新しいことが起こる!

2003.7.6(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 イザヤ書 43章14節〜21節
あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 ハレルヤ!お早うございます。三週間ぶりに、新城教会で御言葉を取り次ぐことができますことを感謝します。イエス様は生きておられる方です。私たちのただ中におられます。今日もこの場におられ、祈りを聞き、助けて下さいます。神が、私たちに語られた言葉が聖書に記されています。今日、この素晴らしい御言葉を自分のものとして、帰って下さい。イザヤ書四十三章十九節、

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』

 ある人は荒野を歩んでいるような、水のない砂漠を歩んでいるような人生かも知れません。しかし、神はそのような所に道を、水を与えて下さいます。イエス様は新しいことをされるお方であることを信じましょう。
 この世の中には、新しいことがありそうですが、実はないものです。伝道者の書一章九節に、

『昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。』

このように、希望のないような言葉も聖書にはあります。人間の世界では、新しいものを欲しても、新しいものはないというのです。新しく見えるようでも、それは新しくなく、昔からあったものだというのです。
 物理学の世界には、「エネルギー保存の法則」というのがあります。エネルギーには種類があり、運動エネルギー、位置エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなどがあります。それらは互いに様態は変えることはできますが、総計はいつも一定なのです。昔から変わりません。水の力を電気に変換することができますが、一方では水の力が減ります。互いを足したらエネルギー量は一定なのです。
 日の下に新しいものはありません。しかし、天には常に新しいものがあるのです。イエス様を信じるとは、「新しい創造」です。今までの人生に、新しいものは何もなかったと言われる方は、今日、イエス様に期待してください。イエス様は、あなたに新しいことをしてくださるお方です。今週、主に期待しましょう。

 聖書の言葉はイスラエル人に向けて語られた言葉です。しかし、私たちがイエス様を信じるならば、聖書の時代に生きた人たちと同じ立場に立つことができます。そして、聖書の言葉が自分自身に語られた言葉であると確信でき、人生の中に新しいことが始まるのです。私たちの神は、古いことにとどまるお方ではなく、新しいことがお好きです。
 私も新し物好きで有名です。先日、一年間使っていた携帯電話が壊れてしまいました。ちょっと悲しく思いましたが、実は嬉しく思いました。なぜなら、新しい携帯を買うことができると思ったからです。
 私の周りには携帯博士が多くおり、私の親族の中にもいます。甥の一人が私の所に来て、「順先生、SO505が出たよ。」と誘惑するのです。「買え、買え・・・」と言うので、ついに私はSOを買ってしまいました。しかしそんな新製品でも、三日ぐらい使うとめんどくさくて嫌になります。「日の下に新しいものはない」と思いました。すると彼が私の所に来て、「順先生の夢を見た。」と言いました。その内容は、「順先生が携帯に飽きたと言って、また、使い方がわからなくて怒っている夢を見たので教えに来た」と言うのです。何しろ、私たちがこの世の中で手に入れるものは、新しいと思ってもすぐに古くなってしまいます。しかしイエス様が与えて下さるものは、本当に新しいものです。
 今日は聖書の中から、イエス様を信じると、どのような新しいものを与えて下さるのかを学びます。
 まずは、詩篇四十篇三節の御言葉です。

『主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。』

と記されています。クリスチャンになると、「新しい歌」が与えられます。教会に来て、私たちは賛美歌を歌います。クリスチャンにならなければ、ほとんど賛美歌は歌いません。一般的な歌は、ため息が出るような、悲しみや苦しみを扱った歌が多いです。しかし、イエス様をほめたたえる賛美歌は、素晴らしいです。日々の生活の中で、讃美を歌うと良いです。なぜならば、「賛美の中に主が住んでおられる」と聖書に記されているからです。
 人間の社会から、歌や音楽をなくしたらどうなってしまうでしょうか。一度試してみたいと思うことがあります。テレビの中から音楽を取り除き、言葉だけで番組を作ったらどうでしょうか。どんな番組になるのか、また、どれだけ視聴者が減るでしょうか。音楽を取り除いたら、味気ない世界になります。
 日本で近年、歌がすべて消えた日がありました。それは昭和天皇が亡くなった日でした。国中から歌が消え、テレビから流れる曲は重苦しい音楽でした。歌は歌えませんでした。しかしその日は日曜日でした。全ての歌が消えた日に、教会では主への賛美がささげられていました。この「平成」はイエス様の時代になるという、預言的な日のような気がしました。
 皆さんが教会で賛美歌を覚えたら、日々の生活の中でも賛美して下さい。朝起きたときに頭に巡る賛美があります。自分で歌おうと思っていなくても、賛美が頭の中に流れている時があります。それは預言的な歌です。今度、朝起きたときに、どんな新しい賛美を主が与えて下さるかを期待しましょう。それは、あなたの一日のテーマです。賛美とともに人生を送るならば、「主が私たちのために賛美をして下さる」という御言葉があります。主自らが、あなたのために戦って下さるのです。
 いつも流行歌ばかり歌っていると、そちらの支配が強く、目覚めがそんな歌になります。以前スーパーに行くと、「魚の歌」がどこでも流れていて、朝起きると魚の歌が巡っていた時期がありました。しかし、心が賛美によって満たされるならば、祝福されます。これは神からの新しいものです。
 次に詩篇九十二篇十節に、

『しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。』

と記されています。イエス様を信じると「新しい油」が注がれます。「新しい油」とは何でしょうか。それは「権威」です。
 私たちの人生には敵がいます。時々、人が敵になりますが、背後に悪魔・悪霊という私たちを苦しめる見えない敵がいて、色々な問題を持ち込みます。教会に来て、「見えない敵がいる」という視点が加わるならば、神の存在意義がはっきりと見出され人生が変わります。敵について知ることは大切です。一般社会の中になぜ問題が多くあるのでしょうか。それは、見えない敵がいることに全く気付かず、また、敵に打ち勝つ方法を知らないからです。人生は、毎日のように悪魔に追われて、逃げ回っているようなものです。いちどフォーカスを引いて、人生全体を見ると案外敵の存在に気づくものです。人生に同じような問題がつきまとっています。また、家系を見ると、同じような問題が繰り返し起こっていることが多いのです。それは、人生の中に悪魔の力が入り込んでいる証拠です。敵に打ち勝つためには、イエス様を信じなければなりません。イエス様を信じたら、「新しい油注ぎ」が与えられます。それは「権威」を象徴しています。悪魔に追われるような人生が、逆に神の権威をいただき、野牛の角のように、見えない世界で悪魔に対して神の権威を主張できるのです。だから悪魔は近づくことが出来なくなるのです。

 時々、駐車違反をとられることがあります。今年は感謝な事に、私はまだ交通違反で捕まっていませんが、駐車違反は多くの場合、婦人警官が切符を切ります。自分よりも体力がなさそうな、弱そうな女性が婦人警官をしています。しかし、駐車違反を取られても、絶対に逆らうことができません。なぜならば、彼女らには権威があるからです。権威を示す制服を着ているからです。婦人警官が通りに出ていき、道路の真ん中で手を挙げるならば、どんな大型トラックでもストップしなければなりません。
 しかし、もしも婦人警官が「私はすごいものになった」と勘違いしたらどうでしょうか。「私が右手を挙げると、トラックも全て止まる。何と私は力強いのだろう・・。」
 ある日、通りに出ていき、「ストップ!」と言って手を挙げたら、目の前に一台のタクシーが止まっているのです。ダンプは止まりませんでした。「昨日はダンプが止まったのになぜ今日は・・・?」しかし、はたと「私は今日、非番で制服を着ていない」と気付くのです。同様にイエス様を信じていないのは、制服を着ていないのと同じです。イエス様を信じるならば、権威の油注ぎという制服を着るのです。だから、悪魔は近づくことができません。「この人に手を触れるならば、神が動き出すからこの人に手出しができない。制服を着ていない人の所に行こう」ということになるのです。今日まだ、イエス様を信じていない方は、イエス様を信じて下さい。そうすれば、イエス様があなたに「新しい油」を注いで下さいます。それは「権威の油注ぎ」です。あなたに悪魔は近づけず、勝利が与えられます。
 イザヤ書四十一章十五節に、

『見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。』

と記されています。刃物を使いすぎると、段々切れなくなります。人生の中で、若いときにはできても、年をとるとできなくなることが多くあります。しかし、目に見えない世界においては、「新しい脱穀機」が与えられます。あなたに起こってくる様々の問題を、脱穀機のように、粉々に砕き、もみがらのようにするのです。時々、私たちの前に、高い丘のような問題が立ちはだかる時があります。しかし、「あなたを諸刃の脱穀機とする」、あなた自身で、問題の山を砕き進むことができるのです。あなたに、新しい権威の油注ぎを与えて下さいます。
 続いて、イザヤ書四十一章一節に、

『島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。』

 イエス様を信じると、私たちに「新しい力」が与えられます。私は結構、元気に見えるかも知れませんが、礼拝の時に、もしも私がしょんぼりしていたら、皆さんもしょんぼりすると思います。だから、しょんぼりしてはいられないのです。けれども、私も時々疲れます。「どうしようか?」と落ち込むこともあります。戦う意欲をなくす時もあります。人間なので、ある程度は裏表があります。私の働きの中で、力強い働きは発表しますが、力の無い話はしないのです。「駄目だ・・。ここまでやったのに・・・」とがっかりすることもあります。時々「順先生、成功談ばかり話さないで、失敗談も話して下さい」と言われます。しかし私は、「失敗はない!」と言います。なぜならば、失敗に見えるようなことでも、神がことを成される過程だから「失敗はない」と言うことができるのです。しかし、がっかりすることも多くあります。けれども私は、新しく力を得る方法を知っています。イエス様を信じると、新しく力を得る方法がわかります。
 携帯電話もずっと使っていると電池レベルが下がります。そうなると不安ですね。その時には、「新しく力を得よ!」と携帯電話を充電器に差し込むと、一時間ほどでパワーを回復します。イエス様を信じると、「パワー回復の秘訣」を知ることができます。

『島々よ。わたしの前で静まれ。』

と記されています。新しい力を得るためには、「静まる」ことです。それは「祈り」です。疲れてしまった時には、神の前に静まることが大切です。私も、何か問題があったり、新しい力が必要なときには、すぐに静まることにしています。「静まる」と言っても、この性格なのであまり静まることはできません。私の静まり方は、外に出て行き、力一杯祈るようにしています。「主よ。こんな問題があります。新しい力が必要です。助けて下さい!」と、イエスさまと直接、取り引きする祈りをします。そうすると、胸につかえているような事柄や、肩の上に載っていた重荷が落ち、家に帰ったときには充電されています。
 もしも何か問題があったら、一人で外に出ていって祈ると良いです。イエス様の名前で祈って下さい。「イエス様。今私には、こんな問題があります。イエス様。私に力を下さい。この問題に打ち勝つ力を下さい」と祈り、個人的にイエス様と向き合うことが大切です。これはイエス様を信じるときに与えられる、「新しい力」です。イエス様を信じていなかったら、人生に問題が起こったときに、どうするのだろうかと考えます。落ち込んでただ苦しむだけではないか、また、鬱病やノイローゼになってしまうのではないかと思います。しかし、静まって新しい力を得る方法を知っているとは、素晴らしいです。
 もしも、イエス様について、まだわからない方は、騙されたと思ってイエス様の名前で祈ってみて下さい。心に平安が来るまで「イエス様!」と叫び、「私に力を与えて下さい。充電して下さい。」と祈ってみて下さい。そうすれば、新しい力が与えられます。
 エゼキエル書三十六章二十六節に、

『あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。』

と記されています。神様はあなたに「新しい心」を与え、「新しい霊」を授けて下さいます。これは日の下にはないことです。人間も幼い時は心が柔らかです。子どもたちの心は柔らかく素直に変わります。しかし心は年とともに段々堅くなります。
 コンクリートは、作りたての時はどろどろで柔らかいものです。しかし段々時間が経つと堅くなり、最後には象が踏んでもへこまなくなります。人間の心はそれに似ており、初めは柔軟ですが、段々堅くなり、石の心のようになります。
 人生は考え方で左右されるのです。正しい方向に考え方が向けば良いのですが、おかしな方向に向くと、その道にしか行けません。
 特に、「日本人の堅い心」とは何でしょうか。それは神に対する心です。日本人は「神とは人の手で作ったものだ」と信じています。そのような堅い心を持っています。そして、手で作った神を一生懸命拝んでいます。しかし結果的には良いことはありません。問題が起こると占い師の所に行って拝んでもらいます。すると、「あなたは先祖供養が足りません。もう少し拝んであげて下さい。先祖が祟っています」と言われます。それで、先祖供養をします。考えるとおかしな事です。私たちが先祖になったときに、祟るわけがありません。矛盾があるのにもかかわらず、堅い考えで先祖崇拝を行っています。しかし、イエス様を信じると、その堅い心が砕かれます。教会に来ると神の霊が注がれ、堅く固まった心が、肉のように柔らかくなり、正しい道筋へと変えられます。軌道修正をして下さいます。
 私は毎週のように、色々なところで御言葉を語らせていただきますが、聞く方々は色々な受け取り方をします。しかし私はただ語るのですが、悟らせるのは神です。新しい心を主が与えられます。
 そして、傷ついた心も癒されます。現在、クリスチャンの方々は、かつては色々な傷や問題をもって教会に来られたかも知れませんが、癒されてきたと思います。癒しの過程上の方もおられると思います。これは神が新しい霊を与える、と約束しているからです。今日、新しい霊を受け取って帰って下さい。

 そもそも新約聖書は、新しい約束の書です。新しい契約です。旧約は古い契約です。古い契約は人間を罪に定める、さばきの契約でした。しかし、新しい契約とは、私たちの罪を赦し、救って下さるという契約です。今日、古いものではなく、新しい契約を受け取って下さい。第二コリント五章十七節に、

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

と記されています。
 調査結果によると、ほとんどの人が現実ではなく、過去に生きていると言われます。一時間の内の九十パーセント以上を、過去のことを考えながら生きているというのです。「あの時にあんなことをしなければ良かった・・・」と過去を引きずりながら歩んでいるのです。しかしイエス様を信じると、『古いものが過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』と、悪い人生がリセットされ、新しい人生に歩むことができます。過去の思い煩いから解放され、新しい契約の中で生きることができます。これが約束です。
 イザヤ書四十三章十九節の御言葉を受け止めて帰って下さい。

『 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。』

 私はこの二〇〇三年、主に期待しています。新城教会に新しいことが起こったのは、今から十一年前の一九九二年のことでした。七月になると、いつもその時のことを思い出します。神が新しいことを成して下さり、新しい視点を与えて下さいました。それは見えない敵がいるという視点です。霊的戦いを突如、開いて下さいました。それは一九九二年七月九日の夜の出来事でした。祈っていたときに、突如として天が開かれ、見えない世界の戦いについて教えられました。それから地域のとりなしの祈りや、解放の祈りが始まりました。以来、この教会が変わってきました。
 今週、私たちは七月九日を記念して祈祷会を行います。火曜日の夜中に地域に出ていき祈ります。神が新しいことを起こして下さったのをもう一度感謝し、さらなる新しい業が現されるよう、町の祝福を祈ります。皆さんも祈って下さい。

 私は九十二年七月に新しい体験をしました。私は霊的な世界について話しますが、それほど霊的に敏感ではありません。私はほとんど、目に見えない世界を体験したことがありません。しかし、一度だけ、はっきりとした霊的体験をしたことがあります。それは、名古屋で、空にはっきりと十字架を見たことです。雲の中から光る十字架が出てくるのを見ました。私は驚いて目が点になっていました。私は自分で頭がおかしくなったのかと思い、もう一度空を見上げると、先より少しずれた位置に、再び十字架が現れたのです。私は唖然としました。周りにスタッフ達がいましたが、誰にも言いませんでした。その時、私の隣に四元雅也先生がいました。彼は十字架を見ませんでしたが、夕方になって、「順先生、今日何か見ませんでしたか。」と言うのです。「なぜ?」と聞くと、「空を見て目が点になっていましたよ。」と言いました。「実は、十字架を見た。」と答えました。
 私はイエス様が十字架にかかられて、よみがえられたと何度も話していましたが、何となく現実味がありませんでした。「イエス様の十字架は本当だろうか。もしそうではなかったら大変な話をしている」と思ったこともありました。しかしその体験を通して、はっきりと確信が与えられました。イエス様の十字架に、勝利があるとはっきりわかりました。聖書は、「見ずして信じるものは幸い」と記されていますが、私は不信仰なのでこのような体験が与えられたのだと思います。その体験を通して、揺るがない信仰が与えられました。
 家に帰って来て私はこの体験を話しました。当時クリスチャン三世の霊的な目が開かれていました。「今日私は十字架を見た」と言うと、「順先生に見えたのか・・・?見えるはずがない。」と言いました。「だったら、お前たち俺のために祈って見ろ。」と言いました。すると子どもたちは、「イエス様。順先生は十字架を見たと言ってます。本当に、十字架を見たのでしょうか。なぜ、見なければならなかったのですか。」と祈ってくれました。すると、「どうやら、本当らしいです。イエス様が、『わたしは順に十字架を見せた』と語られています。それは、不思議としるしの始まりだと言われました。」と言うのです。
 なぜ私に十字架を見せてくれたかと言うと、「これからあなたの働きの中で、しるしと不思議が伴う」と語られたのです。とても嬉しかったです。
 それまでの私には、力がありませんでした。病人や問題を持った方が教会に来られても、「祈っても無理だ」と思っていました。祈りながら、「祈っても直るわけがない」と思っていました。権威がありませんでした。しかし私に新しい油が注がれ、それから権威が与えられ、祈りが答えられるようになりました。もちろん、まだまだ駄目なこともありますが・・・。しかし、あの時から、私を変えて下さいました。
 しかし、「なぜ名古屋で十字架を見たのだろうか」と思いました。新城で霊的戦いが始まったのだから、新城で見ても良かったのではないかと思いました。

 けれども今年は名古屋でミッションがあります。「名古屋ミッションの年に、しるしと不思議を拡大して下さる」と私は神に期待しています。今年は、何か神が新しいことをして下さると期待しています。皆さんも私の信仰を共有して祈ってください。この中部地方に、新しいことが起こされるように祈って下さい。

 先週は西宮一麦教会で奉仕させていただきました。朝早くから集会があったので、前日の夜、懐かしい甲子園球場の前のホテルに泊まりました。一九九三年に甲子園ミッションがあり、毎日のようにそこに通いました。甲子園ミッションは多くの人が集まり、素晴らしい集会でした。その時に、神の数々のみ業を見せていただきました。甲子園球場から少し離れた所に事務所を開設し、運営をしました。私は今回懐かしく思い、夜中に外に出て周辺を祈りました。
 「主よ。今年こそ、何か新しいことを起こして下さい」と祈りました。その時に不思議な思いが与えられました。「九十三年にあなたがたに新しいことをしました。今年はまた新しいことが起こる」という思いが与えられました。九十三年に弱かった阪神が強かったのです。けれども、甲子園ミッションが終わった途端に弱くなりました。しかし、何と、今年、あの弱かった阪神がやけに強いのです。私は不思議に思いました。「これも何か預言的なことかも知れない」と思いました。阪神の成績がいいのは十年振りのことです。

 実は二週間前に、私は、こっそりとイタリアのローマへ、とりなしの祈りに行きました。今年、色々なところでとりなしの祈りがなされる中で、ローマで教会の権利を奪い返す祈りをすることを示されました。しかしいつ行けるのだろうか、と祈っていました。
 先日、旅行社のホームページを見ていました。すると、七月から十一月まで、ローマへの旅行運賃が二倍から三倍になることがわかりました。しかし、六月中なら三分の一の運賃でした。また、キャンペーン中の安い直行便があるのを見つけました。私のスケジュールは月曜日に出発して、金曜日の朝までに戻らなければなりませんでした。調整がつくだろうかと思いつつ、旅行社に聞いてみました。すると、「このチケットはキャンペーンで人気があり、満席だ」と言われました。でも、キャンセル待ちに入れてあげると言われました。そこでキャンセル待ちでも取れたらみこころと信じ、一人でもローマに行こうと思いました。たぶん駄目だと思っていましたが、直前に二人分取れました。それで神のみこころだと確信し、家内と行く準備をしていました。しかし旅行にはお金がいります。みこころならば備えられると思いました。

 その前週に、ある方から私に電話がありました。「先生。私の人生に問題がたくさんあるのです。祈ってくれませんか。」と言うのです。それで私はその方のために、電話で祈ってあげました。解放の祈りをしました。主は、時間空間を越えて働いて下さるお方です。なんと、その方が抱えていた大きな問題は壊され、解決に向かいました。
 私はその方に「あなたはどこの教会ですか?」と聞きました。「私の教会ですか。言いにくいのですが、カトリック教会です。」と言われました。私はちょうど、カトリックに対して、とりなしに行こうと準備している時でした。
 カトリック教会は、キリスト教のように見えても、マリヤ崇拝や聖人崇拝など、色々な要素が入っている「偶像礼拝」です。私はその方に、イエス様だけを礼拝することを促し、もう一度祈りました。
 すると、ローマに出掛ける前に、私の所に現金封筒が届きました。見ると、お金がたくさん入っていました。それはその方からでした。私はすぐに電話をしました。「もしもし、イエス様がタダで与えたので、タダで与えなさいとあるから、いくら問題が解決したとしても、お金はいらないですよ。私は占い師ではないから・・・。」と言うと、「いや、先生、そのお金はとっておいて下さい。私は祈ってもらってから、自分でイエス様の前に祈りました。そうしたら、『今、順先生がお金に困っているから、送ってあげなさい』と言われたのです。」
 なんと、ローマ分の経費が入っていました。私はさらに確信を得ました。ローマは二百何十年振りの猛暑でしたが、二日間歩きながらとりなし祈りました。
 現在、世界規模でのとりなしの祈りが与えられています。今回は、教会の権威を取り戻す祈りをしました。また、私の家内の親族がクリスチャンではないので、家内の親族が救われるように、救いの鍵を取り戻す祈りをしました。
 キリスト教はローマまではうまく伝わっていきましたが、そこから教皇制が始まり、変化してしまいました。そこでカトリックに奪われた、教会の権威を取り戻し、救いを止めている悪しき力を打ち砕きますと、日本とローマを結んで祈りました。私の息子・娘も日本で祈ってくれました。何か新しいことが起こったのかと思いました。

 帰国後、早々、主が素晴らしいことを起こして下さいました。今日は私の家内の母のお姉さんが礼拝に来られています。先週彼女は偶像をすべて処分し、今日は礼拝に来て下さいました。神が祈りに答えて下さいました。イエス様は生きておられます。私たちが祈るときに、見えない世界で新しいことが起こされます。
 今日、この素晴らしいイエス様に期待して下さい。イエス様が事を始めたら、必ず最後まで導いて下さいます。その過程には、色々なことがあるかも知れませんが、信仰と勇気を持ち、力がなくなったときは新しい力を求めて、イエス様に従って下さい。必ずあなたの人生に勝利を与えて下さると信じます。

『見よ。わたしは新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。』

この御言葉を信じて下さい。お祈りします。


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