要塞をうち砕け!

2003.6.15(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 コリント人への手紙第二 10章3節〜6節
私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

 ハレルヤ!主の御名を心から賛美します。このように力一杯、主を賛美し、御言葉を学ぶことができて感謝します。梅雨になり、じめじめしていますが、教会に来て、心はカラッと晴れて一週間を始めましょう。神の力を受け、新しくされることを願います。今日は「要塞をうち砕け!」というタイトルで学びます。
 十章三節に、

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。』

と記されています。毎日の生活は、現実的な働きです。先週一週間、会社や学校、家庭で色々、現実的な働きがあったと思います。そのような中、悲しいこと、辛いことなど、色々と問題があったかも知れません。
 しかし、イエス・キリストを信じると、新しい視点が加えられます。それは普段では、絶対に得ることができない視点です。それは、今ここに書かれているように、私たちは現実の生活をしていますが、戦いは目に見える世界での戦いではなく、「霊的戦い」であるということです。私たちは肉に従って歩んではいるのですが、戦いは見える戦いではなく、目に見えない霊的戦いであるという視点です。

 今日は父の日です。なぜ、父の日があるのかを知っていますか?理由はただ一つ、「母の日があったから」です。母の日があって、父の日がなくては具合が悪いのです。でも、これは本当です。
 一九〇八年に「母の日」が制定されました。翌年一九〇九年のことでした。トッド夫人という女性が、「母の日があって、父の日がないのはおかしい」と全米の牧師協会に父の日を設けるように申請しました。しかし、なかなかその申し出が通らずにいましたが、一九一六年に父の日が認知され、一九七二年からアメリカで国民の祝日になりました。こはただ単に、母の日を祝ったから、父の日を祝うというのではなく、ある背景がありました。
 トッド夫人の幼少時代は、南北戦争の最中でした。お父さんは南北戦争に参加し、何年も家を空けました。それでお母さんがひとりで、六人の子どもを育てました。
 やがて戦争が終わって、お父さんが帰ってきました。しかしお母さんは子育てで疲れ過ぎ、しばらくして死んでしまいました。すると、残されたお父さんは、再婚もせずに一生懸命六人の子どもを育て上げました。その六人の末がトッドさんでした。それで、お父さんは頑張ったから、お父さんに感謝する日を作っても良いのでは、ということで「父の日」を申請したのです。

 今日は父の日です。私には「父がいない」という人は誰もいないはずです。生まれて気づいたときに、すでにお父さんがいなかった人もいるかも知れません。また、お父さんを亡くした人もいるかも知れません。しかし、皆さんが、この世に生まれてきたならば、お父さんはいるはずです。だから父に感謝することが大切です。今日は最後に、お父さん方の祝福を祈りたいと思います。

最近は、なかなか難しい面があります。「お父さんに感謝しましょう」と言っても、持っている父親像が悪いのです。聖書は、神様を「父なる神」と呼びます。父なる神、子なる神、聖霊なる神は三位一体です。イエス様は、神が人となってこの地上に来られた方でした。しかし、神がこの地上に来られた為に、全地宇宙の神は、その間不在だったということはありませんでした。イエス様は、神として地上に来られましたが、父なる神様はおられました。ですから、人となられたイエス様は、地上では父なる神に祈る必要がありました。イエス様がこの地上から天に帰られ、続いて聖霊様が来られました。それは、神の霊そのもので、神ご自身です。この三つの位各は一つです。父なる神様に対し、イエス様によって祈ることが基本的な私たちの祈りです。
 しかし、父なる神に祈ると言っても、「私の父あまり良い人ではなかった」「父がいたために、私の人生はひどくなった」と言う人もいるかも知れません。例えば、「父がアル中で暴れて苦しめられた」という人もいるかも知れません。その為に父なる神様に祈ることに対して、抵抗があるのです。「私は教会に来て、父なる神と聞くだけでむかつく」という人に出会ったことがあります。

 イエス様の弟子たちも、父なる神に祈っているイエス様に対して、「父なる神はだれか?」と思ったようです。イエス様の弟子たちは、粗雑な人が多かったので、自分の父親に対して悪い印象を持っていたのかも知れません。だから、イエス様が父なる神様と親しく祈っている姿を見て、「父とはどんなものか」とイエス様に尋ねたのかもしれません。
 弟子の一人ピリポがイエス様に聞きました。「私たちにも父を見せて下さい」
 ヨハネ十四章九節に、

『イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。』

「わたしを見た者は父を見たのです」
 今日、「私の持っている父親像はあまり良くない」という方に語ります。「イエス様を見る」と、完全な「父を見る」ことが出来ます。「生まれて気づいたとき、父親がいなかった」と言われるかも知れませんが、イエス様を見たら、完全なる父親を知ることができるのです。
 現在、父親の立場の方はイエス様を見続けるならば、完璧な父親に近づくことができるはずです。家庭でお父さんがイエス様を信じ、イエス様を見ることはとても大切です。イエス様を見続けるならば、神が現した父親像が人の中に形作られます。家族の回復のためにも、イエス様を信じることは何よりも大切です。

 今の時代、家族、夫婦間などの、人間関係が破壊されています。人間の抱えている問題の八割から九割が、人間関係です。今、あなたが問題を抱えているとしたら、人間関係の問題でしょう。「何とかうまく行かないものか」と考えます。しかし、私たちが知るべき事柄は、初めにお読みした十章三節です。

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。』

もし先週、夫婦間に問題があったとしたら、それは決して人間的な問題や感情的な問題ではなく、目に見えない霊的な問題であり、その背後に人間関係でトラブルを起こさせる悪魔の力が働いていたのです。親子関係にトラブルがあったならば、感情の行き違いというよりも、霊的問題です。ですから、霊的視点を持って戦わなければなりません。また、会社で上司と同僚という関係で問題があったら、霊的戦いという視点に立って祈るべきです。
 先週ある方から私に電話がかかって来ました。「順先生。祈って下さい。問題が起こりました。主人が仕事でちょっとしたミスをしたことにより、大変な賠償金を払わなくてはならないのです。」と言われました。「どのくらい払うのですか?」と聞くと、「一億円です。」と答えました。そして、「どうしたら良いのでしょうか。」と言うのです。
 普通、そのような問題が起こったら、どうしたら良いでしょうか?
 私は、「これを人間的な戦いではなく、霊的戦いとして祈ってみて下さい」と励ましました。すると、「霊的戦いとは何ですか」と聞かれました。
 日本人は自ら、日々、霊的問題を生活の中にかき込んでいます。会社もただ単に製品を生産したり、業務をしているだけではありません。必ず日本の会社では、霊的力により頼み、仕事をしています。だから、会社で起こって問題に関しても、霊的な視点を持って戦い、祈らないと負けてしまうのです。私は、その方が、そんな大金を払わなくても済むように、勝利を祈っています(その後、問題は解決の方向に変わったという連絡が来ました!)。
 もしも皆さんに、そんな問題があったら、それはただ単に人間的な問題としてあきらめるのではなく、戦いの祈りをしていただきたいのです。そして、教会は、ある意味で、そのような目に見えない領域で勝利を得るための、情報を学ぶところです。戦いの術を身につけると、人生は変わります。

 さて、「霊的戦いの現場」は、どこにあるのでしょうか?それを示すのが、本日のテキストです。この御言葉をよく理解すると、霊的戦いに勝利することができ、人生の勝利者になることができます。

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

ここで教えている事柄は、まず、私たちの歩みは現実かも知れませんが、「戦いは見えない領域の戦い」であり、「神があなたに与えて下さる武器」は、肉のものではなく、「霊的な戦いの武器」であるということです。
 今日教会に来て、あなたは戦いの武器を神から受け取るのです。そして、それを見えない領域で使うのです。そしてその武器は、神のみ前で「要塞をも破るほどに力がある」ものだというのです。これが今日のテーマです。

 私たちがイエス・キリストを信じると、暗闇から光に、サタンの支配から神の支配下に移されます。霊的戦いに勝利するためには、まず第一に、イエス・キリストを神として信じることが不可欠です。今日まだ、イエス様を信じていない方は、イエス様を神として信じて下さい。そうすれば、サタンの支配から、神の支配下に移され、戦いの基本に立つのです。私たちがイエス様を信じていなければ、霊的戦いはありません。なぜなら人生は、「敗北のただ中、すなわち、悪魔の奴隷状態」にあるからです。まず勝利を得るためには、イエス様を信じて、神の支配に移されることが大切です。

 そして、同時に、イエス様を信じるとき、「霊的戦いに突入する」ことを知るべきです。案外、多くのクリスチャンが、イエス様を信じたら、悪魔・悪霊は関わってこない、と考えているのです。しかし、現実には、多くの問題があります。だからクリスチャン生活に矛盾を感じるのです。そして、クリスチャンになっても良いことがあまりなく、苦しいことばかり続くのです。その結果、クリスチャンの「ク」は苦しいの「苦」のようだと思います。

さて、「要塞」とは何でしょうか。それは「味方の領地の中にできる、敵の立てこもり拠点」です。味方の領地に、敵が立てこもっている場所を「要塞」というのです。
 紀元七十年、ローマはイスラエルを攻め、エルサレムを占領しました。その時にユダヤ人たちは、マサダという場所の要塞に立てこもり、三年間、ローマ軍と戦ったという歴史があります。それは今でもイスラエルの精神的バックボーンになっています。マサダ要塞に九六七名が立てこもり、三万人のローマ兵と戦った歴史があります。ローマ軍はマサダの砦を滅ぼすために、大きな土木工事を行い、高い要塞の上まで下からわざわざ道を造り、内部に攻め込みました。けれども、ローマ軍が攻め込んだときには、すでにユダヤ人は自決した後であったという、悲しい事件が起こりました。
 マサダの要塞、それは、ローマ側から見れば、ローマ帝国に占領された領地のただ中に残った、一つの敵の拠点でした。

 イエス・キリストを信じると、イエス様が私たちの人生のすべての領域を勝ち取って下さいます。しかし、悪魔はその中に、拠点を設けるのです。それが「要塞」です。その要塞を打ち砕くために、神は私たちに武器を与えて下さいます。クリスチャン生活は、ある意味において、内側の要塞を打ち破るためにあるのです。ですから、内側の要塞を打ち破っていくことは、クリスチャンにとって、重要なテーマです。
 要塞はどこにあるのでしょうか?それが十章四節から五節に書かれています。

『私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

口語訳聖書では、

『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』

「要塞」は、私たちの「心の中」にできるのです。霊的戦いは、外側にあるように見えますが、実は、私たちの内側にあります。私たちの内側にある要塞を砕くとは、霊的戦いの中で最も重要な戦いです。そのための武器を神が与えるというのです。要塞は思いの中にできるのです。そして、「神の知恵や知識に反する思い」が、すなわち、「要塞」であり、心のただ中に戦いの現場があるのです。そして、それを打ち破っていくことが、最終的には問題解決の鍵です。自分の内側の要塞が勝ち取られることは、「あなたがたがの従順が完全になる」ことを意味します。その時に、「あらゆる不従順を罰する用意ができている」とは、「外側の領域にも勝利する」という意味だからです。その為にも「まずは、内側の要塞を砕いて下さい」というのが神からのメッセージです。

ほとんどの人が、自分の思いは全て自分自身だと考えます。かつて、デカルトという哲学者は、「我思うゆえに我あり」と語りました。通常、自分を意識するから自分がある、自分の思いはすべて自分だと考えます。しかし聖書はそのようには教えていません。思うことは、自分のようで自分ではないのです。その背後に、悪魔の誘いがあり、神の思いとは逆の思考に持っていかれる事があるのです。神の思いと反対の思い、それが「要塞」です。

日本は偶像礼拝が多い国です。多くの人が手で作った、石や木や金属製の神々を一生懸命拝んでいます。手で作った神々を、本当の神だと信じて拝んでいます。地域には多くの神社や石仏があります。最近、私は健康と、とりなしの祈りのために、地域を歩いていますが、歩けば歩くほど、多くの偶像が目に付きます。なぜ、こんな環境が出来上がってしまったのかと思います。しかしそれは、そもそも、日本人の心の中の状態が、外側に投影されたのに過ぎません。
 あるとき村人が考えました。「あそこに寺、ここに神社を作ろう・・」それが実際に、現実の世界に投影されたのです。ということは、「地域にある霊的な環境」は、「内側の地域の投影」です。初めに「偶像を拝もう」という思いが内側にあったからです。その思いがなければ、人は行動をとりません。けれども、「偶像礼拝がしたい」という思いは、神の思いではありません。本物の神、イエス様は「偶像礼拝をしてはいけない」、「偶像礼拝をしたら三代・四代ののろい」と語っています。偶像礼拝は、恐ろしい結果になると聖書は告げています。しかし悪魔は違った思いを与えます。「偶像を拝みなさい。拝んだら御利益がありますよ」もしも、それを自分の思いとするなら、それが悪魔の支配、または、悪魔が立てこもる要塞となります。二週間前にアメリカに行きましたが、欧米では偶像を地域にほとんど見ません。しかし、アジア諸国では、偶像がたくさんあります。私は一月にインドネシアのバリ島に行きましたが、バリ島に降りた瞬間、「こんな所に来なければ良かった」と思いました。日本も偶像が多いですが、バリ島の偶像の多さには驚かされました。日本には、家の中にたくさんの偶像がありますが、バリ島はちょうどそれらを、玄関先に陳列したような感じです。二メートル間隔で偶像があるような場所です。アジアの諸国は、そのような所が多いのです。
 しかし、欧米に行くとそのような考え方がありません。ヨーロッパの人々とアジアの人々の心の状態には、相当、開きがあると思います。

しかし、欧米人も一つの固定概念があります。それは、神の世界と人間の世界は完全に分かれており、相互に関連はないという考えです。
 けれども、アジアの人々はそうは考えません。「人は神々と共存している」と考えます。どちらが聖書の考えに近いかと言えば、アジア人の考え方のほうが聖書の知識に近いです。私たちは、神と共に住んでいるのです。人間の世界は、人間の世界、神の世界は神の世界ではなく、神が人とともに住まわれるというのが聖書的な考え方です。
 しかし悪魔は、それらの考え方を行き過ぎさせます。アジアの人々は、良い考え方をオーバーして、「物の中に霊が宿る」とまで考えています。偶像礼拝は、「物の中に神々が宿っている」という考え方がなければ、決して成立しません。日本人は、物の中に神々が宿ると考えています。石を拝むと、そこに神が宿り、礼拝を受けると考えます。そのような考え方があるので、偶像礼拝をします。

 しかし、欧米の人々は、神は人とは全く違う世界に住んでおり、人間の世界には干渉しないという考え方を持っています。これもまた、逆に、行き過ぎた考え方です。なぜ、西洋がそのような考え方になってしまったかと言えば、私は中世に問題があったと分析しています。中世は、「真理の源はイエス・キリストにある」と考えていました。しかしそのような環境に反発して、イタリアで一つの運動が起こりました。それが「ルネッサンス運動」です。それと共に、人文主義・ヒューマニズム運動が起こってきました。その運動は、人間は神になれるというような人間讃歌でした。その結果、神の世界と人の世界とは、関連がないという考えに分かれてしまいました。そのような中にも、悪魔の策略があります。

 聖書は、「私たちは、神の中に生き、動き、存在している」と教えています。霊的存在は、物を拠り所にしなければ自己保存できないような、存在ではありません。物の中に霊が宿るという考えは、悪魔の「騙し事」です。
 案外、日本のクリスチャンは、偶像礼拝を辞めても、偶像礼拝の基本となる概念からは離れてはいません。物の中に霊が宿る、という考え方から離れていません。たとえば、聖書を誤って踏んだら、罰が当たるのではないかと考えるのです。また、偶像の前に行くと、攻撃されるのではないかと恐れるのです。
 やはり戦いは内側にあります。偶像礼拝的考え方、「物の中に霊が宿る」という考えが解放されるのが、霊的勝利です。まず心の中の、そのような思いが変えられ、神の心になるように祈るべきです。

 私たちはなぜ、教会に来て、祈ったり賛美したりするのでしょうか。教会に来て毎週、何を勉強するのでしょうか。それは、ある面においては、神の価値観・イエス様の価値観を学ぶのです。イエス様が持っておられる、「神の国の価値観」を学ぶのです。それは、私たちの内側の要塞を打ち砕くことにつながります。そして、聖書の御言葉は、内側の要塞を打ち砕く剣となります。私たちの心が、すべて神の国の価値観に変えられたら、霊的戦いに勝利し、問題も消えていくのです。私たちが身につけなければならないのは、「神の国の価値観」です。

私はリバイバルミッションのおかげで、全国の教会を訪問したり、他教会で奉仕する特権に与っています。しかし私には、一つの葛藤があります。それは、日本のリバイバルのために働いていますが、なぜ、爆発的な神の栄光が教会に現わされないのか、という葛藤です。
 日本には色々な教会があり、ある教会は静かな教会、ある教会は元気の良い教会です。新城教会は、元気の良い教会の部類に入ります。新城教会の方々が、静かな教会に行けば、カルチャー・ショックを受けるかも知れません。自分の身の置きどころがなくなるのかも知れません。教会には色々とタイプがあり、それぞれの教会文化があるようです。しかし総合すると、どの教会も五十歩百歩です。新城教会も、このように集まっていますが、新城市民の割合から言えば、たったの一パーセントくらいのものです。どうして、なかなか教会は前進しないでしょうか。
 そのような中、主が語られるのは、「あなたがたの内側の要塞を砕きなさい」そして、それは「内側の価値観」、すなわち、「リバイバルの受け皿」を変えなければ、大リバイバルを与えることができない、ということです。

神の国の価値観は、この世の中の価値観と対立するものです。何週間か前にも学びましたが、この世の中には、「強いものに価値がある」という価値観があります。しかし、聖書の価値観は「強いものではなく、弱いものに価値がある」と教えています。私たちは、日頃の生活の中で、「強くなければ、生き残ることはできない」と教育されています。しかし聖書の価値観は、「弱いところにこそ価値がある」と言います。
 また、「地位や名誉がなくては、幸せになることができない」と一般の人は考えます。しかし聖書は違います。
 イエス様はこの地で、パワフルな働きをされたので、人々は皆イエス様はまもなく、イスラエルの王になるに違いない、と考えました。すると、イエス様の弟子たちが、少しずつざわめき始めました。
 「イエス様が王様になったら、私はどのポジションになるのだろうか」と議論し始めました。マタイの二十章二十節から二十一節に、

『そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」』

ゼベダイの母親も、なかなか親ばかです。ここを読むと、つい、見苦しいと思ってしまいます。イエス様の所に来て、「すみません。あなたが王様になったときには、うちの息子たちを右大臣・左大臣にして下さい」と頼んだのです。その時イエス様が言われたことは、二十章二十五節から二十六節に、

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』

普通、偉い人とは、多くの家来がいて、仕える人が多くいる人と考えます。イエス様の弟子たちもそのように思っていました。自分がイエス様に仕えていたら、やがて偉くなって人々が仕えてくれるようになれる、と考えていました。
 しかしイエス様は、「偉くなるためには、皆に仕える者にならなくてはならない」と言われました。逆に言うと、神の国の価値観での偉い人は、「人に仕える人」となります。「仕えられる人は偉い人ではない」というのです。私たちが、心の中で、偉くなって人から仕えてもらいたいという思いは、神の国の価値観とは真っ向から反するものなので、それは「要塞」であり、砕かないといけないのです。
 聖書は強いものに価値観があるというのではなく、弱いところに大切なものがあると告げており、また、受けるより、与えるほうが幸いであると告げています。偉くなる、威張る、支配するというのではなく、仕える僕となるのが偉い人であり、現実の拡大ではなく、目に見えない世界の拡大が「神の国の価値観」です。
 この世の価値観という「要塞」が砕くために、「あなたに武器を与える」というのが神の約束です。

今日は、新城教会の二〇〇二年度、一年間に起きた事柄を報告する、「リバイバル感謝報告会」が持たれます。二〇〇二年度は、感謝な事に四十名ほどがバプテスマを受け、教会員数も増えました。これは喜ばしいことです。報告する事柄が、全て下がっていたら寂しいですが、増加しています。ある意味で、胸を張って報告できます。しかし、ここで注意しなければならない事柄があります。
 教会は人が増えることを、第一に考えてはいけません。この世の中の価値観はどうでしょうか。昨年の売り上げよりも、今年の売り上げが多くなる為に努力します。一つの目標を立てて働きます。これが世の中の価値観です。このような世の中の価値観に立って教会があるならば、何しろ教会を大きくしなくては、人数を増やすこと自体が目標となります。来年の受洗者目標は何人、献金目標は何円と教会の目標として掲げている教会もあります。しかし、それはあまりよくありません。ひたむきに主に仕え、人に仕え、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々の救いを祈り、救いを必要としている人たちに愛の手を差し伸ばし、その結果、気づいたら教会員が多くなった、というのならば良いです。しかし教会員を多くするために伝道するのではいけません。教会の目標は、ある意味ではよくありません。
 時々、「順先生、新城教会のビジョンとか、将来の目標は何ですか?」と聞かれます。その時私は胸を張って、「はい、私のビジョンは何もないことです。」と答えます。すると、「えっ、何もないのですか。五ヶ年計画、十ヶ年計画はないですか」と聞かれます。
 私は、あまり計画を立てたくありません。なぜならば、しっかりと計画を立ててしまうと、神の国の価値観を損なってしまうからです。ひたむきに、救いを必要としている人々に手を伸ばし、結果的に教会が大きくなった、必要が満たされたのは良いのですが、そうでないと、教会に「要塞」ができてしまいます。私たちは常に、神の国の価値観に生きることを目標として、戦って行くべきです。

 今週、私たちは自分の心を点検しなくてはなりません。神の国の価値観と反する部分があったら、それを変えていくことが「霊的戦い」であると聖書は教えています。
 ローマ書十二章二節に、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

と記されています。私たちの信仰は決して努力ではありませんが、「心の一新」が必要です。「心の一新」とは、「霊的戦いの領域」です。私たちは、いつも心の中で、何が神のみこころか、神は何を私たちに願われているのかをよく点検し、心を見張ることが大切です。もしも、神のみこころに反するところがあったら、それが要塞であり、悪魔の働く拠点です。要塞を打ち破るためには、「心の一新」が必要です。心の一新、すなわち決断が必要です。
 時々罪に陥って、なかなか回復できないときがあります。しかしそこには「心の一新」による「決断」が必要です。そして、神が与える武器は、要塞を砕くための武器なのです。今週は、神の武器を受け取り、今まで心の一心が出来ず、なかなか変わらなかったところに、神から受け取った武器を使うのです。その時、要塞が砕かれるのです。

内側に要塞があると、なかなか神の祝福を受け取ることができません。あるクリスチャンは、聖書の御言葉をまともに信じない人がいます。特に、イエス様が起こした奇跡や解放はすでに終わってしまった、と考える人がいます。聖書が成立するときに、特別、神があのようなことを起こしたけれど、聖書が完成してからはそのような事柄は終わってしまった、と教える教会があります。しかしその教えは、絶対に間違いです。聖書は、イエス様は昔も今も、決して変わらない方です。ヘブル書十三章八節に、

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

二千年前、癒しと奇跡の御わざを成されたイエス様は、いまも同じように私たちに働いておられると信じることです。神の奇跡は昔、終わってしまったと理解していることこそ「要塞」です。そうすると、全くそのようなことが起こりません。

 先週、この教会に一組の夫婦が来られました。その夫婦の証を聞いて感動しました。
 そのご夫妻は、ある教会でクリスチャンになりました。その教会では、「見えないものは信じてはいけない。今は現実の世界が全てです。イエス様の奇跡や癒しは終わりました。手を置いて祈るなど、ナンセンスなことはしないで下さい。聖霊の働きなんて、求めないで下さい。」という教えであったそうです。彼らはその教えを信じ、忠実に教会に通っていました。
 するとある日、その家の四歳の女の子が、目の病になりました。目を検査した結果、「この病気は大変です。徐々に進行し、やがて目が見えなくなる」と宣告されました。段々と視野も狭くなり、目が見えなくなると言うのです。それを聞いて、特にお父さんはすごいショックを受けました。色々な大学病院を回り、誤診であるようにと願っていましたが、何処に行っても診断は同じでした。医者の答えは、「これは現代の医学では、どうすることもできない。私たちのできることは、生活指導だけだ」というのです。それを聞いてどん底に落ちてしまいました。教会で祈ってもらおうと思っても、牧師は「超自然的な癒しは現代にはありません。これから目が見えなくなっても、生活できるように皆で協力しましょう」という感じだったようです。
 彼はもがきました。本当に聖書はそのように語っているだろうかと、真剣に聖書を勉強し始めました。やがて、主は今も、同じ事をされるという理解に立ったそうです。
 すると癒しを否定している牧師の奥さんが、主に触れられて変えらたそうです。そして、「今でも癒しがあると私も信じます。私の主人はだめだけれど、癒しを祈ってくれる教会に行って祈ってもらったらどうでしょう。」と勧めてくれたそうです。それで、近くにある癒しを信じる教会に行って、娘のために祈ってもらったそうです。自分自身も、「イエスさま。娘を癒してください。」と真剣に祈りました。
 彼は、主の前にひざまずいて祈りました。その時、娘はすでに中学生でした。病もかなり進行し、夜は目が見えなくなっており、光が入るともっと悪くなるので、昼間はサングラスをして親が手を引かなければ、歩くことができないほどだったそうです。医者からは、後三年ほどで完全に失明すると言われていたようです。しかしそんな時に、癒しを信じる教会に行き、考え方を改めて祈りました。
 その時、目の悪い娘の上に聖霊が注がれて、叫び声を上げて倒れてしまいました。両親は驚きました。しばらくして、娘は立ち上がって自分の席に戻りました。
 すると娘が叫びました。「お父さん。見える。見える・・!」失明寸前の目が、その日以来、完全に直ってしまったそうです。視野も狭かったのが、一八〇度見えるようになり、今は全く問題はなく、夜も自転車をこいで教会に行くようです。
 もしもその時、父親がイエス様に頼らなければ、娘の目は見えなくなっていたかも知れません。

 今の時代には神は働かない、言葉だけだという考えは「要塞」です。その要塞がうち破られ、神のわざが起こったのです。
 今日私たちの心の中にある、要塞を神から示していただき祈りましょう。箴言四章二十三節に、

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』

と書かれています。今週、私たちは力の限り心を見張りましょう。もしも神の知識に逆らって立つような、「要塞」があったならば、神から与えられた武器によりうち砕く週にしていきたいと願います。
 「あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている」と約束されています。自分の中の要塞が砕かれるときに、周りにある問題も解決します。霊的戦いの現場は、あなたがたの心の中にある、だから心をよく見張って、要塞をうち破ってくださいと聖書は教えています。

 今週この御言葉を、心に留めてください。私たちの心をよく見張り、心は常にイエス様の心だという一週間であることを願います。
 今日の午後はサンデースクール(聖書の学び)があります。聖書の御言葉は、戦いの武器なので、聖書をよく学ぶことが大切です。サンデースクールに先立ち、前半一時間は「スペシャル講義」が毎回あります。今回は、「日本神話と霊的戦い」というタイトルで学びます。日本人は日本神話によって心を支配されています。これも要塞です。神の御言葉によって要塞を砕きましょう。神様の国の価値観の中で生かされ、要塞が完全にうち砕かれますように。霊的戦いに勝利がありますよう祈ります。


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