。彼らは降霊術を行い、「もっと遠くに行け!」というお告げを受け、「ついには最南端にまで、行ってしまったのであろう」と言います。

 偶像礼拝は人を遠くまで、追いやっていくのです。その結果、人々は散らされ、言語までバラバラにされ、滅びに引いて行かれた長い歴史があります。
 しかし、そんな人類を回復するために、イエス様は地上に来られ、救いを成し遂げ、聖霊を注がれました。聖霊が注がれた時、炎のような分かれた舌が降って、弟子たちが他国の言葉を話したのには、どのような意味があったのでしょうか。
 「神から離れて、チリの最南端にまで追い払われたような者でさえも、神はもう一度回復して、福音を聞くことができるようにして下さる」という意味がありました。
 ある意味で、モンゴロイドと言われる私たちが、世界で最も罪深いのかも知れません。最も多くの偶像礼拝を行った民族、それが日本人を含む、アジア諸国の人々かも知れません。その結果、遠くまで追いやられてしまいました。しかし、そんな民族をも、神は回復して下さるのです。どんなに言語や習慣が違っても、そのようなことは関係なく、神の霊によって救って下さるというのが、ペンテコステの出来事でした。
 今日、この場には、救われない人はいません。皆、イエス・キリストによって救われます。聖霊の力は、不可能を可能にするのです。

 私たちは聖霊の油注ぎを求めるべきです。私たちは、イエス様が復活され、聖霊が注がれた後の時代に生かされているので、すでに聖霊様はおられます。「私には、聖霊がおられない」と言われる方がいますが、それは間違いです。だれでも、聖霊によらなければ「イエスは主です」と告白することはできない、と聖書は告げているので、イエス様を信じたなら、すでに聖霊様が共におられるのです。
 しかし、聖霊様が共におられても、聖霊の油注ぎがあるとは限りません。「油注ぎ」とは、神がご自分の目的を達成するために、分け与えられる力を意味します。それを聖霊の油注ぎと言います。「目的達成のための力」それが、「聖霊の油注ぎ」です。聖霊はあくまでも、三位一体の第三位格の神です。そして、油注ぎとは、聖霊の与える力です。この力によって、不可能が可能になるのです。そして、神の目的が達成されます。
 イエス様は弟子たちに、『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を述べ伝えなさい』と言われました。しかし、彼らにとって、全世界に出ていくことなど不可能でした。当時、全世界に出て行って福音を宣べ伝えるなど、到底無理な話でした。
 『しかし、聖霊が臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』とイエス様は語られました。不可能と見えることでも、聖霊の力を受け、油注ぎを受けたら成し遂げることができるのです。今、既に、皆さんと共に聖霊様がおられます。しかし今度は、「聖霊の油注ぎ」を求めなければなりません。どんなに立派な車を買ったとしても、ガソリンが入っていなかったら、走ることはできません。ガソリンを入れてはじめて走ることができます。私たちも聖霊の油注ぎをもらうと、動き始めます。それも、神の計画の中で動き出します。不可能を可能し、自分の力ではどうにもできないことでも、打ち破り、突き進むことができるのです。

時々、人生の中では、自分ではどうにもできないけれども、どうしてもやらなくてはならない事柄があります。「私はこのことに関して、絶対に力不足だ。しかし、どうしてもやらなくてはならない」という局面に立たされます。
 そんなとき、神はあなたに、聖霊の油注ぎを与え、不可能を可能にされるお方です。ペンテコステの日は、神が人に力を注がれた日です。ですから、私たちも聖霊の油注ぎを求めたら良いのです。

 先週、私がアメリカツアーに参加したのは、私がゴスペル・クワイヤーで歌うからではありませんでした。九月に、ロン・ブラウンさんの教会のクワイヤーが、名古屋ミッションに来て賛美をして下さいます。パワフルな本場のブラック・ゴスペル・クワイヤーですので期待して下さい。今回、ロンさんの教会で名古屋ミッションの決起大会のような、コンサートが開かれました。それは名古屋に行くための、チャリティーコンサートでもありました。「名古屋リバイバルミッションに参加するメンバーをサポートしましょう」というコンサートでした。私はそこでメッセージを語りました。その目的があって、私はアメリカに行きました。
 けれども今回、私はあまりアメリカに行きたくありませんでした。なぜなら、先日、ロンさんが新城に来られたときに、彼から私に一つの提案があったからです。「順先生。一つ提案があります。順先生にやってもらいたいことがある・・」
 私は「何でもやりますが・・・。」と答えました。すると、「この間、クリスマス・コンサートの最後のパートでシャウトしたでしょう。あれが良かった。」「今度はアメリカでやって下さい」と言われました。
 私は正直、何でもやりますと言ったものの、「それは嫌だ!」と思いました。ロンさんも忙しい人なので、「そう言っていても、きっと忘れるから大丈夫だ」と思いました。けれども今回、アメリカに着くと彼が私のところに来て、「覚えていますか。私はすでに、順先生がシャウトするパートを考えているから、ぜひやって下さい」と言われました。
 「えっー。覚えていたのか」と、急に不安になりました。それで、「わかった。やるよ。でも一つ条件がある。日本語でやる」と言いました。「日本語でも良いけど、みんなには通じないよ。」と言うのです。「それもそうだ」と思いました。「これはまずいことになった」と思いました。少し暗い気持ちになりました。それで「主よ。どうしましょう。」と祈りました。
 今回のゴスペル・ワークショップはたいへん良かったです。有名な講師が新城のクワイヤーを訓練し、皆、とてもうまくなりました。それから、先週の日曜日の午後には、有名な五千人も集まっている黒人教会の礼拝に出席しました。その教会には、ゴスペルクワイヤーだけでも三百人くらいいました。また、礼拝の模様をテレビ中継していました。その教会の牧師はパワフルでした。私も元気が良い方ですが、私よりも元気な牧師でした。黒人教会特有の、会衆とのコール・アンド・レスポンスはすごいです。
 先週、その教会のメッセージは、「聖霊を受けよ」というタイトルでした。「来週はペンテコステだ!」とその牧師が語っていました。それで私は、今週がペンテコステであることに気付きました(すみません)。でも、とても恵まれた礼拝でした。メッセージの最後はメッセージをしながら、内容を自然にゴスペルにしてメロディーを付けて歌い始めました。牧師が「イエス様は救い主〜」と歌うと、伴奏のオルガンが鳴ります。そして会衆は力強く「エーメン!」と反応します。「聖霊を受けよ〜」と歌うと、「ハレル〜ヤ・・・」と会衆も歌い出します。それが延々続きます。会衆全員が立ち上がり、すごい世界に入ってしまうのです。日本人はなかなかあの雰囲気についていけません。それを見ながら、私はまた、不安になりました。「あれをやらなくてはいけないのか・・。日本人があんなまねしたら、まるで、ピエロだ。」と思いました。宿舎に帰ってから、どうしようかと考えました。少し、机に向かって英作文を始めました。私はあまり英語ができないけど・・・、「アイ・アム・ア・ジャパニーズ・パスター・・・」
 しかし、やればやるほど、「この文法でいいのだろうか・・・」と、わからなくなりました。「こんなものできるか」と投げやりになってきました。
 しかし、メッセージが戻ってきました。「聖霊の油注ぎは、不可能を可能にする・・・」
 実は、私もよく語っているメッセージの内容でした。しかし、ことのほか、自分の事になると「私は別だ」と思ってしまうのです。人には語ることができるけれど、自分は除外されているように考えてしまいます。
 でも、もうひとりの自分が語りかけます。「お前、いつも人に語っているではないか・・。聖霊の油注ぎは、そもそも言葉の油注ぎだ。と言うことは、祈ったら可能になるはずだ。」と聞こえてきます。
 しかし一方では、「そんなこと無理だ。中学生の時、おまえの英語の成績は2だったじゃないか。できるはずはない。」
 しかし、このような危機的なときこそ、聖霊の油注ぎを求めなければならないと思いました。私はロサンゼルスの街にひとり出て、ウォーキングをしながら祈りました。「主よ。私は原稿も作りません。何も考えませんので、口から異言のように言葉が出ますように。ピエロにはなりませんように。聖霊様、働いて下さい。」と祈りました。
 ツアーの方々の前では、平静を保っていましたが不安でした。コンサートはツアー最後の日なのです。帰国前夜にコンサートがありました。「先にコンサートがあれば・・」と思っていました。
 ついに、その時間が近づいてきました。コンサートの中で、最も盛り上がったところに、名古屋ミッションのテーマ曲「この名の他に救いはない」をロンさんがゴスペル風にアレンジして、全員で歌うようになっていました。会衆もクワイヤーも最高に盛り上がったところで、「ヘイ!順先生」と呼ばれました。
 その時、私に聖霊の油が注がれ、「ハレルヤ!」と叫んで会衆の面前に出ていました。私には解放感がありました。そこで私が叫んでいた言葉は、たぶん英語だった思います。会衆の反応が良かったからです。
 日本の牧師は元気がない、と思われているところがあります。しかし、それが覆されたようでした。皆、総立ちで盛り上がりました。本当にそこで聖霊の油注ぎを体験しました。ですから今日、「聖霊の油注ぎは不可能を可能にする」と皆さんに心からお勧めできます。自分の力では、絶対に駄目だという局面に立ったとき、主の前に油注ぎを求めて祈るのです。
 「イエスさま、私には能力がありませんが、聖霊の油注ぎを下さい。」と祈るのです。そうすれば、聖霊の油注ぎによって、不可能を可能にできます。それを通して「自分の力ではない」ことがわかるのです。「本当に、主は私とともに働かれている」と確認できるのです。ですから、皆さんも聖霊の油注ぎによって、不可能を可能にする力を受けて下さい。イザヤ書六十一章一節から三節に、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』

と記されています。この言葉は、イエス様が生まれる七百年前に、イエス様の仕事について、預言者イザヤが預言した言葉です。それは、イエス様が地上に来られる目的についてです。イエス様は「心傷ついた者を癒すため」にこの地上に来られました。ここに「良い知らせ」と書かれています。口語訳聖書では「良い知らせ」が、「福音」と訳されています。教会では「福音」という言葉をよく使います。なかなか一般では福音という言葉は使いませんが、教会ではよく使います。一般でも「ガン患者に福音」「耳の聞こえない人に福音」などと使います。普通はではできないけれど、機械や薬が発明されたことによって、できるようになったときに「福音」という言葉を使います。
 クリスチャンにならない限り、普段の生活では神から油注ぎをもらうことなどできません。しかし、イエス様を信じたら、油注ぎが与えられます。力が注がれ、心の傷が癒されるのです。これは福音です。

 日本のクリスチャン人口は、大へん少ないです。プロテスタント教会は、全国に八千ほどあり、大体この時間に礼拝をしています。しかし、その出席人数をすべて集めても、十六万人ほどです。人口比にすると〇・二パーセントに満ちません。クリスチャンはそれほど少ないのです。しかしクリスチャンは、社会に影響を与えています。特に現代、教会に多くの人が「ブラック・ゴスペルが歌いたい」と言って来られます。この教会にも、ゴスペル・クワイヤーがありますが、ちまたでもゴスペルは人気があります。一般の人は、どの教会に行ってもブラック・ゴスペルを歌っていると勘違いしているみたいです。それは映画の影響だと思います。実際、日本の教会が歌っているのは、ブラックではなくイエロー・ゴスペルです。だから急遽、教会にゴスペル・クワイヤーを作っています。
 なぜ、ブラック・ゴスペルを歌いたいのでしょうか。日本人はあまり英語が解らず、歌の意味は解りません。しかし、歌うとなぜか元気になり、パワーが出るというのです。そして歌っていると、心が癒されるというのです。なぜでしょうか。
 そこには理由があります。アメリカには悲しい歴史があります。それは奴隷制度の歴史です。多くの黒人奴隷が、アフリカからアメリカに輸入され、奴隷生活を強いられました。あなたがもしも、奴隷ならどうでしょうか。それは悲惨です。皆さんの一週間は、たいへん忙しいとは思いますが、会社に行っている人は別に会社の奴隷ではありません。仕事が嫌なら、いつでも辞められます。嫌になったら、翌日から会社に行かなければ良いのです。しかし奴隷はそういうわけには行きません。横暴な主人に買い取られたのなら、一生、その主人の下で過ごさなくてはなりません。自分に関して、全く自由がないのです。彼らは全く希望がなく、八方塞がりでした。
 そんな中、彼らは、唯一開いている天に向かって祈り始めました。しかし、じっと座って祈ることすらできませんでした。なぜならば、奴隷は主人の命令に従い、常に手を動かし、足を動かして働かなくてはならないからです。炎天下、綿花畑で一日中働くのが、彼らの仕事でした。彼らはひざまずいて神に祈ることすらできなかったのです。それで彼らは、自分の祈りを歌にしました。
 「イエス様、助けて下さい。私は八方塞がりです。助けて下さい・・」
彼らは叫び始めました。そんな叫び声に、神様はじっと耳を傾けておられました。
 神がじっと祈りを聞くだけの期間があります。本当に聞いているのかいないのか、わからないようなときがあります。しかし、ある時、その答えが突然与えられるのです。
 彼らが八方塞がりの中、苦しみながら、現実を歌に託して神に祈っていたある日、アメリカ十六代大統領、アブラハム・リンカーンが、奴隷解放宣言をしたのです。
 「すべての奴隷は同日以降、永久に自由にされる」
なんと、一八六三年一月一日をもって、すべての奴隷が自由になりました。ブラック・ゴスペルの背後には、祈りが聞かれたという事実があるのです。だから、歌うときに心が燃え、心が癒されるのです。彼らが自由になったときに、彼らは真の癒しを体験しました。ですから、意味が解らなくとも、ゴスペルを歌う者たちに希望と癒しと勇気を与えるのです。今回、こんなことを黒人教会で話すと、彼らはとても喜んでくれました。
 イエス様は、祈りに答えて下さる方です。聖霊の油注ぎによって心癒されます。祈るときに、主は油を注ぎ、心を癒して下さるのです。

 イザヤ書には「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すためにわたしは来た」と述べられています。イエス様は聖霊の油注ぎとともに、心傷ついた者を癒すために、この地上に来て下さいました。また、ペンテコステの出来事は、全世界の人に癒しが実現するというサインでした。世界に人間の姿をとったイエス様お一人であったら、限られた人数しか癒すことはできません。しかし、ペンテコステによって、全世界の人々に癒しの油が注がれたのです。
 今日、もしも皆さんの中で、「私は心に深く傷を負っています」という方がいたら、イエス様に油注ぎを求めて下さい。聖霊の油の注ぎは癒しをもたらします。そればかりか、一番傷ついていた黒人が歌っていた歌が、今や何の関係もないような日本人の心まで癒すようになったのです。かつての傷が、他の人たちの傷を癒す薬として用いられるのです。
 多くの傷を過去に受けた人がいたら、イエス様はあなたの傷を癒して終わりではなく、その傷さえも用い、傷ついている人を癒すために用いてくださいます。
 しかし、心の癒しはどこから来ているのでしょうか。イザヤ書は

『貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・』

と記しています。黒人奴隷の心が癒されたのは、どうしてでしょうか。彼らは、今まで「横暴な主人」によって捕らえられていました。横暴な主人によって、苦しめられていたのです。奴隷市で白人たちが黒人を買って行きました。
 「ここに生きのいい黒人少年がいる。こいつはいくらにしようか。オークションをするから値段を付けてくれ。まだまだ、こいつの将来は長いぞ。よく働きそうだぜ・・・」「百ドル」、「百二十ドル」、「百五十ドル」・・・「よし、売った」という感じです。
 人間が人間を売買するのです。この奴隷達が癒されたのは、リンカーンが解放宣言したとともに、「横暴な主人から解放された」という、根本理由がありました。よって、心も癒されました。
 私たちの心の癒しは、第一に、横暴な主人からの解放が必要なのです。これは、「悪魔の手からの解放」について語っています。救いとは、「暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配に移される」事です。それは、「横暴な主人からの解放」です。
 「聖霊の油注ぎ」とは何でしょうか。それは、横暴な主人、「悪魔・悪霊から解放する力」です。その時に、心は癒され、喜びに満たされるというのが聖書のメッセージです。

 聖霊の油注ぎ、ペンテコステの意味は、最終的には横暴な主人からの解放でした。
 今日もしも、悪魔の力に苦しめられている人がいるならば、今日はそこから解放されましょう。自由になりましょう。私は毎日のように、そのために働かせていただいています。
 先週は、アメリカに火曜日まで行き、火曜日から金曜日までリバイバル聖書神学校があり、また、昨日は夕方六時半から十一時頃まで、半田の教会で解放の集会を行いました。そこでも多くの解放があり、素晴らしかったです。横暴な主人である悪魔や悪霊に捕まえられて、悲惨な人生を送っていた人たちが、聖霊の油注ぎによって解放されるのを見ました。ちょっと疲れましたが、嬉しかったです。疲れても、少し休めば元気になると思い頑張りました。横暴な主人から解放されることは、何にもまして素晴らしいことです。

 何週間か前、私のところにある所から、一人の男性が来ました。その人は罪のどん底にいました。今、世界中で問題があります。それが「エイズ」という問題です。そして、その背景に「同性愛」があります。「同性愛」が世界に多く出てきたら、世の終わりの兆候です。ソドムとゴモラが滅ぼされたのは、同性愛の結果でした。聖書を見ると、同性愛はある意味で、究極的な神のさばきが起こるきっかけとなっています。男性が男性に対して、女性が女性に対して、ある種の感情をもしも持ったとしても、まだ罪にはならないのですが、一歩進んで、汚れた性行為を犯すと罪になるのです。今、そのような行為が世界中にあります。これはどこから来ているかというと、偶像礼拝の結果です。
 ローマ書一章二十二節から二十七節に、

『彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。』

と記されています。このような同性愛の根本に、『不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。』という偶像礼拝があります。偶像礼拝ゆえに二十四節に、

『それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。』

と記されています。偶像礼拝が煮詰まると、不品行、姦淫の罪に至ります。しかし、それがさらに煮詰まると、「同性愛」へと発展するのです。その時は、「神がこの世に対して、裁きを行う兆候だから気をつけるように」というのが聖書の警告です。そして現在、多くの人がそのような罪に陥り、苦しんでいます。私たちはこの事に関して祈るべきです。そのような罪の中に陥っている人が、教会で救われるように祈るべきです。
 先日、ある人が、罪のただ中にある人を連れて来たのです。私は、その人のために、どうやって祈れば良いか解りませんでした。しかし、聖書は、偶像礼拝が根本にあると書かれています。彼が解放されるために、偶像礼拝に関して祈りました。ちょっと気持ちが悪かったです。しかし、イエス様の名によって悪霊からの解放を祈りました。彼は一線を越えて、売春のようなことまでしていました。東京の新宿二丁目には、そのような人たちが集まる場があるようです。彼はそこに立っているような人でした。しかし、聖霊の油注ぎが、その人を解放するように祈りました。素晴らしいことに、彼に聖霊様が触れて下さいました。
 私は、「今度、あなたは新宿二丁目に、罪のためではなく、悪霊が打ち砕かれるように祈りに行って来なさい。」と言いました。クリスチャンの友と一緒に祈りに行くよう勧めました。
 その後、本当に祈りに行ったのだろうか、と不安に思っていました。しかし彼から連絡がありました。
 「新宿二丁目に断ち切りの祈りに行って来ました。今まであんなところに出入りしていたと思うと、ゾッとします。それくらい霊的なものを感じました。本当にスッキリしました。」
 彼は悪霊の力から解放され、自由にされました。イエス様は、究極的な罪からも解放して下さる素晴らしいお方です。解放されない束縛はありません。イエス様は、どのような束縛からも私たちを解放し、自由にします。

 ペンテコステの良き日に、私たちは聖霊の油注ぎを求めましょう。求める者に聖霊を注いで下さいます。
 皆さん、車のガソリンがなくなった時には、ガソリンスタンドに行くでしょう。そして「ガソリン満タン!」と言います。スタンドの人が、ガソリンを満タンにしてくれます。そして車はまた走り始めます。しかし、満タンになっていなくても、ガソリンはガソリンです。車は走るのです。
 「私は、まだまだ、聖霊の満たしが満タンではない」と思っても、心配しないで下さい。ガソリンは一リットルでも、二リットルでも入っていれば、同じスピードが出ます。聖霊の油注ぎは、どれだけ与えられたとしても、同じスピードと神の力があることを信じましょう。
 皆さんに、ペンテコステの祝福が注がれますように!


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