エミルダ・ミランダ師 特別講演記録
「金を作る」

2003.6.29(SUN)
沖縄ベテル教会 エミルダ・ミランダ師

旧約聖書 マラキ書3章2節〜4節
だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。

 ハレルヤ!この場所で皆さんと共に集うことができ、心から主に感謝します。この新城教会は、私にとってとても特別な場所であり、祝福の場所です。私が主の働きをしている中で、とても多くの迫害や辛い時期にあった時に、こちらの先生方が来て下さり、とても大きな励ましと支えを受けることができたからです。今日この場所で主が働いて下さり、神の癒しと奇跡が現されますようにお祈りします。

 イエス様はあなたを愛されています!新城に来ることが決まり、すぐに祈りました。「神様。新城教会の皆様に何を語れば良いですか。」先週の日曜日の朝、「金を作れ!と彼らに告げなさい」と言われました。神様の願いは、私たち一人一人の内側に金を作ることです。マラキ三章三節に、

『この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となる。』

と記されています。私たちの内側に金を作る、私たちを金とすることが神様の願いです。つまり神様は、私たちの内側に金のように、とても価値ある素晴らしいものを作り上げることを願われています。神様の願いは、信じる者すべてが人生の中で聖霊のシャワーを多く受けることです。私たちはそれぞれ今の時点に至るまで、ある程度神様の祝福を受けてきたと思います。しかし私たちの仕える神は、豊かな神です。また神様は常に新しいことを成されるお方です。神様が日本にリバイバルをもたらそうとされています。それは新しい波、新しい祝福です。そのために、まずここにいる私たち一人一人が神の前に金のようにならなくてはなりません。今日のメッセージを全部忘れても良いですが、神はあなたを金のようにすることを願われていることだけは覚えて下さい。神はあなたを金にしたいと願われています!

 私が八才の時に、神様は私の内に金を作り始めました。教会の夏期学校で、イエス様を信じました。私の母方の家族は皆、霊媒師でした。彼らは呪術的なことを行うグループでした。特別な像はありませんでしたが、特別な本と聖書を合わせて人々に教え、指導していました。八才の時に、私は神様に救われ病が癒されました。私が病気になったときに、私の祖母は力ある霊媒師でしたが、ありとあらゆる事をしましたが、彼女を通しても病気は直りませんでした。祖母に隠れて、私の母の同僚がペンテコステの教会に行っている人にお願いし、私の家で集会を行いました。当時私は八才でしたが、その時のことを覚えています。私の家で礼拝をし、牧師が按手して祈った瞬間に、私の病気が癒されました。
 父は熱心なカトリック教徒でした。ですから毎週日曜日は、朝六時に父と共にミサに出掛けました。その後、朝九時からは父の母がバプテストだったのでバプテスト教会に行き、また午後三時からは、母と祖母とともに霊媒師の集会に行きました。すごい頭をした子どもになっていたと思います。ありとあらゆる宗教が頭の中に入り、交じっていました。しかし、十四才の時、私はもっと神様を求め始めました。その時にも親に連れて行かれ、霊媒師のセンターに行っていました。そこで彼らは霊を呼ぶことをします。しかし、そこに連れて行かれていることを知ったバプテスト教会に行っている私の祖母は、私に、そこに行ったら「きみのもとに」という聖歌を歌いながら、詩篇二十三篇を心の中で一生懸命歌うようにと言いました。それをしていると、霊媒師のリーダーが私の母親に、「その女の子をここから連れ出しなさい。この子がいると霊が来ない。この子は違う霊を持ってきているから。」と言いました。当時、まだ子どもでしたが、霊媒師が祈祷する中で「イエスの御名によって、イエスの御名によって私を守って下さい」と祈っていました。
 十四才になり、聖霊のバプテスマを受けてからは、その場所に行かなくなりました。母親が連れていこうとしましたが、はっきりと私は神様に仕えるのでもうそこには行かないと断言しました。それから、神様が私にもっと個人的に現されました。
 ある日、神様が幻で地図を見せてくれました。その地図の中ではっきりと示されたのは、日本、中国、タイ、フィリピン、ベトナムの五つの国でした。この幻を見せながら、神様の声が聞こえました。「エミー、この国々をあなたにあげよう。この国々に行き、わたしの福音を語りなさい。」と言われました。そして「あなたが行くときに、多くの日本人が救われます。この日本人を用いて、アジア諸国に遣わしなさい。彼らを用いますから、まずあなたが行って日本人を訓練しなさい」と言われました。その幻を見て、すぐに牧師先生の所に行きました。そして牧師先生に言いました。「先生、日本に行ってきます。」すると牧師先生は、学校を出てからにしなさい、と言いました。
 その時私は、神様は聖書の中で誰も学校に送っていないと言いました。しかし先生は、中学・高校は出なさいと言いました。そして高校を卒業し、卒業証書を持って牧師先生に「ほら、卒業したよ。今、日本に行っても良いですよね」と言いました。すると牧師は「いや、大学に行きなさい」と言うのです。私はとんでもない先生だと思いました。大学に行っている間に、たくさんの日本人が死んでしまいますと言いました。しかし牧師先生は、「エミー、大学に行って備えてから行く必要がある。」と言われました。牧師に賛成してはいませんでしたが、聖書に牧師に従いなさいとあるので従いました。そして大学を卒業し、卒業証書を持っていきました。「先生、大学を卒業しました。日本に行けますよね。」と言いました。すると今度は、「結婚してから行きなさい」と言われました。もう既に、教会の同年代の男性たちは私が日本に行くのを知っていたので、私と結婚したがる人は一人もいませんでした。新しく教会に来て、生まれ変わっていく人を見て、誰かなあと思っていました。そして断食して祈って、今の素晴らしい夫が与えられました。そして、結婚して、夫婦で沖縄に来ました。
 今は沖縄に四つの教会があります。離島も含めて、沖縄に放送するテレビ番組もあります。これは、すべて神様の奇跡です。それは神様の願いが私たちを、金のようにすることだからです。私たち信者は、誰でも、もっと神様の力を味わいたいと思います。しかし、神の聖なる力を求める一方で、いつまでも同じ器、いつまでも同じ所に止まっていては、神様は更なる大きなものをそこに注ぐことができません。皆さんも何度か聞いているでしょう。神様は、ご自分の栄光のために、私たちを用いたいと願われています。しかし、私たちは自ら召命を作って、働きに就くことはできません。神様からの召しを受けて、その働きに就くべきだとわかっています。しかし、一つ私たちが理解していないことがあるのではないでしょうか。神様は、私たちを純粋な金のようにしたいと願われています。ヨハネ十五章二節に、

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』

と記されています。神様は刈り込みをすることが好きです。つまり、私たち人間をきよめ、浄化することが大好きです。金が作られる過程は、火の中を通ることがどうしても必要です。そして火の中で溶かした金を取り出します。そして、金に磨きをかけて顔が映るくらいまで、純粋で光る金にします。このように、神様も私たちを純粋な金とするまで、練り続けます。イエス様が来られるときに、自分が持っている御霊の賜物を示すことができません。「主よ。見て下さい。私はこれだけの癒しをしました」、「異言を話します・・・」などと、私たちが誇るものではありません。それは御霊があなたを通してされたことです。しかし、イエス様が帰って来られるときに、あなたの内に見たいものは賜物ではなく、御霊の実です。それはイエス様の性格です。あなたの内に、イエス様の性格が作られていますか?神様が、私たちをご覧になる時に、神様のご性格が私たちの内側に作られているかを見たいのです。つまり、どれだけ皆さんが神の愛を示す者になっているかです。あなたはどのような状況の中にあっても、神の平安を示すことができるでしょうか。問題が立ちはだかる時、究極的な決断を迫られるときに、どのような態度や反応を示す人間になっているでしょうか。
 多くの場合、私たちは偉大なミニストリーをしたい、油注ぎが欲しいと願います。しかし、日常生活にプレッシャーがかかると、ある人はすぐに怒りが爆発します。ある人はすぐに落ち込んでしまいます。ある人は混乱して、どうして良いかわかりません。ある人は神のせいにします。皆さんはどのような状況に遭遇しても、金の反応を示すべきです。確かに私たちは、試練を避けることができません。辛い状況は日常生活の中で起こります。しかしそれはすべて、神様があなたを金のように練り上げるためです。そしてその過程を通ったときに、私たちは神の前に純粋な金となった者、完全な者、まったき者となることができます。エレミヤ書二十章十二節、

『正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。』

と記されています。神様が私たちをテストします。

 神様があなたにもたらすテスト、そのほとんどが、あなたの性格に関わるものです。それはあなたが御霊の実において、成熟した者となるために、実を結ぶ者となるために神様が与えられます。もしあなたが今持っている愛がまだ成熟していない未熟な者であるならば、あるいはある人には、忍耐が未熟かも知れません。そうならば、あなたの愛を成熟させるため、また、忍耐を成熟させるための試練を受けると思います。ですから多くの場合、神様をほめたたえる一方で、聖霊様の取り扱いが来るときに拒んでしまうことがあります。あなたはどのように試されていますか。信仰ですか、愛ですか。忍耐ですか。その部分をあなたは練り上げられているのです。エレミヤ書十八章一節からに、エレミヤに陶器師の家に行くようにと言われました。エレミヤが見ていると、陶器師が彼の目の前で器を作っていました。気に入らなければそれを壊してまた作り直すのです。六節に、

『「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。__主の御告げ。__見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。』

と記されています。
 皆さんは粘土遊びをしたことがありますか。叩いたり練ったりします。思いきり叩いたり、柔らかくするためにまずこねます。神様が同じように私たちにします。堅ければ堅いほど、叩かれると痛いです。そして十分に柔らかくなったときに、形を作っています。ぐるぐる回されて、主よ助けて下さい目が回りそうです、と叫ぶことがあるかも知れません。「助けて下さい、誰か祈って下さい。どうなっているかわかりません・・・」などと混乱し、戸惑いながらそこを通り抜けます。時にはナイフで削られることもあるかも知れません。それも痛いのですが、その行程も通ります。その後で、オーブンで火の中に入れられます。火だけはやめて欲しい、と皆が思います。しかし火の中を通らなければ、ひびが入り、乾ききってしまいます。火の中で焼かれて、きれいな飾り付けをしてもらえます。そしてニスなどを塗り、きれいに輝きを放つ立派な器に仕上がります。このように私たちが辛いと思う、嫌と思う苦しみのすべてに神様の目的があると知って下さい。ですから自分を変えようとする状況を拒み、抵抗することをやめましょう。

 聖書にもう一つの例を見ることができます。皮袋の作り方について書かれています。かつては皮袋にぶどう酒を入れました。良い皮袋でなければ、ぶどう酒を入れることができません。新しい皮袋はあまり好まれず、避けられました。古ければ古いほど、持ちこたえる力があると言えます。皮袋をまず大きな瓶にある水に浸します。水は御言葉です。箴言に、「神の御言葉は私にとって薬だ」とあります。神の御言葉は薬です。薬は朝・昼・晩、飲まなければなりません。御言葉こそあなたの骨、体の薬です。ですから皆さんという皮袋をまず水の中、御言葉の中に浸します。そして水が十分に吸収された皮袋をそこから取り出して、油をたっぷり塗ります。
 あなたは今御霊に満たされていますか。聖霊の力に満たされていますか。だから私たちは毎日、「神様もっと力を与えて下さい」と祈ることが必要です。油がにじみ出るような存在になりましょう。これが神様の願いです。油注ぎこそ、くびきを打ち砕くものです。油注ぎがくびきを打ち砕きます。そして油注ぎがあることにより、祈りの力が増し加わります。また油注ぎによって、主に賛美することができます。そして油注ぎを更に受けることにより、神様にもっと敏感な者となることができます。神様はこの中を歩かれます。神様と私たちの関係が、夫婦関係になります。奥さんがいてもその存在を忘れてしまうようなことがありませんか。彼氏・彼女の時はそうではありません。顔を見る度に、「可愛い」と甘い言葉を掛け合ったはずです。家に帰ると、「ただいま」「お帰り」と声をかけたと思います。結婚して何年か経つと、様子が変わります。奥さんが側を通ると、側を通ったことも気付かなくなります。食事もご主人に、「ほら」とあげていなくなります。昔はすてきな者だったのに、髪の毛もばさばさで彼の前に出ます。これは互いに鈍感になっているからです。いてもいなくても関係ない存在になってしまします。こうなると夫婦は危ないです。私たちと聖霊様の力に関しても同じ事が言えます。教会が聖霊様がおられることに慣れてしまい、あまり気付かなくなってしまいます。教会に来て賛美をして、はい、帰りましょうと思います。しかし、神様は、繰り返し教会生活を行うことを願われません。神様はもっと多くのものを備えられています。神様は私たちにしるしと不思議を持って、もっと用いたいと願われています。その椅子に座っていてはいけないのです。ある人はここから出て、違うところに出て行かなくてはなりません。ある人は、教会に来られる訓練のために用いられます。しかし今の状態を維持することが神様の願いではなく、もっと用いられることが神様の願いです。そして、ついには皆さんが神の前で輝きを放つ存在になります。そして人々が皆さんを見るときに、そこに神様が映し出されるのです。そして、イエス様のご性格を反映する存在となります。木は花を咲かせ実を結びますが、愛の花ではなく、愛の実を結ぶようにすることが神様の願いです。神はあなたを金のようにされることを願われます。この教会に対する預言です。それは、新城教会、一人一人を金にすることです。銀でも銅でもありません。この教会は日本のリバイバルに対して、鍵の存在です。ですから、ひとりひとりを金の存在にして、神は用いることを願われています。皆さんは、神の目から見てとても価値ある存在です。皆さんは、神様によってこの時、この場所に選ばれています。神様はあなたを、今この時に召しておられます。皆さんは今持っているもので満足し切ってはいけません。もっと大いなるものを、神様があなたにもっと託そうとされています。また神様は、皆さんがいつまでも古いものに執着して、止まることは願われません。また、去年の奇跡にいつまでも満足しているのではいけません。「去年のメッセージは良かったね」というのではなく、今日が肝心です。今日、神様から新しい油注ぎを受けるべきです。神があなたのために備えられているものを、確実に受け取るべきです。サタンも働きます。しかし、神様は力ある巨人のように、いつもあなたの隣にいます。そして神ご自身が道を備えられます。神様は、あなたが陶器師の家にやって来るのを待っておられます。そして、あなたが炉に入ってくるのを待っています。神様があなたを見て、「この部分には磨きが足りない、火を通さなければならない。」と言っているかも知れません。火を通ると熱いです。私たちの歩む道には、多くの障害物があります。しかし、どのような障害が立ちはだかっても、神様は道を備えておられます。
 昨日はとても祝福されました。私は、滝元明先生の奥様を見て学びました。私も彼女のようにして下さい、と祈りました。彼女を見て、教えを受ける心を持つことを学びました。霊的に年数を重ねた成長したクリスチャンは、自分はわかっているといって人から受けることをしなくなります。しかし、金になることを目標とする信者は、子どもからでも学ぶ姿勢が見られます。SIR(とりなしの祈りのミニストリー)の大会が滋賀県で行われ、滝元望先生が前に立たれて語られ、黒板に彼が書いていました。お母さんが自分の息子の言うことを、一生懸命に書き留めていました。私は、望先生よりも彼女に目が行きました。「神様。私もあのようにいくつになって、誰からも教えを受ける者になることができるように」と心から祈りました。自分の子どもからも、どのような人からでも学ぶことができますように、大切なことはどんな賜物を自分が持っているということではなく、また癒しや奇跡をしたのではありません。御霊の実、イエス様のご性格をどれくらい持っているかが大切です。今日、一緒に釜戸に入りましょう。心から進んで、火の中に入り、金にしていただきましょう。新城を純金の固まりにしていただきましょう。「神様、あなたの御心に従って金にして下さい」と祈りましょう。手を天に向かってあげて祈りましょう。


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